循環される光景



恋はまるで望遠鏡から覗く星のようさ
腕を伸ばすだけじゃ何も届かない
だから僕は君をつれてゆく
変わらない想いは
君の宇宙になる









「HAPPY BIRTHDAY 桃先輩」
 約束の場所に、自分より一足早く付いたのだろう桃城に、リョーマは気配を殺して近付くと、
背後からたった今購買部で購入してきた桃城お気に入りのブルーベリージュースの紙パック
を、その端整な頬に押し付けた。
「冷ッ!コラ越前」
 気配もなく、突然頬に冷たい存在を押しつけられ、桃城の躯は意識するよ早く、外側の部
分で反射的に飛び上がった。
 5月くらいまでなら昼食は、誰もこない簡易屋上の上で摂るのは気持ちのいいものだった
が、流石に7月も下旬の季節を迎えた今。地上より随分天に近い屋上で、直射日光を浴びて
食事をする趣味を持ち合わせていない二人は、場所を変え、緑に囲まれた大木の根元が指
定席になっていた。
 青春学園は、都内とは思えぬ広大な敷地を要しており、校庭というには広大すぎる敷地面
積の中。周囲には至所に四季折々の花や木が植えられていて、二人が今居るのは、校舎
からは完全に裏手に位置する、桜の樹の根元だった。
 青学は、購買部も充実しているし、食堂もある。弁道を持参し教室や食堂で摂ってもいいか
ら、夏の季節。物好きにも外で食事をする生徒は少ない。程よく温度設定された冷房の中。
大抵の生徒は食堂や教室で昼食を摂るから、桃城とリョーマのように、わざわざ外で昼食を
摂る生徒は格段に少ない。まして裏に位置する木の下で、敢えて食事をするものは更に居
ない。だから二人の周囲に、生徒の姿は一人も居なかった。まして明日は終業式で、二学期
も終わりだ。明後日からは夏休みに入る。そんな時期だから、今日とて殆ど授業らしい授業
などなかった。だから4時限が終了し、帰宅途中で食事を摂る者は多い筈が、其処まで食欲
の限界が持たないのも、健全な発達をしている中学生なのだろう。
「何、無防備にしてんスか?」
 ちょっと目測を誤った所為で、購買部は人だかりができていて、リョーマは舌打ちしつつ、
目的の物を買い、待ち合わせの場所に来た。授業も終わり、部活がなければ、帰宅するだ
けの生徒達が、リョーマの目測を誤り、購買部には列をなしていた。そして漸く目的のものを
買い、桃城と待ち合わせの場所に来たのだ。
 そんなリョーマの視界に映ったのは、空を見上げながら、到底空を眺めているとは思えない
桃城の姿だった。珍しくも、自分の気配一つ察知できない程無防備な桃城の様子に、リョー
マは下品にも舌打ちした程だ。
 無防備に空を見上げる桃城など、知り合ってから今まで。リョーマは見た記憶がなかったか
らだ。桃城のそんな無防備な表情をリョーマが知っているとすれば、激しい情交に漬かり込
み、失神するかのように互いに意識を手放した時。夜中とも朝方とも付かない時間帯。珍しく
も眼が醒めてしまった時に垣間見ることのできる、桃城の寝顔くらいだった。眠っている桃城
は、盾として使用される笑顔のない分、鋭角な大人の輪郭を備えていることに気付く。
 リョーマと知り合い、自らもまたテニスという道の可能性を、棄てることのできなくなってしま
った桃城を、リョーマは知らない。そんな桃城だから、大人であろうとするその精神が、此処
最近の桃城を、更に大人に見せているというのも、当然リョーマは知らない。
 無防備な桃城というのは、日常的に誰にでも見せる、開放的な笑顔のない分。嫌になる程、大人の気配しかないのだ。それがリョーマには、追いつけない落差を突き付けられる気
がして、堪らない思いを味わった。いつも桃城はリョーマの前で、欠片でも、そんな要素を出すことはなかったからだ。笑顔のない自分というものを、桃城は知っているのだろうと思えば、やはりリョーマは、『悪党』と、毒付かずにはいられない。
 だから日常的な時間の中。自分の気配にも気付かず、空を見上げている桃城を見たのは、リョーマにとっては今回が初めてで、だから面白くないのだと、子供のような憮然さで、リョ
ーマは桃城を見下ろすと、隣にストンと腰を落とした。
「別に」
「フーン」
 嘘だと、判らないリョーマではない。1年弱重ねた時間は、伊達ではない。桃城も、きっと判
って言っているのだから、知られたくないと言うことなのだろうか?そう思えば、ますますリョ
ーマは憮然となる。
「それよりお前、今のなんだ?」
 突然気配もなく頬に触れた冷たい存在。見間違えでなければ、自分が好きな購買部でし
か青学では買うことのできない、ブルーベーリージュースだったように思える。そして桃城は、漸く納得が行ったとばかりに、憮然としている綺麗な横顔を眺め、薄い笑みを漏らした。
「……何笑ってんスか?」
 視線を感じ、リョーマは素っ気なく口を開くと、弁当の包みを開いて行く。
「愛を再確認してんだよ」
 遅れると、件名だけ打ち込まれてきたメール。リョーマが小型の通信手段を使うのは稀だっ
た。そのリョーマが珍しくも携帯を鳴らして来たかと思えば、件名にたった4文字。らしすぎて
笑ってしまった桃城だった。けれどそれが今リョーマの手に在るジュースの所為かと思えば、
桃城が『愛を再確認している』そんな科白が出てしまっても、仕方ないのかもしれない。
「誕生日だから、取り敢えずね、ハイ」
 溜め息を吐き出すと、リョーマは少しだけ温くなってしまったブルーベリージュースを、桃城
に差し出した。
「どうしたんだよ?お前が物くれるなんて」
「別に」
 それこそほんの気紛れだった。昨年は、日付変更線と同時に桃城に会いに行き、思い切り
呆れられたリョーマだから、今年は昨夜と今日の日付変更線と同時に、桃城にメールを送っ
たのだ。『HAPPY BIRTHDAY桃先輩。また1年、歳を食いましたね』そんなリョーマのメー
ルに、桃城は速攻で反応し、『サンキューな』と、返信を送ってきた。
「サンキューな」
 差し出されたものを受け取って、桃城は笑う。夏の太陽が何より似合う男だと思うのに、判
ってしまった曲者の意味を考えれば、リョーマには悪党以外の何ものでもない笑顔に見えた。
 制服を着ているから中学生と判るだけで、私服になれば、面差しや気配は様変わりする桃
城を、リョーマは知っている。
 年齢など掴ませない底のなさ。相反し、手の内を曝す明け透けな部分。気安い笑顔を作る
作為的なその盾を、知る物は限られている。
「どういたしまして」
 何故自分がそんな気紛れを起こしたのか、リョーマにも判らなかった。





