| きっといつか帰ってくる 懐かしい夏の光 二度と巡らない今日という日 それでもいつか帰ってくる この場所に あなたと見た 夏の光 |
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観光地化された場所から、ちょっと一歩奥へと入り込めば、其処はまるで、雑踏とは掛 け離れた空間が広がっていた。 観光用にでも整備されているのだろう。森林公園の延長線のような場所。左右に広が る夏の樹は、真夏の日差しを浴び、木漏れ日を揺らし、輝いている。それでも、観光地化 された場所からは適度に離れたこの場所に、足を運ぶ人間は案外と少ないのか、行き交 う姿はあまりに少ない。その人の少なさと、周囲に広がる緑に、フト見知らぬ土地に迷い込んだ感触を味わって、桃城は苦笑する。歩く足下は、観光地用に整備されたアスファル トなのだから。 夏らしくない陽気も、夏休みの残日数が僅かになってから、夏らしい暑さを見せ、二人 が歩くアスファルトも、夏の陽射を受け、白々とした陽射を反射している。それでも、視線 の先に陽炎が見えそうな暑さを伝えては来ない。こんな時、土なら熱気も反射する陽射 も吸い取って、環境にも眼にも優しいだろうにと、フト桃城は思って苦笑する。 真夏の光を受け輝く緑。遠くで鳴く鳥の声。周囲から、降るように響く蝉の声。見上げれ ば、妙に質感の有る白い雲と、何処までも蒼い空が広がっている。その果てしのなさは、 終結などとは無縁の広さを思わせる。 そして視線を隣に向ければ、観光案内に乗っているマップに沿って歩きながら、リョーマ は呑気にソフトクリームを舐めながら、周囲を物珍しげに見渡し、歩いている。無自覚に 見せる、歳相応の子供じみたリョーマの横顔に、桃城はフト柔らかい笑みを漏らした。 綺麗な横顔だと思うものの、其処に浮かんでいる表情は、テニスをしている時に見せる ような、冷ややかに研ぎ澄まされていくばかりの切っ先のような危うさも、強さもない。 テニスとかけ離れた場所で覗かせる、リョーマのそんな表情はひどく子供じみていて、 年相応の横顔を見せるリョーマの子供っぽさに、桃城はらしくもない安堵と、そしてそんな リョーマを知るのはきっと自分だけだろうという、傲慢な独占欲を自覚して、更に苦笑する。 「上げないっスよ」 隣を歩く桃城の視線を感じて、リョーマはソフトクリームを舐めながら、淡如に口を開い た。 いい加減、強い陽射に溶け始めているクリームを、それでもリョーマは手も汚さず綺麗 に舐めている。 夏の陽射の中に曝されれば、脆いもののように、クリームなど原形を止どめず、すぐに 溶けていく。溶け出すそれは大抵持ち主の手を汚して行くが、リョーマは欠片も手を汚さ ず、先刻からソフトクリームを堪能している。そんな仕草を見ていれば、器用だと、ついう っかり、思ってしまう桃城だった。 「誰が欲しがるかって。お前食い物に関しちゃ、本当ガキだな」 リョーマの科白に、桃城は途端に脱力を強いられた。 アメリカ育ちのくせに、和食が大好きなリョーマの味覚は、けれど変な部分で幼さが残っ ている。それこそ丸々一匹の焼き魚を、毛抜きで抜くかという程器用に箸を使って小骨ま でとっていくリョーマは、けれど味覚は幼い。 冷ややな熱を灯す、切っ先のような凛然さ。躊躇いもなく振り下ろされる猛禽の鉄爪。 そんなテニスだけを見るなら、リョーマが甘いものが大好物など、結び付かないものだろ う。けれどリョーマはテニス以外では、ひどく子供っぽい面が存在するのを、桃城は知って いる。そして同時に、桃城にだけ見せる、娼婦と変わらぬ淫靡な妖冶さを、桃城というたっ た一人の男に教えられている肉体を持っている。けれど今のような局面で覗かせる笑み は、歳相応のガキじみたもので、桃城の苦笑と脱力の両方を、綺麗に引き出す事に成功 している。 