Youthful days

SCENE2:約束の地 act1












どれくらいの時を僕たちは走り抜け
どれくらいの明日 僕たちは描いただろう


一つ一つ大切な想いを集めて
一つ一つ重ねてく

僕達は今 あの頃の未来に立っている。







 真夏に近付く季節の夜は、日毎に気温が上昇し、もうじき熱帯夜の時期になる。それでなくても、日
本の夏は肌にまとわりつく生温い湿度を伴うから、夜の9時になるというのに、周囲は昼間の熱を持ち
越したままだ。
 それでなくても都心部の建築物は、環境に優しくない素材で建てられているから、毎年ヒートアイラン
ド現象を起こしている。上も下もそんなものに囲まれている所為で、昼間の熱気が、夜になっても持ち越
されたままになってしまうのだ。その所為で、日本の夏は毎年少しずつ最高気温が上昇傾向にある。
今夜も熱帯夜とまではいかないまでも、かなり蒸した夜になっていると、手塚は空を見上げた。
 熱気だけはそのままに、夜の幕を降ろしている空は、周囲の緑を塗りつぶし、ポッカリ空間が開いた
ように、綺麗な星空が見渡せた。都心に近いとはいえ、完全に都心ではない分、青春台は未だ案外と
綺麗な星の光が見ることができる。
 藍色の夜空に浮かぶ、無機質な光。其処は地上の喧騒など素知らぬ顔をして、綺麗な色を透いてい
る。そして視線を公園の入り口へと向ければ、隣に佇む不二が、莞爾と笑うのが判った。
「やっぱり、僕の言ったのが正解みたいね」
 隣で無表情を決め込み立っている手塚の視線が、公園の入り口に向けられたことに、不二は腕時計
に視線を落とし、緩く笑った。時刻は9時を少しだけ回った時刻だ。
「あの時、大石は僕達より遅れて来たんだよね」
 手塚は中学時代を、不二は高校時代を過ごした青春台。そこは彼等にとって、何より掛け替えのない
ものが眠る場所だ。
 都内へと続く分岐点の路線を持つ青春台は、駅周辺はかなり開発され、様変わりした感は拭えない
ものの、ちょっと歩けば、以前と変わりない風景が佇んでいる。
 駅前に建ち並ぶショッピングモールをちょっと歩けば、道は閑静な住宅街に続いている。ほんのちょっ
との距離で、其処は色を変える。駅前が無機質なビル群が建ち並ぶ場所なら、此処は丁度駅前と住宅
街の中間点にある公園だから、夏の夜9時という時間帯、仕事帰りのサラリーマンが帰宅する姿が多く
見受けられる。そこに無機質なものを感じないのは、通り過ぎていく人々が、目指す場所を持っている
からなのかもしれない。
 比較的治安の安定している青春台は、昔から少子化の声が嘘のように、近所に子供の姿が多かった。それは今も変わりないらしく、公園内には、どうみても小学生にしかみえない子供までいる。尤も、幾ら治安が安定しているとはいえ、小学生で夜9時まで夜遊びしているのは、教育上にも躾的にも、攅
眉してしまう部分ではあるのげれど。
 アスファルトではない、少しばかり綺麗な石畳は、くたびれた感じはないから、きっと自分達が此処を
後にしてから、新たに敷き詰められたのだろうなと、不二は足許に視線を落した。
 縞模様のような石畳。単純にアスファルトを敷き詰めないのは、此処が誰にとっても気安い公園となる
ように、そんな願いが含まれているのかもしれない。
 子供を連れた母親達が、気軽に憩いの場にできるように。そんな配慮もあったのだろう。公園内には、石畳から段差なく移動できる、屋根付きの吹き抜けのフリースペースがある。其処は東屋というには、少しばかり瀟洒すぎてしまう部分だ。
 勿論、子供を連れた母親達ばかりでなく、お年寄りにも十分配慮した造りになっている。公園内は石
畳とはいえ、できるかぎり段差を排除していることからも明らかだ。
 子供が遊べるようにと小さいながらも砂場があって、飲料水用の水道もある。ちょっと歩けば駅前のシ
ョッピングモールなのを考慮して、それは建設された公園なのだと判る。そして少し歩けば閑静な住宅
街ということにも配慮して、公園内は人の眼が届くようにと、街灯が明るく周囲を照らしている。それは
年々増加する一方の、少年犯罪対策と同時に、児童に対する安全面の配慮だった。最早学校と言う場
所が、子供にとって安全な場所ではなくなって久しい昨今。それは行政側も配慮に配慮を重ねたのだ
ろう。犯罪の抑制と防止。その両面を補うように、公園周囲は外から隔絶された空間ではなく、常に人
の眼が届くようになっている。だから緑が綺麗に生い茂っていても、連なり群がることがないように、距離も高さも整備されていた。
  家庭内に居場所を見つけられない子供達が、夜間大人の眼が届かない場所で、犯罪に手を染める
ケースが後を立たないから、公園内に死角ができにくいようにと、配慮されているのも事実だ。以前はも
う少し街灯は照明が暗かったなと、不二は足許にできた影を眺め、そう思う。
「絶対さ、皆遅れてくるって思ったんだよね。特に桃とあの子は。乾と海堂は、扱ってる仕事が仕事だか
らねぇ」
 もしかしたら、こられない事態もあるかもね、不二はそう笑う。それでも誰も約束を忘れていないという
根拠のない自信が不二から感じられるのに、手塚は少しだけ意外な者を見る気分だった。
「忘れてるって、思わないんだな、お前は」
 何かを思い出した様子でクスクス笑う不二に、手塚は苦笑する。
