「ったく、無防備な顔して。風邪ひくだろうが」
桃城がリョーマの部屋に訪れた時。リョーマは床の上で靭やかな姿態を丸め、その胸元に愛猫を抱き
抱え、眠っていた。
「大体なんでベッドじゃなく、床で寝てるんだ?」
夕刻に差し掛かる秋の時間帯。気温は夜に向け急速に冷えていく。秋の夕暮れは釣瓶落としと言わ
れる程、温度や周囲の色は、瞬く間に変化する。そんな時期、冷たいフローリングの床の上。ケットも何
も掛けずに薄着で寝ていれば、簡単に風邪を引く。現にリョーマは寒いのだろう。桃城の足下で丸まっ
て眠る姿は、愛猫を胸元に抱え込み、暖を取っているように見えた。
桃城は、リョーマの足許に膝を折ると、出会った当初からさして変わらない、小柄で華奢な姿態を抱き
上げた。
もう何度となく肌を合わせ、その華奢さも軽さも心得てはいるものの、情事でなく無防備な態を曝すリ
ョーマを、抱き上げた記憶が、桃城にはなかった。あまりに拍子抜けする軽さに、桃城は苦笑する。まる
で中身など詰まっていないかのような軽さは、自分とさして違わぬ量を食べるリョーマの、一体何処に
蓄えられているのか、不思議が気がした。
「本当、ちっこいなお前」
リョーマに面と向かって言えば、憮然となるに違いない科白だった。
中学2年になった今でも、リョーマの体格は骨格の細さの違いなのか、華奢な印象が強い。自分の姿
態の華奢さに、さしてコンプレックスなど持たないリョーマでも、そんな科白を面と向かって吐いては、そ
の後の桃城の運命など、決まりきっている。怒って口を聴かないなどという、正攻法の手段を取る程、こ
んな時のリョーマは、桃城に対して可愛い性格などしてはいない。
出会った当初と変わらぬリョーマの小柄さは、知り合って1年半の間、互いに成長しているから、二人
の身体的造りはさして変化しないことになる。
桃城にとって、リョーマは相変わらず小柄で華奢な存在だ。けれど其処に脆弱なものは、微塵も感じ
取れるものではなかった。
トサリと小さい擬音を立て、ベッドが軋む。桃城はカルピンごと、リョーマをベッドに寝かせた。動かされ
ても起きる気配のないリョーマに、桃城は微苦笑する。
「昼間から、熟睡してるなよ」
ギシリと鈍い音を立て、桃城はリョーマの枕元に腰掛ける。リョーマと一緒に抱えて移動させたリョー
マの愛猫も、目覚める気配もなく、おとなしく寝入っている。
「本当、親子っていうか、兄弟っていうか」
南次郎が時折冗談のように新婚夫婦と子供の図だと笑うが、こうして眺めていれば、それは愚にもな
らない科白ではないのかしれない。二人揃って熟睡している寝顔など、何処か似ている気がしたリョー
マとカルピンだった。
「何やってたんだか」
無防備すぎる寝顔を曝すリョーマの柔髪を梳きながら、桃城は改めてフローリングの床に視線を向け
る。
「この前のか」
床の上に巻かれるようにある写真達。それはリョーマの胸元で寝ているカルピンのものも多いが、同
じ分量、ジュニア大会の時のも混ざっていると気付いた。リョーマが好んでそんな写真を床に並べると
は思えない以上、それが誰の仕業か、桃城には簡単に推測が付くものだった。リョーマに対してこんな
悪戯をできる人間は、一人しかいない。もう一人居るには居るが、彼女が仕掛ける悪戯ならば、逆にこ
んな可愛いものではないだろう。おっとりした外見にキャリアの肩書きを持つ越前倫子は、流石南次郎
の妻であり、リョーマの母親という性格をしている女性だった。
「喫驚、したよな」
節の有る指先に、引っ掛かることなく流れていく見事な翠髪を無自覚に梳きながら、桃城は繰り言の
ように呟きを漏らす。
もう少し経ったら、約束から1年が経つ季節になる。真冬の夕刻。桃城が南次郎と交わした約束を、リ
ョーマは知らない。それがリョーマに苛立ちとも焦燥とも言えない不安定な部分を与えてしまっていると
知って尚、桃城はリョーマに言葉を告げなかった。