リョーマは、桃城が胸焼けを起こす程、甘いものが大好きだった。喫茶店やファミレスに 入ればパフェを頼み、軽々完食してしまう胃袋の持ち主だ。甘いものが大好物だから、ジ ャンボパフェだって、実は朝飯前だ。休日にデートと称して出掛ければ、昼も夕食もデザ ートにパフェを目の前で食べられた桃城は、胸焼けを起こした程だ。パフェが朝飯前のリョ ーマにしてみれば、今食べているソフトクリームなど、朝飯以前の問題だろう。それこそ 食前酒と変わりない代物に違いないと、桃城は確信していた。 「やっぱソフトクリームって、バニラが一番旨い気がする」 「お前、人のストロベリー、半分食っといて言う科白か?」 「食ったから、言えるんじゃないスか」 食べてみなければ、比較対象はできないだろうと言うのがリョーマの弁だが、リョーマと て判っているのだ。所詮どう言い繕っても、桃城はリョーマに甘い。味見と称し、桃城がリ ョーマに自分のストロベリーソフトクリームを食べさせたのは、言うまでもない。 「ったく、お前も本当、口が減らない奴だな」 小生意気な口を叩くリョーマの髪を、桃城はクシャクシャと掻き乱す。 鬱陶しそうにしながらも、リョーマが桃城の腕を振り払う事はない。言い募っても、桃城の この仕草を改めさせるのはいい加減無駄だと、リョーマも学習しているのだろう。何より悪 い気分は微塵もないのだから、リョーマが嫌がる理由は、もうなくなっている。 「でもアレだな」 「何スか?」 「お前がそうしてるの」 「………あんたが今何考えてるか、判った。発想がスケベ親父そのもの」 途切れた言葉の先。桃城の横顔を眺め、リョーマは呆れた表情を刻み付ける。 桃城が何を考えたのか、そんな事は考えるまでもなく、単純に判るものだった。それこ そリョーマには丸判りだ。そんな桃城に、リョーマは悪戯を思い付いたような笑みを見せる と、殊更ゆっくり、ピチャリと音を立て、ソフトクリームを舐め上げる。舐め上げ、色素の薄 い蒼眸を細め笑いながら、隣を歩く桃城の黒いシャツの裾を引っ張り、歩きを止めさせた。 「越前?」 不意に引っ張られ、歩きを止められた桃城が、怪訝に頭一つは低い小柄な造作を眺め れば、リョーマはスゥッと夏の空気が動く気配も滲ませず端整な面差しを突き出し、桃城 が意識するより早く、生温い温度が口唇を掠めて行く。 「越前……お前なぁ〜〜」 桃城が意識した時には、瀟洒な面差しは離れて行き、隣で悪戯が成功した子供のよう な、それでいて、何処か情事の最中に垣間見せる娼婦のような艶冶な笑みを口端に湛 え、リョーマは笑っている。 そんなリョーマの突拍子もない行動に、桃城は脱力する。 以前自分の事を胸を張って常識人だと言ったリョーマの科白に、信憑性などある筈もない。普通常識人は、公道のど真ん中で、同性にキスなど仕掛けてはこないだろう。 「別に、誰もいないし」 「お前、前に常識人って言ったよな」 シレッと言うリョーマは、もうガキの顔をして、桃城の横を並んで歩きながら、残り僅かに なったソフトクリームを食べている。 確かに周囲に人は居ない。居ても、今のリョーマの恰好では、遠目からなら、女の子に 見えない事もないだろう。だからといって、前触れなしのキスは反則だろうと、桃城は頭を 抱えた。 この思い付きの行動の一体何処が常識人だと、桃城が脱力したとしても、罪は ないだろう。 「欲しそうな顔したの、あんたの方じゃん」 パリパリとコーンを食べながら、リョーマは笑う。その姿は、悪びれた様子など一切覗か せてはいないから、尚更桃城は脱力するしかなかった。 リョーマは綺麗にソフトクリームを食べ終えると、コーンを包んでいた小さい紙を更に小さ くたたみ、ハーフパンツの後ろポケットに突っ込んだ。こんな些細な場面で見せる、リョー マの行き届いた躾に、桃城は小さい笑みを漏らした。 