周囲を彩る光景は、もうすっかり夏の様相を呈している。夕暮れの時間は延び、緩やか
に過ぎていく光景は、春の朧だったものから、確実に夏を反映する濃い色を映し出してい
た。
質感の有る白い雲は太陽の断末魔を映し茜に染まり、無限の広がりを想像させる蒼い
空は緋色を伴い、鮮やかなグラデーションを描いている。それでも、何も考えられなくなる
ような夏の茹るような暑さは其処にはない。心地好い夕暮れの風が、頬を掠めていく。
フワリと長い前髪が柔らかく揺れ、リョーマの白皙の輪郭を鮮明に映し出す。初夏の風
が運ぶ夏の匂に、再びあの熱狂する、訳の判らなくなる程テンションの上がる季節が訪
れるのだと実感する。それはこうして文句の一つも言わず、後輩の送迎を喜々としてする
桃城の季節でもあるのだと、自分とは違う幅広い肩を見下ろし、リョーマは訳もなくそう思
った。
夏生まれだからという以前に、桃城という男には夏が似合う。まるで太陽を背負うかの
ように、空との距離を近くするジャンプや、益々重く鋭くなった打球を放つ。
作り出された伝説の元。今年も周囲から勝つことを求められている青学テニス部。その
部長職である桃城のプレッシャーは、どれ程だろうか?
こうして肩に手を置いてみた所で、伝わってくるものは一切ない。桃城は、そんなものを
表面に出す程、優しい性格をしてはいなかった。それがリョーマには癪に触る部分でもあ
るのだと知りながら、それでも綺麗なものに誤魔化し、リョーマに手の内の一切を見せな
い桃城は、だからリョーマに言わせれば、悪党で詐欺師ということになる。
「お前、不二先輩と、英二先輩に、何言われたんだ?」
リョーマを後ろに乗せ、桃城は危なげなく慣れた調子で、自転車を漕いでいる。知り合っ
てから1年。桃城がリョーマの送迎をしない日は、殆どない。
「別に」
「ってことないだろ?」
素っ気なく切替えされる即答に、桃城は苦笑する。
部室を出る寸前、不二は明らかにリョーマにだけ判る言葉を話していた。そんなことが判
らない桃城ではなかったし、その瞬間、リョーマの視線と細く薄い肩が、揺らぐのを見逃す
桃城でもなかった。
「あんたが遅いから、俺が話しの肴にされなきゃなんなかったんだから。きっちり俺の機
嫌とって下さい」
判ってるの?リョーマはきっちりハードジェルで整髪されている桃城の髪を、クシャクシャ
と掻き回す。
「コラ越前〜〜〜」
「桃先輩だって、俺の髪、好き勝手にいじるじゃん」
「お前はいいだろ。それこそ手櫛でいいんだから。俺は違うんだぞ」
リョーマの髪は、桃城の髪と違って、見た目通りの柔らかさだ。それこそネコっ毛な程だ。
「もう帰るんだから、いいじゃん」
「よくない」
クシャクシャと桃城の髪を掻き乱すリョーマの細い腕を、桃城は器用に片手で掬い上げ
る。
「秘密の恋人って、嫌じゃないか訊かれた」
桃城に腕を掬われたまま、リョーマはポツンと口を開く。その声が余りに細いものを滲ま
せていて、桃城は掬い上げたリョーマの腕に、改めるように力を込めた。
「嫌か?」
桃城も、自分が女子からの告白を散々断り続けてきた所為で、今では中等部では知ら
ない者は居ないだろうと言われる、『秘密の恋人』説が出回っていることを知っている。
けれどそれが高等部まで出回っていると英二から聴いた時。無責任に一人歩きする噂に、眩暈を感じた程だ。けれどそれでリョーマが傷ついているとは、到底桃城には思えない代物だった。
「俺の何を見て、不二先輩や菊丸先輩が訊いてきたのか、俺には判らない」
それは虚勢でも何でもなく、リョーマには単純に判らないものだった。
問われたあの時には、不思議なことを訊くものだと思ったものの、こうして桃城の肩に手
を置き、見慣れた背を見下ろしていると、不意に問われた言葉の裏が透かして見える気
がして、リョーマは何とも言えない気分を味わった。
「あんたはどうにもならない詐欺師だけど、俺に対しては不誠実じゃないの判ってるから。
別に気にしたことなんてないから、だからなんで訊かれたのか、判らない」
