倖せ色 act1

Colors










 床の上に巻かれている写真達や、新聞や雑誌の切り抜きをそのままに、リョーマは人間椅子よろしく、桃城の胸板に細い背を無防備に預けている。そんなリョーマの膝の上には愛猫のカルピンがチョコン
と座り、リョーマの足許にある写真達に前足を伸ばしては、リョーマにダメと止められ、その都度愛嬌の
ある鳴き声を、何故か飼い主のリョーマにではなく、桃城に上げていた。そして桃城はといえば、ベッド
に背を預け、華奢な姿態を背後から緩やかに抱き込む格好でクッションを床に敷き、座っている。南次
郎が見たら、完全に『新婚夫婦と子供の図』と笑う構図だろう。
「大体お前、床の上で、毛布も掛けないで寝てるなよ。風邪ひくだろうが」
 無防備に自分の胸板に背を預け、両手で包む様に、湯気の立つマグカップを持っているリョーマの横
顔を覗き込めば、繊細な面差しが少しばかり憮然としているのが判り、桃城は先刻のリョーマの寝顔を
思い出す。
 夕方からは、元レギュラー陣達と鍋を囲む約束になっているから、三時ぐらいに迎えに来ると言ってお
いた。そして約束どおり来て見れば、玄関チャイムを鳴らしても、一向に内側から扉が開かれる様子は
なく、桃城は大きく攅眉し、今時珍しい引き戸の玄関扉に手を掛けた。
 少しだけずらせば、それは抵抗なく開かれていく感触が伝わり、けれどほんの数ミリ開いた時点で、
桃城は手を止めた。
 いくら勝手したたる他人の家で、今ではほぼ週末ごとに、リョーマの部屋に泊まっている、南次郎に言
わせれば『半同棲状態』とはいえ、他人の家に勝手に上がり込む躾を、桃城はされてはいなかったから
だ。
 警察官の父親を持つ所為か、幼少時から、危機管理能力を養われてきた桃城にしてみれば、昼間と
はいえ鍵も掛けず、中から人の気配が伝わってこない有様というのは、十二分に危機管理能力が劣っ
ているということになる。
 日本の安全神話は過去のことだ。今では毎日発生する事件群に、警察の対応能力も限界を超えてい
る。発生する事件自体が、想像を超えた部分で発生しているのを考えれば、昼間とはいえ、不用心にも
鍵もかけないというのは、桃城に言わせれば、無防備というより、安全性に欠けるというものだ。それで
なくても昨今は物騒な事件が頻発し、安全は金を払って買うという時代だ。昔のように、地域が密接し、
地域社会が形成されていない現代社会では、金をかけ、セキュリティーシステムを厳重にしている家庭
は増えている。そしてその地域の密接性のなさが、頻発する事件群の、早期解決の妨げになっている
のも現実だ。地域の密接性がないから、不審人物の特定も難しい。だから現代は、安全は金で買うし
かないのだ。それなのに、リョーマの家は、鍵一つ掛けていない不用心さだったから、桃城が内心頭を
抱えても仕方ないだろう。
 さてどうしようかと思案し、玄関先で携帯を取り出し、リョーマの所在を確認しようとした時、突然気配
の一つもなく、背後から声を掛けてきた南次郎は、お前を住居侵入罪で訴えたりしないから、さっさと入
れと笑った。
 そして勝手したたる階段を上り、リョーマの部屋に入った途端、目的人物は愛猫と共に、フローリング
の床の上に、無防備に丸まっていていたという顛末が付く。そして桃城はといえば、無防備すぎる寝顔
に、取り敢えず風邪を引かす訳にはいかないと、二年になっても相変わらず華奢な躯を抱き上げベッド
に横たえ、そして穏やかすぎる寝顔を一時間近くも眺めていたから、当然、人のことを言える権利は何
処にもなかった。
「コラ、聴いてるのか?」
 無防備に背を預け、両手でマグカップを持っているリョーマからは、返事もない。
「越前」
「聴いてるよ。だって、仕方ないじゃん」 