「忘れてる筈、ないよ」
「約束してはいないぞ」
「したじゃない?15年前に」
 あの約束を忘れる筈ないよと不二が笑えば、手塚は半瞬眼鏡の奥で瞳を見開き、次には不二らしい
なと薄い笑みを漏らした。そんな時だ。公園の入り口から、聞き慣れた声が響くのに、
「意外、桃とあの子が、僕達の次に来るなんて」
 台詞とは裏腹に柔らかい声を漏らし、不二は中学生当時と何一つ変わらない様子で、当然のように自
転車二人乗りをして現れた桃城とリョーマに、片手を上げ応えた。






「二人共、いい大人になって、二人乗りとはなんだ」
 眉間に深い皺を寄せ、手塚がやはり中学生時代と変わらぬ小言を言うのに、桃城とリョーマは互いに
顔を見合わせ、肩を竦めて苦笑する。
 中学生当時も、手塚に二人乗りを見つかっては、小言を言われていた二人だ。そしてそれは手塚が
中等部在籍当時、一向に改まることはなかったから、流石の手塚も、最後には伝家の宝刀を持ち出す
のも莫迦莫迦しくなり、桃城とリョーマの二人乗りを黙殺していた。当時から莫迦みたいにリョーマを大
切にしてきた桃城が、そのリョーマを後ろに乗せ自転車を漕ぐのに、迂闊なことはしないだろうと、思っ
た面もあったのだろう。
「あ〜〜〜ハハハ」
 つい数日前、ともに帰国した手塚の久し振りの小言に、桃城は蟀谷をポリポリと掻き、乾いた笑みを
漏らした。
 流石に三人共プロテニス選手という立場にあるから、試合会場などで出くわす時、手塚が小言を言う
ことはなかった。けれどこうして仕事から一歩離れた場所になれば、手塚は当時と変わらないまま、小
言を漏らす。
 オンオフの切替えが巧みなようには見えない手塚だったから、ただ単純に、それは手塚という人間の
キャラクターなのだろう。案外手塚は天然だ。其処に以前のように、部長風を吹かしているものは微塵も
感じられない。
「今更っスよ、部長」
 どれだけの年数が経っても、手塚は手塚でしかない。そういうことだろう。それがいっそ安心できてし
まう程度には、桃城やリョーマにとって、手塚という存在は、特別な存在だった。特別だからこそ、一向
に二人が手塚を呼ぶ呼び方も、改まることがない。
「………部長じゃないだろう…」
 お前、本当は俺の名前が部長だと思ってないか?
それは以前よく手塚がリョーマに漏らしていた台詞だ。桃城もリョーマも、手塚を相変わらず部長と呼ぶ。プロになり、試合会場でその名前を呼ばれた最初、流石の手塚も呆れたものの、何度言っても一向
に改まらないその呼び方に、今ではめっきり開き直りの境地に達している。それをして不二や英二に、
手塚も成長したねと言われていたりする。
 自分は彼等にとって、部長として何かを残せただろうか?
今でも部長と呼ばれるソコに、一体自分は何を残せてやれただろうか?手塚は時折そう思っては、当
人だけが判ってないねと、不二に苦笑されているのだ。
「それにしても桃、よく自転車なんてあったね」
 海外生活の方が長くなっている桃城が、今も自転車を持っているとは、流石の不二も思わなかったら
しい。だから中学生当時のまま、自転車二人乗りで現れた二人に、少しばかり驚いた。尤も、そんなも
のを表情に出す不二ではなかったのだけれど。そして違和感がないことにも、驚いていた。
「こっち帰ってきた時、たまに乗るんで」
「そうなんだ」
 転戦を繰り返している二人が、帰国できるの回数は、そう多くない。現在生活の基盤はアメリカにあり、二人で世界へと望んだ桃城とリョーマだったから、別段家庭を持たない以上、家族に会う目的以外、
さし迫って帰国する理由もないだろう。けれど二人は時間ができれば帰国して、親しい人間と会って行く。それは此処が、彼等の還るべき場所だからだろう。
 その二人が時折とはいえ、自転車に乗っている姿を想像すると、ちょっと被写体として撮ってみたいと
思う不二だった。
「ねぇ桃先輩、ファンタ」
 クイクイと、桃城のシャツの裾を引っ張りファンタをねだるリョーマの姿は、中等部当時と何一つの変わ
りがない。それが手塚と不二の苦笑を誘った。
 結局リョーマは、手塚の呼び方も変えなければ、桃城への呼び方も一切改めてはいない。相変わらず
少しばかり甘さを含むトーンで、『桃先輩』と呼ぶのだ。
 当時151cmという、中学1年生男子としては、些か伸長の低かったリョーマは、現在170cmを少し
超えた背丈になっている。それでもプロという世界から見れば、やはり伸長は低く、体型も小柄だ。けれ
どテニスのテクニックやスピードは、プロの中でもトップレベルだ。常に世界ランキングを手塚や桃城、跡
部と競い、5位から落ちたことはない。それはテニスが、伸長や体格でするものではないと、リョーマ自
身、世間に認めさせたことでもあった。何よりリョーマの父親である越前南次郎は、リョーマに遺伝子を
提供している人物だけに、同年代と比較しても、案外と小柄だ。けれどその南次郎は、未だリョーマ達
の誰一人として記録を塗り替えられない、37連勝の不敗伝説を持つ男で、世界では未だ伝説と言わ
れている『サムライ』だったから、リョーマは未だ父親に挑戦中ということになる。「んっ?ああ、自販機に
あったよな」
「15年前はね」
「今でもあるかぁ?」
「自販機はあるでしょ」
 公園内に視線を巡らせれば、一角に二台の自販機が設置されているのに、
「あそこ」