『天然のプラネタリウム』

 スラリと伸びた白い腕。その腕の先の先。指し示された藍色の空。落ちてきそうで、落ちて
こない石の球体。散りばめられた星の光は、閉じ込められた空間で見る、人工的な光を寄せ
集め作られるプラネタリウムでない分、何倍も綺麗に見えた。


『天然のプラネタリウム』

 白い指先が示す軌道。深夜に近い時間帯。簡素な住宅街の屋根。電柱から伸びる細い線。そして視線を上にずらせば、そこは何もない、沈黙に守られた、無限の空間が広がっていた。
 藍色の空。石の球体。万や億という時間単位の向こうから、もたらされてくる星の光。そん
な有り触れた日常の光景が、実は一番美しいのだと、教えてくれたリョーマの白い指先。
 日常に埋没している有り触れた光景の群れ。夜空を『天然のプラネタリウム』と言って笑うリ
ョーマの発想は、とても国語が嫌いだと、毎回試験の都度。試験勉強に付き合っている桃城
には、到底思いも付かない言葉だった。けれど実際リョーマは国語が苦手なのを桃城は知っ
ている。リョーマに言わせれば、読者の感性を無視した外側の部分に、答えが用意されてい
るのが、理解できないと言うことらしい。少なくとも、読解力と同時に、発言力も要求されるア
メリカの教育では、日本の国語教育など、リョーマにとっては理解できないのかもしれない。
 リョーマは、時折そんな言葉で、あるいは仕草で、桃城に日常に埋没している光景の美しさ
を、知らせてくれる。けれどリョーマ自身に、その感性の自覚はまったく皆無だ。