子供の前で平然とエロ本を見てしまう南次郎は、けれどちゃんと躾をしていると言う事だ ろう。 「否まぁ、昨夜のお前、思い出しちまって」 桃城が近所の商店街の福引きで引き当てた、老舗旅館一泊温泉旅行は、夏休みも残 り僅かという日付だった。全国大会も無事終了し、夏休みの宿題もあらかた終わったその 日は、作為的な日付だったのかもしれない。 観光地化された場所とはいえ、古い歴史を持つ老舗旅館は、ビジネスホテルなどとは完 全に一線を画した、格式の有る旅館だった。 以前は有名文学小説家とやらが泊まりに来ていたともいう老舗旅館は、確かに観光地 の一角に在って尚。何処か荘厳な気配を、格式の高さの中に滲ませていた。けれどそれ は嫌味という程、観光地化されたビジネス街に隣接しているわけでもなく、かといって、格 式の高さだけに囚われ、ビジネス街を拒絶するような気配もなく、それは最初から其処に 在り、これからも在り続けていくのだというような、淡々とした風情を滲ませていた。それ は今まで行き過ぎてきた人達が残した年輪とも言うべき何かが、旅館のそこかしこに残さ れていたからかもしれない。 観光地に近いわりに、一線を画しているというのは、そんな落ち着いた、たたずまいそ のものを指すのだろう。そして二人はその場所に訪れ、普通なら、とても中学生の身分で 泊まれる筈もない、老舗旅館の一夜を堪能した。 老舗旅館というだけに、中学生だけで訪れた彼等を、社員達は好奇な眼で見る事はな く、一定の距離をおいた、淡々としたサービスが提供された。一流であるというのは、そん な些細な空気を作り出す事にも長けているのかもしれない。必要以上に客の内側に入り 込むことのない社員教育が徹底されている。 室内から縁側に続く場所に露店風呂が付いているのが一つの売りにもなっているその 旅館で、二人は昨夜散々に番い合った。番えば番う程。餓えているのだと実感が深まっ てしまう程、昨夜二人は繋がりあった。 生温い温度を持つリョーマの口唇と肉色した舌。カタチよい口唇から漏れ落ちる喘ぎ。 掠れた悲鳴のような嬌声。淫らに乱れ落ちていく、隠される事のない奔放さ。折れそうに 細い、細すぎる腰。その腰の奥の奥、幼い胎内に穿った雄。外見の幼さとは裏腹に、雄を 受け入れ、包み込む事を教えられた肉。たった一人の男を招き入れ、喘ぐ事を教えられ た、リョーマの売春婦のような『女』の部分。たった一人の男に春を売る、雌。 ソフトクリームを舐めるより、幾重も淫靡なものを孕んで舐められ、しゃぶられた雄。思い 出せば、若い肉体は簡単に反応してしまいそうで、桃城は意思でそれを抑え付けるのに、内心労力を強いられた。けれどそんな内心を、表情に出す事はなかった。 「あんたのモノは、こんな柔らかくも小さくもないでしょ」 桃城の内心の反応を知りながら、リョーマはクスクスと悪戯気に笑う。その笑みは、昨 夜奔放に乱れた妖冶な気配を持っている。けれどそれはほんの一瞬だ。 「お前な」 一体いつの間に、リョーマは日常でもそんな気配を滲ませ、情事と変わらぬ妖冶な笑み を見せる様になってしまったのか?そう考えた時。桃城はらしくない罪悪を感じた。 テニスしか知らなかった子供に、テニス以外の恋慕を教えてしまった罪悪。感じる罪悪 を表面に出せば、リョーマを怒らせると判っている桃城は、決して感じた罪悪を、表面に出 す事はなかったが、表面に出さない部分で、軋むものを感じていた。 「いつだって、俺の内側から『女』を呼び出す、いやらしいあんたの雄」 もう、桃城の知らない部分など、存在しないだろう肉体だ。触れられれば、簡単に熱の 灯る内側。桃城に触れられれば、精神も肉体もグズグズ崩れて溶かされ、原形などとどめ ない。それは今舐めているソフトクリームと何一つの変わりない。桃城という熱に溶かさ れ、崩れていく。 