 ホラと、白い指が場所を示した。
「越前、あまり飲み過ぎるなよ」
 中学生当時はよく眼にしていたファンタを飲むリョーマの姿も、プロになった今、そんなものを飲んでい
る姿を、手塚も不二も眼にしたことはなかったから、これは気分まで中学生時代に戻っているなと、苦笑
する。
 久し振りに全員で会える機会に、二人は愉しんでいるのだろうなと、判らない手塚や不二ではなかっ
たから、二人並んで自販機に向かう姿に、知らず緩い笑みが口許に上った。
 二人並んで歩く姿は、成長したにも関わらず、不思議と中学時代と何一つの変わりがない。それは気
分まで其処に戻ってしまったかのような二人の所為でもあったのかもしれないが、伸長差の所為もあっ
たのかもしれない。
 リョーマの伸長が170弱なら、桃城の伸長は180を超えている。中学生当時のように、19cmの開き
はないものの、10以上の差は付いているから、後ろ姿を眺めていると、どうにも当時を思い出してしまう
手塚と不二だ。
 けれど不思議と試合会場で立ち並ぶ二人を見ても、そういう感慨に囚われないのは、やはり試合で
は互いにライバルであり、特にリョーマは、研ぎ澄まされた切っ先のような冷ややかさを刻み付けている
から、そういうものを思い出すのは、手塚にとっても容易ではないのかもしれない。
「相変わらずだねぇ、あの二人は」
 仲良く並んでいる後ろ姿。自販機の前で、何やら指を差しているリョーマに、桃城が髪を掻き回してい
るのが判る。けれど二人にも分岐があり、それを乗り越えてきた強さがあることを不二も手塚も知ってい
た。
 互いの手を離さず生きていくその難しさに直面した二人が、傷つきながら、それでも一緒にいる道を選
んだことを、手塚達は知っている。
「ねぇ、手塚」
 不意に不二が手塚の指を掬い上げる。
「なんだ?」
 不二の突然の行動には、もう慣れてしまった手塚が、物言いたげに指に触れてきた不二の意図に、
気付けない筈はなかった。
「あの二人も、強くなってということだろう?」
 繋いだその手を離さず生きていくことの困難さ。甘いだけでは決していられない。その為に必要なもの
が一体何か、今の二人はもうきっと見失うことはないだろうと手塚は思う。
「僕達は?」
「お前は」
 莞爾と笑っているばかりの不二に、手塚は苦笑すると、
「糸の切れた風船状態のお前が、言うな」
 風景写真家として、手塚と変わらず世界各地を放浪している不二は、手塚にさえ所在を明かさない時
がある。そんな不二の所在を知っているのは、中学生当時から変わらぬ友情を育んでいる英二と、桃
城とは別の意味で、ネコ可愛がりに可愛がっていたリョーマにだけだったから、手塚にしてみれば、お
前が言うなと言いたくもなるのかもしれない。
「それってば、ちょっと傷付くなぁ」
 ちゃんと試合会場には姿見せてるよと、不二は笑う。
「お前はいつも、突然すぎる」
 放浪と言う言葉が正しく適合してしまう不二の放浪癖は、それで欠かさず手塚の試合会場に現れる。
それは手塚の驚く表情を、楽しんでいる節さえあるのだ。
「遅いスね皆」
 いつの間にか、ファンタを片手にしたリョーマが戻って来たリョーマが、一口ファンタを口に流し込みな
がら、口を開く。相変わらずグレープ味が好みなのか、リョーマのファンタはグレープ味だ。
 遅いというリョーマの台詞に、手塚は苦笑する。不二同様、リョーマも、誰もが今日という日を忘れてい
る訳ずないと思っているのが、可笑しかった。
 確かな約束など、した訳ではなかった。卒業式を終えた春先。旅立つ前日の昼、交わしただけのもの
だ。それでも、こうして会えるのに、手塚は不思議なものを感じていた。
「でもないぜ、ホラ」
 揃って来たと、桃城が公園の入り口を指差した。其処には残りの面子が偶然入り口で出会ったかの
ように、ゆっくり歩いて来るのが判る。
 夜の9時過ぎの公園内は、子供の姿ばかりで、大の大人が9人も集まれば、自然と周囲の人目を引
いてしまう。それでなくてもそれぞれが目立つ容姿に加え、手塚やリョーマ、桃城の三人は、テニスをし
ている人間なら、知らない者はいない有名人だ。当人達にその意識は皆無だったとしてもだ。
「やぁ、待たせたね」
 相変わらず飄々とした眼鏡の奥で、表情の読めない乾が、昨日もこんな風に会ってましたという違和
感のなさで、手塚の前に立った。
「あんたが莫迦やってるからだ」
 海堂の言葉に遠慮はない。それが二人の距離の近さを物語っている。
「悪い、遅れた」
「手塚〜〜〜オチビ、桃、久し振り〜〜〜」
「ワッ、ちょっ…菊丸先輩」
 突然抱き付いてきた英二に、リョーマがファンタを零しそうになり、慌てて英二を引き離せば、オチビっ
てば相変わらずオチビ〜〜と、英二が嬉しそうに抱き付いてくるのに、リョーマは少しばかり憮然となっ
た。
「色々作ってたら、ちょっと遅れちゃったな」
 そう言って笑う河村は、小さいリュックを背負っている。
「タカさん、お鮨作ってきたの?」
 河村鮨の二代目として、父親の後を継いだ河村は、高校で知り合った彼女と結婚し、一男一女の父
親になっている。けれど河村の父親に言わせれば、鮨職人としては未々と言うことになるから、日々修
行の毎日だ。
「夏に生物は危ないから、違うものだよ」
 これからちょっと遠出をすることを考えれば、確かに夏に鮨などの生物を持ち歩くのは、食中毒の危険
