悪い男
act1











 其処に在るだけで美しいと、誰をも魅了し、だからこそ郷愁を誘う桜の季節は終わりを
告げ、今は初夏と呼ぶに相応しい、活力を象徴する季節が訪れていた。
 都内に設立されているとは思えない、広大な敷地面積を持つ青春学園の校庭は、つい
一ヶ月半前までは、薄い膜のように儚い薄紅の花が舞っていた。その中を、何処か誇ら
しげに入学してきた新入生達も、少しずつ中学生活に慣れてきたのか、入学当時は未々
小学生気分の抜けなかった彼等も、今は漸く中学生らしい顔付きになってきていた。
 小学生から見れば、中学生は、随分大人の世界に入り込んだ錯覚を最初こそ味わって
も、馴染んでしまえば大差などないと、気付くのも早いだろう。元々子供は大人より、環境
に適応する適応能力と柔軟性を持っているから尚更だ。
「練習終了!一年は、後片付け」
 初夏に向かう季節の中。陽の伸びた放課後のテニスコートに、桃城の声が高く響く。
その物言いが、先代部長だった手塚に何処か似ていて、リョーマはその声にこっそり笑
みを漏らした。
「お疲れさまでしたッ!」
 疲れてヨレヨレになりながら、それでも元気な声がテニスコートに谺するのに、桃城は部
長になっても以前と変らない笑顔で、見慣れた部員達の背後に立ち並ぶ、新入部員達を
眺めた。
 誰もが慣れない練習で疲れてはいるものの、疲れを辛さに顔に出している新入部員は
居ないから、桃城は笑顔を見せることができるのだろう。
 そんな桃城の横には海堂が並び、桃城の正面にはリョーマが立ち、桃城を眺め、薄い
笑みを漏らしている。そんなリョーマの笑みに、桃城は内心肩を竦め応えて見せる。きっ
と不二や英二が居たら、『バカップル』と呆れられていたに違いない光景だろう。
 押し隠す表情を読み、言葉のない会話を楽しむなど、十分バカップルとして通用するだ
ろう。けれど二人にそんな自覚はサラサラない。だからこそのバカップルだと言うのが、不
二と英二ばかりではなく、元青学レギュラー陣の共通認識だった。
 桃城が手塚から青学テニス部の部長職を引き継ぎ、数ヶ月が経過していた。新入部員
を前に、漸く部長らしさが板に付き始めてきていてはいるものの、一年生以外は、与えら
れた職務に、漸く慣れた桃城や海堂の姿を知っているから、苦笑と声援を送りつつ、適度
な揶揄も忘れない友情でもって、部長である二人を上手く立てている。
 当初こそ、何かと張り合おうとする桃城と海堂の二人で、テニス部を運営管理できるの
か、些かの危惧は有ったものの、張り合いつつも、テニスに掛ける情熱は互いに疑ってい
なかったのは、流石一年当時から張り合ってきたライバルなのだろう。周囲の危惧をよそ
に、桃城と海堂の二人は、案外上手く部を纏めている。
 青学は、元々文武両道、自由な校風を保ちつつも、全国でも随分レベルの高い私立の
進学校でもある。けれど勉強ばかりに力を注ぐことはなく、文武両道の名に恥じぬ、スポ
ーツでも有名な中学だった。その中でも、テニス部は全国区だ。まして昨年は全国大会
で優勝している、名実共に全国中学テニス界の頂点に立つ実力を持っている。だから新
入生の青学入学目的の一つには、テニス部に入部したいという生徒達も少なくはなかっ
た。
 そんな関係で、今年のテニス部は、昨年以上に入部希望者数が増加し、大所帯になっ
ている。けれど昨年、スーパールーキーと言われたリョーマ程、鮮やかな実力と技術を持
っている一年生は見当たらない。元々リョーマの実力は、顧問の竜崎以外は予想外の存
在で、リョーマのような天の才を持つ中学一年生が、そうそう転がっている筈はなかった
から、それは当然だろう。それでも、小学生低学年当時からテニスをしていますと言う、『テニス歴二年』という科白が、既に口癖になっている堀尾以上に、長い年数テニスをして
いる新入部員も、少なくはなかった。それでも、全国区のテニス部の練習に、即座に対応
できる程、スタミナも精神力も兼ね備えている一年生は、やはり少ない。一年生は、体力
を作る基礎運動から始めるものの、やはり全国の名は伊達ではないのが、青学テニス部
の練習だ。既に1ヶ月半の間に脱落していった数は、両手では足りない。足りない所か、
二周突入状態だった。
「越前」
 ヨレヨレになりながら、それでも練習後の整備や後片付けは一年生の仕事だ。誰もが
一年の時は、こうして練習後のコート整備や、後片付けをこなして行く。そうして体育会系
独特の縦割り構造というものを、躯で学習して行くのだ。それはスーパールーキーと言わ
れたリョーマとて、例外ではなかった。
 一年生は桃城の声に、燦々轟々練習の片付けに入った。
そして二年に進級したリョーマ達に与えられた仕事はと言えば、慣れない部活の一年生
への指導対応という立場だった。その善し悪しが、やはり後輩からの信頼というものに結
び付くから、疎かにはできない。堀尾など、『先輩』と呼ばれる嬉しさから、先輩風を吹かし、他愛いない軽口を叩きながら、一年生に作業を教えている。そんな様子を、『まだまだ
だね』と漏らし、その輪の中に入ろうとしていたリョーマの背後から、桃城が声を掛けた。
「何スか?」
 リョーマが振り返った視線の先で、桃城の視線は、リョーマを素通りし、華奢な姿の背後
に立つ新入部員達を眺め、そうして再びリョーマに視線が戻った。そんな桃城に、リョーマ
は呆れた笑みを見せている。
「ちょっとバァさんの所に行ってくるから」
「ああ、ランキング戦ね」
 青学名物と言われる校内ランキング戦は、実はリョーマの父親である南次郎が在学当
時から、竜崎が部員に課している、校内トーナメント戦だった。実力の有る者は、等しく機
会を与えるというのが、代々テニス部の伝統だった。もうじき、そのランキング戦を開始す
る時期だ。そして部長である桃城と、副部長である海堂は、そのランキング戦の組み合
わせも考える立場にある。今までのように、ランキング戦を勝ち抜き、レギュラーの位置を
確保し続けていればいい訳ではない桃城の立場を、リョーマは良く判っていた。手塚の後
を引き継いだ桃城の重責は、桃城時間から一切表に出されることはなかったが、判って
いるつもりだった。
 そんな桃城の姿に、懐かしいと言う言葉がリョーマの内側で漏れる。無自覚に漏れたそ
んな思いは、まるで身の裡の何処かから、不意に零れ落ちたかのようで、リョーマは酷薄
な口唇に淡い笑みを刻み付けた。
 否応なく先輩という立場になり、後輩を持つという意味を教えられた今だから、懐かしい
と思えるのかもしれない。身の裡から溢れたそれは、随分過去のものに思えるのに、昨