解体され再生されるというのはこんな気分かと、フト思う一瞬が、リョーマの内側には確 かにあるのだ。 再生される都度、何処かが、それは肉体なのか精神の一部なのか、リョーマ自身にも よく判らない何処かが、削り出されていく気分がするのは何故なのか?リョーマにも判ら なかった。 誰より、越前リョーマという者を知り尽くしている嫌らしい指。嫌らしい雄。その躯全部。 存在全て。桃城武という、たった一人の男。何故こんなに狂わしい程恋しいのか?リョー マにも判らない恋情だった。 「俺を狂わせる、あんた」 一晩中繋がりあって、未だ腰の奥には、桃城の昂まりが埋まっている感触が生々しく残 っている。一晩中、乾く事を知らず桃城を受け入れていた肉の奥は、未だ爛れた熱さを疼 かせている。それは自ら濡れる事を知らぬ、桃城により女にされたリョーマの性器だ。 ドロドロに混融して、尚足りないと餓えていくその餓えは、いつになったら満たされてくれるのだろうか?そう考えれば、きっと一生満たされる事はないのだろうと思え、リョーマ は無自覚に口唇を噛み締めた。 欲しくて欲しくて、番っても未だ足りない。番えば番う程、餓えていく。たった一人の雄を 胎内の深みに受け入れ、何も生み出す事のできない深淵にその残骸を吐き出され、頭 が可笑しくなる程交じりあったというのに、それでも肉体は決して一つに混じりあう事はな い。そんな判りきっている事実に、つい理不尽な八つ当たりまでしてしまいそうになるリョ ーマだった。 どれ程想いを傾け番っても、決して一つに溶け合う事などできない。意識も意思も混融 し、肉体がグズグズに崩れ落ちていくようなあの一瞬の喪失感にも似た快楽は、ほんの 瞬間的なものだ。得てしまえば、後は喪失に向け疾走するだけなのだ。それはまるで、現 実的には止どめておける確かなものなどないかの言うようで、リョーマは得る都度、喪失 の予感に怯えてしまう二律背反を感じずにはいられなかった。そんな深い快楽など、今ま でなら知らずに過ごしてこれたものだ。だからリョーマは、時折達するのを、極端に怖がる 傾向に陥る時がある。そんな時は決まって、情緒不安定に崩れていく。感じ過ぎる快楽 は、時には喪失の予感も大きくなり、リョーマの内側をひどく怯えさせる。きっと桃城はそ んなリョーマの内側を判っているのだろう。重ねた回数が増す度に、ひどく不安定になっ ていくリョーマを、桃城は昨夜腕にしていたのだ。 無自覚に口唇を噛み締めたリョーマの、その内心に過ぎった不安を、気付かない桃城 ではないだろう。微苦笑すると、桃城は言葉もなく、ただリョーマの髪を梳き上げた。 「あんたのこういう優しさって、サイテー。こんなんじゃ誤魔化されてやんないって、言った のに」 「誤魔化されてろよ」 「フーン」 「未だな」 「手の内見せるようじゃ、あんた詐欺師失格だよ」 嘘を嘘と思わせない優しさを吐き出せなければ、詐欺師とは言えない。ラストの幕が降 りるその瞬間まで。相手に手の内なで見せないで端然と笑って嘘を吐き続けていけなけ れば、詐欺師とは言えない。けれどこんな科白をサラリと告げてしまえる優しさは、やはり 悪い男の見本だと思わずにはいられないリョーマだった。 「悪党」 口唇を噛み締めたまま、リョーマは俯いてポツリと呟いた。髪を掻き乱すその感触を、一 体いつから心地好いと感じるようになっただろうか?鬱陶しいと憮然と告げながら、振り 払わなくなったのは、一体いつだったろうか?リョーマには、もう思い出せない。 俯いた視線の先には、整備された観光の為のアスファルト。長い影が重なって伸びる 真夏の午後。それでも今年は、立っているだけでじっとり汗が滲み、滴り落ちる昨年のよ うな暑さはなかった。夏らしくない夏。それでも、もう終わりなのだと、不意に思う瞬間が 有る。