茹るような夏の季節が通りすぎた後に訪れるのは、何処か感傷をもたらす季節だった。煩い程聞こえ
ていた蝉の声も、気付けば涼やかな虫の音に変わっていて、そんな些細な部分で、漸く一つの季節が
終わっていたことに、ある日突然不意に気付く。それは皮膚から身の裡の何処かを刺激し、季節の移り
変わりを綺麗に知らせてくる。
季節はその最中より、終わりを意識した時、より強くその季節が胸中に甦る気がした。それは季節の
中に潜んでいる懐かしい思い出だったり、光景だったり、そんな些細なものが、終わりを意識した時。
改めて実感されるからなのかもしれない。夏の次に訪れるのものが、冬へと続く通過点の感傷的な季
節だからなのか、夏から秋への移り変わりは、望郷にも似た淋しさが、胸を締め付けていく気がした。
全国大会も無事終え、作り出されて行く伝説に、更に磨きを掛けることになった青学テニス部は、来
年更に新入部員を抱える大所帯になるのは、秋も深まる現時点で、既に決定事項になっていた。
幼等部から大学院まである名門進学校の青学は、外部進学者の為の試験が行われるが、進学校だ
けに、そのひねこびた出題問題は、毎年私立中学入学試験テキストに名を連ねる常連校でもある。
それだけに難関とされるが、既に今年は来年の初めに行われる外部入学試験の問い合わせが、昨年
より増加していると、テニス部顧問の竜崎が言っていたのをリョーマは思い出す。
去年より増加傾向にある外部進学者は、口を揃えて青学テニス部への入部を希望していると聴いた
時。テニス部現部長である桃城と、副部長である海堂、1年当時から、レギュラーの座を他人に譲った
ことのないリョーマの三人は、互いに顔を見合わせ、苦笑したものだ。
淡い憧れを抱くのは個人の勝手だが、入学し、テニス部に入部すれば、全国の名は伊達ではないの
だと、今年の新入部員が味わったように、その厳しさを身を持って思い知る筈だ。
結局春先、膨大な新入部員数を誇ったテニス部も、1ヶ月もすれば、全国区の名の意味を思い知らさ
れる結果になり、夏前に辞めた新入部員の数は、30人近くになっていた。それはどの体育会系より、ト
ップ独走の脱落者数だ。口さがない人間などは、その脱落者数の多さに、扱きだ、苛めだと囃立てる者
もゼロではないが、文武両道を重んじる青学の中でも、テニス部はトップ独走で全国に名を連ねている
から、誰もがその実力の前に、最後には口を閉ざした。
ただ甘えた淡い憧れだけで、勤まる部活では決してないのが、全国区というものだ。全国中学校のテ
ニス部が、『妥当青学!』を合い言葉に、今年の夏も熱い戦いが展開された。そして来年も確実にされ
るだろう。作り出され、走り出した伝説の名の元に。まして今年は昨年同様、桃城と海堂、リョーマの三
人が、毎年大阪で開催されるワールドスーパージュニアに選抜されているから尚更だろう。
昨年リョーマは選抜候補に選ばれたが、理由も告げずに辞退し、リョーマ同様選抜メンバー候補に名
の上がった手塚は、肩の治療に専念すると、やはり選抜を辞退している。そんな理由で、去年青学から
選抜されたのは不二だけだった。それが今年は三人候補に選抜され、リョーマも参加し、桃城と海堂の
二人は上位の成績を残し、リョーマは見事に優勝を勝ち取っている。そんな事態だから、来年のテニス
部は更に入部者数を抱えることは、今の段階で明らかになっている。
「ったく、悪党」
フローリングの床に、大量にばら巻かれている写真の山を眺め、リョーマは少しだけ忌ま忌ましげに呟
いた。
フローリングの床の上に巻かれた写真の山に紛れ、新聞や週刊誌の切り抜きまで混ぜられているの