その想いのまま、その手のまま、互いの手を離すなと、英二と不二は、リョーマが驚く程、真摯なものを滲ませ告げていた。それは言葉に出されたものより、凝視してくる眼差し
に、より力が宿っていた言の葉だった。
「俺、そんな風に見える?」
秘密の恋人だろうが何だろうが、実際そんなものを気にする必要は何処にもない。傷つ
く必要のない部分で、傷ついた表情を曝してきた覚えは、リョーマには微塵もない。だか
ら尚更、二人が何を見てそう尋ねてきたのか、リョーマには判らない。
「見えない」
「腹立つ」
桃城の即答に、リョーマは少しだけ憮然となり、掬い上げられたままの腕をペシンと振り
払うと、
「どうせ俺は、薄情な恋人です」
桃城の耳朶を思い切り引っ張ると、リョーマはツーンと子供のような仕草でそっぽを向い
た。その子供のみたいな仕草に、桃城は苦笑を深めるばかりだ。
「だったら俺なんて、もっと可哀相だろうが」
「何で」
「一部女子で囁かれてる『テニスの王子様』は、テニス以外に興味ないらしいっていう、中
学生にしては問題有りの、色気も素っ気もない、優等生発言してるみたいだし?」
「だったら、今度言ってみようか?」
掻き乱した桃城の髪に指先を埋もれさせながら、リョーマが意味深に笑う。その意味深
な笑みを感じ取った桃城が、幅広い肩を竦めるのがリョーマにも判った。後ろを向いてい
ても、どんな表情をしているのか、判ってしまう。
「俺を満足させられるならって」
「越前〜〜〜」
「どうも俺は、あんたと違って、セックスには縁遠く見えるらしいから」
桃城という、たった一人の男の娼婦だと知ったら、告白してきた女子は、どんな表情をす
るのだろうか?リョーマは忍び笑いを漏らし、桃城の耳朶に口唇を寄せる。
「俺とは違ってって、どういう科白だ」
耳元でクスクス甘やかに笑うリョーマの意味深さに、桃城は脱力する。
「そういう科白。中学二年で、女子大生やOLが大好きで、散々甘やかされてきた詐欺師」
あんたサイテーのヒトタラシだからと、リョーマは笑い、
「たった一人の男に女にされてますって、断ろうか」
桃城の耳朶を甘噛むようにクスクス忍び笑いを漏らせば、桃城は情けない声を上げるし
かなかったから、完全に桃城の負けだ。
「取り敢えず、俺はお前を満足させてるってことだな」
余りにあまりの言い様に、桃城は力ない反駁を無駄だと知りつつ試みる。
「あんたしか知らないから、試してみないと判らないけど」
リョーマは甘えるように、ネコのような仕草で桃城の首に両腕を回し、
「ねぇ?今夜ちゃんと、俺の機嫌きっちりとってよ」
「………ヘイヘイ、きっちり満足させてやるよ」
明日、足腰立たないと思えよ。桃城は半ば自棄を含んで苦笑いを深めた。
□
夕暮れから、周囲がゆっくり藍色に染まり始めた時だった。
「………なんか、スゲー嫌な予感がするぞ……」
自宅に辿り付いた時。駐車場に有る赤い車を見咎め、開口一番、桃城がボソリと呟いた
言葉はそれだった。
簡素な住宅街の中。桃城の家は、リョーマの家程でないにしろ、敷地も家自体も広いも
のだった。駐車場は、2台の車が駐車できる造りをしているが、リョーマが桃城の家に訪
れる時。その場に車が停車されているのを、見たことは殆どない。警視庁勤めの桃城の
父親が、リョーマが訪れる時刻。帰宅することは稀だからだ。けれど今は綺麗な赤い車が
停まっている。
「何?」
英二と変わらぬ剽悍さで、桃城の自転車の後部から飛び下りたリョーマは、いつもなら
さっさと自転車を駐車場の隅に停める桃城が、今日に限って駐車場から中々出ようとしな
いのを、怪訝な表情を浮かべ、眺めている。
「誰の車?」
桃城がリョーマの家に通う程には、桃城の家に通い慣れていないリョーマでも、桃城家
の駐車場に、赤い車が停まっているのを見るのは初めてのことだった。しゃがみ込む威
勢で脱力し、頭を掻き毟る桃城の姿に、リョーマは物珍しいものでも見るようにキョトンと
小首を傾げ、見下ろしている。
「桃先輩?」
「あ〜〜〜お前の家に、直行すればよかった」
「フーン」
大仰に脱力する桃城というのは、リョーマにとって、物珍しいしいものではなかった。