日のように思い出せる、鮮やかな時間だった。
 規則性も法則性もなく、ただ風に揺れる薄紅の花片の中。当時は随分憮然としていた
筈だ。自分の意思を無視して帰国させられ、その理由も一切明かされず、父親である南
次郎に、ただ恩師が居るという理由だけで、青学に放り込まれた。
 テニス後進国で有る日本で、学ぶものなど何一つないと思っていた。けれど実際は何一
つ違った。随分沢山のものを教えられ、与えられた。それは言葉に出せば出すだけ、安く
なってしまう程大切なものだ。
 今なら判る。何故南次郎が理由も告げず、帰国したのか。青学に入学させたのか、今な
らリョーマにも判る事だった。判った時。垣間見えたものは、戦場へと続く階段だった。結
局、テニスを棄てることなどできないと、理解させられた。同時に、もう決して手放せない
存在に出会ってしまった。


『上に行くよ』


 密やかな誓いのように、言葉に出して告げた道筋。何故あの時、言葉に出してしまった
のか、リョーマは今でも判らないでいる。未来は今日から明日へと連続される、不安定で
不確かなものでしかないと言うのに。まるで密やかな誓いのように、何故桃城に告げてし
まったのか? もしかしたら、それはただ単純に、知っていてほしかったという想いでしか
ないのかもしれない。
 桃城には、知っていてほしかった。桃城にだけは、自分が歩いて行く戦場に続く道を、
知っていてほしかった。
 この腕は屍を生み出し、足は生み出した屍を踏み付け、傲慢に歩いて行くのだと。綺麗
に守られている内側に宿る醜さを曝すように、桃城には知っていてほしかった。
 そして、本当は、知りたかったのだ。桃城が何処へ向かおうとしているのか。
 昨年全国大会終了時から、桃城のテニスは随分と変った。それが正月を境に更に変化
してきたのを判らない程、リョーマは鈍くなかった。テニスにかけては、動物的な嗅覚も洞
察力も持っているリョーマが、変化していく桃城のテニスを、見逃す筈はなかったからだ。
 けれど、急速に変化していくテニスとは裏腹に、桃城の内側は、一切見せてはもらえな
いものだった。
 それは拒絶とか、眼に見えない壁だとか、そういう代物ではなく、ただ単純に、見せて
はもらえないものだった。
 見せてもらえないその内側は、桃城なりの境界線なのだろうし、開放的な笑顔という名
の、盾と似ているのかもしれない。
 桃城はとにかく巧い。相手に手の内をすべて見せている気分を与える距離がひどく独特
で、それが相手に距離を感じさせない巧妙さは、悪党というより、詐欺師に近い。人はそ
ういった桃城の部分に気を許すのだろうし、容易に人を近付ける。けれどその本質は、簡
単に触れさせてはもらえないものだ。
 だからこそ、リョーマは知りたかった。急速に変わった桃城のテニスの意味を。変わろう
としている意味を。けれどそれは今でも、見せてはもらえない部分だ。だからこそ焦れて
いくのだと、餓えて行くのだと、知っていて尚。桃城は安易にその手の内を見せてはくれ
ない。だからこそ反対に判ってしまう。桃城の、その莫迦みたいな慎重さと、過保護さと。
大切にされている自覚は増す一方で、リョーマは益々餓えていくしかできなくなる。そして
やはり『悪党』という言葉が、脳裏を掠めて行く。


『俺は此処に居るから』

 与えられた言葉は、繰り言のようにそればかりだ。柔らかく優しい言葉と、綺麗なものに
紛らせ告げられる、等分に分け与えられる、厳しさと。


『お前は、お前の道を行けよ。俺は俺の道を行くから』


 その科白が意味する内側を、未だ見せてはもらえない。それは時折前触れなく、燃え
滓のように、リョーマの内側で苛立ちを募らせて行く。桃城の言葉の意味を知っている者
が居るとすれば、それは理不尽にも、恋人と呼ばれる自分ではなく、父親である南次郎
だろう。けれど父親に訊いた所で、桃城以上の飄々とした態度で躱されることなど判り切
っているから、訊こうという気もしなかった。
 桃城が向かおうとしている道は、漠然とでも判っているつもりだった。けれど明確な答え
を与えてもらえないそれに、リョーマは焦れることしかできないでいる。
「懐かしいだろ」
 リョーマの内心を正確に読んだかのような桃城の視線は、繊細に縁取られた輪郭を覗
き込み、深い笑みを滲ませている。
「相変わらず、空みたいな色だな」 
 覗き込んだ瞳は、相変わらず空を映したような、色素の薄い、綺麗な蒼を瞬かせている。
 出会った当時から変ることのないその色は、不思議と此処最近、削り出されていく水晶
のような透明度を増していくように見えるのは、下らない感傷なのか、桃城には判らなか
った。
 身の裡に眠れる獅子を飼う強さを秘めている筈のリョーマは、けれど時折、どうにも痛々
しい姿を曝け出し、脆弱な強さを抱き締め、必死に繋ぎ止めている印象が拭えない。
 別段、疵付かずに上手いこと折り合いを付け、テニスをしていく方法は幾らであるだろう
に。リョーマがテニスを選び取り、その道を歩いて行ってくれるのなら、切り捨てられる存
在でも構わないとさえ思う。けれど、リョーマは切り捨てることなどできず、必死に疵を抱き
締めている。それが時折身の裡を殺ぎ落としながら、切っ先を細くして静謐を増すかのよ
うで、痛々しさばかりが映る時が有る。そしてそれがリョーマには無自覚だから尚更始末
に悪い。
「桃先輩、その科白、飽きない?」
 思い出したように言う桃城の科白に、リョーマは肩を竦めた。
思い出したように言う科白ではあるが、1年も付き合っていれば、言われる回数は随分な
ものになっている。尤も、桃城に自覚などある筈もない。
 昨年の春。中学一年生とは思えぬ実力を持ってテニス部に入部してきたリョーマは、本
来なら、一年生は二学期になってからでしか参加できないランキング戦に、異例とも言え
る計らいで出場し、当時のレギュラーだった乾と海堂を破り、一年生で唯一のレギュラーと
して全国大会に出場し、見事勝利を納めている。
 その全国大会で、リョーマの実力は高く評価され、特待生として、随分引き抜きが有っ
たことも、知らない桃城ではなかった。けれどそのどれにも、リョーマが頷く事はなかった。
 世界ジュニアーカップと言われるスーパージュニーアワールドにも、JTAから選抜され、
けれどリョーマは理由も告げず、それを辞退している。
 当時何故リョーマが辞退したのか、様々な憶測が飛び、JTAを泣かせはしたが、けれど
リョーマは口を閉ざし沈黙を守り続けていた。そんなリョーマの態度に、その理由を薄々感