 桃城の微苦笑を滲ませた声に、リョーマは益々憮然となり、掌中のマグカップを揺らした。けれどその
口調が、子供じみた拗ねたもの滲ませている自覚は、リョーマにはないだろう。
 ネコ舌のリョーマは、すぐに熱いものが飲めない。だから桃城が淹れてくれたホットココアも、すぐに飲
める代物ではなく、リョーマは冷えた躯を暖めるように、マグカップを両手で持っている。
 リョーマの部屋に持ち込まれて久しい桃城の日常の中、顕著なのは、リョーマの部屋のクローゼット
に、置き去りにされては増えていく一方の桃城の衣類だろう。秋も深まる今の季節、リョーマが現在着
ているのは、桃城が去年の冬に持ってきて、そのままリョーマのお気に入りになってしまった、オレンジ
色のモヘアのセーターだ。一見すると手編みに見える、ザックリしたセーターが、此処最近のリョーマの
お気に入りだ。
 一回り以上大きい桃城のセーターは、リョーマの細い指先まで隠してしまい、憮然とした様子でマグカ
ップを手にしている姿は、歳相応の子供さが滲み出て、桃城の笑みを誘うには充分すぎる姿だった。
「何が仕方ないって?」
 桃城がヤレヤレと大仰に溜め息を吐き、長い前髪を梳き上げてやれば、リョーマは少しだけ擽ったそう
に薄い肩を竦め、桃城の胸板により深く、薄く細い背を預けていく。
 一体どんな夢を見ていたのか?先刻のリョーマの穏やかな寝顔と同時に思い出すのは、起きる直前、目尻に涙を溜めていた、少しだけ哀しげな貌だった。あんなリョーマの寝顔を、桃城は見たことがなか
った。
 桃城がリョーマの寝顔を見守ってきたのは、それこそ今更の回数だ。けれど眠りながら哀しげに涙を
流すリョーマの姿というのは、桃城の記憶の中にはいものだった。何よりリョーマの涙を見た記憶も桃城
にはなかったから、眠りの中にいるリョーマが、一体何を哀しみ泣いていたのか、桃城に推し量れるも
のは何一つない。尤も、汪然となる姿自体は見たことがないものの、綺麗な貌を泣きそうに歪め、いっ
そ泣いてくれた方がマシだと思う表情は、幾度も見てきている桃城だった。それでも、リョーマは決して、桃城の前で涙を見せたことはなかったから、一体何がリョーマを哀しませ、夢の中で涙を流させたの
か、桃城に判るものは何一つない。
 だから表情にこそ出さないことに成功したものの、桃城は多少なりとも困惑したのだ。まして寝惚けた
様子とは裏腹に、奇妙にしっかりした声で、あんな台詞を言われれば、心配するなという方が無理だろ
う。
 物騒な科白だと思えば、リョーマは一体何処まで理解して、言葉にしたのかとも思う。
不安と欲望が同じものなら、愛と狂気さえ、紙一重の代物にすり代わってしまう危うさを秘めている。
それはいずれ狂気さえ、快楽に転じてしまう奈落のようなものだろうに。
「眠くなっちゃったんだから」
 少しばかり拗ねた口調で話しながら、リョーマは手元で甘い香りをたてているココアに、舌先を伸ばし、温度を確かめる。
 ネコ舌で、熱いものを熱いままに飲めないリョーマは、舌先で温度を確かめてからでないと、熱いもの
を飲めないし、食べられない。以前それで口内に火傷を負ったことがあるから、極自然と身に付いてし
まった習慣だった。けれどその仕草が拗ねた口調と相俟り、ひどく子供じみている自覚はリョーマには
皆無だった。リョーマが他人の前で、拗ねた口調を滲ませるのはそう滅多にあるものではなかったから、その無自覚な無防備さが、桃城を倖せにするのだと、きっとリョーマは知らないだろう。
 床で寝ていた所為で冷えた躯は、それでも桃城がそう大した時間掛からず来たおかげか、ベッドに寝
かされた所為だろう。冷えてはいなかったが、けれど寝心地のいいベッドになど寝かせられてしまった
から、余計安心して眠ってしまったのだ。まして桃城の気配があるとなれば、リョーマが安心しきってし