けれど演技を抜きにして、頭を掻き毟り脱力し、ましてしゃがみ込む威勢の桃城というの
は、リョーマには珍しい状況だった。その状況を考えれば、リョーマにとって車の持ち主が、桃城にとって好ましい人物でないと言うのは、丸判りだ。まして赤い車ときている。
相手が女なのだと言うことは、リョーマには丸判りだ。そしてただの女なら、桃城は此処ま
で、物珍しい仕草もしないだろう。
「で?誰の車?」
しゃがみこむ威勢の桃城の隣にしゃがみ込むと、リョーマはこれ以上ない程、莞爾とした
笑みを桃城に向けた。音が響きそうなその笑みに、桃城は乾いた笑みを見せるしかでき
なかった。
「訊かないでくれ」
「って言う程、疚しい人物の車なんだ」
莞爾と笑うリョーマの笑みが、瞬時に冷冽さを増すのに、桃城は引きつった笑みを更に
深め、後ずさる。
「こーんな赤い派手な車乗るのなんて、相当自分にも車の運転にも、自信のあるオ・ン・
ナ」
「越前〜〜〜〜」
「あんた今夜は俺の機嫌とる所か、機嫌悪くする一方。俺を満足させるなんて、それじゃ
到底無理。バイバイ」
「コラ待て越前!」
スッと立ち上がり、未練なくクルリと背を向けたリョーマに、桃城は情けない声を上げ、細
腰に腕を回し、引き止める。
「俺が秘密の恋人って言われるのも、日陰者なのも我慢できるけどね」
「誰が日陰だ誰が!」
「秘密って言われる程度には、日陰者だし」
ア〜〜俺って可哀相、リョーマは嘯くと、情けない声を上げ、細腰に腕を回してくる褐色
の腕に、悪戯気に爪を立てた。それは何処か情事の最中の気配を滲ませている。そんな
リョーマの妖冶を滲ませた気配に、桃城はガックリと項垂れた。
「ダレの車?」
背後から細腰に回された腕の中。ゆっくり姿勢を変えると、リョーマは桃城に反駁など許
さないという容赦のない綺麗な笑みで、スゥと白皙の貌を突き出した。
「ワ・タ・シ」
「マリコ〜〜〜〜」
二人の背後から、気配もなければ足音も立てずに現れた女性の、何処か茶目っ気を含
んだ笑みに、さしものリョーマも驚いて振り返った。
「武、久し振りね」
元気してた?細く長い白い指先をヒラヒラ振る女性は、何処か年齢を掴ませない立ち振
るまいと綺麗な笑みをして、リョーマと桃城を楽しげに眺めていた。
「フーン」
リョーマは、正面に立つ綺麗な面差しを凝視し、次に酷薄な口唇に冷ややかな笑みを浮
かべ、桃城を睥睨するように見上げた。
「……前門の虎、後門の狼………」
ボソリと呟いた桃城に、
「難しい言葉、覚えたじゃない?」
マリコと呼ばれた女性は、綺麗な面差しに茶目気たっぷりの笑みを浮かべ、桃城とリョ
ーマの二人を愉しげに眺めた。
□
「………なんでお前が居るんだよ」
マリコに、半ば引き摺られるようにリビングに引き摺りこまれた桃城は、完全に機嫌を損
ね、バイバイと背を向けたリョーマの腕を逃がすまいと握ると、二人揃って、マリコに引き
摺られるように、桃城家のリビングに押し込められていた。
「………なんで俺まで……」
桃城と二人揃ってソファーに並び、リョーマは憮然さを隠すこともなく、渋面を造っている。
マリコと呼ばれた女性が、一筋縄でいかないのは、見れば判るから、リョーマは尚更同
席など御免だった。けれど結果的には桃城に引き摺り込まれ、こうしているのに、リョーマ
は内心で桃城に、悪口雑言をまくし立てていた。
明日足腰立たなくなるまで、サービスさせてやる!桃城が聴けば、脱力して泣きそうな
科白を、リョーマは内心で連ねることで、どうにか表面を取り繕っている。
「越前君、久し振りね」
桃城の母親は、トレイに二人分のグラスを乗せ、キッチンから現れた。
桃城がリョーマの家に行くのは、今では珍しいものではなくなってしまっている。リョーマ
の室内には、着替えの服や下着、気に入りのCD、歯ブラシ、シャンプー等、桃城の日常
が極当たり前のように、持ち込まれている。けれどそれとは相反し、リョーマが桃城の家
にこうして立ち寄ることは、珍しい部類のものだった。
『秘密の恋人』と言う言葉が、不意にリョーマの脳裏を通り過ぎた。
週末ごと、後輩の家に宿泊している息子を、桃城の家族はどう思っているだろうか?