 昼食を終えた二人の今の体勢はと言えば、リョーマは薄い背を桜の幹に預け、どうしてそう
なったのか、桃城はリョーマの膝枕で、食後の一時を満喫している様子だった。そんな桃城
に、リョーマは溜め息を付きながら、ハードムースで整髪している髪を弄んび、穏やかな寝顔
を覗き込んでいる。
 二人が待ち合わせをして昼食を摂っているのは、もう1年も前からの事だ。学年の違う二人
が、ただウマがあうと言う理由だけで、昼食を共に摂る事が、周囲にどれ程奇異に映ってい
たのか、当時判らなかったリョーマも、今なら多少は察する程度の理解はできていた。まして
二人の関係は、ウマがあうという理由だけではないのだから、尚更だ。今のこんな体勢を誰
かに見られたら、桃城の『秘密の恋人』説も、何処かに飛んで行くのかもしれない。
 一体いつからだろうか?考えても、リョーマには、もう思い返せないものだった。
 取り敢えず付き合いだした関係だった筈だ。だから互いの内側に引いた境界線というライ
ンというものは、心得ていた筈だった。けれど一体いつ、互いにその境界線を踏み越えてし
まったのか、明確なものなど判らない。


『お前は、一体なんに守られている?』

 正月の三が日。元旦初日から、家族が留守だという桃城の家に遊びに行き、激しい情交を
重ね、帰って来た夜。南次郎に問われた科白だった。


『一体何がそんなに、お前の内側を、守ってるんだろうな?』

 既に随分当初から、桃城との関係は父親である南次郎にはバレていた。けれど別段反対
などされることなく、今に至っている。だから正月元旦から、家族不在の桃城の家に行った息
子が、桃城とどういう時間を過ごしたのか、判らない南次郎ではなかっただろう。それでも南
次郎は無駄なことは一切訊かない。そして反対に問われたのは、そんな言葉だった。
 彼氏との夜はどうだったよ。そんな会話で切り出され、問われた言葉の背後に滲む冴えた
刃と牙を、その時リョーマは、初めて理解した気がした。父親の飄々さは、それさえ周囲を欺
くバランスでしかないのだと、そう気付いた時。背筋をゾクリとした感触が這い上がっていった。
 自分を送ってきた桃城と南次郎が、居間に閉じこもり、何やら話していた。その話しの中に、リョーマは加えてはもらえなかった。そしてその晩。南次郎に問われた科白が、そんな科白
だったから、自分を除いた二人が、一体何を話したのか、リョーマが焦燥を抱いても不思議
ではないだろう。けれどリョーマは南次郎に尋ねる愚などしなかった。しても哄笑に紛らせ、
決して教えてはもらえないと、判っているからだ。
 桃城は一体何処に向かおうとしているのか?リョーマには判らない。漠然と判っている部
分は確かに有るが、明確な答えなど、桃城は一切与えてはくれない。それは直接にしろ間
接にしろ、尋ねるリョーマに、桃城は苦笑に紛らせるだけで、明確なものなど、一切与えはし
なかった。
 だからリョーマは時折、どうにもならない焦燥に、身の内側が捩れて行くのを、意識せずに
はいられない。そんなリョーマの内心を知って尚。桃城は明確な答えなど与えない強靭さを
持っていた。リョーマは時折その強靭さに、桃城に噛み付きたい衝動を持ち越しているのを、
一体何処まで桃城は理解しているのか?


『本当、懐いたもんだな』

 そう笑う南次郎に、自分がどれ程複雑な表情で答えたのか、リョーマに自覚はない。
 脆弱な内側を守ってくれる者。守ろうとしてくれる者。


『お前はお前で、誰かじゃないだろ?』


『お前は笑ってろ。笑ってテニスしてろ。笑ってる方が、倖せは多く訪れるっていうぞ』


 そんな柔らかい言葉で、莫迦みたいに優しい仕草で、内側を守ってくれる者。そのくせに、決して手の内など曝してはくれない、答えを与えては決してくれない。その癪になる程の強靭さ。