じていた桃城も、当時のリョーマが何故選抜を辞退したのか、今なら察する程度の理解
はできているつもりだった。
「懐かしいっスよ。あんた俺に嘘教えたし」
 覗き込むように笑い掛けてくる桃城に、リョーマは意味深な笑みを覗かせる。
 桃城とのファーストコンタクトなど、思い出せば、最低な部分ばかりが思い出されるのは
仕方ないだろう。そのへんは、桃城も判っているのだろう。リョーマの悪意のない科白に、
面白そうに笑っている。
「おかげで、俺の事、ちゃんと認識できたろ?」
「後から思い付いた理屈だよね、ソレッて」
 桃城の第一印象など、思い出せば、最悪な思い出しかない筈だというのに、もう今では
決して失えないと思える。
 テニスコートへの道は嘘を教えられ、辿り着いたテニスコートでは、先輩風を吹かせ、新
入部員をカモる荒井達に出くわし。つい数日前までは自分達も一年生だったのも忘れ、
愚を冒している荒井達を実力で捩じ伏せた。それこそ実力が全ての世界で、先輩後輩と
いう区分など、当時のリョーマには必要のないものだった。そんな時、やはり先輩風を吹
かして現れた桃城に、リョーマが良い印象など持つ筈もなかった。
 けれど気付けば、誰より一番近くに居た。近くなった代償に、そんな男に身を喰う程餓え、回帰されたいと願う程求め。そんな感情など、生涯自分には縁のない代物だと思っていた。そんな感情に気付かされ、覚えされらせ。女を知るより早く、男を覚えさせられた。
きっとこれから先。桃城以外の人間と、肌を重ねる事はないだろうと確信している自分の
内心に、リョーマは時折どうにもならない衝動を感じているのだと、きっと桃城は知らない
のだろう。それは悋気であったり、身を揉む焦燥であったり、取り留めのないものばかり
で、言葉にするには些か困難なものばかりだ。
「忘れてないから。あんたがサイテーなナンパな科白、口にしたこともね」
「………越前〜〜〜」
 シレッと言っては笑うリョーマの科白に、桃城はガクリと脱力してみせる。
「あんたがどうしようもない臆病もんの詐欺師だってこともね」
 脱力する桃城を眺め、リョーマは、だからそんな態度が詐欺師なんだよと、可笑しそうに
笑っている。
 きっとこういう気安い笑顔が、女にモテル要因なのだろう。無駄に優しい男は天性の詐
欺師だが、それでも、桃城は決して不誠実な恋人ではなかったから、告白される回数分。『恋人が居るから』と断り続けているその対応に、今では校内で、桃城に名前も明かさ
ない秘密の恋人が居ることを、知らない生徒はきっと存在しないだろう。


『お前、この際だから、俺と付き合ってみねぇ?』

 そんなふざけた科白で始まった関係は、気付けば抜き差しならない距離まで突き抜け
ていた。ふざけて始まった関係だから、ちょっといけない関係を繋ぐ、子供の火遊び程度
で、最初の第一段階は、乗り越えてしまった面は存在していた。その所為か、リョーマが
初めて雄を受け入れ、桃城が幼い胎内を開いたのは、随分早い時期だった。
 だからこそ、互いの内部でその存在がカタチと重さを伴った時。互いに近付いてしまった
距離が怖かった。
 ふざけて始まった関係。それだけに気楽に付き合っていける筈だったその距離は、意
図する部分の外側で、当人達の思惑など、あっさり乗り越えてしまっていた。
 そうと気付いた時。その怖さと向き合うこともせず、逃げ出してしまえる程、二人は互い
の存在を簡単には考えられなくなっていた。あの時どちらかが、その怖さに向き合うこと
なく逃げ出していたら、二人の関係はただの先輩後輩という関係に戻り、何事もなかった
かのように、無機質な関係を続けていただろう。
「頼むな」
 トレードマークの白い帽子の上からポンッと叩くと、桃城の視線は再びリョーマの背後に
伸びた。
 リョーマの背後では、新二年生に進級した堀尾を中心に、新入部員がコート整備やネッ
トの片付けをしている。『テニス歴二年』というのが口癖の堀尾も、最近では、後輩を持つ
という意味を少しでも理解してきたのか、相変わらずの軽口を叩きながら、結構マメに後
輩の面倒を見ている。
「自信持ちなよ」
「ってもなぁ」
「部長、言ってたじゃん」
 自分は自分のやり方でテニス部を纏めてきたから、桃城と海堂は、自分達のやり方で
部を纏め、導いていけと、そう言っていた手塚は、今はリョーマより一足先に、世界へと歩
いて行った。面白い事に、氷帝の跡部も一緒にテニス留学しているのには笑える事実だ
ったが、あの二人は、きっと生涯のライバルなのだろう。それは昨年の関東大会の二人
の試合を観ていれば、疑いようなどない気がした。ライバルとは、ああいう姿なのだと、リ
ョーマが痛感したのは、去年の手塚と跡部の氷帝戦の一幕だった。
 自分のライバルは、一体誰だろうか?
リョーマの視線が半瞬、泣き出しそうに歪められたのを、新入生を見ていた桃城は、気付
かなかった。
「だから余計に、そう思うんだよ」
 カリスマと、確かな実力を備えた手塚の後を引き継ぐのは、生半可な精神力では勤まら
ない。大抵は比較される懸念とプライドで、立ち行かなくなる。けれど桃城は、本人に自覚
がないだけで、器用に部員を纏めている。
「あんた部長、尊敬してるんでしょ?」
 今は桃城が部長だというのに、二人の間での手塚の名前は、既に『部長』というのが、
固有名詞化している。その事実に、けれど二人に当然自覚はなかったが、手塚が聞けば、眉間に皺を寄せるのは間違いないだろう。
「そりゃ当然だろう?」
 高校級と言われた手塚の実力もさる事ながら、その精神値は絶対に適わないと思う桃
城だった。
 『部長』と『柱』という二本を、手塚は一人で背負ってきたのだと思えば、自分には到底
真似のできないものだと、思い知るばかりだ。思い知れば、薄く細い背に『柱』というもの
を背負わされたリョーマに対し、やはり幾許かの傲慢な感情が湧いてしまうのも自覚して
いる。
 桃城にしてみれば、当人の意思を無視して与えられたリョーマの天性の才は、時折どう
にもリョーマを疵付けてばかりに感じられて仕方ない部分が存在していた。だからリョーマ
が『青学の柱』という重責を背負うその意味に、時折痛々しささえ、感じてしまうのだ。それでも、テニスを棄てるのは許さないのだから、大概自分勝手な傲慢さだと、桃城は苦笑
する。
 踏み出した一歩の価値とその重さ。遠くない将来。その一歩が生み出す黄金の価値を、桃城はよく判っている。だからこそ、その天の才が、少しでもリョーマに優しいもので有
るように、そう思わずにはいられなかった。これから疵付くことが多いだろうリョーマに、少
