未来の風景











 暖房が適温で設定されている室内の窓越しに佇むと、此処数日の冷え込みより更に低い冷気が室内に入り込むのに、不二はカーテンを捲って、ソッと窓の外を覗いた。
「寒くなったと思ったら、ホワイトクリスマスだね」
 日付変更線間際の冬の夜。見上げた空は白く曇り、チラチラ雪が降り始めていた。簡素な住宅街の家々の屋根を、それは薄く染め始め、見慣れた風景を、少しだけ違う趣で見せてくれる。
「こっちも寒いけど、あっちはもっと寒いだろうね」
 手の中で、小型の通信機を弄びながら、不二は酷薄な口唇に薄い弧を描くと、ガラリと窓を開けた。
「寒……」
 真冬に近付く季節の冷気が、一挙に適温に保たれている室内の温度を下げていく。それでも冬の凛然とした鋭利な冷たさが心地好いものだったから、不二は寒さに少しだけ震えても、窓を閉める事はしなかった。
 見上げた夜空は、雪の夜は曇っていても、雨の降る時の鉛色ではなく、冷気を固めたような白く凍えたものに変化する。
 二階の自室から見慣れた周囲を見渡せば、簡素な住宅街の家々の窓に灯る明かりや、屋根。屋根から見え隠れしている伸びる電線。そして再び空に視線を向けた時だった。手の中で弄ぶように転がしていた携帯から、着信音が響いた。
 此処半年弱。大抵決まった時間に鳴る着信音は、メール設定の着信音だった。
けれど今夜こうして通話の着信音が鳴る。その意味を、不二が間違える筈もなく、ディスプレイに表示された名前に莞爾と笑うと、通話ボタンをプッシュした。
「Merry Christmas」

『正確には、Eve、だがな』

 不二に先に言われた手塚が、苦笑する。その様が、不二には手に取るように判て、薄い笑みを滲ませる。

「でもこっちはイブがメインだから、電話くれたんだから、手塚ってば相変わらずだよ」

『こっちは雪が降ってるが、そっちはどうだ?』

 昨年の冬も、この時期に雪が降っていたから、暖冬と言われながらも、寒い冬なのだろうと手塚は笑う。

「今少し前に降り出したね。ホワイトクリスマスだよ。でもこっちより、そっちの方が寒いんじゃない?」

『あまり変わりないな』

「活躍は、聴いてるよ。調子いいみたいじゃない」

『そっちはどうだ?』        

 不二の科白に、やはり手塚は苦笑する。

「嫌だな手塚。僕もう高等部になったから、中等部の事は、英二の方が詳しいよ」

 今年高等部に進学した不二達元青春学園中等部テニス部3年レギュラーは、アメリカにテニス留学した手塚を覗いて、中等部に隣接している高等部に進学していた。

『お前は、相変わらずだな』

「相変わらずじゃないと、心配するんじゃない?」

 電話の向うで手塚が苦笑している様が、不二にはよく判る。帰る居場所が在るなら、人は何処までも飛んで行く事ができると、以前手塚に言った科白に嘘はない。
 そう告げたその夜。居場所の確認くらいさせろと、らしくない科白で誘われた。迷っていた手塚に、当時はそんな言葉で背を押す事しかできなかった。

「大丈夫だよ。僕も英二も大石もタカさんも乾も、全員テニス部で頑張ってるし、まぁ、ちょっと色々有ったけどね」

『何だ?』

「判ってるくせに」

 憮然と聞き返してくる手塚でさえ、告げた『色々』の意味など、見透かしているだろうにと、不二はやはり笑った。

『お前達は……』

「僕だけじゃないよ。桃や海堂、越前もね、同じだよ」

 一人海外にテニス留学に旅だった手塚に、それでもこっちはこっちで頑張っているからと、せめてもの返信をしたいと望んだからの、行動だった。  
 高等部に進学した不二達は、1年生は、9月期まではレギュラーランキング戦は出られないという高等部でも慣例化していたものを、実力でひっくり返していた。
 高等部のテニス部顧問は、竜崎の元教え子で、竜崎のランキング戦の手法を取り入れていた。そして中等部で一年性入学時よりレギュラーの座を保持し続けているリョーマの入部により、内部が活性化された事も聞き及んでいたから、不二達の実力に、慣例を覆した。当然、レギュラーから落とされた人間の反発は不二達に向けられはしたが、不二達は実力でそれを黙らせるという、少々強引な手法になってしまってはいたが、それでもその成果は全国大会で立証さたれ。