は、リョーマの父親である南次郎の、愉快すぎる悪戯が大半だったが、背後に隠された父親の言葉も
垣間見えてしまったから、リョーマが尚更忌ま忌ましさを抱くのは、仕方ないのかもしれない。
フローリングの床に散らばる写真の山から、一枚を拾い上げると、其処には見慣れた笑顔とは少しだ
け違う気分をもたらす、精悍な貌が刻み付けられている。
日常的に浮かべている、開放的な笑顔と少しだけ違うと感じる笑みは、それが勝利した時の満足気
な表情だからなのだろう。
「俺が発情したくなるそんな貌、してないでよ」
理不尽な呟きを漏らした時、自分がどれ程切なげにその写真を眺めているのか、リョーマに自覚はな
かった。
テニスをしている時の桃城が、情事の最中より余程雄の貌をしていると感じるのは一体何故なのか判
らなかったが、そう感じたのは遅かった自覚なら、リョーマにもあった。
初夏の陽気を滲ませた始め、周囲の光景を緑に染める鮮やかな5月の中旬。そろそろ校内ランキン
グ戦も開始される時期のことだ。
桃城の初体験相手なのだという従姉妹と鉢合わせしたその夜。それは明確な形を伴い、リョーマ身の
裡に流れ込んだ一つの形で感情だった。それは時には胸を灼く理不尽なものまで抱き込む結果に繋が
り、らしくない悋気まで覚えさせられた。
あの時、リョーマは嫌という程自覚したのだ。桃城の過去の女達に嫉妬するなど莫迦げたことだと思
っていた理性など、案外あっさり脆く崩れ去ってしまうものだと。それは自覚したというより、自覚させら
れたという言葉の方が、より正確なのかもしれない。
無心にボールを追う鋭い眼差し。夢のように遠く高い空に、誰より近付くだろう身体能力を誇るジャン
プ。ジャンプと同時に繰り出される鋭い、パワー溢れる打球。桃城の曲者度というものを、明確な形で表
現できる場所があるとしたら、それは日常的な不明瞭な部分ではなく、コートに凛然と立っている時だろ
う。
熾烈とも言える戦いの最中。まさにコートは誰にとっても戦場に変わる、後戻りのできない場所になる。四方を取り囲むフェンスの内と外。隔絶される空間に立つ時。一人で立ち向かう孤独と戦えなければ、そこに勝利はない。
試合最中。熱くなっているように見え、その実桃城は癪になる程、理性的な冷静さで相手を見据えて
いる。ダブルスを組めば、臨機応変な対応で、相手に合わせることのできる部分を持っている。そんな
臨機応変さが、桃城の曲者な部分だ。
自分のテニススタイルを崩すことなく、相手に合わせるペースをも掴める。即席のダブルスでも、相手
に臨機応変にペースを合わせることができるのは、既に実証済みだ。それこそ、十二分に曲者だろう。
そんな桃城だからこそ、曲者という言葉は、テニス最中遺憾なく発揮されている部分を指し示している
のだと、きっと桃城自身、気付いてはいないのだろう。
桃城のようにパワーのない、スピード勝負のリョーマには、桃城のパワーや跳躍力は、何処か得体の
しれない部分が潜んでいる。桃城のようにパワーがない小柄さだからこそ、リョーマや不二は、技術と
いうものを磨くことに余念がないのだから。まぐれや偶然で、テニスの名門である、青学テニス部で部長
は勤まらなければ、強豪が揃う全国大会という、中学テニス界最大の入れ物で、優勝はできない。まし
てグランドスラムジュニア部門と並ぶ『ジュニアワールド』に出場し、各国の選手と競い、上位の成績を
残せる筈もない。そんな桃城がこれから先技術を磨いたら、どれ程高みに行くのだろうか?そう考えた
時。リョーマの胸に走るのは、痛みを伴う切なさだった。
「……悪党……」