まうのも無理はない。リョーマにとって桃城の気配は、何より安心できる場所だからだ。
「大体、桃先輩来てたんなら、もっと早く起こしてくれればいいのに」
 理不尽極まりない科白さえ吐いて、両手で包んだマグカップを緩やかに揺らせば、それはより深く豊
潤な甘さを漂わせ、リョーマの細い指先から、ゆっくり体内に熱が行き渡る心地好さがあった。体内にじ
んわり浸透していく生温い温かさは、何処か優しさと似ている思うリョーマだった。
「そりゃお前がタヌキと一緒にって、気持ちよさげに寝てたから悪いんだろうが」
 少しだけ憮然とした様子で悪態を吐き出すリョーマに、桃城は深い笑みを漏らし、なぁ?タヌキと、リョ
ーマの膝に抱えられているカルピンに笑い掛ける。
「………親バカ…」
 そこでカルピンに笑い掛けるから、南次郎に親子と言われてしまうのだと、リョーマは呆れた溜め息を
吐き出した。
「ママァ〜〜」
 人語を理解する筈もないリョーマの愛猫は、けれど桃城の言葉が判るかのように、ご機嫌に鳴いては
尻尾を振っている。
「………タヌキはめっきりマジで、お前のことママって呼んで鳴いてるよな」
 いい加減、リョーマの愛猫の鳴き方にも慣れたとはいえ、リョーマより少しばかり濃い蒼瞳で、無邪気
にママと鳴かれては、脱力するしかない桃城に、きっと誰も同情してくれる者は、いないだろう。
 南次郎を筆頭に、この家で、今更桃城をお客様扱いしてくれる者は存在しない。週末毎に息子の部屋
に泊まり込み、そればかりか、極当たり前の顔をして、日常の一部をリョーマの部屋に持ち込んでいる
人間を、今更誰もお客様扱いしないのは、当然の結果だろう。まして息子の部屋に泊まりこんでいる理
由の一つには、セックスもあることを、南次郎は正確に認識しているから尚更だ。それでも咎める言葉を
口にしないのは、リョーマにとって、桃城という存在を見誤らないからだ。まして家族にしか懐くことをし
なかった愛猫が、桃城が来れば甘えた声をあげ、抱っこをねだるとなれば、これはもう完全に新婚夫婦
の図だと南次郎は笑いながら、リョーマをママと呼んだりするから、どうにも去年の秋あたりから、カルピ
ンの鳴き声が変化したように聞こえて仕方ない桃城だ。そしてそれは幻聴ではなかったから、より始末
に悪い。
「桃先輩にもそう聞こえるんだ。だったら俺の空耳じゃなかったんだ」
 リョーマの耳にも愛猫の鳴き声は、時折自分に向かって鳴く声が、どうにも『ママ』と、赤ん坊のように
鳴いている気がしたのだ。けれどそれが桃城にもそう聞こえるなら、自分の幻聴でも聞きまちがいでも
ないのだろうと、リョーマは座の上の小さい温もりに視線を移した。
 元々愛嬌のある鳴き声をしていたカルピンだから、鳴き方が紛らわしいだけだろうが、近頃どうにも『マ
マ』と鳴かれている気がするのは、南次郎のいう『親子』だの『ママ』だの『パパ』だの、ふざけている部分の刷り込みなのかはリョーマにも桃城にも判らなかった。
 桃城とリョーマの二人の視線の前で、カルピンはまろい瞳をキョトンと瞬かせ、ご機嫌に尻尾を振ると、前足を再び写真に伸ばす。どうにも床に散らばるそれが気になるらしい。
「コラ、カル」
 両手で持っているカップを片手で持ち替え、片手で愛猫を抱き上げれ、リョーマの腕の中で、カルピン
は背後の桃城に向かい、抗議の声を上げるように前足を伸ばしている。それはまるで、抱っこをねだる
子供の仕草そのものだ。
「ママ、ケチだな」
 リョーマがカルピンを抱く恰好を見れば、母親と赤ん坊だと笑う南次郎の台詞も、判る気がする桃城だ
った。
「誰がママ?」
「親父さんの受け売り」
「あんたまで、真似しないでよ」
 だからカルピンが真似するんだと、リョーマは憮然となる。