それは周囲から聞こえる蝉の音だったり、肌を撫でる、何処か涼を含んだ風だった り、昨夜桃城と番いながら、意識の遠くで聞いた虫の音だったり。 季節の終わりを感じるのは、全国大会を終了した感傷なのか、判らなかった。けれど確 かに、全国大会という器は、二人にとって一つの分岐であるのには間違いないだろう。 『おめでとう』 幾重もの賛辞と歓喜と声援。真夏の茹るような暑さはなかったものの、それなりに暑か った夏。 風に翻る長く白いハチマキは、昨年桃城が自作してから、青学テニス部では慣例化して しまったらしい。今では必勝ハチマキになっている。 濃紺に金の縫い取りがしてある、青学の旗。高等部に進学した懐かしい先輩達の声。 渦巻く熱狂が終焉を迎えた、真夏の輝く季節。二度と帰らない時間。 『よくやった。優勝おめでとう』 海外から届けられた、相変わらず素っ気ない文字の羅列。 けれど無機質な文字の背後には、言葉少なく応援してくれた、かつての青学の『柱』の重 さと、労りが垣間見えた。 『先行投資、した甲斐があったな』 食えない飄々とした笑顔で、桃城にそう告げたのは、リョーマの父親の南次郎だったが、全国大会優勝は、幾重か存在する約束の極一部だと、南次郎は念を押すのも忘れな かった。 リョーマは、今でも話してもらえない。桃城がこれから立ち向かう場所というものを。その 場所を、父親である南次郎が知っている事実に、歯噛みする時間が、リョーマは以前より 増えている。そう思えば、やはりリョーマは内心悪党と毒付いてしまう。 「悪党は、ないだろう?」 リョーマが呟いた言葉を、聞き逃す桃城ではない。吐き出された言葉の先をちゃんと理 解して、それでも告げられない言葉が有るのだと知らせるように、桃城はリョーマの髪を 掻き乱す。どうかいつまでも、この仕草に誤魔化されてくれるようにと、無駄な願いを掲げ ながら。 「アッ………」 「どうした?」 不意にリョーマが顔を上げ、周囲を見渡すのに、桃城は少しだけ怪訝な表情をする。 「音」 「音?」 「なんか、音がする」 桃城はリョーマの科白に耳を澄ませた。周囲から聞こえるのは、遠くで鳴く鳥の囀りと、 それより近くで、それこそ頭上から、今にも落ちてきそうに響く蝉の声だ。けれどどうやら リョーマは違う音を捕えたのか、走り出していた。 「オイ、コラ、越前」 急に走り出した小さい背に、そういう部分がガキなんだと、桃城は溜め息を吐き出し、後 を追った。 整備された周囲は、左右が森林公園のように、やはり整備された樹々が植えられてい る。けれど樹々の間に、歩行の為の道はない。整備された環境と、それを境界するように 隔てられているのは、連なるガードレールだった。別段進入禁止の立て札も周囲にはな い。どちらがどちらを保護する為に連なるのか判らないガードレールは、無神経に自然に 立ち入り、環境を悪化させる人を隔てる為、樹木を保護する為に有るのかもしれない。 そのガードレールを、リョーマはヒラリと乗り越える。 陽射を反射し、フワリと揺れる黒髪。身軽に乗り越えた鮮やかな姿が、桃城の眼球には 鮮明な残像として焼き付いて映る。 「越前」 大したスピードを出して走っているわけではないリョーマの足に、追いつけない桃城で はないから、簡単に距離は縮まり、桃城はリョーマの隣に並んだ。 「ったくお前は、どうした?」 リョーマのテニスの反射神経の良さの一つには、耳のよさも含まれているのを桃城は知 っている。相手が打ったボールの微妙な音を、リョーマは適格に聞き分ける耳を持ってい る。テニスに対して動物的な嗅覚を持つリョーマは、その聴覚も動物的な良さを誇ってい る。耳のよさ、動体視力のよさは、テニスを離れた局面でも、遺憾なく発揮される。 「音が、聞こえたんだよね」 「音ってお前」 音なんて、何処に居ても聞こえてくるものだろう。それこそ、聞こえて当然になっている 音など、有り触れすぎて、意識にさえ入り込まないのが普通だ。 