『あまり、無茶な事ばかり、してるんじゃないぞ』

 大仰に溜め息を吐き出す手塚の、相変わらず気苦労する性格に、さぞアメリカでも気苦労しているだろうと思う不二だった。

「本当に訊きたいのは、越前達の事、なんじゃないの?」

 クスクス笑っている不二は、窓を開け放している所為で随分冷えた室内の為、一旦窓際から離れると、デスクの椅子に引っ掛けたままになっている厚手のカーディガンを羽織った。それでも窓を閉める気にはならないのは、周囲を白く染めていく雪の所為なのかもしれない。

『相変わらずだな、不二』

「半年程度離れてたからって、相変わらずじゃなくなったら、大変だよ」

『まったくお前は』

 軽口を叩く不二が、けれど不二なのだろうと思う手塚だった。天才と言われる不二のテニスは、底が見えない。弱点など決して他人に悟らせない。だからこその天才。テニスは彼の性格を綺麗に反映していプレーだ。不二が笑っているからといって、内心まで笑っているのかと言えば、それは誰にも判りはしない。だから安心できない部分がある。
   
「桃は桃らしいやり方で部長してるよ。最初は手塚の後だってかなり緊張してたけどね、今は随分慣れたみたいだし。海堂は海堂で文句言いつつも桃をフォローしてるよ。案外あれで下級生の指導には向いてるし。越前は、あの子は、相変わらずだね。マイペースって言うか、相変わらず周囲にも自分にも無頓着だけど。テニスは随分成長してたね。流石君が『青学の柱になれ』って言っただけは有るかもね」

 手塚の後を任された桃は、やはり最初は相当緊張していただろう。何せテニスの技術は高校生級と言われ、カリスマ的な存在だった手塚の後任だ。けれど半年経つ今では、随分部長職にも慣れた様子だった。何せ慣れなくては、到底全国大会まで勝ち抜く事は不可能に近い。けれど部長になった今年、桃城は全国大会に出場した。
 昨年までのレギュラー陣の大半は3年生が占めていたから、次世代に続く層の薄さが、最後まで彼らの危惧になっていた。彼らに続く実力を持っていたのが、桃城と海堂、リョーマの三人だけだと言う層の薄さ。団体戦である以上、彼等の実力だけが突出していたとしても、大会を勝ち続けていく事は不可能だった。けれど桃城は桃城のやり方でランキング戦によってレギュラーを選出し、全国大会に出場した。

「結果は、それでも随分頑張ったよ。ベスト8には残ったんだから」

 だから彼等は、力になれる事があれば、何でも力になりたいと思っていた。けれど桃城が桃城のやり方で部を作り上げていく以上。高等部に進学した自分達が頻繁に顔を出しては、桃城達はやりにくいだろうと、不二達は中等部に顔を出す事を控えていた。それでも、先輩としては桃城に一番近しい距離に居た英二は、何かと顔を出しては、アドバイスしていたらしいし、桃城は英二に、そういった面で、よく懐いている。

『そうか、頑張ったな』

 全国大会ベスト8に残った事は、竜崎から報告をもらっていた。自分達の次世代の層の薄さに、全国大会出場も、もしかしたらできないのではと、危ぶんでいたのは、何も手塚だけではなかった。
 手塚も、危惧していたのだ。本当なら、自分が二年当時そうだったように、副部長は時期部長になる人間を選出し、部長職というものを身近に見知り、覚えていかなくてはならないから、3年が引退時に選出したのでは、本当は遅いのだ。だから手塚が二年当時は副部長として、部長職というものを、当時の部長から教えられた。そんな点で、自分は配慮が足りなかったと思う手塚だった。
 リョーマは青学の柱になれはしても、到底柱を支えるべき部長となれる存在ではなかったから、柱を支えられる存在とし、まさに桃城は適任だった。

「あの子も、プレーに迷いがなくなったね。多分、何かしら答えは、出したんだと思うよ」
   
 答え。その意味を、彼等は大凡理解している。それは手塚が1年迷い、最終的に出したものと、種類は同じ類いだろう。

『そうか』

 昨年の夏。迷った事を思い出す。全国大会に向け、部員一同で猛練習して。その時不二に告げられた言葉に、背を押された。

「桃もね、随分成長したと思うよ。テニスもそうだけど、精神的に一回り以上にね」

 でなくては、到底リョーマと共に在る事は不可能だろうし、言葉に出す程度の子供の絵空ごとで終わってしまう。
 頭を垂れず、まっすぐ前を向いている冷ややかな切っ先の上に立つ強さ。そんなリョーマを見守るなど、生半可な精神値では崩れてしまう。そして崩れない強さを桃城の内側に見出だしていたからこそ、手塚は後任を桃城に任せた事も、不二は正確に理解していた。

「あの距離と位置は、決意だと、思うよ」

 リョーマの半歩後ろに立つ位置。その距離が、桃城の出した答えなのだろうと不二は思う。

「桃もさ、来年になったら、僕と同じ気持ちになるかな」

 見送ると言う意味。待つという意味。徐々に遠ざかる背。

『不二…』

「嫌だな手塚。そんな声出さないでいいよ」

 見送る事を決めたのは自分だし、行く事を決めたのは手塚なのだ。

「きっとあの子も、来年は手塚と同じ気持ちになるんだよ」

 置いてゆく強さを、残して歩き出す強さを求められる選択。その時、あの冷ややかな熱を灯す切っ先さながらの双眸は、どんな翳りを見せてくれるのだろうか?