が増す。
「なぁんだ、久し振りにタカさんの鮨食いたかった」
「コラ、英二」
「俺も」
 日本食の好きなリョーマが、英二の台詞に便乗する。何処の鮨よりリョーマにとって、河村鮨は味が
違う。どれ程有名な鮨屋より、リョーマの舌にしっくりくる。尤も河村鮨は、小さい店のたたずまいをして
いるものの、業界筋にはかなりの贔屓があるのも事実だったから、後を継いだ河村は、日々修行するし
かなかった。父親が一代で築いたものを、自分の代で駄目にする訳にはいかない。
「そう言って貰えると、嬉しいよ」
 でも今夜のも美味しい筈だよと笑うから、リュックの中身が楽しみな面子だった。
「楽しみだね」
 案外頻繁に河村鮨に顔を出している不二は、鮨だけではない河村の腕を知っているから、リュックの
中身が楽しみだった。
「それじゃぁ、行くか?」
 周囲の子供達が、突然集まった大人達を不思議そうに眺めているのに、手塚が集まった面子の先頭
に立った。やはりこういう局面で、先頭に立つのは今も昔も手塚だった。だからこそ未だ、リョーマや桃
城に『部長』と呼ばれてしまうのだ。
「大石、ホラ、あの時みたいにさ」
 中学最後の全国大会。関東大会に出場できない手塚の為、大石が励ます為に行ったそれが、今夜
の約束に繋がっている。
 だから英二は、隣に立っている大石の背を押し出した。
「そうスッよ、大石先輩」
 ホラホラと、桃城も笑う。そんな声に、大石が少しだけ困ったように笑えば、手塚も周囲の面子に賛同
したように頷いているから、大石は困ったように笑ったまま息を吸い込むと、
「よしッ!山へ行こう!」    
 少しだけ照れたように、けれどあの頃と変わりない声で、出発を告げた。














 夜の9時に、懐かしい思い出の場所で待ち合わせ、そして彼等が電車に乗り込んだのは、10時も近
い時間だった。
 都心に位置する青春台は、更に都内へと向かう路線と、逆に都心から離れていく路線との丁度分岐
点になっている駅だ。それだけに普段なら利用者数はかなりの数に上るものの、今日は週末の土曜の
夜とあってか、帰宅途中のサラリーマンの姿は少ない。反対に目立つのは、行楽地から帰宅するのだ
ろうカップルの姿や、家族連れの姿だった。車内も帰宅途中のサラリーマンの姿は少なく、カップルが
多い。これが週末でなければ、圧倒的に帰宅途中のサラリーマンで混雑している時間帯だろう。
 上昇する気温と比例して、気分的にも開放的になる夏は、夜が長くなる分だけ、誰もが遅い時間まで
遊び回っているのを裏付けるように、車内は適度に人が集まっているというのに、案外と静かなのは、遊び疲れた顔をして、寝ている人間が多いということだ。
 それは何もリョーマ達も例外ではなかった。リョーマは桃城の幅広い肩に、相変わらず小作りな頭を
半分埋もれる格好で預け、完全に熟睡態勢に入っている。
 桃城や手塚と同じ分量、太陽の下にある筈の躯は、それでもそれが生来的なものなのだろう、リョー
マは中学生当時の白さを失ってはいなかった。けれどそれはあくまで、健康的な肌の白さで、其処に病
的な青白さを含むものは一切なかった。
「疲れてるみたいだねぇ?」
 呆れる程の無防備さで、桃城の肩に頭を預け、安心しきっている寝顔に、不二は緩やかな笑みを漏ら
し、意味深に笑った。
 都心から離れれば離れた分だけ、少しずつ車内の乗客も数が減っていく。分岐点の青春台駅から、
目的地までは乗換えの必要はなかったから、それぞれ空いている座席に座っていた。リョーマの右隣
には桃城が座り、左隣には不二と、そして不二の隣に手塚が座っていた。
 それでも、見目のよい彼等が、車内で人目を引かない訳はなく、彼氏を無視し、リョーマ達を眺めてい
る女の子も少なくはなかった。まして手塚やリョーマ、桃城の三人は、テニス後進国の日本の中で、プ
ロテニス選手として常に世界ランキング5位内に位置している逸材揃いだ。それに加えてモデル並に見
目もよいとなれば、日本にテニスを根付かせようと躍起になっている協会関係者に、何かと宣伝に使用
される頻度も高く、テニスの中身は知らなくても、彼等の存在は知っているという女の子も少なくはない。だから車内でも、こっそり彼等を覗きみて、我が眼を疑っているように喫驚している女の子も少なくは
なかった。けれどこうして集団でいれば、妙に迫力の出てしまう彼等に、迂闊にも声を掛ける者はいな
かった。
 そして何よりそう口を開いた不二自身、中学当時から造形的な美しさを誇っていたその貌が、更に硬
質的に磨きぬかれていたから、人目を引くこと夥しかった。
「言っても、こいつ全然ききませんからね」
 不二の台詞に、蟀谷を掻きつつ、乾いた笑みを張り付かせ、それでもシレッとそんな台詞を言ってしま
う桃城は、相変わらず曲者ということだろう。
「言うねぇ」
 クスクスと愉しげに笑う不二に、桃城は乾いた笑みを深めるしかない。
「ホラね手塚。やっぱり僕が言った通りだったじゃない?」
「………なんかスゲー嫌な予感するんですけど」
 この会話の流れからいけば、手塚と不二の二人は、自分達がどういう状態で待ち合わせの場所に現
れたのか、逐一知っているということになる。話を振られた手塚も、口許をただ苦笑に歪めているのが気
配で判るから、桃城は開き治るしか術はなかった。