「俺もまぁ、喫驚はしたんだけどな」
薄々南次郎の本職が何処に在るのか気付いていたとはいえ、大阪のワールドスーパージュニアの会
場で、関係者席に堂々と座っているとは思わなかったと言うのが、桃城の本音だった。けれど自分は未
だいい。元々南次郎とは取り交わしている約束がある。其処から推し量れるものは微々たるものでも、
情報としての差は、リョーマと桁が違う。
だからリョーマが大阪の会場で、関係者席に座る父親を見た時。当然の顔をしてその場所に在る南
次郎に、リョーマが無自覚に慄えていた理由を、桃城は気付いていた。
飄々とした気配に全てを紛らせていた南次郎だ。底の見えない飄々さの背後など、リョーマに探り当
てられる筈もない。だから南次郎がJTAの関係者席に座っているのを見るまで、リョーマは南次郎の目
的を知らずにきたということだ。きっと今もリョーマは、明確な理由や意味など、判ってはいないだろうと
桃城には思えた。
「お前は、ちゃんとお前の道を歩いてくれよ」
それは桃城が最初から持ち、最後まで持ち続けていく願いだった。
リョーマにテニスは棄てられない。リョーマにとってテニスは、既に呼吸するのと大差ない程、自然なも
のだからだ。あまりに自然すぎるから、棄てたらどうなるのか、リョーマに自覚は湧かないのだろう。
「なぁ?本当に変わらないもんなんて、死体でもないんだぜ?」
独語に呟く桃城の指先から、サラサラと柔らかい髪が流れていく。
死体すら、腐食し変化していく。かつて人間だったものは心臓が停止した瞬間から血流が止まり、死斑
が現れ硬直し、ゆっくり人間ではないものへと変化を遂げる。死人だって、変化なくしてはいられないの
だ。
「だから、怖がらないでくれ」
安定と定着は意味が違う。死体すら変化するのだ。かつて人間だったものが、変化の過程を経て土
へと還るなら、生きている人間にとって、変化は『生』そのものだ。
「忘れないでくれよ」
二人で居たいと思った気持ちを。変化が成長であるように。その為に今何をすべきなのかを、見失わ
ないように。
『向こうさ、俺が住んでた世界だよ。今は部長の居る国』
雨で滲む視界だったくせに、嫌に明瞭に、自身の内界に焼き付いているものだと思えた。
『もしかしたら、あんたに見せたかったのかもしれない』
桃城の誕生日。連れだって行った雨の海は、錫色に彩られた世界だった。そのくせ遮蔽物を一切排
除した鈍色(にびいろ)の海は、空とはまた趣の違う果てを連想させ、クリアーな視界に見渡す水平線
の彼方は、さして過去とならない時間、自分を育んできた国が在るのだと桃城に告げた時。海に来たか
った理由が、リョーマの中でも明確に形を伴ったものだった。
それは見せたかったからだ。水平線の彼方に在る国。自分を育み育てた世界。あの国がリョーマを育
てた。けれどもうリョーマにとって、その場所は帰る場所でも戻る場所でもなく、回帰する為の通過点の
一つになっていた。
波に切り崩され、摩擦音を立て崩れていく足許の砂。その脆い足場は、まるで架空の未来を語る程に
不安定で、クリアーな錫色の世界は、同時に喪失の予感も深くした。
雨に彩られた静かな世界は、まるで水底に沈み込んでいくような錯覚をもたらし、日常という時間から
切り取られた隔絶された世界を連想させた。
歩く都度、サクリと足許で鳴る砂の音。崩れていく脆さ。地球の胎動のように、寄せて返す波音。
サラサラと心地好い感触と、聞き覚えのあるような無いような、微妙な音が、耳に心地好く纏い付く。
『辿り着いたな』
『遅いっスよ。待ちくたびれた』
『バーカ、早かっただろうが』
夏のような茹る熱気と、狂喜じみた喚声と喝采。見知った懐かしい顔触れ。雲ひ一つない晴れた青空。待ち望んでいた瞬間。その時、周囲の喧騒は全て綺麗に消え去った。
莫迦みたな喚声も、熱気も。羨望も何もかも。
肌を嬲る心地好い緊張と、対峙する恐ろしさ。真剣で切り付け合うかのようなラリー。打っては返され、