「あっちからさ」 スラリと長い指が前方を差し、リョーマは歩き出した。 周囲を彩る夏の緑。無造作に転がる枝が、足許でパキンと鳴る。 「越前、あんま奥行くなよ」 取りあえずの注意は必要だろうと声を掛けた所で、おとなしく桃城の注意など受け入れ るリョーマではなかった。 苦笑すると、桃城もまたリョーマの半歩後ろを歩いて行く。周囲は完全に緑に覆われ、 道のない道を、リョーマは躊躇いも見せず歩いて行く。その澱みのなさは、目的の場所を 心得ているとでも言うかのような歩き方だ。それはらしくなく、桃城の感傷を呼んだ。 夏の光を受け輝く緑。落ちる木漏れ日。降るように響く蝉の声。そんな光景達に囲まれ て、リョーマは歩いている。まるで其処に最初から在るべき姿だというかのように、リョー マの気配は周囲と混融する。リョーマの在るべき場所など、テニスコート以外には有り得 ないだろうに、リョーマは当然のように其処に居て、目的の場所を心得ているかのように、歩いて行く。その澱みのなさが、不意に桃城に一つの光景を思い出させた。 『上に、行くよ』 夏だといのうに、思い出すのは真冬の光景だった。 凍り付く程静謐な気配を滲ませ笑った姿。真冬の空気より尚凛然と佇み、空を見上げて いた綺麗な綺麗な生き物。手の中に閉じ込めておくのすら躊躇われる程、綺麗で愛しい 生き物。無機質な強さを知る事もなく、ただまっすぐ前を向き、歩く強さを持っている靭や かな魂。 「桃先輩」 「どうした?」 振り返って呼ぶ鮮やかな姿に、桃城は穏やかな苦笑とも自嘲とも判らぬ曖昧な笑みを 浮かべ、リョーマに近付いた。 「ホラ」 音の正体。そう笑ったリョーマの隣に立てば、樹木に囲まれていた視界が突然開け、遮 るもの一つない空間が広がっていた。それは果てしなく続く、空と変わりない無限を連想 させる。 「葉擦れか」 サラサラと流れていく風のカタチ。細い葉が擦れあい生み出される柔らかい旋律。 遮る物一つない視界に映るのは、緑の波だ。それはあたかも、無限を連想させる空の ように、終焉など無縁だというかのように、二人の眼前に広がりを見せている。 風のカタチはきっとこういう表現をされるのだろう。姿形は一切見えないのに、カタチを 与える力を持っている。 周囲を樹木に追われていた所為か、突然遮る物一つなくなれば、真夏の太陽が降って くる。けれど其処は観光地より奥の、若干高知にある所為か、真夏の照り付ける熱を運ん ではこない。ただ強い陽射が降り注ぐだけで、肌を嬲っていくのは、草叢を波立たせてい く清涼な風だけだった。 「すごいな」 静かな感嘆が、桃城から漏れる。 夏の光を浴び、サラサラと流れていく草叢の音。風によって引き出される、柔らかい葉擦 れ。それは誕生日より数日遅れでリョーマと見に行った、雨の海を桃城に思い出させた。 寄せて返す波の音。法則などないだろうに、一定のリズムを刻んで響く波音。波に切り 崩されて行く柔らかい砂の音。サラサラ流れる葉擦れは、不思議とあの時の波の音を連 想させるナニかが有った。 「海みたい」 リョーマも桃城と同じ感慨を持ったのだろう。逡巡なく言葉を繋ぎ、ゆっくり緑の波間に向 かって歩き出す。 夏の光を弾き、淡く輝く草の波。風に誘われ引き出される柔らかい旋律。細い草が擦れ あい、紡ぎ出される自然の音は、何処までも柔らかく耳を打っていく。 砕けていく波と変わらぬ旋律を刻む草の音。淡い光を波立たせる緑の波間に、リョーマ は立っていた。 『別に、綺麗なものだけ残したいなんて、思ってないから』 海に降る雨。晴れた綺麗な光景だけを見たかった訳でも、共有したかったのでもないの だと、リョーマは海を眺めていた。 砕けて行く波の音。半瞬遅れ、波間に切り出され、崩れていく砂の音。元々脆い砂の足 場は雨に濡れ、更に脆い足場となっていた。