「やだなぁ桃。正確に君達を理解してあげてるだけだよ。尤も、だから絶対遅刻してくると思ってたんだ
けどね」
「………そんな正確さ、いりませんよ」
 不二はやはり不二なのだと、こういう時痛感する。中学時代から際立つ綺麗な外見とは裏腹に、やは
り得体がしれないと思ってしまう桃城に、きっと罪はないだろう。
 実際待ち合わせ時間はしっかり遅刻していたのだ。幸いだったのは、珍しくも他の面子全員が少しば
かり遅れてきて、だかせ遅刻扱いにならなかったようなもので、時間的には遅れていた。
 それもこれも、一度求め合ってしまったら、なけなしの理性をあっさり打ち砕くことに躊躇いを見せない
リョーマの所為だと、桃城の指が無自覚に首筋に触れる柔らかい髪に伸びた。
 柔らかいネコっ毛の髪は、触れればサラリと流れ、同じ柑橘系のシャンプーを使っているというのに、
不思議と甘い香りが漂う気がした。数回節のある指が髪を梳けば、それが擽ったいのか、リョーマは折
れそうに細い首を竦めると、ますます桃城の肩に顔を埋める結果になった。その無防備さに、桃城の口
許に緩やかな苦笑が滲む。
「変わらないにゃ…桃ぉ……」
「英二先輩?起きたんですか?」
 フト眼にした光景に、寝惚けた英二の声が掛かる。
桃城の丁度正面に座っている英二は、やはりリョーマ同様、寝不足の躯を休めるように、大石の肩に頭
を凭れていた。
 規則的に揺れる振動が心地好く寝入っていたものの、リョーマと違って何処でも寝れる体質をしてい
ない英二は、たまたま偶然開いた視線の先に、中学生当時と変わらない桃城の苦笑を見付け、考える
より先に、言葉が出てしまったのだろう。けれどだからこそ、そこに滲む言葉が皆の内心を代弁したもの
だったと、気付いてはいなかった。
「ん〜〜〜〜???」
 桃城の台詞に、けれど英二の瞼は再び緩やかに閉ざされ、再びコテンと大石に頭を預けてしまったか
ら、今度は大石の苦笑が漏れる番だった。
「えっ…英二先輩?」
「まぁ無理もないよ。英二は完璧に寝不足だからね」
 苦笑しつつ大石が言うのに、桃城が不思議そうな顔をする。英二の寝不足の意味が、間違っても自
分達と同じなど、思わない桃城だった。そういう意味で、英二のパートナーの大石は、自分など足許に
も及ばない理性の強固さを持ってることを、桃城は知っていたからだ。
「事故にあった緊急のペットが、持ち込まれたらしいからね」
「ハァ、そうなんですか」
 昔と変わりなく、好青年の笑顔を浮かべる大石に、桃城は頷いた。
「この子の熟睡理由と英二のは、全然違ってことだよ、桃」
「不二先輩〜〜〜〜それって苛めっスか?」
 俺だって被害者ですよ。そう嘯き反駁する桃城の台詞に、効力などある筈もない。
「途中までは、そうだって認めてはあげるけどね」
 クスクス笑う不二の柔和な笑みの前に、すべてを見通されてしまっている桃城は、やはり不二は不二
だと痛感する。
「……んっ…っるさ…」
 耳元で交わされる会話に、リョーマがむずがるように身動ぎ、桃城の肩口に更に顔を埋めていくのに、
周囲から苦笑が漏れる。一度寝てしまえば、中々起きないリョーマを、この面子は知っている。ましてこ
うまで桃城の肩に身を預けてしまっていれば、それは尚更だ。身動ぎしても、一向に起きる兆しを見せ
ないのが、その証拠だ。
「そんな調子で、越前は起きれるのか?」
「その時は責任もって、桃が起こすよね」
 リョーマの寝起きの悪さを十二分に知っている河村が、心配そうに声を掛ければ、不二が莞爾と笑っ
て口を開いた。リョーマをこうも疲れさせた張本人なんだから、責任も当然とるだろうという言外に、桃城
が幅広い肩を竦めて応えた。













 他愛ない談笑を交じわせながら、それでももう中学生ではない彼等は、15年前のように、車内でポー
カーをやったりとはしゃぐことはない。ただ静かに思い思いの感慨に耽るかのように話をしている。けれ
どそれも電車に乗って30分もすれば、それぞれの思いに沈み込むかのように、目蕩みに漬かり始めて
いた。車内も少しずつ乗客が減っていき、ほどよく冷房のきいた静かな空間が出来上がっている。
 都心から離れていく路線は、急速に車窓の光景も変化する。華やいだ都心のネオンは消え失せ、真
夏に近付く夜の闇に浮かぶのは、家々の明かりだったり、街灯だったりと、其処に確かに息づき、生活
している人々を、車窓は映し出していく。それは人工的な光が、天然の光を多い隠してしまうネオンより、よほど綺麗だと思えた。
 そして視線をリョーマに向ければ、桃城の口許に浮かぶのは、無自覚なまでの柔らかい笑みだった。
ただ甘いばかりではない苦さをも飲み下すことを覚えたからこそできるのだろう、柔らかい笑みは、包み
込むようにリョーマを見ている。
「だぁから、やめろって言ったんだぞ」
 小声でこっそり耳元に囁けば、リョーマは甘い吐息を漏らし、身動いだ。けれど起きる気配は一向にな
いことに、桃城は微苦笑を漏らし、長い前髪を緩やかに梳き上げた。
 白皙の貌に落ちる疲労の翳り。長い睫毛が彩る陰影の中にあるのは、無防備なまでの安心しきった
ものだった。
 こうして一体どれだけ、リョーマの寝顔を見てきただろうか?フトそんな下らない感傷が身の裡に湧いた。
 知り合って15年。離別さえ覚悟して乗り越えた関係の中。どれだけ自分達は変わっただろうか?