そう考えれば、らしくない程、リョーマの内心に、キッチンから姿を現した桃城の母親に後
ろめたさが湧いた。
「武も、マリちゃんに会うの、久し振りでしょ?」
アールグレイのアイスティーを、リョーマと息子の前に置くと、桃城の母親はリョーマに視
線を向けた。
「越前君は、初めてよね」
「お袋、俺らこれから越前家に行くから、いいって」
隣に腰掛けているリョーマから伝わるのは、渋面を造る表面以上に、地に突き抜ける威
勢で機嫌を下降させているリョーマの気配だった。
これ以上、リョーマの機嫌を損ねたい筈のない桃城は、そうそうに退散してしまいたかっ
たが、どうやら母親は簡単に開放する気はないらしい。息子の自分はともかくも、母親は
リョーマをいたく気に入っている。滅多に家に寄らないリョーマを、母親が簡単に開放するとは、桃城には思えなかった。そしてこんな時ばかり、リョーマは勘がいい。
普段は自分にも周囲にも無頓着なくせに、気付いてほしくない部分程、明瞭に見抜く眼
を持っているから始末に悪い。
「久し振りに会ったんだから、少しくらい話して行きなさい。母さんこれから買い物行くし。
ねっ?マリちゃん」
桃城の母親は、夫が常に生死と隣り合わせの仕事をしている所為か、背に一本芯の入
ったような凛然さを持っている。その凛然さと明瞭さは、リョーマには好ましいものだった。
キリッとした細面の造作は、何処見る者に妥協を許さぬ理知さが宿っていように感じさ
せる。それは見知らぬ者が見れば、些かとっつきにくい冷ややかさが有る。けれど気心が
しれてしまえば、そんなことはないのだと、簡単に判るものだった。
洋装より何処か和装の似合いそうな細面の美しさと、聡明さが綺麗に同居している風情
は、初対面時。彼女が桃城の母親とは思えないと言うのが、素直な感想だった。桃城は
きっと父親似なのだろうと、過去数度だけ会ったことのある桃城の父親を思い出せば、桃
城の父親が南次郎の青学中等部当時の後輩だというのだから、世間は狭いと絶句した
ことまで、リョーマは思い出す。けれど桃城の母親の、何処か冷ややかな印象を受ける細
面の面から滲む本質は、桃城の本質でもあるのだろうから、やはり親子なのだろう。
おっとりした容貌の自分の母親とは正反対だと、リョーマは差し出されたクリスタルグラ
スに添えられた白い指を見て思った。けれど近頃、何処か似通った共通点を見出だせる
気がするのは何故なのか?リョーマにも未だ判らなかった。
「ええ叔母様」
「俺は、話しはない。お袋、俺ら夕食いいから。着替えたら越前の家行くから」
「何言ってるの。折角越前君来たし、マリちゃんも来たから、散らし寿司でも造ろうと思っ
たのに。いつもいつも越前君の家でお夕飯頂くばかりじゃ申し訳ないから、今夜はウチで
食べて行きなさい」
「パス。来月のランキング戦のことで、色々しないといけないことあるんだよ」
有無を言わさぬ母親のこの手の科白に、逆らえば後で痛手をみると判ってはいるもの
の、今は絶対状況が不味いと、桃城は素っ気なさを装い、口を開いた。けれどそれは隣に
腰掛けるリョーマの即答で、無駄になりはしたのだけれど。
「俺小母さんの散らし寿司、食べたいけど」
「……越前〜〜〜」
シレッと言うリョーマに、桃城は情けない声を上げる。
「嬉しいわ〜〜〜越前君和食好きだって言うし。今晩は腕を振るうわね。武、買い物に行
ってくるから。ちゃんとマリちゃんと越前君のお相手するのよ」
楽しげな様子で立ち上がった桃城の母親は、買い物に行ってくるからと、リビングを出
て行った。その母親の背を見送れなから、桃城は深々溜め息を吐き出した。
□
半瞬の沈黙の後、口を開いたのはマリコだった。
「武、貴方、着替えてきなさいよ。私は武の後輩君と、話ししてるから」
軽くウェーブのかかった、栗毛色の柔らかそうな髪を透き上げ、マリコが笑う。
リョーマの正面に座るマリコは、聡明で理知的な面差しをし、黒いブラウスに、スリットの
入った黒いタイトスカートを、綺麗に着ている。ラフな恰好はしていても、ただのOLなどに
は見えない雰囲気が彼女にはあった。
「………マリコのそういう所、相変わらずだな。俺はイヌ、ネコかよ」
ホラ、さっさと行った行ったと、ヒラヒラ手を振る彼女に、桃城は半瞬苦笑する。その変わ
りのなさが、桃城には可笑しかった。
「越前君よね?武から良く話し聴いてるわ」
「……いつマリコに話したよ…」
少なくとも、父親と同じ程度に忙しいマリコに、桃城がコンタクトを取ることはないし、コン
タクトを取る必要もなかった。
「桃先輩、紹介して下さいよ」
隣に座る桃城に、リョーマはとびきり綺麗な笑みを見せるが、その瞳は、一つも笑って
はいなかった。
色素の薄い空色の眸の中核は、さながら真冬の海のような、冷ややかな青磁色を映し
