真夜中のデート
act1











 暖冬と言われていたにも関わらず、年末ギリギリに降り出した雪に、首都圏の交通網は簡単にマヒを
起こし、首都高は一時的に、通行止めや車両規制がおこっていた。雪に不慣れで、対策の整っていな
い政治の中心地は、毎年些細な雪で、交通マヒを起こす脆弱ぶりを露呈している。到底政治の中心地
とは思えないその脆弱ぶりは、案外政治そのものなのかもしれない。
「…寒………」
 細く開けた窓から入り込む深夜の外気に、リョーマは細い躯を竦め、華奢な身には確実に一回りは大
きい恋人のカーディガンの胸元を合せた。そうすれば極僅か、カーディガンに残っている桃城の匂いが
鼻孔を擽っていく感触に、身の裡に、怺える術のない切なさが湧き起こってくる。
 桃城が渡米してもう一年近く経つというのに、リョーマは桃城の存在が隣にないことに、一向に慣れて
はいなかった。慣れたと思っていたそれは、こんな些細な局面で、何より明瞭に、リョーマに桃城の不
在を思い知らせてくるから、慣れていないのだと、痛感するしかなかった。
「……悪党……」
 寒さで慄える躯を、大きいカーディガンに埋めながら、リョーマは苦く悪態を吐いた。けれどそれさえ返
されることのない苦笑に、更に身の裡に切なさが湧くという、悪循環を孕んでいくから始末に悪い。尤も、暖房が程よく効いた室内の窓を開けている時点で、寒いのはリョーマの自業自得で、それに付随して
桃城を否応なく思い出してしまうのも、やはりリョーマの自業自得だ。
 リョーマは緩く吐息を漏らすと、細く開けた窓へと視線を移す。漏らす吐息さえ、白く染まる深夜の帳。
 閑静な住宅街を包む、静かな仄白い雪明かり。藍色の空間に黒く塗り潰されている稜線。昼間から
降り始めた雪の為、都内の交通網はマヒを起こし、年越し行事を急遽取りやめにした地域も多いとニュ
ースが伝えていた。雪自体は夕方には止んだものの、藍色の空間に霽月はなく、夜目にも曇っている
のが判る。それでも明るいと感じるのは、仄白く周囲を照らす雪の所為で、そして大晦日という深夜だ
からだろう。住宅街の家々は、未だ明りの灯っている家が多いからだ。
 雪が降った後だからだろう。ひどく静かな深夜の時間帯は、空気に氷が刻み付けられたかのような外
気が、暖められた室内の空気を奪っていく。雪や雨は、消音効果があるという。それはこうして雪が止
んだ今も効果が失われることはなく、周囲はひどく深閑とした気配に満たされている。それがいっそう、
リョーマに凛冽とした肌寒さを伝えてくるのかもしれない。
 けれどリョーマは、冬の深夜独特の、凛冽さが嫌いではなかった。特に深夜独特の、凍えるような冷
ややかな空気は、ピンと身の裡が引き締まる感触が、コートに立つ緊張感と何処か似ていて、嫌いに
はなれなかったからだ。そして去年までは、確かに傍らに位置していた温もりが在ったから、その温もり
の在処を、明確に伝えてくる冬独特の寒さは尚更、嫌いにはなれなかった。
 寒い季節は、だからこそ人の温もりがより顕著に感じられるから、むしろ四季の中で、一番温かい季
節だと思っているあたり、リョーマは桃城を苦笑させた感性の持ち主だ。
 それでも、実際窓を開けていたら、寒いのには違いない。
此処に桃城がいたら、確実に心配されるだろうなと思えば、そんな時の桃城の表情から口調まで想像
出来てしまい、リョーマは薄い笑みを覗かせる。
 それは想像できてしまうというより、去年までは幾度となく繰り返されてきた桃城とのやり取りだった
から、記憶の想起という方が、正確には正しいものだろう。