変われただろうか?考えてみても、明確に言葉に置き換えて判るものは一切ないのかもしれないと、桃
城は自嘲する。
 リョーマは番うことに一切の躊躇いを見せない。中学当時からリョーマの口癖は『自分を雌にした』とい
うものだったから、今更桃城との情交に、躊躇いなど見せる筈もなかった。むしろ好んで『雌』という言葉
を口にしていたリョーマだ。そこに一体どんな願望めいたものを引き摺っていたのか、桃城に推し量れる
ものは一切ない。それでも判っていることは、リョーマが自分とは相反する肉体を羨んでいたこともなけ
れば、雌という言葉の中に、桃城を責める要素など一切持たなかったということだ。それだけは、判って
いた。雌という直接的な言葉は、リョーマの中では極当たり前に、互いに求め合う情交を指し示すもの
でしかなかったからだ。
 幼い恋情を引き摺ったまま成長し、そして雄を受け入れることに慣れてしまった肉体の内側を、自らを
卑下することもなく、リョーマはいっそ愉げに雌と言って、綺麗に笑っていた。
 女ではなく雌。そこに潜んでいるのは性別の有無ではなく、獣の本能、それだけだった。理性をかなぐ
り捨てた果てにしか辿り付けない野生めいたセックス。
 発情した雌と変わりなく、桃城という雄を貪欲に求めてやまない恋情を、リョーマはそう表現していた
のかもしれない。それは今も桃城にも判らない。もしかしたら、リョーマにも深い意味など判ってはいな
かったのかもしれない。
 リョーマにとって、テニスと等価値になっている桃城の存在は、どちらも天秤に掛ければ同じ比重で傾
くしかできなかった。幼い子供の恋のまま、桃城への恋情を引き摺り、まるで桃城への恋だけは成長を
拒むように、身の裡の深みに眠らせていたリョーマの恋情の深さ。けれどそれはリョーマ自身すら意識
しない場所で、内側から蝕んでいった。それを桃城はつぶさに見て取っていた。リョーマの内側を蝕む
狂気じみた恋情を。だから桃城は離れた。
 リョーマにとって、テニスは生まれた時から傍らにあるものだ。だからこそ、それを失う怖さを、リョーマ
は知らない。極当たり前に存在しているからこそ、失うことなど、きっと考えもしなかったのだろう。
 テニスを失ったら、それはリョーマが望もうと望むまいと無関係な場所で、リョーマの内側から正気を
奪っていく。それだけは判っていたから、桃城は離れるしかできなかった。半年の猶予期間を置いて。
それぞれにとって最良の方法を模索する為に。桃城は箱庭のような暮らしから、リョーマを置き去りに遠
ざかった。
 桃城が出て行った抜け殻の箱庭で、一体リョーマがどんな暮らしをしていたのか。どんな精神状態で、かろうじて現実を繋ぎとめていたのか。リョーマがどれだけ可笑しくなっていたのか、聴いたのは不二
からだった。
 試合会場で合えば、見知らぬ者が見れば、別段可笑しい部分は感じとれなかっただろう。けれどリョ
ーマを知る者が見れば、その違いはすぐに判るものだった。
 不二や手塚に対して取り繕うこともできない程、当時のリョーマは病んでいた。桃城を失う怖さと、同じ
比重でしか傾かないテニスと。その狭間に強制的に立たされ、リョーマは否応なく選択を突き付けられ
た。それがどれ程酷なことか判っていた。
 離れて暮らした半年間。リョーマの内側で一体どんな変化があったのか、桃城にも判らない。けれど
あのまま箱庭のような空間で、閉ざされた環のような心地好い空間に溺れていたら、待っていたのは滅
だけだっただろう。夢のように綺麗な没落など、現実には何処にも存在しない、夢物語だ。それをリョー
マにも知っていてほしかった。   
 それでも、忘れてほしくなかった。
「お前だけだよ」
 大切なのは。失ったら呼吸さえできない程。
大切という漢字は、大きく切ると書く。それは真っ二つに切る覚悟をもって、相手を受け止めるということ
なのだと、以前何かで聴いたことを思い出す。それはまさしくその通りだっのだと、桃城は柔らかい笑み
を浮かべ、瞳を閉ざした。











「着いたよ、二人共」
「早く起きろ〜〜〜」
「ハレ?不二先輩、英二先輩?」
 肩を揺すられ覚醒を促されれば、正面に36コンビが笑っているのに、桃城は一瞬事態が判らず、周
囲をキョロキョロと眺め、肩に掛かる重みに思い出す。
「着いたんスか?」
「桃城、越前を起こせ」
「ヘーイ」
 表情を読ませない手塚の声に、桃城は軽口めいて返事を返し、肩に掛かる小作りな頭を柔らかくつつ
いた。
「コーラ越前、着いたぞ起きろ」
「………桃、オチビに甘すぎ…」
 周囲に自分達しかいないとはいえ、自宅ではない場所で、此処まで甘い雰囲気を出されては、英二
は呆れるしかなかった。
「桃城は、いつもそうやって起こしているのか」
 いいデーターがとれたと、社会人になってまで持ち歩いているデータノートに、乾は何やら書き込んで
いる。
「……乾先輩、それ今の俺らに何の役に立つんですか?」
「色々と」
「……色々って…」
 シレッという乾に脱力しつつ、桃城がリョーマを揺すり立てれば、リョーマは身動ぎを繰り返し、ぼんや
り瞼を開いた。
「桃先輩…?」
「起きたか?」
「お早う〜〜オチビ」
「菊丸先輩……?」
 相変わらず寝起きが最悪的に悪いリョーマは、周囲の状況が判らず、キョトンと小首を傾げている。
その姿は、成長したにも関わらず、誰の眼にも中学生当時のリョーマの姿を彷彿とさせる無防備さが全
面に出ているから、誰もが柔らかい苦笑を漏らしている。
 中学生当時のあどけなさは消え失せ、今は精悍な青年の姿形になっているというのに、こういう時の
リョーマは、不思議と中学生当時のリョーマとダブる。
「着いたぞ」
「ん〜〜」