ている。そんなリョーマに、桃城は引きつった笑みを浮かべた。
「桃先輩っか。可愛い呼び名で呼ばれてるんだ。今日は越前君。私は武の従姉妹で、桃
城マリコ。年齢は、君の見た眼通りでいいわ。職業は、ヒ・ミ・ツ」
銀鈴を転がしたような声で笑うと、彼女はリョーマを眺めた。
「従姉妹」
綺麗に整った造作を凝視し、次に桃城を眺め、フーンと笑うその冷ややかさに、桃城は
内心冷や汗をかいている。
「何が秘密だよ。魑魅魍魎の跋扈してる霞ヶ関で、官僚してるくせに」
「武も、随分難しい言葉、覚えたのね」
「官僚?」
桃城の科白に、リョーマは怪訝そうな貌をする。その端整さは、十分聡明さを湛えては
いるが、何処か茶目っ気のある女性が官僚というのが、リョーマには結び付かない構図
だった。
「東京地検刑事部の検察官」
「警察官26万人の中の500人のキャリアより、珍しくないわよ。検察官なんて。
1200、1300は居るんだから。事務官だって、1000近く居るんだし」
「公判有罪率99.9%維持を、全庁を上げお題目に唱えてる、悪名高い省庁だぜ」
「失礼ね。大体武が、あの名門の青学に入ったってだけでも嘘くさいのに、今じゃ全国区
のテニス部部長だなんて。ねぇ越前君。武は、ちゃんと部長勤まってるのかしら?」
流れるような、リズムに乗る会話を交わす二人に、リョーマはいたたまれない思いを味
わっていたが、突然振られた話題に、正面の聡明な貌を凝視する。
綺麗な容貌とは何処か相反する、茶目っ気の有る性格。そしてキャリアの肩書きに、精
神的に自立した女。
「本当、ダレかのモロ好み………」
不機嫌も露に、リョーマはボソリと呟いた。
リョーマには判ってしまった。彼女が駐車場に現れた時から、彼女が、桃城の初体験の
相手の従姉妹だということなど、リョーマには丸判りだ。
「桃先輩は、テニスの腕はそこそこだし、お調子者だから後輩にも気安いし。部長って責
務は、まぁ周囲がフォローすればいいことなんで」
「………それ一つも褒めてねぇよ」
リョーマの言い様に、桃城はリョーマが彼女との関係が丸判りにバレてしまったことを知
り、半ば自棄になっていた。
元々従姉妹が初体験の相手だと、関係を持ったその時、薄情させられていたから、隠
すことなどこの場合できないのは仕方ないだろう。
「不思議よねぇ。武が全国クラスのテニスの腕前なんて」
「少なくとも去年の全国大会で、公式戦では負けなしですよ」
「ってことは、公式戦以外の負けは、あるってことね」
「ランキング戦で」
「越前〜〜〜〜」
「事実でしょ。揚げ句3日部活サボって、部長に百周走らされて。その間、何処かの女とラ
リーしてたし?」
「相変わらず外面はいいから、女にはモテるのね」
ねぇ?と、マリコはリョーマに笑い掛ける。その笑みに、リョーマは全てを見透かされて
いる気分に陥った。
「とっかえひっかえ、女と付き合ってたみたいですけど」
「悪い男ね、相変わらず」
「その『相変わらず』ってのはなんだよ。誤解招く発言するなよ」
「あらいいじゃない?後輩君は、よく武のこと判ってるみたいだし」
意味深なマリコの笑みに、やっぱりバレていると、リョーマは悟る。けれど此処でおとな
しく、桃城との関係を暴露するつもりは欠片もなかった。
桃城に、自覚はないのだろう。従姉妹と話している時の桃城は、綺麗にその仮面が剥
がれ落ち、まるで見知らぬ子供のようだったから、リョーマは尚更いたたまれなくなる。
「将来は、叔父様の後継いで、警察官僚にでもなるのかと思ってたけど」
「なんで俺が親父の後なんて。大体親父は官僚じゃないだろ」
国家公務員1種を合格した国家公務員でなければ、官僚とはいえない。桃城の父親は
確かにノンキャリア刑事では出世コースまっしぐらではあるが、地方公務員であるのには
変わりない。
「あら、地検刑事部と公判部じゃ、叔父様の名前は有名よ。貴方息子のくせに、何も知ら
ないのね。叔父様の担当する事件は、起訴確定率百%、警察官面前調書も完璧だって
ね。将来の一課長候補ナンバー1」
「はぁ?」
そんなのは当然桃城には初耳だった。元々家庭に仕事を持ち込む父親ではなかった
から、桃城が父親の有能さを知っている部分は極僅かなものだ。それでなくても旧態依
然な警察組織は、外側から判る部分は、ゼロに等しい。
「一課長ったら、ノンキャリ警察官の最高ポスト。国家公務員だもの」
「俺は、警察官にはならない」
桃城の、その時ばかりは真摯な言葉に、マリコは桃城の真剣さを垣間見た気分だった。
「断言するのね」
桃城と酷似する黒曜石の双眸が、正面に腰掛けている年下の従兄弟を凝視する。その
眼に、今まで覗かせていた気安さは欠片もない。検察官というのは嘘ではないのだろうと、リョーマはその瞳を見て思った。ガラリと様変わりする気配は、伊達に桃城の従姉妹で