 そんな時の桃城は、決まって苦笑とともに心配を口にして、そのくせ口調は何処までも柔らかく、リョ
ーマを包み込んでいた。桃城は何処までもリョーマには過保護で慎重で、心配性の恋人だったから、リ
ョーマを甘やかすことにかけては際限がなかった。そのくせ決して厳しさをも忘れない恋人でもあったか
ら、際限なく甘やかすだけで満足を得る、無知な子供ではなかった。
 リョーマにとって何が必要か、桃城はいつだって見誤らない。その冷静な洞察力が、時にはリョーマを
どれだけ切なくさせたか知って尚、桃城はリョーマに安易な言葉を与えなかった。
 それが桃城の強さで厳しさなのだと、リョーマが思い知ったのは、中等部卒業と同時にプロを目指し、
渡米する為挨拶にきた桃城を見送った時だった。言葉より余程雄弁に語っていた背中が、桃城の愛情
で厳しさなのだと、リョーマはその時初めて気付いたのだ。それは言葉に出されるより余程辛辣なまで
に、リョーマに厳しさを語っていた背だった。
「あと十分」
 ザックリとした、手編みを思わせる黒いカーディガンに、きっと桃城が見たら、『タヌキと変わりないな』
と笑うだろうネコのような仕草で、掻き合せた胸元に細い首を竦め、顔を埋めていたリョーマは、右手に
嵌めたリストウォッチで時刻を確認すれば、年末恒例の歌番組も終わり、今年も残り僅かな時間帯にな
っていた。
 自宅の裏に寺を預かる南次郎は、流石に仮住職という立場から、除夜の鐘をつかない訳にはいかず、昼間気象予報どおり降り出した雪に、延々文句を吐きながら、年越しの準備をしていた。例年ならそ
れなりに近所の住人が除夜の鐘をつきに訪れる寺も、こんな雪の寒い夜では、さして人出もないだろう。それでも寺を預かる住職である以上、南次郎は鐘を付かない訳にはいかず、裏の寺からは聞き慣れ
た鐘の音が響いてくる。
 深夜の冷ややかな空気の中、周囲から響く除夜の鐘。冬は空気が澄んでいる為、かなり離れた位置
の鐘の音も、綺麗に響いて聴こえてくる。まして昼間に雪が降った為、空気は凍える程に澄んでいるか
ら尚更だろう。
 自宅が寺を預かる所為で、鐘の音など聞き慣れている筈が、深夜の深閑とした住宅街に響く鐘の音
は、不思議と厳粛な儀式のように思え、リョーマは一昨年と去年、桃城と聴いた、年越しの鐘の音を思
い出す。
 思えば青学に入学し、桃城と肉の関係を持った中一の冬。まさか自分達がこんな道を歩くとは、思っ
てもいなかった。それは様々な意味に於いても言えることだった。
 アメリカで育ったリョーマだったから、世の中には、同性思考の人間がいることは判っていた。けれど
まさか自分が桃城という同性の男に抱かれる立場になるとは、思ってもいなかった。まして化け物のよ
うな恋情を教えられ、胸が痛む程、恋焦がれてしまうとは、考えもしなかったことだ。満ちる為に欠ける
餓え。その切ないまでの道理を、たった一人の男に教えられた。焦がれる程の餓えと同義語の恋情は、切なさと呼ぶには深すぎるものばかりで、それはまるで奈落の恋だ。
「ねぇ、桃先輩?こっちは、雪が降ったよ?」
 仄白い周囲の光景から、リョーマの視線が、右手首のリストウォッチに伸び、鋭利な打球を生み出す
とは思えない細い指先が、愛しげに文字盤の上を撫でていく。
 それは去年のリョーマの誕生日も終わる時刻、不意に訪れた桃城の腕から、半ば強引に、有無を言
わさず奪いとったものだった。けれど桃城は怒りもせず、ただ緩く笑いながら、リョーマの細い手首にそ
れを嵌めてやった。


『ほっそいな、お前の腕。時計ってより、ブレスレットって感じだよな』