 正面に立ち、リョーマを立ち上がらせようと伸びた桃城の腕に掴まりながら、リョーマは立ち上がると、
コテンと軽い擬音を響かせ、桃城の肩口に頭を預けた。
「………桃、幾らなんでもオチビ甘やかしすぎだぞ」
「英二先輩〜〜これ俺の所為ですか?」
「幾ら僕達だけだっていっても、ちょっと甘やかしすぎだね、桃」
 終着駅は都心から一時間以上離れた場所だったからか、車内に乗客は自分達だけだった。とはいえ、きっとリョーマは周囲に人目があっても、自分の知名度に関しては認識が稀薄な分、リョーマは桃城
に凭れかかっていただろう。
「不二先輩〜〜〜」
「桃先輩煩い」
「コラ越前、起きてんならちゃんと起きろ」
「その日本語、変」
 それでも完全に力を抜いて凭れてくるリョーマを引き離さない桃城は、完全にリョーマに甘い。所詮昔
から桃城は、リョーマを甘やかすだけ甘やかしたい男だったと、周囲は溜め息を吐き出し思い出してい
た。















 静まり返った駅前に響く9つの靴音。何処も駅前はそうなように、ショッピングモールか、其処まで大
きくない駅前なら商店街が立ち並んでいる。青春台から1時間半掛かって辿り着いた場所は、バスが
循環する為のロータリーが広がり、その向こうに商店街が広がっている。それを逸れ、山道へと続く道を
歩いていけば、真夜中で静まり返った無音の世界に、9つの靴音は異様に大きく響いて聞こえた。
 静まり返った世界は、夜の闇にその輪郭さえ沈み込ませ、微かに判るのは、その凹凸程度だ。すべ
てが闇の中に飲み込まれ、穏やかな眠りに着いている。
 そして山へと分け入れば、鬱蒼と茂る緑は今は闇と同化し、濃く黒い影だけが周囲を覆っている。
都心からちょっと離れた小さい山は、子供達の遠足コースにもなっている程の小さい山で、だから道は
しっかり整備されていた。尤も夜は本来登山は禁止だから、当然街灯などというものはない。先頭にな
って歩いている手塚の懐中電灯の光が頼りだった。幾ら整備された道とはいえ、山の中には違いなく、
迂闊なことをすれば、こんな小さい山ですら、人は容易に遭難できるのだ。
「今考えれば、部長がよく許可しましたよね」
「そうそう校則違反に加えて、山登ったの、真夜中でしたからね」
 趣味が登山の手塚にしてみれば、山の内にもはいらないだろう、都心から少しばかり離れたこの山は、けれど自然を甘く見ることの危険性を十二分に判っている筈の手塚が、当時よく明かりのない夜中の
登山を許可したものだと、桃城とリョーマは過去を振り返る。経験者だからこそ、低い山肌とはいえ、自
然を相手にする危険性を、手塚はよく判っていた筈だ。
「そうそう、手塚がよく許可したよにゃ」
「手塚も、色々迷ってた時期だったからじゃないの?」
 ねぇ、手塚?不二が隣を歩く手塚に笑い掛ければ、手塚は眉間に皺を寄せただけだった。
 確かに当時の自分は、不二の言う通り迷っていたと、手塚は過去を振り返る。
留学の話を持ち掛けられ、改めて将来プロになる選択を視野にいれた。痛めてしまった肩のこともある。
全国大会前の大事を控え、部長である自分は治療の為、関東大会出場を断念しなくてはならなかった。そんな状況の中。確かに迷いが生じていた。だから大石の励ましを断りはしなかったし、できなかった。一時的とはいえ、部長代理という立場で、個性的な面子を纏め、全国へと導いていく大石も、それは
必要なことだと思ったからだ。そして自分達だけではなく、レギュラー全員に、必要なことだった。
「青かったな」
「何それ?」
 苦笑まじりの台詞に、不二が笑う。
「手塚も案外こういうのが、好きなんだよな」
 誘ってよかったよと大石が笑うのに、やはり手塚は苦笑を深めただけだった。
 あの時がなければ、もしかしたら、こうして15年後の約束も存在しなかったかもしれないのだ。皆で決
意も新たに全国へと望む為、山へと登り、朝日を眺めた。何故山だったのか、告げたら手塚は笑うだろ
うか?大石はそう思う。山に登ろうと決めたのは、手塚の趣味が登山だからというのが、理由のすべて
ではなかったからだ。
「もうすぐ頂上だな」
 黙々と隣を歩く海堂に、乾が声を掛ければ、海堂は言葉なく頷くだけだった。そんな部分は中学当時
と何一つの変わりはない。






 鬱蒼と茂った樹々の間を歩き一時間程度。適度に汗を掻いた夏の夜の登山は、気分まで当時に返っ
てしまったかのようで、高揚する。
「着いたぞ」
 今は闇に同化している青黛な緑。黒々とした枝が天に向かって伸びている。切れ切れの隙間から覗く
空は綺麗な藍色で、夏特有の星座が見えた。
「ウワッ!懐かしいにゃ〜〜〜あん時と全然変わらない」
 突然開けた視界は、ポッカリ穴が空いたように積翠が途切れ、足許に広がるのは、辛うじて凹凸のカ
タチで判る、家々の屋根だった。それも今は真夜中の眠りについていて、遠くに点在する街灯の明かり
が、暗い闇の中に不鮮明な光を放っていた。
「桃先輩、ファンタ」
 頂戴と、隣に佇む桃城に細い腕を差し出せば、呆れ顔をしながらも桃城は、リョーマの掌に、冷たいフ
ァンタの缶を乗せてやった。
「オチビ〜〜お前プロなんだから、そんなもんばっか飲んでたらダメじゃん」
 もう今はオチビという愛称はリョーマには似合わないのかもしれない。英二とリョーマの伸長差は、中
学生の時のような開きはない。それでも、英二にとって、リョーマはオチビというのが似つかわしいもの
だったのだろう。一向にその愛称を改める気配はなかったから、リョーマはもういい加減、英二に反駁す
るのも空しくなっていた。尤も、それは手塚に言わせればお前も同じだということになるから、きっとお互
い様だろう。試合会場だろうが何処だろうが、リョーマも桃城も揃って、手塚のことは『部長』としか呼ば
ないのだから。