はないのだろう。簡単に本質など掴ませない盾が、彼女の身の裡にも隠されているのが
判る。
「不確かでも、それだけは絶対可能性はゼロ、だな」
半瞬底冷えする真剣さを垣間見せ、次にはもうケロリと笑っている桃城に、リョーマは無
自覚に膝の上に置いた手が慄えているのに気付いてはいなかった。
「残念。警察官になったら、毎回調書差し戻ししてやろうって思ってたのに」
マリコも桃城の従姉妹だ。今の今まで見せていた恐ろしい程澱みのない瞳と気配は、
消え失せている。
「俺が警察官になっても、刑事部にいるようじゃ、肩叩き始まってるんじゃねぇ?」
「相変わらず、失礼ね。私は特捜部狙いよ」
「花形中の花形は、マリコには無理なんじゃねぇ?」
地検特捜部と言えば、汚職や横領など、大型の経済犯罪を扱う部署として、世間でも知
れ渡っている。世間に知れ渡っている分だけ花形であり、任官10年前後の検察官が着
任する、出世コースなのは間違いない。何より特捜部は、東京、大阪、名古屋の三つにし
かないから、尚更その異例さは際立っている。
「それで?」
「なんだよ」
「何処に行くのかと思って」
柔和な莞爾とした笑みを造りながら、マリコは逃げを許さない、有無を言わせない厳しさ
を滲ませ桃城を凝視している。その澱みのない視線に、いたたまれなくなったのは、リョー
マの方だった。
「……相変わらず、意地の悪い奴」
昔から、この聡明な従姉妹を誤魔化せた試しは、一度としてない桃城だった。リョーマと
の関係も、完全にバレているだろう。きっと今の切れ端のような言動からでさえ、彼女は
自分の選び取った道の有り様を、見透かしているのかもしれない。
それでも桃城は、不確定な未来の有り様を、未だ誰にも告げる気はなかったから、まっ
すぐ射るように問い掛けてきた怜悧な眼差しに、僅かばかりの忌ま忌ましさを込め、口を開いた。
「貴方、苛めたくなる顔、してるんだもの。ねぇ?越前君もそうじゃない?」
「まぁ……」
先刻から見せつけられている、途切れない会話の中。リョーマはいたたまれなさを感じ
ながら、唐突に気付いてしまったことがある。
桃城にとっての初めての相手。そして彼女も恐らく、10以上も年下の従兄弟に手を出し
た時。ただ可愛いとか、そういう部分とは別の感情が、潜んでいたのだろうとも、リョーマ
は彼女を凝視していて、唐突に気付いてしまった。
それは随分捩じれたものなのかもしれない。桃城は何処まで判っているのだろうかと思
い、コッソリ隣を間視すれば、相変わらず精悍な横顔から窺えるものは一切なかった。
リョーマは内心盛大に舌打ちすると、再び視線を正面に戻す。綺麗で繊細な容貌だと思
う。恐らくは、男から与えられるものは、賛辞ばかりのものだろう。けれどその内面に宿っ
たのだろう一時の感情で、桃城を手にいれたのは、リョーマには苛立たしく、不快なもの
でしかなかった。
「まぁ、はないだろうが、まぁは」
「事実でしょ」
「苛めたくなるのかよ」
「時々」
時々の、それも今最大級に痛め付けてやりたいと思うリョーマに、きっと罪はないだろう。
「じゃぁ、桃先輩」
リョーマはスッと瀟洒な仕草で立ち上がると、ソファの脇に立て掛け置いて有るテニスバ
ックを担ぎ、驚く桃城を見下ろした。
「越前?」
「折角従姉妹来て会話弾んでるみたいだし。俺今日は退散しますよ」
小母さんに宜しく言っといて下さい。リョーマは冷ややかに笑うと、未練もなく桃城に背を
向けリビングから出て行った。その澱みのない足取りに、桃城は漸く、リョーマの怒りの片
鱗が窺えたのかもしれない。
「越前」
桃城がリョーマの家に行く頻度より少ないとはいえ、それなりに行き来している桃城の
家だ。リョーマは迷わずリビングから玄関へと向かっていく。その後を、桃城は慌てて追い
かけようと立ち上がった時。マリコの声が引き止める。
「武」
「お袋に、今夜は越前家泊まるって言っといてくれ」
苛立たしげに振り返った桃城に、マリコは少し感慨深い表情を滲ませ、微苦笑を刻み付
けた。
「貴方、趣味よすぎるわよ」
「なんだよソレ」
「あの子、恐ろしい子ね」
「テニスは恐ろしい程一流だけどな。『恐ろしい』ってのは、あいつに、似合う言葉じゃない」
華奢で瀟洒な見たくれとは相反する、リョーマに宿る恐ろしいテニスの才。戦場に等しい
コートに立つ時、リョーマに『恐ろしい』という形容が付いたとしても、別段桃城が驚くこと
はないだろう。孤高の王とさえ思える、テニスの天の才を持つリョーマだ。テニスに於いて
は、その天の才故『小さき魔物』と呼ばれることもある程だ。けれど日常的な部分のリョー
マを見て、聡明な従姉妹が『恐ろしい』という形容を用いたことが、桃城には理解できなか
った。
「躊躇いも遠慮もなく、私を正面から見てきたからよ」