 留め金を外す必要もなく、手首に収まってしまったリストウォッチは、桃城の温もりが残っていた。
年間数秒と狂いの生じない精巧なハミルトンの時計は、桃城が青学中等部入学時、父方の祖父に買っ
てもらったものだと聴いた。そして現在アメリカにいる桃城の手首を飾るものは、リョーマが中等部入学
時、南次郎に買ってもらった、ウェンガーのリストウォッチだ。
「桃先輩…」
 凍える深夜の空間、荘厳に響く除夜の鐘を聴いていれば、胸の奥から突き上げてくる切なさに、リョー
マは不意にいたたまれなくなった。
 あの時、何故時計を交換したかったのか?去年の今頃は未だ、桃城の口から直接、渡米の話を聴い
てはいなかった。桃城がリョーマにプロを目指す為、渡米することを切り出したのは、それこそ中等部の
卒業式間近のことだった。
 詐欺師の桃城は、最後の最後まで、周囲を綺麗に欺いて、中等部の卒業式、初めて渡米を打ち明け、友人達を慌てさせたという顛末が付く。
「なんでこんな寒い夜なのに、あんた隣にいないの?」
 理不尽を言っている自覚はあるから、桃城が聴いたら、きっと精悍な面差しに微苦笑を刻み付け笑う
だろう。そんな表情が簡単に想像できて、リョーマは切なげに柳眉を歪め、両腕で細い躯を抱き締める。それでも得られる温もりは一切ないことが、不意に泣き出したい衝動を孕ませる。
「ホァァ?」
 そんなリョーマの機微を感じ取ったのだろう。愛猫のカルピンが足許に纏わりつき、甘えた鳴き声をあ
げながら、尻尾をユルユル振っている。
「カル?起きちゃったんだ」
 今までリョーマのベッドの上で、スヤスヤ穏やかに寝ていたカルピンだ。きっと細く開けた窓から入り
込む外気で、部屋の温度が下がったことも、起きてしまった要因だろう。
 リョーマは足許に纏わり付く愛猫を抱き上げると、カルピンはまろい瞳を瞬かせ、キョトンと小首を傾げ
る仕草で、リョーマの腕の中で甘えた鳴き声を上げている。
 フワフワの綿毛を連想させる長毛の愛猫は、抱き締めていれば温かい。それでも、桃城が代償もなし
に与えてくれ温もりとは違のものだ。
「カル、今年も終わるよ」
 もうあと数分で、今年も終わる。そうすれば新年になり、自分が日本にいる時間も残り僅かになる。
それはまるで、切っ先を細く削り落としていく作業に似ているように思え、リョーマの胸の内に、らしくな
い感傷が湧いた。
 今年と新年の差が何処にあるのか、その境界線一つ判らない。新年になっても、実際何一つ変わら
ないのが現実だ。それでも、容赦なく流れていく時間に、らしくない感傷を覚えてしまうのは、青学で出
会った優しい人達の、言葉にされることのない、見守るだけの強さと優しさを湛えた、視線の在処を知っ
ているからだろう。
 降る様に優しい言葉。差し出される手。それでも無駄な言葉は何一つ口にせず、ただ見守ってくれる
優しい人達。守られているのだと、守られていたのだと、今更気付く。気付けば、去年の冬、いつも飄々
とした南次郎が、その時ばかりはひどく真摯な声と貌をして、呟いた科白を思い出す。


『一体何がそんなに、お前の内側を守ってるんだろうな』


 クツクツ笑いながら、それでも笑わない眼と声で、南次郎はそう言った。
 言われた当初は判らなかった科白は、けれど今。日本に居ることのできる時間の短さを思い知った時。南次郎の科白の意味が繋がった。
 内側を守ってくれた者。桃城だけではなく、大勢の優しい人達に守られていた。そう思えば、桃城は日
本を離れる去年の除夜の鐘を、どんな想いで聴いたのだろうか?