『お前にとって俺が枷にしかならないなら、今すぐ此処で、棄ててけ』

 降るように柔らかい言葉。差し出される腕。相反する、強靭なまでの辛辣さ。決してテニス
を棄てさせてはくれない。半歩背後に立つその強靭さに気付いたのは、一体いつだったろう
か?変容してしまった自分達の有り用など、いつからと判ったからと行って、これから先、付
随する事さえないだろう。
 リョーマは軽く溜め息を吐き出すと、寝顔を覗き込み想起していた思考を切り換えるように、
小さい頭を太い幹に預けた。 明日は終業式で、部活のない者などは、もう下校している時
間帯だ。そして全国大会を勝ち続けて行く為に、テニス部はこれから更にきつい練習が待っ
ている。
 昨年、途中から柱である手塚を欠いたテニス部は、それでも関東大会を勝ち進み、全国大
会に出場した。全国の頂点に立つテニス部は、作り出されていく伝説の元。周囲から更に期
待される。全国のテニス部員が、『打倒青学』を合い言葉に、出場してくるのだ。慢心して鍛
練を忘れたら、簡単に消え去っていくのは、何処の世界でも同じだろう。そこにプロやアマの
落差はない。
 けれど今は部活開始時間まで時間が有った。二年になったリョーマ達には、必然的に一年
生の指導教育という役割が回っていたが、それは今では堀尾達の専売特許になっている。
 夏の暑い季節は、膝に重みを掛けてくるこの男の季節だと、リョーマは長々手足を伸ばし、
熟睡体勢に入っているとしか思えない男に、溜め息を吐き出した。
 膝の上に頭を擡げている男が、実は甘やかし上手なだけではない、甘え上手でもあるのだ
と、リョーマが気付いたのは、極最近の出来事だ。たまたま偶然立ち寄った桃城の家で、桃
城の初体験の相手という、彼の従兄弟に会った事から、起因している。
 一体どれだけの女に甘やかされてきたら、此処まで甘やかし上手になれるのだろうか?
恋愛関係など結んだのは桃城が初めてのリョーマに、数的なものなど、当然判る筈もない。
 呆れて溜め息を吐いたリョーマは、ゆっくり視線を空へと移した。
 生い茂る緑の葉。不思議と木の下は、暑いとは思えない程、心地好かった。肌身に纏わり
つく夏特有の湿気の多い暑さはあるものの、樹の下は外気に触れていても、纏わり付く粘質
な空気は感じられない。
 生い茂る青黛な木々の隙間から切り取って見える空。夏特有の濃い蒼天に浮かぶ積乱雲。切り取られた視界の先に、白い筋が映る。
「アッ………」
「どした?」
「起きてたんだ」
 思わず呟いたリョーマに、桃城が即座に反応する。熟睡体勢に入っていたとばかり思って
いたリョーマは、少しだけ驚いた表情をした。
「ひこうき雲」
 ホラッと、白い指先が視界の先を示して上がる。
「ん?」
 桃城は、其処で漸くリョーマの膝から頭を上げ、ストンとリョーマの隣に半身を起こして並ん
だ。
「ア〜〜〜今の時期見えるの、珍しくないか?」
 切り取られた視界の中。青い空に、白い筋を浮かべて流れていく雲。夏には、あまり見な
かったように思え、桃城はリョーマの指し示す先を眺め、そして白い指先に視線を落とした。
指先に視線を落とせば、やはり昨年の誕生日。リョーマが見せてくれた夜空が鮮明に甦る。
有り触れた美しい光景を、見せてくれた、気付かせてくれた、白い指先。
 白い指先から、緑の葉に遮られ、切れ切れになる空に視界を移せば、白い雲は、ゆっくり
消え掛かっていた。
「ひこうき雲が見えるのは、気圧の関係とかなんとか、言ってたよな」
「フーン」
 チロリと、色素の薄い蒼眸が、隣に腰掛けている桃城を睥睨した。
「あんた、気象予報士にも、知り合いいるんだ」
 随分守備範囲広いね、リョーマは少しだけ憮然となる。
「お前なぁ、俺の知識は1から10まで、女からの情報だと、思ってないか?」
 睥睨してくる眼差しに、桃城は脱力する。とはいえ、それはあながち所が、ビンゴに近しい
ものではあるのだけれど。
「1から10所か、1から20や30は、女からの情報でしょ。それも、床上手で甘やかし上手の
女達の」
 シレッと言って、リョーマは再び空に視線を投げる。其処には、もうひこうき雲はない。蒼い
空に、白い雲が浮かんでいるだけだった。棚引く線状の雲は、綺麗に消えていた。
「あのひこうき雲はさ、もう二度と見られないんだよね」
 時折リョーマはこんな科白を言う。それは随分感傷を孕んだものではあるが、リョーマにそ
の自覚はないのかもしれない。
「同じ光景は、その一瞬にしかないからな」
 こうしている自分達も、今この一瞬のものだ。
「でもな。今の連続が明日になって、未来に続くんだから、分断されてるもんでもないしな」
 そうで有ってほしいと、桃城は願う。こうして同じ光景を見ても、眼球を通して見える光景は、同じように映っているのかは誰にも判らない。意識下の感性に触れてしまえば、それは