細く白い指先が、写真の角をピンと弾き、次に写真の中央に焦点が絞られる。
10月だというのに、茹るような熱さばかりを躯は覚えている。コートを取り囲む喚声と熱気。全国大会
と変わらぬ熱さ。けれど降り注ぐ陽光は明度がより深くなり、真夏の熱さと強さは其処にはなかった。
そして日常とは何処か違う笑みを見せている、桃城の背後に映る空。
桃城の勝利した熱気を灼きつけたような形の中。澄んだ空気まで映し出されている空は、確かに秋の
ものだ。高く遠い、夢のような蒼。質感のあった白い雲は、紗のような淡い被膜のような姿に形を変えて
いる。映し出されている全てのものが、夏ではないのを物語っていた。確かに一つの季節が終わったの
だという実感は、意識した途端。胸が押し潰されそうな淋しさと感傷を、リョーマに否応なくもたらしてく
る。
もう時期、桃城はテニス部を去る。去年手塚が、部長職を桃城に譲った時同様、桃城はテニス部を去
っていく。
夏の終わりは、テニス部にとっても一つの区切りなのだと、昨年3年が実質2学期の中途で引退した
時、それはリョーマが痛感したことの一つだ。
文武両道、全力で学び、全力で遊べという校風を代々受け継いでいる青学は、何処の部活も10月で
世代交代が義務付けられていた。それは部活のみならず、生徒会役員選出も同様だった。去年手塚は
十月に入って正式に、部長職という責務を、桃城に譲り、引退している。尤も何処の部活も正式に部長、副部長を次代に託しても、引継ぎや何かの関係で、大抵2学期一杯までは部活に顔を出し、なりたて
の部長、副部長に引継ぎをしていたから、手塚や不二達も、2学期一杯は部活に顔を出していた。だか
ら桃城も、10月に入り部長職を次代に託しても、引継ぎや何かの関係上、部活に顔を出していた。
去年の秋、手塚達が部活わ去った時、夏の終わりは一つの分岐なのだと気付いた。
あの時はただ漠然と、来年は桃城もああして部を去るのだと、呑気に思っていた。けれど今は違う。
部長職を次代に譲り、引継ぎに顔を出す桃城は、もう見慣れたレギュラージャージを着てはいない。
それがリョーマには何処か胸の奥が苦しくなる切なさをもたらしてくる。
桃城が部活を去る時間は、未々先の話しだと思っていた。
手塚が桃城に部長を託し、その背を見送った時、一年は長いと思っていた。けれど長いと思っていた時
間は、大した飛距離など必要ともせずあっさり訪れ、去ろうとしている。それは決して手の内にとどめて
おけない、無情な流れそのものだ。
そう思えば、眼に見える筈のない時間という流れを、掴み取り、引き千切ってしまいたい衝動に駆られ
はするが、そんなことは到底適う筈のない夢物語と同じだ。
去年手塚の背を見送ったように、冷静に桃城の背を『大丈夫だから』と後押しできる自信は、今の所リ
ョーマには勝率ゼロに等しい。もしかしたら永久に、『大丈夫』など、言えないのかもしれないとも思えた。
テニス部を全国へと導き、厳しい状況の中、全国大会を果たした部長として、桃城の名は受け継がれ
ていくだろう。決してそんな名誉を欲しがる男ではないにしても、残された者達は、そうして桃城を位置
付けていく。称賛と、彼の後輩であることと。自らもそうなりたいのだという羨望を込め。
「…あんたは、何処に向かいたいの?」
写真の角をピンと弾いた白い指先は、ゆっくり写真の中の造作に伸びる。
自分を愛したが為に、桃城が子供ではいられくなったことを、リョーマは知っている。その所為なのだ
ろう。元々子供のような面を覗かせることの少なかった桃城の、此処最近精悍な面差しから滲むものは、大人の男の気配だ。
何処に向かうのか?向かいたいのか?