「カルとも、春になったら、暫くお別れだね」
「ホァァ?」
 まろく瞬く濃い蒼眸を、覗き込むように告げるリョーマに、カルピンはキョトンと小首を傾げ、尻尾を振っ
ている。
「淋しい?」
 甘えた鳴き声で尻尾を振っている愛猫に問い掛け、淋しいのは自分かと、リョーマは苦笑する。
 それでも甘えたの愛猫は、自分がいなくなったら淋しがるだろうなと、リョーマは思う。
「あんたも、淋しい?」
 リョーマは右手のリストウォッチに視線を戻し、何とも言えない表情で問い掛ければ、桃城の莫迦みた
いな笑顔を思い出す。
「金髪美人と浮気してたら、蹴ってやる」
 雑踏の賑わいを連想させる桃城の笑顔。それがたとえ盾でしかないものでも、相手を勘違いさせるに
は偉大な効力を発揮する笑顔だから、きっとアメリカでも莫迦な女の一人や二人、勘違いさせているん
だろうなと、リョーマは苦笑する。それでも、桃城を疑うことをしないのは、桃城がリョーマには何処まで
も過保護で、誠実なのを知っているからだ。
 かつて桃城の左手首を飾っていたハミルトンの秒針が、残り十秒で今年の終わりを告げた時。リョー
マは視線を巡らせ、デスクの上に放り出してある、メタリックの光沢を弾く、銀色がかった赤い携帯を眺
めた。
 滅多に鳴らない桃城からの着信。その意味を、判らないリョーマではなかった。それは全く鏡像を眺め
るように、リョーマも同じ切なさを抱いているからだ。
 グローバル化で、世界との距離感が不鮮明になっていっても、実際の物理的距離など一向に縮まら
ない。情報社会がどれだけ世界との距離を縮めたとしても、生身の距離は何一つ変わらないのが現実
だ。会いたい時に会えないもどかしさは、何一つ変わらない。
 今のリョーマは知っているのだ。誰に教えられるでもなく、声だけで満足できるなど、所詮会える距離
にいる恋人達の、身近な倖せにすぎないのだと言うことを。
 それは桃城とリョーマの二人が、甘いばかりの恋愛関係を築いてはいなかった証拠だろう。恋に恋す
る子供の恋だったら、毎日毎日電話をして、そして遠距離恋愛に堪えられなくなり、手近な部分に温も
りを求めて、心は離れていっただろう。
 声を聴けば、互いに逢いたいという感情が止められなくなる。身の裡から突き上げてくる切なさに溺れ、互いの温もりが欲しくなる欲求が止まらなくなる。それでも現実は容赦なく、二人の間に存在する、
物理的距離を思い知らせてくるから、声を聴くだけで満足できない以上、リョーマは突き上げてくる切な
さを怺えるしかなかった。きっと桃城も同じ気持ちだろうと思うのは、何もリョーマの勝手な解釈ではない
だろう。
 だから桃城の渡米に際し、お揃いで買い換えた携帯には、英二達が驚く程、桃城からの着信は少な
い。それは桃城の現在の立場を考慮しても少ないものだったから、リョーマは桃城も自分と同じく、声だ
けでは満足できないから、掛けてくることはできないのだろうと疑ってはいなかった。リョーマがそれ以
外の理由を思い付かないのは、今まで桃城から、余分な心配や不安を与えられてはいなかった証拠だ。リョーマの頭には、遠距離恋愛から破綻する恋人達の悲劇など、欠片も思い付かない。
 手近な温もりで埋め合わせをする程、桃城もリョーマも、互いへの想いを疑ってはいなかったからだ。