それこそ、挑むように凝視して来た眼の深さが、彼女には印象的だった。
持って生まれた容貌の所為というには些か傲慢な発言になりはするが、異性からの不
躾な視線には慣れていた。同性からの敵意と羨望の眼差しにも同じだ。まして職務上。
自分の行為を正当化する犯罪者の、罵詈雑言と、敵意とも殺意とも言える視線に曝され
るのは、いつものことだった。けれど、リョーマの視線は、そのどれもと違っていた。
きっと何故10も離れている従兄弟に手を出したのか、気付いたに違いない。一時の醜
い感情で、年下の従兄弟を手酷く傷つけてきた。捩れた感情を持て余し、だからこそ検察
官になったのだと、曲者の年下の従兄弟は何処まで知っているのかいないのか?マリコ
にも判らないものだった。
昔から、癪になる程、手の内など簡単に覗かせない従兄弟だった。それはほんの子供
の時からそうだ。だから手に入れたいと思ったのは事実だ。
きっとリョーマは気付いただろう。躊躇いもなく凝視してきた綺麗な綺麗な双眸に、自分
ばどれ程醜く映っていただろうか?そう考えた時。子供だとばかり思っていた従兄弟は、
随分趣味のよい相手を選んでいると思えた。同時に、癪になる程、愛されてるなとも思え
た。
「マリコさ、今の旦那と、巧くやれよな」
「武……」
本気の恋愛など、正気でなければできないと言っていた彼女は、鮮やかな程綺麗だっ
たことを、桃城は覚えている。
「知ってたの……?」
まさかと思い、彼女は瞠然と正面から自分を見据える従兄弟の、精悍になった面差しを
凝視する。
気付かれていたとは思えなかった。その背徳な心の在処を。だとしたら、10も年下の従
兄弟は、とんだ詐欺師だと、思わずにはいられない。
「俺も、男だからな」
10も年上の従姉妹が、本気で相手をする筈もない。遊びか本気かの区別が付かない
程、桃城も莫迦ではなかったから、彼女の気持ちが何処に向かっているのか、気付けな
い程鈍くはないと言うことだろう。けれど当時はそれなりに子供の気持ちで、10も年上の
聡明な彼女に恋していたのだと思う。けれどその想いが、ただの子供の憧れだと気付か
せてくれたのは、リョーマだった。
「だったら貴方もね。正気じゃなきゃ、本気の恋なんて、できないわよ」
そう言える程度に、きっと彼女も成長したのだろう。一時の憧憬に似た感情で、10も年
下の従兄弟に身代わりを求めていたとしても。それが憧憬なのだと気付かせさてれくれた人と巡り合えたからこそ、言える科白だったと気付かされたのだから。
「あいつ失ったら、呼吸の仕方も判らなくなるって程度には、本気だからな」
長い溜め息を吐き出し苦笑する貌は、14歳という子供が持ちえる表情ではなかっただ
ろう。一体何が桃城を此処まで大人に見せているのかなど、彼女には考える必要もなか
った。
「お袋に、適当に言っといてくれ」
そう言うと、桃城は今度こそリョーマの後を追い、リビングから姿を消した。
「子供だ子供だと思ってたのに」
大切な者を見付け、走り出す後ろ姿に、マリコは薄い肩を竦めて笑う。
自嘲に近い苦笑を浮かべた従兄弟は、嫌になる程マリコに桃城の成長を突き付けてい
るものだった。子供だとばかり思っていた従兄弟が、突然大人になって現れた感慨をもた
らされる。それはマリコには、衝動的なものだった。
「悪い男の見本じゃない」
甘やかしていたつもりで、結果、甘やかされていたのに、今頃気付いた。それも10も年
下の子供にだ。
「まったく、狡い男になったもんだわ」
それでも。呼吸の仕方も判らなくなる程大切な存在を見つけ、歩いて行こうと決めたな
ら。迷いながらも、きっと歩いて行くのだろうなと、マリコは思った。
「まぁ精々、喧嘩なさいな」
突然帰ってしまったリョーマの内心を思えば、今頃盛大に喧嘩をしているだろうことは想
像に容易い。桃城が、莫迦みたいにリョーマを大切にしているのは判るから、今頃平謝り
に謝っている最中かもしれない。
そんなことを想像し、マリコは温くなったアイスティに口を付けた。
□
すっかり藍色に染まった夜空の中。等間隔に点在する街灯に、華奢な姿が、浮き上が
るように歩いている。そのくせその気配は驚く程希薄だ。
コートに立つ時。あれ程存在感を浮き彫りにする姿とは思えない程、リョーマは日常で
は周囲の光景と混融する。それも無自覚だから始末に悪いと思うものの、リョーマに言わ
せれば、意識的に気配を周囲の景色に溶け込ませてしまう桃城の方こそ、始末に悪いと
言うことになる。
藍色に染まった簡素な住宅街。見慣れたリョーマの家へと向かう道。周囲の光景。街灯
の下に照らし出される姿は、浮き上がっていると同時に、背後の薄闇に輪郭さえ溶け込
ませている二律背反なものを感じさせる。
桃城は音もなく自転車を走らせ近付くと、桃城が声を掛けるより先に、無感動な口調で
リョーマが口を開いた。