去年夏から変わった桃城のテニス。変わった意味は明確な部分で判らなくても、変化していくものは嫌
でも判る。
誤魔化すように桃城に尋ねても、それは決して答えては貰えない問いだった。綺麗なものに誤魔化す
ように、桃城はその問いには決して答えてはくれない。
リョーマの我が儘の大半は、穏やかな深い苦笑でもって受け入れ、それこそ楽しげに笑っている桃城
は、けれどリョーマのその問いには、今まで答えたことはない。それは明確な部分でも、不明瞭な曖昧
な部分でも同じだった。桃城は不確かな言葉で、リョーマを安易に宥めることを嫌った。だからこそ桃城
は、リョーマに不確定な言葉を答えとして与えることはない。それは優しさの中に潜んでいる、桃城の刃
のような厳しさなのだと知っているから、リョーマは近頃のその言葉を桃城に向けなくなった。けれどそ
の分、内側に少しずつ巣喰うように、焦燥だけが取り残されていくのだと、桃城は何処まで知っている
のか、考えれば、忌ま忌ましさで腹が立った。
所詮手塚に曲者と言われてしまう桃城の内側など、外側から眺めた所で、推し量れるものは一切見
えてはこない。見えるとしたら、それは敢て見せられている部分にすぎないのだと、気付かない程リョー
マも鈍くはなかった。リョーマが不安がらない程度の部分を見せるのは、桃城にとっては造作もないも
のだろう。とても綺麗な的確な位置で、絶妙のタイミングで、そんな部分をリョーマにだけ見せる悪党ぶ
りは、やはり悪い男の見本なのかもしれない。
けれどリョーマにしてみれば、此処最近、益々男を意識させる精悍な面差しの中。深い苦笑を浮かべ
る横顔を見せつけられれば、狡い男だと思わずにはいられないのは当然だろう。桃城は、そんな部分
がとても似合ってしまう、タチの悪さがあるのだ。まして日常的な部分で、作為的に見せている盾と同
義語の笑顔とは違い、無意識にしているから尚更タチが悪い。
「あんた一体、親父と何企んでんの?」
桃城がワールドジュニアユースの選抜候補になった時。南次郎は極当然のように『それくらい選ばれ
なきゃ、困るだろう?』と笑った。そう言った南次郎は、ワールドジュニアユースの会場である大阪で、J
TAの関係者席に座っていたのだから、リョーマの驚きは、驚愕というものに近かった。
会場のJTAの席上に、父親の姿を見咎めた時。最初は眼の錯覚や幻覚だと思った。実際、リョーマに
してみれば、タチの悪すぎる冗談だっただろう。けれどそれがタチの悪い冗談でも、錯覚でもないと知る
のは、たった数秒後のことだった。
リョーマより若干後に現地入りした南次郎を、リョーマは知っていた。けれどそれは、ただ息子である
自分を応援するというより、単純にテニスを観に来たのだと思っていた。実際開催初日の朝。会場で会
った南次郎は、いつものように揶揄った調子の言葉しか掛けてはこなかった。けれど蓋を開けてみれば、そんなものは綺麗に吹き飛ばされ、南次郎はリョーマの見たこともないような表情をして、関係者席に
座っていた。
其処に居たのは、作務衣を着て、水着姿の女の写真集を眺め、享楽的に生きている父親の姿ではな
かった。関係者席に座っていたのは、テニス界では稀代の選手として伝説を作り上げてきた男だった。
その時リョーマは初めて、未だ世界で語り継がれ、稀代とされる父親の本質に触れた気がしたのだ。
威圧する圧倒さもなく、ただ当然のように、関係者席に座っている男。そんな父親の姿を見た時。無自
覚に慄えていた自覚は、リョーマにはなかった。きっと桃城は気付いただろう。けれど何も言わなかった
のは、やはり桃城も、そんな南次郎の姿に、衝撃を感じたからだろう。尤も、南次郎に手の内の殆どを
見透かされている桃城は、中途半端に南次郎からリョーマには与えてはいない言葉を聞かされてもい
たから、リョーマ程の衝撃や驚愕は、なかったのだけれど。
「ったくあんた達、何企んでんのさ」
最近では、桃城と南次郎だけではない周囲の喧騒というものも、リョーマは知っていた。
その最たる者が、手塚の尊敬していると言われる、青学高等部テニス部前部長の大和祐大で、もう
一人は、月間プロテニス編集部記者の井上だ。どちらも一癖も二癖も在る連中だ。