だから今夜、絶対携帯は鳴る筈だと、逆にリョーマは疑っていなかったのだから、互いへの想いの強さ
は、半端ではないということだろう。現に桃城は、リョーマの誕生日になった真夜中零時に、しっかり携
帯を鳴らしてきたのだから。そしてそんな桃城に軽口を叩きながら、突き上げてくる切なさにリョーマは
堪えていたのだから。
「本当に、バカ、なんだから」
 デスクの上に放り出してある、殆ど使用しない携帯をそっと撫で、リョーマは苦笑する。
 メタリックの光沢を弾く、少しばかり銀色がかったレッドの携帯。男が持つには些か女性好みの色合
いは、けれど桃城の好む色が赤だと知っているら、リョーマが敢えて選んだものだった。対して桃城が
持っている携帯は、メタリックの淡いブルーのものだ。それはリョーマの瞳の色と、何処か似ているとい
う、リョーマが店先で思い切り呆れた理由からだった。
 そしてリョーマの細い手首を飾るリストウォッチが、数秒の狂いもなく、午前零時の新年を告げた瞬間、何処かで新年を祝う花火の音が聞こえだ時だった。デスクの上で、軽快なテンポの音楽が流れた。
 桃城自身が設定した、桃城指定の着信音は、某アニメのオープニングテーマで、とても桃城らしい軽
快なテンポだ。 
 リョーマは掌中に収まる薄型軽量の二つ折りの携帯を開き、通話ボタンを押し、
「この曲、恥ずかしいんだけど」
 開口一番、軽口を叩いた。
『お前〜〜〜開口一番その科白ってのは、色気がないぞ』
 新年あけましておめでとう。そんな科白をリョーマに期待してはいなかったものの、恋人から開口一番
で聴くには些か色気のない、けれどあまりにリョーマらしい軽口に、桃城が携帯の向こうで微苦笑して
いると、きっとリョーマは知らないだろう。こんな些細な軽口からでさえ、桃城は容易にリョーマの機微を
感じ取ってしまえる、洞察力の持ち主だ。桃城のリョーマへの想いは、既に愛情の領域に差し掛かって
いる。それは子供が持つにはあまりに重い荷物だろうが、桃城は笑顔一つでそれを何でもないように持
っていられる男だった。
『A HAPPY NEW YEAR』
 小さい携帯から鮮明に聞こえてくる桃城の流暢な英語に、不意に繊細な貌が切なさに翳る。瞬間軽
口を叩くことができなくて、リョーマは開き掛けた口唇を噛み締めた。無自覚に、携帯を持つ指先に力が
こもる。
 記憶の中の桃城は、真夏のヒマワリのような笑顔のくせに、携帯から漏れてくる声は、どうしようもなく
真摯なものばかりを伝えてくるから、リョーマは半瞬、泣き出しそうな切なさを、怺えるしか術がなくなっ
ていた。
 聴覚から入り込み、ダイレクトに身の裡を掻き乱して行く桃城の声は、いつもいつも、包み込むように
過保護にされていた桃城の、本質的な部分を否応なくリョーマに思い出させていく。
 明るい笑顔に紛れ込む、桃城の慎重さだったり、過保護さだったり。どれもが誠実なばかりの桃城を、
あまりに明瞭にリョーマの意識の表層に思い出させていくから、リョーマは口を開けば『逢いたい』という
言葉が滑り出てしまいそうで、酷薄な口唇を噛み締めるしかできなくなっていた。
『………泣くなよ…』
「泣く訳ないじゃん。あんたの英語があんま下手だから…」
 何もかも、見透かされているのは今更だ。どれだけの距離が開こうと、桃城はリョーマの機微には驚く