「あんた、莫迦じゃないの」
隣を走る桃城に視線を移すこともなく告げると、速度を変えることなくリョーマは歩く。
きっとリョーマは気付かないのだろう。今の今まで希薄だった気配が、桃城が声を掛けた
瞬間。浮き上がる程、存在を滲ませてしまったことに。けれど桃城は気付いてしまったか
ら、深い苦笑を滲ませる。
「ごめんな」
長い腕が延び、髪に触れる瞬間。その腕は威勢よく振り払われた。
「何がごめん?あんたの初体験の従姉妹との、仲のいいところ見せつけたこと?それとも、会わせたこと?」
「どっちもだよ」
「あんたは、俺を人形か何かと勘違いしてるんじゃないの?」
その瞬間。今まで無感動な声と眼をしていたリョーマの眼差しは反転し、闇の中でも判
る程、強烈な輝きを帯び、桃城を睥睨していた。
「俺だって嫉妬するって、あんた知らないんじゃないの?」
秘密の恋人と呼ばれていることなど、別段気になるものではなかった。それは桃城の誠
実さを、疑う必要などないからだ。けれど先刻出会った女は、桃城にとって明らかに違う
距離と位置にいるのだと判ってしまった途端。リョーマはいたたまれなくなった。
過去の関係に嫉妬するなど莫迦げていると判っている。けれど感情はそんな綺麗事で
納得はしない。全てが理性で処理できるなら、それこそ世の中の犯罪件数の半分以上
は、綺麗になくなることだろう。どんな綺麗ごとを言い繕ってみた所で、人間は自己の欲
求に従い行動する生き物だ。理性的な冷静さなど、衝き動かされる感情の中では、極僅
かな部分に過ぎないのかもしれない。
「判ってるよ」
「判ってない」
「だから、追いかけてきたんだよ」
「あんたが乳繰り合った女となんか、顔も会わせたくない!」
「………お前なぁ、なんて科白だ」
「あんたの女の好みの原点が、従姉妹だってよく判った」
聡明で理知的な面差し。キャリアの肩書き。そのくせ、そんな肩書きなど微塵も滲ませ
ない気さくさは、肩書きにしがみつく必要のない、自分の足で立っている強さと潔さを現し
ている。今まで漠然と感じていた桃城の過去の女達の幻影を、現実の中で思い知らされ
た気がして、リョーマはいたたまらなかったのだ。
「俺、今夜はあんたと居たくないから」
きつい輝きを帯びる眼差しが桃城を睥睨し、それは刹那に帰宅する道に向かって伸び、
リョーマは再び歩き出した。
「俺は、居たいよ」
きつい輝きの前に身を曝し、桃城は不謹慎にも、そんなリョーマが綺麗で愛しいと思っ
てしまった。
リョーマは普段、嫉妬や独占欲などというもとは無縁の表情をして、テニスをしている。
けれどたった今リョーマが垣間見せたものは、紛れのない嫉妬や独占欲で、それは桃城
には倖せなものを与えてしまっていた。
結局、リョーマと言う存在に溺れている桃城にしてみれば、リョーマが見せた隠されるこ
とのない素直な感情程、愛しいものはなかったのだろう。
「あんたサイテー」
この局面で、その科白はないだろう。悪党の科白だと、リョーマは毒々しげに舌打ちす
ると、
「俺を怒らせた自覚ある?」
自転車から降り、転がすように自転車を転がし隣を歩く桃城を凝視した。
「ああ」
「じゃぁ、なんで怒ってるのかも、判ってる?」
「ああ、多分な」
素直な嫉妬や独占欲。けれどそれだけではない怒りも判ってしまったから、桃城は肩を
竦めるしかなかった。
「あんたの気持ちにスポイルされたら、俺は俺じゃなくなるのは判ってる。過去の女にこだ
わるのは莫迦げたことだってのも判ってる。だけど!」
其処でリョーマは声を切ると、不意に桃城の胸元を威勢良く引き寄せ、差し出すように
綺麗な貌を近付けた。
「俺は人形じゃないから。嫉妬の一つや二つするんだって、覚えといてよ!ついでに、あ
んたの従姉妹っていう女が、あんたの向かおうとしてる場所に口出しするのも、気に入ら
ないんだから」
桃城の向かおうとしている場所。漠然と判っているその行き先。自分も教えては貰えな
いその場所を、従姉妹というたけで、簡単に口に出すマリコの存在が、リョーマには我慢
ならなかった。
「こんな綺麗な人形、何処にも売ってないな」
差し出されるように近付けられた貌。精巧な人形に、こんな綺麗な貌を造ることはでき
ないだろう。桃城の正面に有るのは、造形的な美しさと同時に、魂が宿るからこそこんな
にも綺麗なのだと訴えるようなリョーマが居た。
「小生意気だわ、口は悪いは」
近付いてきた貌を反対に引き寄せると、
「ゴメンな」
藍色に解ける黒髪に、口唇を寄せた。
「全部、吐いて貰うから」
おとなしく桃城にされるままになっているリョーマは、何処までいっても悠然とした態度を
崩さない桃城に、忌ま忌ましげにボソリと呟いた。
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