しでも優しいものであるように。傲慢な願いだと自覚して尚。桃城は願うのをやめられな
いでいる。
 どうか傷つくことがないように。そう思う反面。隠すことなく疵を曝け出してほしい、そう思
う。そうして、戦場に等しい場所を歩いてほしい。何よりリョーマが綺麗に映る場所に回帰
されるように。躊躇いなく、その綺麗な鉄爪を振り下ろす場所へと、回帰するように。
「だったら、信じなよ。桃先輩なら、『部長』として、テニス部を纏めていける。導いていける。そう言ってくれた部長の言葉を。あんたが信じなくて、どうするのさ?」
 全面的に自信がなければ、手塚からの言葉にも、桃城は首を縦に振らなかっただろう。
 きっと桃城が思うのは、自信とは少し趣が違うのだろうと言うことは、リョーマにも判って
いた。
「俺は柱になれって言われた。でもあんた判ってる?柱に必要なのは、土台だって」
 自分一人じゃ、部長などやってはいけなかった。そう苦笑した手塚の科白を、珍しくも苦
笑した手塚の表情を、リョーマは明確に記憶している。そして柱にも土台が必要だと笑い
ながら不二が告げたのは、丁度一年前、桃城がレギュラー落ちして、復帰した日のことだ
った。
「その部長が託したものが、判らないあんたじゃないでしょ?」
 皆が居たから、自分は泰然とした顔で、部長をしてこれた。旅立つ手塚が、リョーマと桃
城に残した言葉だった。
「そうだな」
 託されたもの。言葉ではなく、より大きく大切なものを託されたのだと、判らない桃城で
はなかった。
 自分らしい部を気付いていほしい。手塚のその科白に、嘘はないのが判る。だから気負
いはやめようと、桃城は思ったのだ。
「判ってるんなら、そんな表情してないで」
「どんな表情だよ」
「俺以外に、見せなくていい表情」
 他人に見せる盾のような笑顔以外、桃城が自分以外に見せる必要はないのだと、リョ
ーマは悪戯気に笑う。
「ったく」
 リョーマらしい科白に、桃紙は幅広い肩を竦め、苦笑する。その苦笑に、リョーマは内心
苛立たしげに、舌打ちする。
 此処最近、桃城の苦笑は深いものを滲ませていく。それがどれ程大人びたものを滲ま
せているのか、きっと桃城に自覚などないのだろう。だろうと思えば、胸の奥を焦がす想
いに、リョーマはついつい下品に、悪党と舌打ちしてしまうのだ。
「今日、俺ん家来るんでしょ?」
「いつそうなった?」
「今。母さんアメリカ言ってるし、親父は寄り合いだとかで、どうせ帰ってこないだろうし」
 リョーマの母親は、日本進出しているアメリカ企業の、渉外法務担当の渉外弁護士だ。
けれどその堅苦しい肩書きとは裏腹の、おっとりした容貌に、破天荒な性格を桃城は知っ
ていた。そしてそんな母親だから、よく仕事でアメリカに行き、不在が多いことも桃城は知
っていた。そして父親の南次郎は、いつ取得したのか判らない僧籍を持ち、寺の仮住職
をしているから、檀家の集まりだ、近所の寄り合いだとよく留守にする。そして同居中の従
姉妹の菜々子も、将来リョーマの母親である倫子のような渉外弁護士になりたいと、倫子
にくっついて渡米していた。互いに離れている時間も多い中。それでも巧く夫婦として機
能しているリョーマの両親は、互いに信頼しあっていると言うことなのだろう。
「お前本当、我が儘だな」
 物理的距離など無関係に、精神的距離は離れていない南次郎と倫子のように、自分達
は何処まで行けるだろうか? 
 リョーマの空色の瞳を覗き込む視線が、フト何とも言えない様子で翳ったのを、リョーマ
は見逃さなかった。けれど此処でそれを突っ込むつもりは、サラサラなかった。訊いたとこ
ろで、桃城からは、誤魔化された答えしか帰ってこないのを、判っているからだ。
「その我が儘が大切なんだから、いいんじゃない?一年生ばっか相手してないで、たまに
はちゃんと俺の相手してくれても」
「俺がいつ、お前の相手、疎かにしたって?」
 ヤレヤレと、深々溜め息を吐く桃城だったが、溜め息は緩やかな深い笑みばかりだった。
 所詮二人のこんな会話は、言葉遊びでしかないのだ。きっと互いに自覚して、遊んでい
るのは疑いようなどないだろう。元レギュラー陣が観ていたら、やはりバカップルと、叫ん
でいたに違いない。
「俺もかなぁり、色々我慢してたって判ってる?」
 部長になった桃城には、新入生を指導し、夏の全国大会に向けての調整等、今までた
だ単純にランキング戦をこなし、レギュラーの位置を確保し、試合を勝ち抜いていけばい
いという、単純な立場ではなくなってしまった。
 そんな桃城の立場を判っているから、リョーマはリョーマなりに、挑発もしないでいたの
だと、桃城にだけ見せる、情事の最中の淫蕩さを刻み付け、リョーマは妖冶な笑みを見せ
た。
「越前〜〜〜お前も、そういうのは、俺の前でだけにしてくれ」
「あんたの前だけでしょ?」
 一年生は二年生の指導の元、燦々轟々コートに散らばり、後片付けに散っている。
三年生は、既に部室に戻って居る者も多いから、二人の周囲に他の部員は存在しなかっ
た。
「お前の家行くのはいいけど、一回俺ん家寄るぞ」
「なんで?」
「お袋に言ってなかったしな」
「フーン」
「それにお前お袋のお気に入りだかんな。たまには連れてかないと、うるさいし。きっと夕
飯食ってけって言うと思うぞ」
「それって、そのまま桃先輩の家に泊まってけって、言われそう」
 桃城の母親は、リョーマの母親である倫子とは正反対の、何処か凛としたたたずまいを
している女性だったが、その性格は、リョーマの母親と大差ないものだった。きっと夕食ま
でご馳走されたら、泊まっていけと言われるのは、今までの経験上リョーマは理解してい
た。
「あんた早くオバサンとこ行ったら?長く待たされたら、俺帰るっスよ」
 そう言うリョーマは、けれど今まで一度として、桃城を残し、一人で帰宅したことはなかっ
た。過保護に甘やかされているリョーマはリョーマになりのやりかたで、桃城を甘やかして
いる。そういうことなのだろう。
「判ってるよ」
 そして桃城も、年下のリョーマに、甘やかされている自覚はあったから、苦笑すると、ポ
ンッと白い帽子を軽く叩くと、
「んじゃ、後よろしくな」
 コートを出て行った。
「本当、悪党……」    
 たった1歳の差。されど1歳の差を思い知るのは、いつだってこんな些細な局面でだっ
た。
 リョーマはボソリと呟くと、半瞬だけ何とも言えない視線を垣間見せ、桃城の背を見送っ
た。
 夕刻に伸びる長い影。桃城を見送った視線が、足許に伸びた。立ち尽くしている影は、
一体誰のものだろうか?