行き来するボールは、会話だ。
『ライバルだったら、離れないですんだの?』
『お前が、怖がるからだよ』
『恋人じゃなかったら、離れないですんだ?』
『俺は、お前のライバルにはなれなかったか?』
『俺はずっと思ってた。あんたとこのまま、何も変わらなかったらよかったのにって………』
『変わらないものなんて、本当は死体だってないんだぞ?』
『あんたが居なかったら、俺なんて死んでるのと同じ。あんたが居なかったら、息もできない』
『お前は、変わってくことが、罪だとでも思ってるのか?何が、怖い?』
『あんたが、俺を見捨てること』
『俺が醜い生き物だって、あんたはちゃんと知ってるから。いつかその醜さに、あんたは堪えられなくな
る』
『ねぇ?桃先輩』
『死んでくれるの?』
『お前が、俺を殺せるんならな』
『なぁ越前?一瞬先に、何もかも脆く崩れ去ってしまっても、俺はお前と居たいよ』
『お前を愛してる。この言葉に何の意味も見出だせなくても、俺はお前と一緒に居たいと思うよ』
『ずっと、ずっと、ずっと………一緒に居たい。きっとあんたの好きと俺の好きは、カタチが違うかもしれ
ないけど。俺はずっと、あんたに恋し続けていく子供でも』
肉片も細胞も何もかも燃やし尽くしてしまったとしても。何一つの欠片も残らなかったとしても。それで
も、この気持ちだけが残っていくならそれでいい。絶望する程深い恋情が残るなら。
『ずっと死ぬまで、一緒に居たい』
子供の絵空ごとのような誓約を。絶望に近い恋情を。
きっと死ぬまで、苦しみ続けていくだろう戀。引き合う糸のように、脆く儚い言葉を紡いでいく心。それで
も、止められない想い。絶望に漬かり込む程心地好い、泥沼のような生温さ。
サラサラ心地好い感触をもたらす馴染んだ音。切り崩されていく砂のように。不安定な足場のように。
架空の未来を紡ぐように。引き合う糸を、語る言葉を繋ぐように。
サラサラ流れていく音が、リョーマの耳に届く。
□
「越前?」
「ん………」
「お前…何泣いてんだよ」
泣いているというには、多分に語弊のある言葉ではあるが、桃城の視界の中。無防備に寝顔を曝すリ
ョーマの閉ざされた目端に、一欠片の光の雫が流れた。
「変な夢、見てるんじゃないんだろうな」
勝ち気なリョーマが、泣く意識なく涙を零す夢など、どうせろくなものじゃないと、桃城は攅眉すると、
半瞬迷った後。ヘッドレストの上に有る、水色の時計に視線を移す。
それは以前リョーマにねだられ、桃城が買ってやった水色の時計で、中央に可愛い魚のイラストが描
かれている。以前のものは、寝起きの悪さを発揮したリョーマが、桃城の前で床に放り投げ、壊してい
た。その時計は、4時半を少し回った時刻を示しているから、桃城は部屋を訪れ1時間近く、リョーマを
寝かせていたことになる。
「越前、起きろ」
薄い肩を揺さぶれば、リョーマは軽い吐息を漏らし、長い睫毛が揺らいだ。
「ホァラ」
「タヌキの方が、寝起きいいじゃないか」
リョーマの腕に包まれていたカルピンが、眠たげな鳴き声を上げ、前足で顔をこすっている。
「ママァ〜〜〜」
「……ん?」
どうにも近頃リョーマの愛猫の鳴き声は、リョーマを呼ぶ時、『ママ』と鳴いているように聞こえる桃城
は、眠たげに発せれた鳴き声に、首を捻った。
「………お前今『ママ』って鳴いたか?」
前足で顔をこすりこすり、リョーマの腕から飛び出してきたカルピンを抱き留めると、桃城は苦笑しつつ
問い掛けた。
「コラ越前起きろ。子供の方が寝起きいいんじゃ、母親失格だぞ」
薄く細い肩を揺さぶれば、リョーマの眼がぽっかりと開いた。
「起きたか?そろそろ支度した方がいいぞ」
唐突に開かれたような瞳。けれど其処にはいつものような色も光もない。ただ色素の薄い綺麗な空色
が、虚ろを連想させる不安定さで、瞬きを忘れて桃城をジィっと凝視している。
「………桃先輩………?」