「そりゃお前だって同類だろ。俺のこと、タヌキに向かってパパって呼んでるだろうが」
 リョーマが愛猫に向かい、時折冗談のように自分のことをパパと呼んでいるのは、桃城にとっても今更
だ。最初こそ意趣返しだったのだろうその呼び名は、重ねる時間が増える一方の中では、今では日常
的に使用されてしまっているものだったから、南次郎に言わせれば、立派に新婚夫婦だと言うことにな
るし、ひょんな事情から、リョーマと桃城の、軽口にしか聞こえないそのやり取りを聴いてしまった元レギ
ュラー陣が、内心バカップルと、溜め息を吐いてしまっても、それは仕方ないだろう。けれどそのバカップ
ルが、ただ恋に恋する無知なガキの恋愛関係を育んでいないことだけは判るから、彼等は何も言わず、
見守っているのだ。
「カルがいつか、あんたのことパパって鳴いても、知らないからね」
「まぁ別に今更だろ?」
「何が今更なんだか」
 桃城の台詞に、リョーマは呆れて薄い肩を竦ませる。
片手に抱いた愛猫は、家族以外にはまったく懐くことのない、人慣れしないネコだった。それが不思議
と桃城には懐き、気付けばこの家に桃城が来れば、飼い主のリョーマより、桃城に懐く傾向にあった。
 今も背後の桃城に抱っこをねだる子供のように前足を伸ばし、尻尾を振っている愛猫と、その愛猫を
可愛がる桃城を見れば、桃城とカルピンも、充分親子だと思うリョーマだった。
「パパって鳴いてみるか?」
 前足を差出てくるカルピンを、鷹揚に笑いながら、背後から掬い上げるようにリョーマから受け取ると、
桃城は赤ん坊を抱き抱えるように抱き上げてやる。
「ホァ〜〜〜〜」
「やっぱ、パパは無理だよなぁ」
 抱えた腕の中、リョーマと良く似た仕草で、キョトンと小首を傾げるカルピンに、やっぱりペットは飼い
主に似るもんだなと思う桃城だった。
「そんで、お前。その大量に巻いた写真はなんなんだ?」
 当初この部屋に足を踏み入れ、桃城が最初に感じた疑問を口にする。尤も、この状況を見れば、それ
は瞭然な程、明らかだ。
「カルの写真が溜まってたから整理しようと思ったら、親父の奴が巻いてった」
 軽口を叩きながら、こいつも整理しとけと、南次郎は写真や新聞の切り抜き記事を、床に巻いていった。その時の状況を思い出し憮然となるリョーマに、桃城もその時の様子が窺えた。 きっと盛大に軽口を叩きながら、南次郎はリョーマの前に、写真を巻いていったのだろう。口ではなんだかんだと言いつつ、南次郎がひどくリョーマを大切にして、甘やかすだけではない厳しさで見守っているのを桃城は知っている。そして大人の建て前の深慮を、言葉に出すことのない南次郎に、試されているのも判っている。
だから床に巻かれている写真の束を見た時、言葉にされない南次郎の真意も判ってしまったから、桃
城は安易に笑うことはできなかった。
「いい写真あったか?」
 言葉にされることのない、南次郎の真意。それは去年の正月、突き付けられた刃と牙と同質のものだ。けれどそれをリョーマの前で悟らせてしまう程、桃城の精神値は低くはなかった。伊達に手塚に、青
学一の曲者と言われてきた訳ではいのだ。リョーマが詐欺師で悪党というのも、何も根拠のないもので
もなかった。リョーマを過保護に扱うことにかけては、桃城は立派に悪党だったし、詐欺師だったからだ。
 自分のことにも、周囲にも無頓着なリョーマは、けれど桃城の機微には驚く程敏感な一面を持ってい
るから、悟らせてしまえば不安にさせることを、桃城は正確に理解していた。
「最低な写真なら、山程ね」
 その最低の写真の大半は、愛猫のものを除けば、桃城のものばかりだ。
「オイオイ、最低かよ」
 それでも桃城は何処か楽しげに笑うばかりで、それが些かリョーマの癪に触った。
「最低じゃん」 