尚判らなくなる。それでも、同じものを見たいと願う程、互いに子供ではいられないのも、判りきっている。
 今一瞬を共用するその時間が、連続して象られていく未来を映すなら、そうである努力を、
桃城が怠る筈はなかった。
「今一瞬だけど、何処かで循環されてくる気がする」
 白い雲を眺め、桃城に視線を移し、そして再び空を眺め、リョーマは桃城と通り過ぎてきた
幾重かの光景を思い出す。
 桜の季節に出会い二度目の今年。巡り回ってくる季節に見る光景。泡く薄い膜のような白
い花片。全国大会で優勝した夏。濃く深い蒼い空。切り取ったように浮かぶ白い雲。高い秋
の空。寒い冬。そして巡ってきた桜の季節。感じる光景は同じでも、感じる感情は変容して行
く。それなのに、不意に過去の光景が意識にポンッと浮かび上がってくる瞬間が有る。その
瞬間。過去と現在の感情の変容を無意識に比較して、辿り着く部分もあるのだから、光景は
案外簡単に意識に直結し、感情を簡単に循環させるものなのかもしれない。まして季節の変
化というものは、こうして肌で感じ取るものが大部分だから、尚意識に直結しやすいのかもし
れない。
「お前の頭は、本当に理解不能だな」
 循環されてくる光景など、桃城は今まで思い付きもしなかった。そんな科白を、何でもない
ように告げるリョーマの感性は、やはり普通ではないと思う桃城だった。
「何それ?」
 柔らかく髪に触れてくる長く節の有る指。それはリョーマとは比べ物にもならない程しっかり
とした骨格を持つ、完成された大人の男の指だ。 
 その指が髪に触れるのは、もう言うのさえ効力の発揮されない言葉だと知っているから、リ
ョーマは桃城の好きにさせてやりながら、制服のポケットを探った。
「ハイ」
「なんだ?」
「見て判らない?鍵」
「あのな……」
 桃城の目の前に、ブラ下げるように差し出されたのは、何処にでも有る、有り触れた二つの
鍵だった。
「青春台駅の、コインローカッーの鍵」
「ってお前、普通ナンバープレート、付いてるだろうが」
「プレートついてたら意味ないから、外したっスよ」
 意味深に笑うリョーマの笑みは、タチが悪い。自分の笑顔より余程タチが悪い効力を発揮し
ている事実を知らないリョーマには、毎回脱力を強いられる桃城だった。
「今日のメイン」
 リョーマの指先に引っ掛けられた二つの鍵が、ユラユラ揺れる。それは二つがぶつかって、
チャラチャラッとした音を立てている。
「メインって」
「だから、プレゼント。誕生日のね」
「お前、どうしたんだ?」
 誕生日に興味のない桃城には、リョーマが『おめでとう』と言ってくれる言葉だけで、十分な
ものだった。 
 元々桃城は、誕生日という日に執着がない。下手をすれば、綺麗に忘れている程で、昨年
もリョーマからのメールで、思い出した程だった。リョーマと知り合う前は、大抵毎年学校で女
子から押しつけられるプレゼントで気付く。一体何処でそんなデーターを入手してくるのか甚
だ謎であったが、それは校内とは限らず、ご近所の中学や高校の女子からも、朝校門前でプ
レゼントを渡されていた桃城だった。
「人が折角プレゼントしようと思ったのに、いらないんだ。フーン。だったら俺誰かと行っちゃお
うかな」
「オイオイ、行くって何処にだよ」
「知りたかったら、頑張って探してみれば?」
 ハイッと、桃城に手を突き出すと、桃城は二つの鍵を受け取り、しげしげと眺めて、溜め息を
吐いた。
「お前、確かあそこのコインロッカーって、100台以上は有った筈だぞ」
 青春台駅は、都内に乗り継ぐ車両が分岐されている駅で、朝夕のラッシュはすさまじいもの
だ。その為、コインロッカーも、近隣の駅より、置く設置されている。 
「100台でしょ?それぞれカギ穴に突っ込んで探して見れば?できるでしょ?」
「ってお前、それじゃ十分、不審人物だろうが」
 良く考えれば、青春台駅のコインロッカーは、構外と駅構内と、二か所ある。二か所を併せ
れば、100台という可愛い数字ではなかった。
「駅構内じゃないから、100台程度でしょ?ああ探索期限、明後日までだから」
「オイオイ」
「ワクワクするでしょ?プレゼントってさ、貰ってラッピング解く時が、一番ワクワクするんだよ
ね。何入ってるのかなって」
「越前〜〜〜〜」
 呑気に笑うリョーマに、けれど桃城が呑気に笑える筈もない。100台を探す。それも鍵は二
つもあるのだ。手間は200台と同義語だ。
「情けない声出さないでよ。ハイ」
 仕方ないねと、リョーマは呆れた表情をし、リョーマは白いカッターシャツの胸元に有るポケ
ットの中から、四辺に折られた紙切れを差し出した。
「ヒント其の弐」
「なんだよこれ、暗号か?」
 四辺に折られた紙切れを開き、桃城は更に脱力する羽目に陥った。其処に書かれている
のは、桃城には暗号にしか見えなかったからだ。書かれているのは、幾つかの漢字の羅列
だった。