寝惚けた声は、疑問符を付け桃城を呼んだ。
「越前?どうした?」
普段から、最悪的に寝起きの悪いリョーマを桃城は良く知っている。共に朝を迎えた回数など、既に
数えることも放棄している程だ。だから不安定に自分を呼ぶ寝起きのリョーマには、逆に桃城は怪訝に
なってしまう。
時折不安定になるリョーマを知っているものの、寝起きの直後、こんな不安定な姿を曝すリョーマを見
るのは、桃城にとっても、初めてことだった。
「…桃先輩……」
「越前?」
ケットの中から、細い腕がスルリと伸び、桃城の腕に触れる。そんなリョーマの様子に、桃城は益々
攅眉し訝しむ。
「桃先輩だ…」
触れる体温に安堵したかのように、リョーマははんなり笑うと、シーツの上を這うように動き、桃城の前
で上半身を起こし、胸板に倒れ込む。瞬間、桃城の片手で抱き上げられていたカルピンが、抗議するよ
うに一声鳴いて、トンッとベッドの上に着地する。
「越前、お前どうしたんだよ」
らしくない様子のリョーマに、桃城は倒れ込んできた小柄な躯を緩やかに包むと、肩口に埋まっている、小作りな顔を覗き込む。
「なんかさ」
交睫している長い睫毛が揺れているのに、桃城はサラリと髪を梳いてやる。
「夢の中でも、聞こえてた」
「ん?」
「この音」
サラサラと流れていく音。馴染んでいた筈だ。それはもう反駁すら諦めてしまった桃城の癖で、桃城以
外には、許していないものだった。桃城になら心地好い安堵をもたらされる髪梳く行為も、桃城以外の
男にされれば、それは嫌悪と直結してしまう。
「音?」
けれど桃城に、未だ寝ぼけた様子で、それでいて何処か幼い子供のようにクスクス笑うリョーマの言
葉の意味など、判る筈もなかった。それはリョーマだけが知っている音だからだ。
「俺だけが知ってる音」
悪戯を思い付いた子供のような、反面、何処か情事の最中の妖冶な気配を滲ませる娼婦のような貌
で、リョーマは笑っている。日本人形のような忍び笑いを漏らしていない分、情事の最中より、タチが悪
くは無かったが、快感を極めてしまった処女のような貌で、リョーマは笑っている。
「桃先輩」
スルッと、桃城の背に両腕が回る。それは何処かネコの仕草を桃城に連想させた。
「不安とか欲望って、元々は同じものなんだって、俺判った気がするよ。欲望が高まれば、不安は増す。それってさ、美徳が深まれば悪徳が増すって言うのと、何処か似てない?最後は共喰いって感じ。き
っと、勝った方の気持ちが、残るんだよ」
切なさも映さず可笑しそうに笑うリョーマに、桃城は痛ましげに柳眉を歪め、
「お前、何か悪いもんに取っ憑かまったな」
細い躯を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「今のお前は、寝惚け色って言うんだ」
痛ましげな様子など、大仰に溜め息を吐く貌の下に綺麗に隠し、桃城は深い苦笑を吐いた。
「何それ?」
どうせ俺は寝起き悪いよと、漸く頭が覚醒してきたリョーマが憮然となる。その様子に、桃城が内心、
安堵の溜め息を漏らしたのを、リョーマは知らないだろう。
「潤み色とも言うな、確か」
「………何処の女に、教えられた訳?」
憮然と桃城を睥睨すれば、桃城はひどく大人びた深い笑みで自分を見ているから、リョーマは半瞬戸
惑った眼差しを見せた。
「お前本当、俺の認識、間違ってるぞ」
「あんたの無駄な知識なんて、1から10まで、女に教えられた無駄知識じゃん」
今流行の、なんとかってテレビと同じと、リョーマが反駁すれば、桃城はやれやれと溜め息を吐き出し
た。
「目覚めたばっかの時の、ぼんやりした意識の色だよ」
だから今のお前だと、桃城は長い前髪を梳き上げた。
サラサラと流れていく、曖昧に色付く夢の中でも響いていた音。柔らかい音に、リョーマは擽ったそうに
肩を竦めた。
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