「普段は飲んでませんよ」
 背後から腕を回してくる英二に、リョーマはシレッと口を開き、お気に入りのグレープ味を堪能する。
プロとなり、躯が資本の現在、リョーマが炭酸飲料を飲むことは稀だったから、桃城も好きにさせている
のだ。懐かしい面子と懐かしい場所に赴いた今くらい、気分が当時に戻っても、可笑しくはないだろう。
「夜明けまで、あと4時間くらいか?」
 幾ら真夏とはいえ、此処で寝てしまう訳にはいかない。
明かり一つない山頂では、隣にいる相手の顔を見るのがやっとだ。
「いいんじゃない?適当に喋ってれば」
 あの時だって、そうだったよと不二が笑う。
15年前のあの日。やはり夜中に此処に着いて、朝日が出るまでしていたことは、他愛ない会話だった。思い思いの場所に座り、特別なことではなく、ただ有り触れた日常的な話をすることが、当時はとても
楽しかった。
「んじゃオチビから」
「………なんスかその順番性は」
 身の上話や、それこそ夏に付き物の怪談を話す訳ではないのだ。順番も何もないだろうとリョーマは
憮然となる。
「ん〜〜?ホラだってさ、オチビだから」
 そうして思い切りオチビ甘やかしている莫迦な男もいるし?そんな言外を滲ませる英二に、桃城は視線を泳がせ、蟀谷を掻いた。
 今リョーマが座っている場所は、人間座椅子よろしく、桃城の胸板に背を預けているから、英二が呆
れているのは無理もないことだった。尤も、中学生当時から極親しい限られた人間の前で、リョーマはこ
うしていたから、英二達にしてみれば、久し振りにみた光景ということになる。
「別に目新しい話しなんてないっスよ」
 憮然としてファンタを口に含み、そしてアッと思い出したようにリョーマは思い出した。
「そいや、水野に会いましたよ」
 リョーマのファンタを背後から手首を掴んで引き寄せ口に含みながら、桃城が最近フランスで会った水
野カツオを思い出す。
「水野って、あの水野?そいやあいつ留学してたんだっけ?」
 中等部時代、一年性とリオとして常にリョーマ回りにいた当時の子供達も、今はもういい大人だ。
「留学っても、料理の修行ですけどね」
「そういえば、年賀状で近況が書かれてたよ。フランスのレストランで仕事してるって」
「僕も行ったよ。いい雰囲気の洒落たレストランで、こじんまりした店だったけど、味は一流だったね。
いい感じでシェフしてたよ」
「あいつ料理は美味かったですからね」
 以前夏の合宿で披露した料理の腕は、リョーマにも美味いと言わせた味だった。
「あとね、以外にもあの立海の丸井君にもあったよ」
「丸井って、あの丸井っスか?」
 海堂がその時始めて口を開いた。元々寡黙だった海堂は、社会にでてからますます寡黙さに磨きが
掛かっている。
「あの野郎、今何してるんスか?」
 海堂にしてみれば、丸井とジャッカルのダブルスペアは、ある意味思い出深いものだった。
「何してると思う?」
 意味深に笑う不二に、海堂ばかりか英二も興味津々な視線を向けていた。
「オチビ、知ってる?」
「知ってますよ。俺案外好きだし」
「お前甘いものに、眼がないからな」
「甘いもの?」
 ヒントを与えたつもりはないのだろう桃城の台詞に、英二と海堂は互いに顔を見合わせ、キョトンとな
る。
「手塚は知ってるのか?」
「ケーキ職人だ」
 眼鏡の縁を持ち上げ乾が口を開くのに、手塚はサラリと丸井の現在の仕事を口にした。
「ケーキ職人〜〜〜?」
 事情を知る手塚達以外の全員の声が、ヒックリ返って叫ばれる。けれど立ち直りが早かったのは、以
外にも海堂だった。
「そういえばあの野郎、試合前は必ず自分で作ったケーキ食べる奴だったな」
 中学生が、試合前に自分でレシピを作り、あまつさえケーキまで自分で作ってしまうその凝り性は、
当時から現在の片鱗が覗いていた、そういうことなのかもしれない。
「丸井の奴もフランスのケーキ屋で職人してて、水野の勤めてるレストランと案外近いんですよ」
「ホエ〜〜〜人間判らないもんだにゃ」
「それは君もだと思うよ英二」
 クスクス不二が笑えば、まろい瞳がキョトンと瞬き、不二を眺めた。
「そうっスよ。英二先輩が獣医で、ましてあの亜久津と同僚なんて。獣医って、どっちかってと、海堂って
感じだったし」
「それを言うなら、俺には海堂が乾と同じ警察関係ってのがよっぽど判らないにゃ」
 海堂が昔から動物好きだったのを知っているから、英二も海堂が乾と同じ職種についたことが不思議
だった。
「海堂みたいな粘りのある人材が、必要なんだよ科捜研なんて場所は。だから本当は鑑識とかにも向
いてるんだけどね」
「でもああいう場所って、乾みたいなデータオタクが集まって、理屈こねてる部署って感じするな」
「菊丸、お前の情報は、何処か間違ってるぞ」
 ヤレヤレと乾が大仰に溜め息を付く。
「理論的に事件の鑑定をする場所が科捜研だって言っても、英二には判らないだろうな」
「そんで乾は、海堂を引き摺り込んだんだ。俺絶対海堂は、後輩になるって思ってたもん」
「俺も、そのつもりだったんスけどね」
 どうしてあの時乾の言葉にうっかり頷いてしまったのか、今も海堂には判らない。それでも今の仕事
は案外と性にあっているから、悪いとは思っていない海堂だった。
「どうでもいいけど、そろそろなんじゃないんスか?」
 この面子で会っていれば、簡単に数時間は経ってしまう。まして夏の夜明けはそれでなくても早いの
だ。
 周囲の輪郭さえ闇の中に溶け込ませてしまう真夜中の闇は、いつの間にか清涼な空気に溶け始め、
東の空が白々と淡い明るさを灯し始めている。
「夜明けだな」
 誰ともなく呟いた台詞に、全員が無言で頷いた。



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