倖せ色 act2
Colors










 深まる秋はゆっくりと、それでいて確実に冬の訪れを告げ、夜ともなれば気温はかなり下がり、外出
するには上着なしでは、肌寒さを感じる季節になっていた。
 日毎高くなっていく空。金茶色に輝く夕日に、早くなる日暮れ。気付けば街路樹や中等部の校庭に植
えられて幾重もの樹々は紅葉を深め、深まる秋の訪れを告げていた。真夏なら未だ明るい時間も、秋も
深まり、そろそろ初冬の足音も聞こえ出す季節は、六時ともなれば、周囲は藍色の空間に満たされて
いる。
「ねぇ桃先輩、月ってさ、大きさ変わるよね」
「どうした?突然」
 不意に問われた科白に、桃城が不思議そうに隣を歩くリョーマに視線を移せば、色素の薄い蒼眸は、
子供のような表情を刻み付け、宙空に浮かぶ月を見上げている。
 黒く塗り潰されて行く稜線。家々を繋ぐ、まるで生命線のように伸びる電線。そして視線を移せば、地
平線間近を仄白く照らす、円い球体が切り取ったように浮かんでいる。
「月って、地平線近くに在る時と、天に上った時とで、見え方が違うなって思ってさ」
 秋特有の少しだけ霞んだ月の色は、真冬のように、見ているだけで凍り付きそうな冷ややかな皓月
はなく、地平線から姿を現し始めた月白は、藍色の空間を少しだけ明るく照らしている。それは地上近く
に在る時は、やたら大きく見える石の球体だ。
「それって、Moon illusionだろう?」 
「フーン、よく知ってるね」
 初めて聴いたと、リョーマが隣を歩く桃城を間視すれば、桃城もリョーマに倣い、月を見上げていた。
「心理的な、眼の錯覚だとさ」
「って、何処かの女に聴いたんだ」
 詐欺師とリョーマが呆れれば、それは正解だったのだろう。桃城は少しだけ困った顔をして蟀谷を掻き、視線を泳がせている。
「あんたがそんな顔してるってことは、あんたの初体験相手の従姉妹、なんだ」
 たった一度だけ、偶然に会ったことのある、桃城の従姉妹。会った瞬間、リョーマには彼女が桃城の
初体験相手だと判った。
 聡明で、理知的な面差しをしている年上の女性。そしてその印象を裏切らない、一対の活力が溢れた
眼差しの深さ。精神的に自立した、年上の女性が好みの桃城の原点は、きっと間違いなくその従姉妹
だろう。
 そんな従姉妹に、さぞ甘えて尋ねたのだろうと思えば、リョーマの胸の内側に湧くのは、言葉にできな
い嫉妬だった。
「昔の話だよ」
 睥睨するリョーマの視線に、桃城が微苦笑を滲ませれば、それが緩く深みのある声と口調だったから、リョーマは半瞬、苦く口唇を噛み締め、悪党とボソリと呟いた。
 少年から青年への移行期なのだろう。精悍さに鋭角な面を強くする桃城の面差しは、こうしていれば、年齢を掴ませない落ち着きが備わっている。
 去年の夏から、眼に見える形で変化した桃城のテニス。それは同時に、桃城の精神の変容を、誰の
眼にも綺麗に曝す結果に繋がった。精神と肉体のバランスが取れているからこそできる安定したプレー
スタイル。元々テニスは、メンタル面が色濃く影響するスポーツだ。桃城の安定したプレーは、裏を返せ
ば、精神の落ち着きを意味していた。けれどそれは安定しているものでも定着とは意味が違うから、桃
城のテニスは日々進化し、成長しているのをリョーマは嫌という程知っている。常に桃城の隣で、桃城
のテニスを見てきているのだ。だからこそ、言葉にされることのない桃城の有り様も、漠然と判る気がし
た。判れば、リョーマの胸の内側に湧くのは、言い様のない痛みと切なさで、リョーマは不意に覗かせ
た桃城の緩い声と柔らかい微苦笑に、胸の奥が鈍く痛みを味わった。そしてそんな桃城だったから、女
子からの告白回数は、校内では半ば桃城の一人勝ちだ。当人ばかりが知らないタチの悪さに、少しは
自覚しろと思うリョーマだった。
「お前と会う前のな」
 従姉妹と紡いだ関係は、さして遠い過去のことではないというのに、それでも随分昔のことに思える
のは、桃城にとって、本当に大切にしたい相手に巡りあってしまったからだろう。
 従姉妹との関係は、ただやたらに甘やかされるだけのものだった。セックスを覚えたてのガキが、夢
中になって気持ちよさだけを求めていた。女の膣に腰を突き挿れ、開放する。それがセックスだと思い、
それが恋だと思っていた。けれどリョーマという大切な存在を腕にしてしまえば、従姉妹との関係は、セ
ックスへの好奇心と興味だけに突き動かされていたものだと、今なら判る。そして今なら判るもう一つの
ものは、遥かに年下の従兄弟に手を出し、セックスを教え、愛撫を教え。抱くことを教えた年上の従姉妹
が、散々自分を甘やかしていたのは、罪悪の感情からのものだったのだろう。それは桃城が幼いリョー
マの肉体を開き、テニスしか知らなかった心に、テニス以外の感情を教えてしまった罪悪と、とてもよく
似ているからだ。そして後悔していないところも、そっくりだった。
「別に、いいけどね」
 否定しない桃城に、リョーマは少しだけ呆れ、次に静かに笑った。
些かの言葉にできない嫉妬は感じるものの、桃城が今自分を誰より大切にしているのを、リョーマは判