 苦笑すると、リョーマはコートに散る一年の元に向かった。














 欠食児童のような部員達が、帰りに何処かに寄って行こうと、燦々轟々、賑やかに部室
を後にして、30分程度の時間が経っていた。
 桃城を待つ間、遅くなったら帰るというリョーマの科白が、今まで実行された試しは一度
とてない。なんだかんだ言いながら、リョーマは最後まで桃城を待っている。大抵練習の
緊張が解かれる所為か、部室の奥に設置されているベンチで居眠りしているのが概ねだ
ったが、今は手持ち無沙汰に、桃城のロッカーから引っ張り出してきたテニス雑誌を読む
ともなく、眺めている。雑誌を眺めているのにも、丁度飽きてきた時だ。
 不意に部室の扉が開くのに、思っていたより早かったなと、読むともなく、視線を落して
いたテニス雑誌から顔を上げたリョーマは、けれど其処に思いがけない人物を認め、怪訝
な表情をして、現れた人物を出迎えた。
「アレ〜〜〜オチビ一人?」
「やぁ」
「久し振りだね」
「………なんで」
 少しだけ憮然としたリョーマの声に、不二は可笑しそうに莞爾と笑い、英二がやはり楽し
げにリョーマを眺めた。乾は相変わらず表情の読めない眼鏡越しで、笑っているのが伺え、リョーマは益々怪訝な表情をする。この三人が揃うとろくなことがないのは、彼等との1
年の付き合いで学習しているリョーマだった。
「なんだはないだろう?可愛い後輩達が、どうしてるかと思って覗きにきてやったのに」
 とは、嘘も方便な英二の科白だと、気付かないリョーマではなかったから、見ていた雑
誌を閉じると、呆れた視線を英二へと向ける。
「先輩達こそ、部活はどうしたんスか?」
 隣接している高等部へ進学した手塚以外の元レギュラー陣が、中等部以上に練習の厳
しい高等部のテニス部で、普通なら、中等部の終了間際等に訪れられないことを、リョー
マは知っていた。
 リョーマは二年になり、新入生が入って今までしてきた練習後の後片付けなど、一年の
仕事になっているが、逆に言えば、元レギュラー陣は高等部では一年だから、当然それ
らの仕事が回ってきていることをリョーマは知っていた。それを考えれば、元レギューの三
人が、この時間帯、此処に来られる時間は限り無く少ない筈だった。
「今日は特別に、早く終わったんだよ」
 莞爾と笑う不二の科白に、他意は感じられなかったから、本当に早く終わったのだろう。 
「それに、高等部は中等部と、若干システムが違っていてね」
 表情の読めない抑揚を欠いた乾の声が、応えた。
「そんで遊びにきてやってみれば、もう練習終わってるし」
「それはお互い様っスよ」
「桃は、海堂はランキング戦の打ち合わせかい?」
 取り敢えず疑問符を付け訊いてくる乾は、けれど確信犯だ。
「そうっス」
「案外オチビも健気だにゃ」
「なんスかそれ?」
 何処か茶化した英二は、リョーマの隣に腰を落した。
去年10月で実質部活を引退した英二達は、時折フラリと現れては後輩の面倒を見てい
たから、結局高等部に進学する春先までテニス部に顔を出していた。それでなくても3年
間通った部室で、今更物怖じする面子は、此処には存在しない。
「ん?言葉通りだよ。桃の秘密の恋人は、勝ち気で負けず嫌いで、彼氏には相当甘い」
「………それ、共通認識なんスか?」
 楽しげに笑う不二に、リョーマは思い切り嫌そうに攅眉する。不二がこういう表情をして
いる時は、どうせろくなことではないのを、リョーマもいい加減学習していた。
「少なくとも、高等部で桃の『秘密の恋人』説は、知らない女子が居ない程度には、共通
認識みたいよ?」
 実際、不二達も、中等部ではいい加減桃城がこと有るごとに告白され、それをまた誤魔
化しもせず『恋人が居るから付き合えない』と綺麗に告白を断ってきて以来、校内で流れ
てしまった『桃城には秘密の恋人がいる』やら『なんでも相当溺れている恋人がいるらし
い』やら言う噂は聞き慣れてしまってきものの、まさかそれが高等部でも有効だと、関知し
てはいなかったから、高等部に進学し、ことの真相を尋ねられるに至り、桃城の『秘密の
恋人』説は、何も中等部だけの噂ではなかったのだと知ったのだ。それも進学して早々だから、笑うに笑えない。
「桃もオチビと付き合い出して、明確に恋人同士になってからは、そりゃアタックしてくる娘
に辟易して、恋人がいるって誤魔化さなかったもんな」 
「まぁ、それも、散々学習してきた結果、って所みたいだけれどね」
 英二と乾の科白に、リョーマは憮然となる。それはリョーマも知っていた事だ。
 最初桃城は、告白されれば、ただ単に断ってきた。けれど理由も聞かされず、納得する
女子は殆どいない。大抵の女子は、好きな子が居るのかと詰め寄ることが多かった。
今時告白をされ、理由も聞かされず断られるのに、納得する女子も居なければ、泣き出
す女子も居ない。泣き出すとすれば、泣き落としと同義語の意味を持っている。そんな状
況に辟易した桃城が、最終的に持ち出したのが『付き合っている恋人が居る』というもの
だった。けれど決して恋人の名前を明かさない桃城の断り理由に、いつしか流れたのが『秘密の恋人』説だった。
 実際桃城は、雑踏の賑わいのような開放的な笑顔と性格から、かなり女子にモテてい
た。それも同じ中等部だけではなく、高等部や、周辺近隣の中学や高校の女子にも人気
が高かったのを、知らない面子は居ないだろう。少なくともリョーマと出会う以前の桃城は、そういった女子や、揚げ句に近所の大学生などと、友達以上の関係を築いていたのを、知らない面子もまた存在しなかった。尤も、精神的に自立した女が好みの桃城だから、中学生と付き合うことはなかったというのも、彼等は知っていた。その桃城が、リョーマを真剣に想っているのも、考えれば、不思議だと、英二達は、思わずにはいられないのかもしれない。
 少なくとも桃城は、精神的に自立した年上の女が好みで、甘やかされまくっていたのは
事実だから、その桃城が、眼に入れてしまっている程、リョーマを甘やかしまくり、過保護
にしているのも、甘やかされてきた結果なのかもしれないと、彼等は近頃気付いたものだ
った。
「この前断った女子からは、なんかとんでもない痛手受けたらしいし」
 乾の科白に、途端リョーマはその時を思い出したのか、繊細な容貌に、渋面を刻み付け
た。
「大した度胸の娘ではあると思うけど。頭のよいやりかたではなかったね」
 高等部まで伝わったそれは、聴いた瞬間、不二達には、ことの真相は愚か、訪れるで
あろうラストまで予想できてしまう代物だった。リョーマ絡みで桃城が見せる怒りの有り様