 そう呟くと、リョーマは足許の一枚を拾いあげ、背後の桃城に見せるようにヒラヒラと写真を振ると、
「たかがこんな写真一枚で、俺を誘う悪党なんて、本当最低」
 だからあんたって最低の悪党と、リョーマはクスクス笑う。それは何処か、情事の最中の妖冶な気配
を連想させるものだった。
「言ったじゃん。あんたはテニスしてる時が、一番雄だって」
「………お前…もう少し穏便な表現はないのか?」
 あまりと言えばあまりの言い様に、桃城は幅広い肩をガクリと落した。
「事実だし?」
 ガックリ脱力する姿が、演技だと判らないリョーマではなかったから、クスクス笑いながら、冷め始めた
マグカップに口を付けた。
「雄かよ」
 桃城にその自覚はないものの、時折思い出したようにリョーマが言うのだから、きっとそうなのだろうと、納得するしかない桃城は、けれどリョーマが自分のテニスの何処を見て、雄というのかは判らなかっ
た。
「眼とか」
「眼?」
 甘ったるいココアを口に含みながら、面白そうに笑い話すリョーマに、桃城の視線がリョーマの手元の
写真に移る。けれどやはり桃城には、リョーマの科白は判らないものだった。
「ギラギラしてる」
「………肉食獣かよ俺は」
「俺抱く時より」
「お前〜〜〜」
「肉食でも、狼だけどね」
 よく大型犬に例えられる桃城は、けれどリョーマや、桃城の本質を知る極少数の人間から見れば、犬
などという可愛い代物ではなく、狼だとしか思えなかった。
「無心でひたむきで、そのくせ見てるだけでイキそうになる、あんたの眼。俺、あんたのテニス観てるとさ、時折イキそうになるんだよね」
 無心にボールを追い、相手を見据え。一見軽そうに見える桃城は、けれど驚く程冷静な洞察力を持ち
合わせ、相手の弱点を見抜いていく力を持っている。黒というより、少しばかり紫暗を思わせる桃城の
双眸は、テニスをしている瞬間、何より野生を感じさせるから、リョーマには雄に映るのだ。
「越前〜〜〜〜」
 それが若干13歳の言う科白かと、桃城は本気で脱力し、リョーマの薄い肩に顔をうずめた。
「あんたはないの?」
 肩口に顔をうずめる桃城の、慣れたムースの匂いが鼻孔を擽って、リョーマは戯むれるように、器用に
背後に腕を回し、桃城の髪をツンツンと指先に絡めた。
「ねぇ?」
「あるよ」
 半ば自棄くそで口を開くと、桃城は背後から長い腕を回し、華奢な躯を抱き締めていく。その瞬間、腕
の中のほっそりした姿態が、愉しげに笑っている気配が桃城に伝わった。
「どんな、時?」
「確信犯め」
「コートに立ってる時の雄の顔して、俺を抱いてみたら?」
「だったらテニスしながら、コートで姦るしかないな」
 それこそ自棄くそ以外の何ものでもない科白だったが、桃城はこの時点で、反駁の仕方を間違ってい
ることに気付いた。
 こんな科白を言えば、リョーマを喜こばせるだけだからだ。そういうタチの悪さが、リョーマにはあるの
だ。うっかり反駁の仕方を間違えれば、本当にコートで情事に及ぶ可能性も否定できない。その場合、
桃城に拒否権はないも同然だ。
「フーン?」
「言葉の文だ文」
「甲斐性無し」
 コートという戦場に立つ時。桃城の雄を何より強く感じるから、その野生のまま、抱かれてみたいとい
う情欲は、リョーマの裡ではかなり以前から巣喰っていたものだ。
 慎重すぎる程慎重に躯を開いてくる桃城だったから、時には乱暴に、本能のままに番ってしまいたい
と思うのだ。大切にされているのは今更ではあるものの、甘やかされるだけではもう収まらない恋情は、桃城の生命を宿す海はないくせに、胎内に狂気さえ孕ませていく気がした。
 生命を宿すべき海のない幼い胎内に在るのは死海だ。射精されれば、死滅していくしかない桃城の
精は、けれど吐き出されていく胎内に、受精されない怨嗟のように、狂気と変わらぬ恋情を宿していく。