その脆い砂を踏みしめ、海岸沿いを二人で 歩いた。 それでも海に降る雨は綺麗で、生命を生み出すのはやはり海なのだと、莫迦みたいに 思った。 柔らかい自然の旋律。決して人口で生み出す事のできない音は、細い先端が擦れあい 生み出される葉擦れと同じだ。決して人口でこの音はでない。音響という便利な代物を用 いてみた所で、自然の紡ぎ出す音に適う筈はないだろう。 それはリョーマのような稀有な存在もまたそうなのだと、桃城は語られている気分にな った。 柔らかい草叢の中。リョーマは一人で立っている。それはあたかも、テニスコートに凛然 と佇むリョーマを連想させる。 見事な黒髪が、夏の陽射を受け淡く光る。その黒髪に縁取られた白い輪郭や、半袖の シャツから伸びる細く白い腕は、よりいっそうの白さを浮き立たせていく。フワリと風に舞う 綺麗な髪。慄える睫毛の陰影まで、桃城にはハッキリ見える気がした。 リョーマは、緑 の波の中。夏の空を見上げ、立っている。 身動ぎ一つしないその端然さは、身の裡に何かを蓄えようとするかのような綺麗な立ち 姿をしている。それは正月のリョーマの姿と重なっていく。 冬に感じた痛々しさより、より深い痛みを、身の裡の何処かに抱きこんでしまったかのよ うなリョーマの姿は、けれど憐れみなど一切無縁の場所で、一人で立っているのだと、桃 城に知らせていた。それはコートでは誰もが一人なのだという代物ではなく、戦場という 名の切っ先の上を、一人で歩いている孤高の姿だった。 柔らかくもない玉座と、茨の冠を手にいれる為、リョーマが背負う十字架は一体なんだ ろうか?桃城の内部に、フトそんな莫迦莫迦しい感傷が湧く。 愛しい程綺麗だと感じるその一瞬は、自分の腕の中で快楽と喪失に喘ぐリョーマである と思う反面。戦場というコートに立つ姿は更に綺麗だと感じてしまうから、桃城自身。リョー マの表面的な望みを叶える事などできなかった。できないのだという桃城の願いを、リョ ーマは知らない。だからこれから桃城が選ぶ道筋やその願いの在処というものを、リョー マは未だ知らずにいる。漠然と感じ取る部分で満足できないリョーマの不安定さを知って 尚。桃城は確定するまで安易な言葉を出す事を嫌った。 桃城への恋情と、切り捨てられないテニスへの熱。極自然に同居する、整然とした矛盾。どちらも当分に分け与えられているだけに、どちらか一つを選ぶ事のできないリョーマの苛立ち。そんな脆い場所を身の裡の局所に抱き込んで、それでもリョーマは一人で立っ ている。 『上に、行くよ』 スラリと伸び、示された場所。これからリョーマが歩く場所は、切っ先の上を歩くと変わり ない戦場だ。先へ行けば行く程鋭く細くなる脆い足場。 海に降る雨と変わりなく、雨と波を含んで崩れていく脆い砂と変わりない足場。 『あの子はね、ちゃんと判ってるよ』 優勝おめでとうと言われた後。桃城はこっそり不二に耳打ちされた。 『あの子は、きっと言葉なんて要らない子だから。テニスしてたら、きっと判るんだろうね。桃の言葉は。自覚がないだけで。桃が先回りして、自分を守ろうとしているのをさ』 そういう不二は、一体何時から、自分がこれから進むだろう道の有り様に気付いたのか、桃城に到底判るものは一切なかった。判っているのは、実際不二はそういう人間で、彼の天才性というなら、そういう部分こそなのだろう。決して手の内など見せないテニスと同じで、不二は自分の手駒など一切披露してはくれない性格をしている。 『桃が思ってるよりあの子は強くもないし、弱くもないよ』 随分矛盾した言葉だと思えた。強くもなく弱くなく。けれど実際、そんな脆さと極自然に 同居する矛盾を抱き、歩いてほしいと願ったのは自分なのだと、不意に不二の言葉に桃 城は思い出した。 やはり不二は不二なのだと、天才はある意味天災だと、桃城が苦笑したのは、全国大 会閉会式直後だ。 |