程敏感だ。こうして見透かしてほしくない部分にさえ、容易に腕を伸ばしてくる。
『越前』
 切羽詰まった様子の欠片もない、深く柔らかい低い声は、何処か情事の最中の桃城をリョーマに思い
出させ、リョーマの内側に淡い火が灯る。灯れば、そんな声は反則だと毒付くしかできなくなる。どれ程
切望しても、逢うことは叶わないのだから。
『逢いたい』
 けれど次の瞬間、見透かされたままに告げられた声に、リョーマは息を飲むと同時に、細い躯が顫え
上がった。
「桃…先輩…」
 甘やかされていると思うのは、いつだってこんな些細な局面でだ。何もかも見透かして、それでいて極
当然のように、桃城はリョーマを甘やかすことに際限がない。まるで見えない腕で包む様に、桃城はリョ
ーマを包むことに長けている。
『我慢するような科白じゃないだろう?』
「…悪党……」
 自分が怺えるしかできないと思っていた科白を、何でもないようにあっさり口にする桃城に、リョーマは
悪態を付くことしかできない。言葉に出してしまえるそれが、桃城の強さだと思うからだ。
 逢えないと判っていて、切望してしまう科白。逢えないと判っているから、より焦がれてしまう恋情。
声を聴くだけで、容易に内側に灯っていく熱。
『お前は?』
 リョーマの今の状態など、桃城には今更だ。勝ち気で負けず嫌いなリョーマの性格だ。逢いたいと告
げれば、崩れてしまいそうな己に、恫喝さえ抱いてるのだろうと、気付かない桃城ではなかった。
『越前』
「人でなし……」
 言葉にすれば、逢いたくなる。声を聴けば、抱いてほしくなる。だから自分から携帯を掛けることは怖く
て、リョーマが桃城に携帯を自ら掛けたのは、桃城の誕生日の時だけだった。けれどそれさえ綺麗に見
透かされているのなら、我慢も無駄な努力かもしれない。
「…悪党……」
『そんな悪党が、お前は好きだろう?』
「桃…先輩」
 咎める響き一つない柔らかい声に、リョーマは携帯を握り締める。内側に灯る火。突き上げてくる痛み
を孕む切なさに、喚き出したい衝動さえ、足許を竦ませる。
『我慢する必要なんて、何処にもないんだ』
「…逢いたい……」
 一つ口にすれば、もう歯止めが利かない。逢いたいという想いは、まるで胸の内側から零れる様に溢
れてくるばかりだ。
「逢いたい…逢いたい…逢いたい…桃先輩…桃先輩…桃先輩…」
 崩れるようにフローリングの床に膝を付き、リョーマは胸元に愛猫を抱えたまま、桃城の名前を繰り返
す。
「あんたなんで、今いないの?」
『バーカ、お前に勝つ為だろうが』
 悲鳴じみたリョーマの声に、けれど桃城はひどく柔らかい声で笑うと、リョーマは半瞬泣き笑いの貌に
なった。
 勝つ為。サラリと告げられた科白に、改めて桃城の選んだ道筋が判ったからだ。
甘えた恋人同志の関係でいない為に必要なもの。互いの存在に依存していたら、それは恋人同志で
はなくなってしまうことを、桃城は一体いつから気付いていたのか?気付いてその為の道を選んでいた
のだろうか?リョーマには判らない。自分は一体どれだけ、この男に大切にされているのだろうか?
 気付いてしまえば、桃城の厳しいまでの愛情が判ってしまって、リョーマは言葉が繋げなくなる。
際限なく甘やかすことに長けている桃城の、言葉にされない厳しいまでま想いに、だったら自分はどう
すれば応えることができるだろうか?