『見守るのも大概大変だがな。残していくのも相当辛いもんだって、知ってるか?』

 残して行く強さを求められる選択。決断するまでは結構迷うし辛いものだと、思い出す。

「莫迦だね手塚。手塚は手塚の途をいけばいいんだよ。居場所なんて、散々確認したくせに、未だ足りない?」
             
『お前は』

 まったく何一つ変わらない事に、らしくなく手塚は安心する。きっと見透かされているのだろう。

「皆それぞれ好き勝手に生きてるだけだし、これからだって、何一つ変わらないよ」

 変わらないものは何一つないけれど、変わらないものだってちゃんと有る筈だ。
戻っていく場所。帰り着く居場所。その程度のものは。

『らしくないな、不二』

 こうして、さり気なく宥められるのは、案外いつもの事だったように思えた。
 迷っていたあの時期。さり気ない言葉で、押し出してくれた手と言葉。

「どうせNEW YEARには、戻ってくるんだし」

『ああ、戻るから。確認させろ』

「手塚さ、何かテニス以外でも、違うもの、磨いてない?」

 クスクスと不二は笑う。今までの手塚の口からは、あまり聴かない科白だったように思え、そう茶化す。
 後にも先にも、居場所を確認させろと言われたのは、去年の初夏の一回限りだ。

『莫迦を言うな』

「ねぇ手塚」

 憮然と告げる声に、不二は静かな声で口を開いた。

「雪が綺麗だよ」

 少しずつ少しずつ、雪は周囲の見慣れた景色を白く染め上げていく。

『そう言えば、以前越前が言ってたな』

 暖房の聴いた室内から窓の外を覗けば、降り積もる雪が、綺麗に周囲を白一色に染め上げている。

「天使の羽?あの子、時折らしくない事言うよね。」

 以前雪が降った時。リョーマがそう言ったと、本人からではなく、桃城から伝え聞いた話しだった。国語が苦手なわりに、そんな所は驚く程感傷的だ。

「大丈夫、皆元気だし。新年には、桃達と集まって、初詣行こうって言ってるし」

 本当にきついのは、自分ではなく、手塚だと不二はちゃんと知っている。
 一人で海外に居るからと言う意味を抜きにしても、誰一人の力もなく、自分の実力で歩いて行かなくてはならない世界に甘えは許されないから、きっと手塚が様々な意味で一番きついし、その分精神的に強いと言う事を、知らない不二ではなかった。その手塚が、こうして日付変更線直後に携帯を鳴らしてくれた意味を、不二は決して間違えない。

「待ってるからさ。元気で戻っておいでよ。皆待ってるし」

『ああ、新年には戻る』

 離れてみれば、今までどれ程周囲に支えられていたのかと思い知る。カリスマ的だと囁かれていた自分は、決してカリスマなどありはしなかった事も、手塚は十分判っていた。周囲がそうとして支えてくれていたのだと、今更思い知る気分だった。
「それじゃね」

『ああ』

 これ以上話していたら、名残惜しさばかりを引き摺ってしまうから、互いに苦笑し、携帯を切った。

「この分じゃ、積るかもね」

 通話を切った携帯を暫く眺めていた不二は、少し経って視線を外に向けた。相変わらず窓は開かれたままの状態で、暖房を掛けている意味は何処にもなくなっている室内の温度は、けれどやはり不思議と心地好いのは、身が引き締まる、凛然とした冷気の所為なのかもしれない。         
 見慣れた景色が少しずつ白く染まっていく不思議な光景。

「陳腐な科白、だけどね」

 自分で内心思った科白に、苦笑が口を付く。
白く染まっていく世界。雪が世界の哀しみや何かを浄化していく。そんな感傷的な、らしくない考えが脳裏を過ぎるのも、今の今まで会話をしていた携帯の所為だろうか?
 2002年前に生まれた救世主は、十字架で死んだ。守るべき人類に裏切られた涯に見た光景は、一体どんなものだったのだろうか?その絶望の淵など、誰にも判りはしない。その意味さえも。
 白くなっていく光景に、不二はらしくなく十字を切った。

「さてと、こんな静かな夜は」

 誰の為に祈ろうか?