そんな彼等が、此処最近よく南次郎と会っている。気が会うとか、ウマが会うなどという言葉で、誤魔
化されてしまうリョーマではない。気の会うその中身など知りたくも無いが、JTAの関係者席に当然の
ように座っていた南次郎のことだ、どうせろくなことなど企んでいないのは、リョーマには丸判りだ。それ
でもリョーマが判っていることは、父親はテニスを愛している、その程度の小さい事実だった。
「ホァラ〜〜〜」
「コラ〜〜カルピン!」
今までリョーマのベッドを占領し、ウトウトしていたカルピンが、秋も深まる部活のない土曜の午後。
フローリングの床の上にばら巻かれた写真と睨めっこしているリョーマに、戯れ付くように膝の上に飛び
乗った。
「ホァラ〜」
ユラユラ尻尾を揺らし、リョーマの膝の上でひどく満悦した様子で、カルピンはリョーマの手に在る写真
に前足を伸ばした。
「コラ!」
それがリョーマの手に在る写真だからというより、きっと桃城の写真だから、カルピンも戯れ付くように、前足を伸ばしたのかもしれない。
愛嬌のある鳴き声で尻尾を揺らし、手の内の写真に前足を伸ばす赤ん坊のような仕草。前足を伸ばし
て触りたがる愛猫に、リョーマは小さい温もりを片手で抱き上げる。そんな仕草が、南次郎に言わせれ
ば、カルピンは桃城とリョーマの子供という構図に繋がるらしい。聴いた当初は、父親の眩暈ものの発
言に渋面と共に反駁していたリョーマも、今では慣れてしまったのか、時折悪戯を思い付いた子供のよ
うな表情で、桃城に向かって『パパ』とか言っては、桃城を脱力させている。だからリョーマは、今もそん
な科白を独語に呟くのは、抵抗もなかったのだろう。
「もうじき、パパ来るよ」
家族以外には人慣れしなかった愛猫が、どういう訳だか桃城にはひどく懐いている。それは時には飼
い主であるリョーマ以上に、桃城の言葉に反応することからも明らかだ。それも決まって、タチの悪いこ
とばかり、カルピンは桃城の言葉に反応するから始末に悪い。
「ホァラ?」
人語が理解できる筈のない愛猫が、けれど桃城を現す名を告げる時。キョトンとした仕草で、ご機嫌に
尻尾を振るのは自分の思い過ごしで見間違えなのか?リョーマには時折判らなくなる時がある。リョー
マの腕の中、カルピンはご機嫌に鳴き声を上げている。その鳴き声が、リョーマを呼ぶ時は『ママ』って
呼んでるぞと、揶揄するように笑うのは南次郎だった。
「大体、カルの写真整理しようと思ってたってのに」
床の上に巻かれている写真は、ワールドジュニアユースのものが多いが、元々リョーマは愛猫の写真
を整理するのに、アルバムを引っ張りだしていたのだ。そんなリョーマに、これも整理しとけと、笑って床
の上にバラバラ巻いていったのは、南次郎だった。ご丁寧に、写真ばかりか新聞や雑誌の記事まで紛
れ込んでいるのは、リョーマに対する悪戯なのが明白だ。けれどただ息子を揶揄する道具として、写真
や関係雑誌の切り抜きを、南次郎がしている筈もないのも、リョーマには明白だった。
リョーマの視線が、床に巻かれた写真に伸びる。その写真の中には、一体いつ撮ったのか、手塚の
写真もあったりした。
写真の中の手塚は、青学のレギュラージャージを着てはいない。
「そこは、遠いですか?」
不二は一体どんな気持ちで、異国へと旅立つ手塚を送り出したのか?手塚はどんな想いで、不二の
気持ちを受け取ったのか?リョーマに判るものはなかった。判るものと言えば、誰の眼から見ても明ら
かな程、二人は二人でしかないと言うこと程度だった。
「部長……」
リョーマにとって、手塚は今でも部長だった。それは桃城や海堂という、手塚と共に全国を戦った当時
の部員なら、誰もが同じだった。当の桃城自体、手塚引退後も、校内で会ったり、部活に顔を出す手塚
に、臆面もなく『部長』と呼んでは、手塚の渋面を誘っていたから、今でも手塚はリョーマ達にとっては、
部長で在り続けている。
『越前、お前は青学の柱になれ』
入部してさした時間の経たない中。微塵の迷いもなく、端然と手塚に言われた科白だった。
あの時、手塚はどんな思いで、その言葉を告げただろうか?リョーマには今も判らない。入部したての
一年生に、その科白を言えたのだろうか?