 切無刀 天無人 王無棒


「まぁ、似たようなもん」
「………お前…いくら推理小説に嵌まってるっても、こりゃないだろ」
「工藤優作の『闇の男爵(ナイトバロン)シリーズ面白いからって、俺に押しつけたの、あんた
でしょ?」
 近頃嵌まってるんだと、図書委員をしているリョーマがカウンターに座っている時。シリーズ
数冊を借りていったのだ桃城は。
「面白いから気が向いたら読んでみろっつったけどな、押しつけた覚えはないぞ」
「俺がカウンター座ってる時。女子と意気投合して図書室で話して、シリーズ数冊借りてく行
為の何処が、押しつけてないって?」
「お前〜〜」
 とどのつまり、女子と小説方面の話しで意気投合していたのが面白くない。そういう事なの
だろうが、リョーマがこうストレートに表現するのは珍しいものだった。
「試しに読んだら面白かったっスよ。他のシリーズも十分楽しめたし」
 世界的に有名な推理作家の小説は、トリックもさる事ながら、緻密に書かれる、複雑に絡
み合う人間関係の描写が特異的なのだと、絶賛されている代物だ。推理小説など、殆ど読
んだ事のないリョーマをして、面白いと言わせる代物だ。そのリョーマが桃城へのプレゼント
に、遊び心を取り入れてしまっても、仕方ないのかもしれない。
「ったく、お前は」
 紙片に書かれた文字を眺め、桃城はクシヤクシャと、リョーマの頭を掻き乱す。
「暗号物、好きなくせに」
 頑張って解読して下さいと、リョーマは笑う。
もう部活開始時間が迫っていた。流石に部長で有る桃城が、遅刻するのは不味いだろうと、
リョーマは土を払いながら立ち上がる。これから部室に向かって着替えていたら、時間的に
はかなり微妙だ。
「あともう一つヒント。俺の家が寺って事かな?」
 もう答えみたいなもんだから頑張ってよねと、リョーマはクルリと背を向けた。
「随分甘いじゃないか?」
 鷹揚に笑うと、桃城も倣って立ち上がった。
蒼い空に、溶け込むように歩いて行く小さい背。綺麗な光景の一部に埋没するかのように、
綺麗に歩いて行く姿が、桃城の視界には鮮やかだ。
 けれどどうかと、桃城は願う。そんな綺麗な光景に溶けこむことなく、自らの道を歩いて行っ
てほしい。
 足許に有る屍の存在を、リョーマは嫌という程判っている。勝者が在るということは、必ず敗
者が居ると言う事だ。勝者で在り続けるということは、常に屍を生み出すというのと同義語だ。その認識ができない程、リョーマは無知で甘いガキではなかった。プロになるということは、
それだけの精神値を求められると言うことでもあるからだ。同時に、自分も屍になる可能性を
秘めている。勝ち続けていく怖さ、勝者であり続ける困難さを知らなければ、プロであること
は到底適わない。
 上に行くと行ったあの冬の午後。何かを身の裡に溜め込むように、まるで深呼吸するかの
ように、冬の空を見上げていた小さい姿。眠れる獅子を身の裡に飼う幼い孤独な王の姿を、
桃城はリョーマの中に見つけていた。
 与えられた天の才が、少しでもリョーマに優しいもので、あるように。
「そうだ」
 桃城の前で、華奢な姿が、ターンする優雅さで振り返る。
「大丈夫だと思うけど、誰かに訊いたら、アウトだからね」
 左で銃の恰好を作って人差し指を差し出し、パーンと、打ったフリをして笑うリョーマに、桃
城も笑みを漏らした。
「俺を、みくびるなよ。トリック解くのが、推理の醍醐味だからな」
 夏の空に溶け込みそうに鮮やかな笑顔のリョーマに、桃城も曲者に似合う笑みを漏らした。



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