『何一つ、諦めないんだろう?』
 それは二年前の夏。桃城の誕生日の夜。散々互いの温もりを貪って、甘やかな口吻を交わしながら、
リョーマが密やかな誓いのように告げた科白だった。それを桃城は今も鮮明に覚えている。
「あんたって、本当に悪党」
 テニスと等価値になってしまった桃城への恋情。どちらも失えないなら、そう在るように、生きていくし
かないのだと、桃城から教えられた。ただ甘えた関係に甘んじて許してくれる男ではないのだ、桃城は。いつだって、優しさと同義語の厳しさを忘れない男だ。
『上に、行くんだろう?』
「覚悟しててよ」
『それは俺の科白だ』
「俺、強くなったよ」
 その為に、優しい場所を離れたのだ。それでも誰一人、咎める言葉を口にしなかった。
 今年の青学は、全国大会に出場はできなかった。それでも、誰も何も言わなかった。築かれてきた伝
統を止めてしまった無力さに、桃城の後を任された部長の小野寺は泣いたものの、それでも、誰も咎め
る言葉を口にしなかった。英二も不二も乾も。春先高等部に進学した海堂も、誰一人、自分達の後を受
け継いだ次代の存在達を責めたりはせず、頑張ったねと笑った。あの場所は、優しい場所だ。だからこ
そリョーマは離れた。孤独を忘れない為に。
『俺も強くなったぜ。楽しみだな、お前と試合するの』
 何でもないことのように笑う桃城の、それがどれ程孤独を孕んで得るものなのか判らないリョーマでは
なかったから、桃城は本当に強くなったのだろうと思う。思えば、別の意味で早く逢いたいと思う。
所詮テニスが好きで仕方ないのだから、報われないと、リョーマは笑った。
『そうやってな、笑ってろよ』
「……あんたさ、そうやって誰にでも愛想振りまいて、莫迦な女勘違いさせてたら、本気で蹴るよ」
 まったくこの男はと、リョーマは緩い笑みを漏らす。
桃城相手に、隠し事は何一つ出来ない。きっとどれ程隠していても、何でもないことのようにも見透かさ
れるだろう。以前そうだったように。
『俺みたいに誠実な恋人、そうそういないぞ』
「同じ科白、あんたに返してあげる」
『金髪美人の誘いにも乗ってないし』
「俺も、テニススクールの連中の誘いにのってないし?」
『………オイ……』
「やたら俺構ってくるのいるけど、相手にしてないし」
『コラ越前』
「髪触ってこようとするの、ちゃんと足蹴にしてるし?」
『お前〜〜〜〜』
 楽しんでるだろう?携帯の向こうで桃城が慌てているのを感じ、リョーマはさぁねと笑う。
 実際、リョーマの科白に嘘はない。去年の春から通い始めたテニススクールで、リョーマを構ってくる
連中は多い。何せリョーマは、全国大会を優秀した青学の元レギュラーで、去年秋、大阪で開催された、ジュニアーワールドユースの選抜メンバーだ。テニスファンなら、ましてテニススクールに通っている人
間なら、良いも悪いも、リョーマという存在は知っていて当然と言えた。そしてテニスの確かな実力と同
時に、見目よい外見とくれば、ちょっと構いたくなるタイプなのだ、リョーマは。
 けれど実際リョーマの髪に触れようとして、思い切り足蹴にされた人間がいるのも事実だ。リョーマが
その行為を許しているのは、たった一人の男にだけだ。桃城以外にそんな仕草をされれば嫌悪に直結
してしまうから、リョーマの報復はかなりすさまじかったのは言うまでもない。
『ったく、お前タチ悪いぞ』
「ねぇ、桃先輩」
『お前〜〜〜電話でその声は反則』
「明けまして、おめでとう」
『越前〜〜〜〜』
 散々言葉遊びの軽口を叩いた後の科白に、桃城が脱力すれば、
「一応、区切りだからね」
 その境界線は何一つ判らなくても、それでもやはり去年と今年は似ている様で、大きな隔たりが在る
のだ。
『もうすぐだな』
「そうだね」
 何がとは訊かず、吐息で囁くように返せば、携帯の向こうで桃城が笑っているのが判る。
「ホァァ」
『タヌキ、元気にしてるか?』