それが継承なのだと、リョーマが思い知ったのは、去年の氷帝との決勝戦での手塚の試合を観た時
だった。手塚が伝えようとしたもの。残そうとしたもの。託そうとした想い。言葉ではなく、鮮明に残るカタ
チとして。言葉ではない分、それは誰の胸にも鮮明に灼きついたものだった。
『君はもっと、沢山のテニスを経験するといいですよ。盗んでコピーして再構築して。それは還元されて来る時、君の中でもっと違うカタチになっているでしょう。その時初めて、それは君のものになるんです』
『それは確かに君の手で、それは無二と言うんです。無二とは、二つとないという意味なんですよ』
『同じようで、同じものなんて、本当は二つとないんですよ。変えるのも、決めるのも、君自身です』
大和と会ったのも、あの時が最初だった。大和は、何処まで知っているのだろうか?メガネに隠された
表情の奥に、知っているのだという気配を滲ませて。
『お前は、お前の道を行けよ。俺は俺の道を行くから』
「俺はもしかしたら、来年は無理かもしれない」
柱になれと言われたその意味を理解した時。初めて、手塚の背負っているものの重さと大きさが判っ
た。判った時。足許が慄えたのを、リョーマは今でも克明に覚えている。
一人で背負うものの重さや大きさ。そんなものを背負っていると思わせない手塚の存在感。確かに手
塚は、あの時、青学の部長であり、柱で、それ以上のものを背負っていた。
だから柱になれと言われた意味を理解した時。リョーマは託してくれた手塚の想いに、応えようとした
のだ。だからそう在った。けれどもしかしたら、来年は無理なのかもしれないという漠然としたものが、リ
ョーマの内側を過ぎった。
「あんたが……」
手塚の写真から、誰より大量に在る桃城の写真に視線が伸びた。
「自分の道を歩けなんて、人非人なこと言うから」
いつの間にか、気付けが腕の中から、愛猫の重みは消え去って、カルピンはリョーマの膝の上、キョト
ンとした仕草で、写真を眺めている。
「俺にテニスを棄てさせてくれない、悪党」
何も知らなかった幼い躯を開き、たった一人の男しか知らない女にした悪党。恋情なんていう化け物じ
みた感情を、甘いものばかりではない恋というものを教え、たった一人の男に焦がれる雌にした男。
「俺を娼婦にした悪党のくせに、最後の最後で甘やかしてくれない」
その存在や熱に餓え、自分がどれ程浅ましい想いを抱いて過ごしているかも知らない莫迦な男。
「俺を雌にして、それでも未だガラスケースにいれるみたいに大切にしている莫迦」
綺麗なものより、余程醜いものを抱く内側も知っているだろうに、桃城はいつだって莫迦みたいに慎重
だと、リョーマは苦々しく呟きを吐き出して行く。
「だから俺は、歩くしかできなくなる」
自分達の未だ知らなくていい言葉は限界なのだと、笑って告げた悪党がいるから、リョーマは歩くしか
術がない気分にさせられる。気付いたら、退路など綺麗に切り捨てられている。甘い顔をして、優しい言
葉を吐き出して、莫迦みたいに過保護なくせに、桃城はやはり曲者なのだと、こんな時嫌でも気付かさ
れて行く。退路など、当の昔に消え失せていたのだと。
「部長、その場所は、遠いですか?」
桃城から手塚に移した視線の先、リョーマが見ているのは、別の場所だった。その瞬間、泣き出しそ
うに呟いた声の細さに、リョーマに自覚はなかっただろう。
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