その切ないまでの痛みが、今はもう手放せないものになっているから、恋情に溺れていくしかできない
のだと、桃城は一体何処まで理解しているのかと思う。
「ねぇ?」
 今の今まで面白そうに笑っていたリョーマの声が、不意にその瞬間、変わったことに桃城は気付いた。
「どうした?」
 それは何故か、先刻のリョーマの寝顔と涙を思い出させる、何処か切なさを秘めた声に聴こえたから、桃城はうずめた細い肩から顔を上げ、ほっそりした姿態を、緩やかに懐へと包み込む。
「悪党……」
「お前にだけだから安心しろ」
「何それ?」
 悪党が、恋人にだけとは大した言い草だ思うものの、それがあまりに桃城らしく、リョーマの口唇に薄
い笑みが浮かんだ。
「変わらないものは、あると思う?」
 不意に思い出した夢の中の、桃城の科白だった。
死体でさえ、刻一刻と変化していく。ヒトだったものから、ヒトではないものへ。死してなお、その変容は
止められない。誰もが時間の中を生きているのだ。だとしたら、生きている人間にとって、変化は生その
ものの筈だ。
「ないだろうな」
「此処はさ、普通あるって言うもんじゃないの?」
 桃城は優しい。どんな我が儘も、大抵笑顔で叶てしまえる程、莫迦みたいに優しい。けれど口先で誤
魔化すような、甘えた優しさをくれる男ではなかった。
「嘘付け。あるなんて言ったら、お前泣くだろうが」
 一体何がリョーマを悲しませ、夢の中でさえ涙を流させたのかは判らない。けれど今尋ねられている
事柄が、夢に関係していないなど、桃城は微塵も疑ってはいなかった。
 リョーマが不安定になる時。それは必ず、自分か原因だと桃城は判っていた。だとしたら、何がリョー
マを不安定にさせているのかも明確だ。此処で言葉を間違えたら、より深くリョーマを不安定にさせるだ
けだった。 
「何それ?泣く訳ないでしょ」
 ネコ舌のリョーマには熱かったミルクココアも、冷め始めたら急速に冷め、飲んだそれは、舌先に冷た
さしか与えてはくれないものになっている。
「変わるのが、悪いって訳じゃないだろう?」
「たとえば?」
「お前への想いだって、もっともっと、深くなるって考えだって、あるだろう?」
「フーン、可能性だけなんだ」
「愛してるなんて言葉、お前は信じないだろう?」
「中学でそんな言葉言われてもね」
 恋と愛の差。その温度差が一体何かは判らない。判らないのに告げられても、信じられる筈もない。
「欲しがらないしな」
 愛しているという言葉を欲しがるような子供だったら、リョーマはもっとラクだっただろう。いっそそんな
言葉に、無邪気に笑ってくれるくらいに子供だったら、リョーマは傷つかずにすんだだろう。けれどリョー
マはいつだって、そんな生温い優しさを、桃城に求めたことはなかった。
 テニスしか知らなかったリョーマに、肉の快楽を教え、恋を教え。それでもセックスの最中、桃城がリッ
プサービスじみた情愛の言葉を、リョーマに告げることはなかった。そしてリョーマも欲しがらなかった。
リョーマが欲するのは、いつも気がふれたような、欲望そのものばかりだ。
「あんたは?俺に言ってほしい?」
「愛してるなんて言葉は、お前から一番遠いって気がするよな」
「ちょっと聴いたら、ひどい言われような気がする」
 それでも、それが正解だろうと、漠然と思うリョーマは、先刻の夢を思い出していた。
カタチが違っても、続いていく関係。きっと一生、桃城に恋することはやめられない。この恋情はきっと、
子供の恋のままだ。それでも、夏の熱病に浮かされたような、恋に恋する子供の恋とは、意味が違うこ
とだけは判っていた。
「いつかな」
「言うって?」
「お前にそう言いたくなったらな」
 ゆっくり深まる季節のように、この想いが熟成されていけば、恋は愛へと変わるだろうか?