というものを、彼等はよく心得ているということだろう。
「桃の事だから、どうせ怒鳴り付けるなり、喚くなりされた方がマシってやり口で、封じ込め
たんだろうし」
 肩を竦める英二の科白は、事実を的確に言い当てたものだった。確かに桃城は、頭の
悪いやり口で、告白を断られた女子の報復にも似た行いに、理性的な冷静さで、対応し
ていた。
「怖かっただろうねぇ」
 呑気な不二の科白は、英二同様的確なものだろう。
「自業自得っスよ」
 憮然とした表情を隠すことなく、リョーマは淡如に告げる。
「その様子だと、頭の悪いその子が、どんな報復受けたか、知ってるんだ」
「想像くらい、付きますよ。普段莫迦みたいに明るい笑顔のあの人から笑顔消し去ったら、見慣れてない分、そりゃ怖いでしょうから」
 訊かなくても、リョーマには判ることだった。
桃城が他人に接してる面は、気安い開放的な笑顔だ。その桃城が、笑顔を消し去った冷
静さで接すれば、見慣れていなければ、足許が掬われる気分に陥るだろう。
「ってことは、オチビは見慣れてると」
「俺にしか見せない顔。見せたのは面白くないっスけどね」
 英二の科白に、リョーマは半瞬、苦々しげな貌を見せた。とは言え、それはリョーマに見
せている真摯な桃城の本質とは、遠く掛け離れているのを、リョーマ自身知っている。
「オチビも、成長しちゃったんだね」
 さめざめ泣き真似をする英二に呆れた表情をし、次にリョーマは酷薄な口唇に、意味深
な笑みを刻み付けた。
「先輩達が高等部で早々にやらかした悪行も、中等部にも伝わってるって、判って言って
るんスか?」
「さぁて、悪行なんて言われる何かを、やらかした覚えはないが」
 きっとこの場に海堂が居たら、『あんた自覚ないのか?』と叫ばれるに違いない乾の科
白だった。
「乾先輩、高等部で早々乾汁飲ませて、屍の山築いたって、聴いてるスよ」
 乾が高等部に進学し、漸く乾汁と縁を切れたと思っていたリョーマ達は、けれどその目
算が甘いのを、早々痛感させられてもいた。何故かと言えば、それは至極簡単なものだ
った。
 乾は、こと有るごとに中等部に現れては、桃城や海堂に、練習メニューの微調整をして
やっているからだ。その関係で、新入部員である一年生も、乾汁の驚異は身をもって体
験させられた始末だ。
「今月のランキング戦で、早々レギュラー入りして、今までのレギュラー陣蹴落として、入
れ替えしたって言うじゃないスか」
「それは別に悪行じゃないだろ」
 人聞き悪いぞと、英二が拗ねた様子で頬を膨らませる。その仕草は、到底リョーマより2
歳年上には見えない英二だった。
「中等部と違って、高等部は一年も新入当時からランキング戦参加が義務づけられてる
からね」
「そうそう、まして部長が大和部長となれば、大石なんて、もう副部長補佐とかなんとか言
われて、マネジメントさせられて大変なんだぞ」
 元副部長の大石は、そのマネジメント能力を知る部長の大和に、早々に色々雑務を受
け持たされているらしいというのも、リョーマや桃城には伝わってきていた。
「高等部は、中等部と違って、レギュラーは、練習後の後片付けは、免除されてるからね」
 中等部では、体育会系の縦割り構造を学ぶ為、レギュラーと言えど、リョーマも練習後
の後片付けを免除されることはなかった。けれど高等部は1年生5月からランキング戦が
義務づけられている。その理由は、中等部とは違い、更に実践的な選手としての責任と
言う意味を持っていたからだ。
 だから一年と言えど、レギュラーは練習後の後片付けなどは免除されている。其処に求
められているのは、中等部の体育会系の縦割りではなく、選手としての実践的な縦割り
を求めているからだった。そこには、先輩後輩と言う落差はなく、純粋にテニスの強さを求
められるものだった。
「大和部長、あの人も、よく判らない人っスね。時折ウチに来て、親父と一杯やってますよ」
 かつて手塚達が中等部1年生当時、3年でテニス部部長だった大和祐大は、現在高等
部テニス部部長になっている。その大和は、フラリとリョーマの家に現れては、『お気遣い
なく』と、訳の判らない科白で持って上がり込み、リョーマではなく南次郎を相手に晩酌に
付き合っている人物だ。
 リョーマが大和と出会ったのは、去年の都大会決勝戦の氷帝戦終了後のことだった。
訊けば父親は、随分昔に幼い大和に会っているという。理由は、悪友の子供ということら
しいが、リョーマに父親である南次郎の言う、悪友とやらに面識はなかった。
 以来大和は、リョーマの家に来ては、リョーマ相手ではなく、南次郎相手に何ごとかをや
っているらしい。尤も、南次郎と付き合える飄々さを持っている大和に、リョーマが近寄り
たい筈がないのは、言うまでもないだろう。
「ハハハ、大和部長らしいな」
「あの人、越前南次郎の大ファンらしいし」
「嬉しくないっスよ」
 これ以上周囲に、不可視の領域を持つ存在など居るのは御免だと言うのが、リョーマの
素直な吐露だっただろう。リョーマにとって大和は、桃城と大差ない曲者だったから尚更
だ。
「んで、彼氏は?」
「………って、誰っスか?」
「そりゃオチビの彼氏ったら、桃の事じゃん」
「桃城部長なら、オバサン所です。ランキング戦の打ち合わせ。乾先輩の言った通りっス
よ」
 英二の何処か茶化した笑いに、リョーマは憮然となりつつ、反駁を試みる。
「ったく、素直じゃないにゃ」
「こうして一人待ってるのに」
「乾先輩が用事有るのは、桃先輩じゃなくて、海堂先輩じゃないんスか?」
「心外だなぁ。俺は可愛い後輩の顔を、見に来ただけだよ」
 抑揚を欠いた乾の声からは、きっと心外など思ってはいないのが伺えた。
「オチビさ」
 部室の隅に有る小さい椅子に座っているリョーマに、英二がベンチからピョンと飛び跳
ねる威勢で立ち上がると、リョーマの正面に立ち、不意にリョーマの左手を掴んだ。
「菊丸先輩?」
 不意に掴まれた手に、リョーマは一体何事かと英二を仰ぎ見る。其処には思いの他、真
摯な眼差しをした英二がリョーマを凝視していた。
「オチビは、今の想いのまま、桃の手を離したら、ダメだぞ」
「菊丸先輩?」
 真摯な声と眼をしている英二の科白に、リョーマは意味が判らないと、キョトンと小首を
傾げた。
 けれどリョーマは知らないのだ。昨年の桃城の誕生に、同じ科白を、英二が桃城に言っ
ているのだと言うことを。それを知っている不二は、だからクスクスと英二らしいよと、笑っ
ている。
「桃は、何より誰より、君だけが大切だから。お互いにその想いのまま、その手を離さない
方がいいよ」