 今までリョーマの膝の上で放り出されていたカルピンが、いい加減自分も話させろとでも言うように、
甘えた鳴き声をあげれば、桃城は携帯の向こうで嬉しそうに笑うのが判る。
「ったく、親バカ」
 そんなんだから、親父にパパとかママとか言われるんだと思うものの、家族以外には人見知りの激し
かった愛猫が、桃城にだけは懐いていたのを考えれば、仕方ないのかもしれない。
「パパと話す?」
 そして南次郎の悪乗りに乗ってしまうリョーマだったから、南次郎や桃城に、文句を言える筋合いはな
いのだ。
 膝の上から身を乗り出すようにして甘えてくる愛猫に、携帯を傾けてやれば、前足を出して引っ掻こう
とする仕草に、リョーマは慌てて携帯を引っ込めた。
「ホァァ」
『タヌキ〜〜〜ママの言うこと聴いて、いい仔にしてるか?』
 甘えた鳴き声をあげる、久し振りに聴くリョーマの愛猫のなきごえ、きっとご機嫌に尻尾を振っている
のが、桃城には見えるようだった。
「あんたがそんなだから、親父が未だにカルピンにママとかパパとか言うんじゃん」
 ジタジタと、膝の上で携帯を取ろうと前足を伸ばしてくる愛猫を、片手で宥めながら、リョーマは軽口を
叩くが、既にその仕草が南次郎の肴になってしまう仕草だとは、気付いていなかった。
「今先に言ったのは、お前だろう?』
「金髪美人に言い寄られたら、日本に妻子がいるって、断るようにね」
『越前〜〜〜』
「情けない声ださないでよ」
『お前、本気で俺の浮気心配してないか?』
「してる訳ないでしょ?」
 情けない声を出す桃城に、リョーマはシレッと言い返す。それがどれだけ桃城を喜ばせるか知ってい
て口にしているのだから、リョーマも大概桃城には甘い。英二や不二に言わせれば、所詮バカップルの
二人だ。それでもそのバカップルが、周囲に存在する、恋に浮かれたガキの恋愛をしていないのが判る
から、彼等はただ黙って、二人を見守っているのだ。
「そういえば、部長は?」
『ん?部長な、こっちでも随分名前が出てきてるぞ」
 桃城が南次郎の勧めで渡米したテニススクールは、以前南次郎がコーチをしていたスクールで、全米でもプロを数多く排出することで有名なスクールだ。その中に、手塚と跡部の姿もあった。
「フーン」
『お前、部長のテニス好きだからなぁ』
 クツクツ桃城が笑うのに、リョーマは半瞬憮然となる。
「安心してよ。桃先輩のテニスも好きだから」
『お前、それ反則だからな』
「前に言ったじゃん。あんたはテニスしてきる時が、一番雄だって」
『ソコかよ』
「だから、バカな金髪女に気を付けろっていうの」
 野性味溢れる桃城のテニス。人好きのする笑顔とは裏腹の、コートという戦場に立つ桃城は、鋭角な
面差しに野生を刻み付けている。そのギャップが女を惹き付ける魅力に転じるから、少しは自覚しろとリ
ョーマが思うのは、当然のものだろう。
『だったら越前、確かめてみるか?』
 悪戯を思いついたかのような桃城の声に、リョーマがキョトンとなる。
『リョーマ』
「なっ……」
 不意に響いた懐かしい声。情事の最中にしか呼ばれることのなかった名前に、情事の最中特有の桃
城の低く甘い柔らかい声。それがダイレクトに前触れなく聴覚に触れ、リョーマの身の裡にゾクリとした
顫えが走る。
『姫始め、だしな』
「………エロ親父!」
『案外こういうのも、新鮮じゃないか?』
 欲しくて抱きたくて、声を聴けば逢いたくなるから我慢していたのは何もリョーマだけではないのだと、
桃城が緩い声で笑うのに、リョーマの吐息が無自覚に色付いていく。
「んっ…変態…」
 それでも、熱くなる躯は止められない。溺れそうになり、ギリギリの理性が警笛を鳴らしている。それ
でも、桃城が欲しい想いは止められず、理性などあっさり切れてしまう。
『リョーマ』
 確かめさせろと、まるで見えない腕で絡め取るように囁く桃城の声に、リョーマは呆気なく陥落の嬌声
をあげ、
「桃先輩……桃先輩…」
 桃城が微苦笑を漏らす程、甘い吐息で桃城の名前を繰り返した。