何一つ、リョーマに告げることもなく、不安定にさせているばかりの恋が、いずれリョーマを壊してしまわ
ないことが、桃城の何よりの願いの在処だと、リョーマは知らない。その為に、桃城が選んだ道も、リョ
ーマは知らない。
「あんたって、本当に詐欺師」
 何一つ教えてもらえない桃城の手の内。見えたと思ったものは、実は未だ深みへと続く、第一歩程度
にしかすぎなかったのだと、こんな時いつも気付かされる。絡まり捩れあいながら、更に深くへと続いて
いくばかりで、答えは何一つ見えない。
 それでも、今の言葉が桃城の真実の言葉だと判るから、リョーマは切なげに、それでいてクスクスと
笑うしかできなかった。まるで奈落の恋だと、フト思う。
「ねぇ?桃先輩、ココア冷めちゃった」
 途中まで口はつけたものの、冷めてしまったココアは、却って躯を冷やすばかりで、それ以上口にす
る気になれなかったから、リョーマはロイヤルドルトンのネイプルズのマグを、桃城に差し出した。




















「ねぇ、桃先輩」
 新しく淹れ代えられたミルクココアは、やはりネコ舌のリョーマには熱くてすぐに飲めるものではなかっ
たものの、リョーマはそれでも何処か楽しげにカップを揺らし、桃城の胸板に背を預けている。その膝の
上ではカルピンがいて、少しばかり眠たげに前足で顔を擦っている。
「湯気ってさ、倖せ色って気がしない?」
 ユラユラ立ち上がる白い湯気。熱くて飲めないものの、両手でカップを持っていれば、ゆったり躯が暖
まっていくのが判る。
 緩やかに体内へと染み渡っていく、甘い香りを含む味。そして掌中から伝わる柔らかい熱。こんな飲
み物が似合う季節は、だからこそ冬は外は寒いくせに、温かい季節なのだとリョーマは思う。
「国語は苦手でも、お前のそういう部分は、怖い程だよな」
 帰国子女で、どうにも日本の国語教育とは反りのあわないリョーマは、けれど決して読書が嫌いな訳
でもなければ、感性が鈍い訳でもなかった。リョーマが時折漏らすこんな局面での何気ない一言は、何
処か胸の内の秘密を差し出すように、桃城の深奥に触れていく。
 胸の裡の何かを曝す時、言葉が断片的になる自覚はリョーマにはない。けれどだからこそ、差し出さ
れた言葉の意味が、桃城には深いものとなって、深奥に触れるのだ。
「怖い?」
 何それと、リョーマは小首を傾げ、背後を振り返る。
「湯気が倖せの色なんて、普通は思わないって意味だよ」
「……それってさ、俺が脳天気ってこと?」
「お前、よくそんな言葉、知ってたな」
「寒い季節ってさ、暖かいものとか見たり感じたりすると、ホッとするから。それってさ、倖せって意味じ
ゃないの?」
 温かいものを見たり、感じたり。寒い季節だからこそ、人の温もりがほしかったり。欲しい時に得られる
それが、実は大切なことなのだと、リョーマは桃城と出会って気付いた。
 大切だと思う家族以外のに他人に出会い、大切にする意味を教えら、大切にされる意味を教えられた。欲しい時に得られる温もりの在処が、実は世界を見渡してみれば、簡単なことではないのだとも気付