 これから色々な部分で、手を離さなくてはならない事態に直面するだろう。けれどきっと
離れたら、二人は生きていけない気がするのだ。
 実際人は誰かを失ったら、生きていけないなどというのは、お手軽な小説やマンガの中
だけだろう。人は誰かを失っても、後追いでもしなければ、生きていくしかできない生き物
だ。けれど精神的な部分で、壊れていくのは有り得ない話しでもないだろう。
 リョーマは自覚している以上に、不二や英二達には、桃城と関係を持った時から、その
変化が鮮やかで、時折それが見ていて怖くなる時があるのだと、言葉には出さない部分
で、彼らは思っていた。だからこの後輩の、幼かった筈の恋が、いつの間にか子供の恋
では満足できなくなってしまったのだろう有り様を、見守っていこうと決めていたのだ。
「不二先輩は?」
 英二の隣で穏やかに笑う不二に、リョーマの視線が伸びた。不二を見上げた視線が半
瞬揺れた自覚は、リョーマにはないのだろう。けれど不二に気付かない筈はなく、短い言
葉に込められたその問いの意味が、判らない不二ではなかった。けれど不二は穏やかに
笑っただけだった。その笑みに、リョーマは不二の強靭さを見た気がした。
 春未だ早い3月初旬。卒業式と同時に異国へと旅立っていた手塚に、不二がどんな想
いを抱いたのか、リョーマには判らない。手塚がどんな想いで、不二を残して異国へと旅
立つ勇気を持てたのかも、リョーマには判らない。判っている事は、手塚と不二は、何処
までもその姿のまま、歩こうと決めている強さを持っている。そんな程度のものだった。
 自分達は、一体何処まその手を離さず歩いて行く事ができるのか?半瞬無自覚に揺ら
いだリョーマの眸に、気付かない不二や英二ではなかっただろうから、穏やかに笑っただ
けだった。
「愛が有れば、大丈夫だにゃ」
「………菊丸先輩、聴いてて恥ずかしいっス」
 得意満面な顔をして笑う英二は、とても2歳年上には見えない無邪気さを持っている。
英二の脳天気とも思える明るい声に、リョーマはガクリと項垂れた。
「まぁ、真実って言えば、真実かもしれないな」
「………そんな真実、嫌すぎです」
 乾の科白に、リョーマは長い溜め息を吐き出した。
「桃の『秘密の恋人』って言われてるオチビなんだから、大丈夫なんじゃない?」
 半瞬真摯な眼差しをしてリョーマの手を握った英二は、今はもうリョーマの知る表情をし
て笑い、ネコのような身軽さで、リョーマの隣に再び腰を落した。
「そう言えば、前から一度訊きたかったんだけどね」
「……不二先輩がそう言う時は、どうせろくなことじゃないのは判りきってるんで、聴きたく
ないです」
「越前も、成長したもんだな」
 不二に反駁するリョーマなど、1年前なら想像が付かないものだった。
「『秘密の恋人』って言われるのは、どんな気分だい?」
「………どんなって…」
 不二の言外が読めず、リョーマは少しばかり戸惑い、綺麗な横顔を眺めた。
 桃城の『秘密の恋人』説が出回って、とんでもない勢いで校内を流れたのは、去年の秋
のことだ。以来その噂は不思議と消えることなく、今も続いている。それはそれだけ、桃
城の告白される回数の多さを物語っているものだろうし、戯れで終わらせられない距離を、二人が意識した時でもあったのだろう。
「例えば、嫌だとか」
「反対に、嬉しいとか」
 莞爾と笑う不二と、ネコのような眼をして、興味津々に眺めてくる英二の二人に挟まれ、
高等部に進学しても、タチの悪いのはどうやら変わらないらしいと、リョーマは深々溜め息
を吐き出した。
「嫌も嬉しいもないっスよ」
「なんで?」
 不思議そうに訊いてくる英二に、それこそリョーマは不思議そうな表情を造った。
「秘密って部分がね」
「なんでも公言すればいいってもんでも、ないんじゃないんですか?」
「余裕だね」
「それこそ愛があれば、じゃ、ないんですか?」
 柔和に笑みを湛える不二に、リョーマはシレッと口を開いた。
「まいったね」
 乾の苦笑が漏れる。
「あの人が、俺のこと莫迦みたいに慎重に扱ってるの判ってるんで。別にどう言われても
構わないんですよ」
「おやおや」
「………まさかオチビに惚気られるとはね」
「聴きたいから、訊いたんじゃないんスか?」
「オチビ生意気」
「コート内で、ナチュラルに惚気る黄金ペアよりマシです」
「言うね」
「あの人に言わせれば、眼に入れても痛くないの、通り越してるみたいだし。大事にしても
したりないっての、口癖だし」
「オチビ〜〜〜〜」
 シレッと惚気るリョーマに、英二はめげていた。
「こんな子に、育ては覚えないぞ」
「育てられた覚えも、ないっスよ」
「そういえば、越前も女子に色々告白されてる見たいだけど」
 全国区の青学テニス部レギュラーで帰国子女。繊細な輪郭に縁取られた綺麗な面差し。一部のファンから、『テニスの王子様』と囁かれているのも、あながち嘘ではないテニス
の実力。そんなリョーマが、当然女子にモテない筈はなく、桃城には及ばないまでも、女
子に告白されている回数は、同学年の男子とは比較できない数がある。
「別に。テニス以外、興味ないって断ってますから」
「桃とは、正反対だな」
 テニスから離れた局面でのリョーマは、未だ性的な部分など無縁のストイックさが有る。
テニス以外興味がないというリョーマの理由も、桃城との関係が知らない者から見れば、
ある意味納得できる部分なのかもしれない。ましてリョーマは、桃城と違い、明け透けな
気安さは微塵もないから、一本調子の声で断られたら、それ以上の押しは困難なのかも
しれない。 
「そんなのいちいち気にする狭量してたら、俺とは付き合えませんよ」
 現に桃城は、『お前らしいよ』と鷹揚に笑うだけだ。
「まったく」
 可笑しそうに、不二が笑う。
子供の恋ではいられない自覚は、リョーマの何処まであるのだろう?見ていれば、リョー
マの桃城に寄せるものが、もう随分姿を変えていると判る。けれどそれがリョーマの内側
の何処まで自覚されているのかとなれば、話しは別だ。
「詐欺師でタラシで悪党だけど、俺に不誠実じゃないのは判ってるから、それだけで今は
納得してますよ。慎重すぎるのは、癪になるし、何か確実に企んでますけどね。どうせ訊
いても応えないの判ってるんで、今はそれで納得してます」
 取り敢えずはと、リョーマは苦笑とも自嘲とも付かない曖昧な笑みを見せた。不二達は、
リョーマのそんな笑みを眼にするのは初めてだったから、それは隠されることのない、リョ
ーマの吐露なのだろうと思えた。
「本当、成長したね」
 けれどそれはきっとこの先。リョーマにとって、諸刃になるだろうことを、不二達は判って
いた。
 幼かった後輩が、きっと始めてだろう覚えた子供の恋。けれどそれでは満足できなくな
ってしまったから、きっと傷ついていくだろう。だから桃城は、先を歩いているのだと気付
いた。
 企んでいるというのは、きっとそういう部分で、確かなカタチとして捉えさせてはもらえな
い部分に、リョーマは焦燥しているのだろうと、不二は思った。
 テニスしか知らなかった子供に、テニス以外の感情を、まるで刷込みするように教えて
しまったその罪深さを、きっと桃城は痛感しているのだろう。だから足掻いているのだと、
気付かない不二達ではなかった。
「アレ?先輩達」
 其処に丁度、顧問の竜崎とランキング戦の打ち合わせを追えた桃城と海堂の二人が姿
を現した。   
「お邪魔してるよ」
「あんたは、高等部になったんだから、頻繁に来るな」
「おやおや、海堂は相変わらずだね」
 目上に対しては礼儀を守と厳しく躾られてきた海堂は、乾にだけは軽口を叩くのを、不
二は面白そうに見ている。それそそれだけ、二人の距離の近さを物語っているのだと、海
堂は気付かないのだろう。
「新しい練習メニューを、組んできたんだけどね」
 ついでに、新しい乾汁の試作品もと、抑揚を欠いた声で笑う乾に、中等部三人組は、途
端に思いきり嫌そうに渋面を刻み付けた。結局乾が高等部に進学しても、乾汁とは縁は
切れない。そういうことらしい。
「桃先輩、帰りファンタ奢りじゃすまないから」
 打ち合わせを書き込んだノートをロッカーに放り込むと、桃城は着替え出す。それを眺め、リョーマはその背に声を掛けた。
「お前なぁ〜〜〜そいや、お袋に電話したら、お前家連れてこいとよ」
 自分が居ない間、リョーマが不二達に話しの肴にされ、機嫌が下降傾向なのに気付か
ない桃城ではないから、軽口を叩きながら、笑うしかない。
「フーン。で、俺との約束は?」
「俺がいつ、お前との約束反古にしたことあるって?」
「ナチュラルに惚気るのは、オチビも桃も、変わりないじゃないか」
 その他の面子の居る中。互いにしか判らない会話をするこの状況の何処が、黄金ペア
と呼ばれる自分達と惚気っぷりが劣るんだと、英二は些か呆れた。尤も、そういう英二は、大石と惚気ている自覚などないのだから、きっとお互い様なのだろう。
「ホラ、機嫌直せよ」
 さっさと着替えた桃城は、ベンチで腰掛けているリョーマの頭をクシャリと掻き混ぜる。
「ったくあんたってさ、本当」
 髪を掻き乱す節の有る長い指の感触が心地好いのだと、一体いつから思ってしまった
だろうか?以前なら、子供扱いされているようで、絶対鬱陶しいとしか感じないものだった。今も、桃城以外からされたら、手酷く腕をはたき落しているだろう。
「悪党」
 深々嘆息を吐き出すと、リョーマはベンチから立ち上がった。桃城は、一体なんのことか
判らず、眼を点にしている。
 リョーマのこの科白は、二人の間では日常会話に転がり落ちてはいるものの、他人の
居る時。リョーマがこの科白を言うのは、却って珍しいものだった。
「桃、完全にオチビの尻に敷かれてるじゃん」
 二人のやり取りを眺めていた英二が、だらしないぞと、桃城を揶揄するように口を開く。
「我が儘なんですよ。越前」
「その我が儘が、可愛くて仕方ないんだよね桃は」
「不二先輩〜〜〜」
「自分にだけ言う我が儘、可愛くない筈ないよね」
「余計なお世話です」
 不二の莞爾とした笑みに、リョーマは憮然となる。
「桃先輩、早く帰ろう」
 長居すればするだけ、話しの肴にされるのは判りきっている。リョーマは桃城の腕をとる
と、ズルズル扉へと引き摺っていく。
「コラ越前、ちょっと待て」
「ああ、別に僕達、顔を見にきただけだから。特別な用事ないから」
「すみません、こいつ本当我が儘で」
「あんたの秘密の恋人は、気は長くないんです」
 リョーマの科白で、自分が不在の間。リョーマが不二や英二達に、何を肴にされていた
のか悟った桃城は、ガクリと盛大に肩を落した。
「先輩達、あんまこいつの機嫌、悪化させないで下さい。後で八つ当たりされんの、俺な
んですから」
「されてるうちが花だぞ桃」
 なぁ海堂と続けるから、乾は海堂に悪口雑言叫ばれる羽目に陥っていた。
「越前君」
 桃城をズルズル引き摺るリョーマの背に、不二の穏やかな声がかかるのに、リョーマは
振り返る。
「さっき僕と英二が言ったことは、忘れないようにね」
 ヒラヒラ手を振る不二の仕草に、リョーマは半瞬戸惑う視線を向け、すぐに無言で部室の
扉を開いて出ていった。
「あの子も、これから大変だね」
「オチビは、無自覚だかんね」
 去年同じ科白を、桃城に言った時。桃城は、自分達の何処を見て、その有り様を言われ
たのか判らなくても、言われている内容は理解できていただろう。けれどリョーマはどちら
も理解できてはいないのが判ってしまうから、これから先。リョーマはもっと傷ついて行く
のだろうと、英二も不二も、疑ってはいなかった。
 幼かった子供の恋。けれどそれだけで満足できなくなってしまったら、進むしかないのだ
と、先に気付いたのは桃城の方だろう。
「本当、オチビは、覗き色だにゃ」
 閉められた扉を眺め、英二が口を開いた。
「英二、それ去年僕が言った科白だよ」
「いいじゃん。桃は白殺し」
「少しは勉強したんだ」
「いちいちうるさい不二」
 軽口を叩き合う二人は、高等部に行っても変わらない仲の良さを発揮する親友で、それ
は時には周囲には、傍迷惑な連携プレイを発揮する。
「でも、まぁ。桃が背伸びして大人になろうとしてないあたり、オチビのこと、大事にしてる
のは判るよ」
 入学したての頃。桃城を可愛がってきた英二にしてみれば、それはそれで、感慨なの
だろう。
「淋しい?」
「ん〜〜〜少し」
 不二がクスリと笑うのに、英二は苦笑する。
「桃は手塚も認める曲者だから。何を企んでるのやら」
 リョーマの焦燥を煽ると判っていて、それでも言葉を与えてはいないのたろう桃城の有
り様を、不二も英二も乾でさえ。先程のリョーマの言動から、推し量れるものだった。
「さぁて。何かにゃ」
 桃は曲者で、オチビの言葉借りるなら、悪党だからと、英二は可笑しそうに笑った。
「きっとさ、オチビや桃と、中学で同じテニス部でテニスしてたって自慢できることかもよ?」
 英二は意味深に笑うと、不二もそうかもねと、笑った。
そんな二人の視線の先で、乾は相変わらず海堂に、歓迎されない乾汁のレシピを渡し、
彼だけの練習メニューを組んでやっていた。
「あれはあれで、巧く行ってるバカップルだよにゃ」
 海堂と乾の二人を眺め、英二の楽しげな声が漏れた。