かされた。
「倖せ色か。色なんて普段考えたこともなかったけど、確かにそうかもな」
 リョーマを片手で抱き寄せ、片手にはお揃いのマグカップに注がれたミルクココア。桃城には少しばか
り甘いココアは、けれど立ち上ぼる甘い香りと湯気を見ていれば、確かに倖せ色だと思えた。
 急速に冷えていく室温とは裏腹に、白くユラリと立ち上ぼる湯気は、温かさの象徴だ。秋も深まる季
節、愛しい温もりを腕にしていれば、その実感は桃城の中でも深まっていく。
「よくさ」
「ん?」
「小さい頃、母さんが淹れてくれたの思い出した」
 アメリカの寒い冬。それでもテニスで父親に勝ちたくて、コートに立って。そんな時、母親が笑って淹れ
てくれたのが、このミルクココアだった。
「俺も、そうだな。おふくろが淹れてくれてたな」
 寒い季節。外から帰ると、笑顔と共に母親が差し出してくれたのは、ココアだったと思い出す。
「すごいよな」
 感慨深げに桃城が笑い、リョーマの前髪を背後から梳き上げれば、リョーマは不思議そうにキョトンと
小首を傾げ、背後を間視する。
「お前」
「?」
 小首を傾げ、意味が判らないという表情のリョーマに、桃城が一人納得した様子で笑えば、リョーマは
半瞬、憮然となる。
「ちゃんとこうして、焼き付いてるものなんだってな」
「何それ?」
 ますます意味が判らないと憮然となるリョーマに、桃城は優游と笑い、柔髪をクシャクシャと掻き混ぜ
ていく。
「ちょっと〜〜〜?」
 あんた全然判らないと、リョーマが憮然となれば、背後で桃城が穏やかに笑う気配が伝わってくる。
「壊れちまうものより、よっぽど確かなものだってことだよ」
 クツクツ緩く笑う桃城の科白に、リョーマは半瞬後、桃城の科白の意味が繋がった。
「あんたは?俺にどんな光景、見せてくれるの?」
 去年の桃城の誕生日、真夜中に会いに出かけ、贈ったものは、天然のプラネタリウムだった。今年の
夏、桃城に贈ったものは、果てしない海と、綺麗な都会の夜景だった。
「ちゃんと考えてあるよ。さしずめ、そうだな『不言色』だな」
「不言色?何それ?」
「言わない色。今は言えない色ってのも、含んでるな」
 今は言えないリョーマの誕生日の贈り物。そして今は未だ言えない、リョーマを不安定にさせている、
本当の意味。どれもが桃城にとっては、未だ『言わぬ色』だ。
「まぁ、楽しみにしてろって」
「やっぱあんたって、悪党じゃん」
 愉しげに笑う桃城に、リョーマは漸く口にあう温度になったココアを飲み始めた。
「ホラ、いろいろ支度しろ」
「未だ早いじゃん」
「っんな訳あるか」
 待ち合わせは、青春台の駅前の郷土料理の店に6時だ。既に今は5時を回っている。これから支度し
て出掛けても、遅刻は決定的だろう。尤も、それでもリョーマの寝顔を一時間近く眺め、あまつさえ、こう
してココアを淹れてやっているあたり、桃城に何を言う資格は当然ない。
「いいんじゃない?誰も俺達が、待ち合わせ時間に間に合うなて、思ってないでしょ」
 大した言い草のリョーマの科白に、桃城は半瞬呆れ、次に深い笑みを緩く漏らした。