っているからだ。そして桃城の初体験の従姉妹が、実は桃城ではないダレかを見ていたのも、漠然と判
ってしまったからだ。尤も、桃城をそのダレかに見立て、セックスを教えた事実を、リョーマが容認してい
るかと言え、していないのは当然だった。
 あんたの筆下ろしは貰えなかったから、いつかあんたのバージン奪ってやる。リョーマが内心でそん
な物騒なことを考えていると、けれど桃城は知らない。
「位置によって見え方が変わっても、そのものの大きさは常に一定だろう?なんなら今夜、コインでも使
って計ってみるか?」
 もう少し時間が経ち、月が天に上れば、大きく見えている球体も小さく見えるだろう。
「ねぇ?月ってさ、裏側見せないって本当?」
 地球の唯一の衛星は、その裏側を地球に見せないのだと、以前何かの本で読んだのを、リョーマは
不意に思い出す。
「ん?そうか?」
「……あんたって、狡い男だよね」
 雑踏の賑わいを連想させる明るい笑顔。けれどそれは桃城の本質からは程遠い、作為的なものだ。
伊達に手塚に曲者と言われていた訳ではない桃城の、誰もが真夏を思い出させる笑顔に安心するだろ
う。けれどそれは容易に手の内を見せない、盾と同義語だ。まして裏側など、簡単に見せてくれる男で
もない。
 リョーマにとって、桃城は狡い男と言えた。けれどその狡い男は自分に何より甘くて、それでいて厳し
さも忘れない男だから、よりタチが悪いとリョーマは思う。けれどリョーマは知らないのだ。
 生温い微温湯のような優しさを与えることは、桃城には簡単なことだ。ただ甘やかしてリョーマを束縛
してしまうことは、桃城にとっては造作もないだろう。むしろそうすることは、自分も傷つかない、苦痛も
伴わない、ラクな選択だった筈だ。
 けれど桃城は、ちゃんと知っているのだ。相手の意思さえスポイルしてしまうような優しさは、真の意
味において優しさとは呼ばないと言うことを。そんな優しさを、莫迦な相手なら、愛されていると、大切に
されていると、簡単にバカな勘違いをして、有頂天になるだろう。
 けれど桃城は、そんな過保護さで、リョーマを束縛することはなかったし、ただ甘やかし、いずれ思考
さえ奪いとってしまうだろう想いを嫌った。だからリョーマが甘やかすだけに甘やかされない、厳しさの意
味にも気付いてくれたことに、桃城が安堵しているのだと、リョーマは知らない。
「月と一緒にするなよ」
 リョーマの言外に滲む言葉が、判らない桃城ではなかったから、穏やかに笑うと、自分より少しだけ体
温の低いリョーマの手を救い上げ、
「ホラ、ゆっくりしてると、遅れるぞ」
 走り出した。
「もう遅れてるじゃん!」
 帰国し、青学中等部に入学が決まった日。南次郎から贈られたウェンガーのリストウォッチは、既に待
ち合わせ時刻丁度を指している。今更遅れるも何もないだろう。この時点で、遅刻決定だ。待ち合わせ
が六時なら、今は六時丁度だ。そして待ち合わせの駅前までは、全力疾走しても軽く15分はかかる。
「何分遅れるか、予測たてられてるに決まってるだろう?」
 データオタクの乾に、すべてを見透かし、莞爾と笑うことに長けている不二。理屈を抜きにして、そのも
のの本質を見抜くことのできる英二。元レギュラー陣にかかれば、遅れた分数まで、予測されてしまう
可能性が否定できない。そして絶対、それを肴にされるのは、今までの経験上、明らかだ。
「それは、ちょっと嫌かも………」
 桃城に手首を握られ走りながら、リョーマは元レギュラー陣の面々を思い浮かべ、少しばかり渋面を
刻み付けた。
 それでも自分達が、待ち合わせに遅刻しないで来るなど思っていないんだろうなと思うリョーマは、桃
城の手を握り返し、
「ねぇ桃先輩、ゆっくり行こうよ」
 走る桃城を引き止めた。
「まったくお前は」
 ヤレヤレと笑う桃城も、リョーマと同じことを思ったのだろう。幅広い肩を竦めると、握ったリョーマの細
い手首をそのまま自分のジャケットの中に引き込んで、歩き出した。
 閑静な住宅街。等間隔に点在する明るい街灯。未だ六時という時間帯だからだろう。帰宅途中のサラ
リーマンの姿はなく、藍色の空間には、オレンジ色の家々の灯が在る。何処からともなく漂ってくる、夕
食の支度をしているのだろう香り。不意に胸を締め付ける懐かしさが、互いの胸を過ぎったことを、けれ
ど二人は知らない。ただ想いを伝えあうかのように、絡む指先に力をいれた。
「お前、冷たいぞ」
 自分より体温の低いリョーマの細い指先は、深まる秋の外気に少しばかり冷えていて、ポケットの内
側で桃城の指を握り返してくる。
「桃先輩は、体温高すぎ」
 伝わってくる熱の在処。ただ優しいばかりではない熱さ。胸を締め付けてくる痛いまでの切なさに、
リョーマは軽口を叩くことしかできなかった。

















 都内へと続く路線の分岐でもある青春台の駅前は、瀟洒な駅ビルに、洒落た店が建ち並ぶショッピン
グモールが続いている。そしてそのショッピングモールの一角に立つ郷土料理の店が、不二の指定し
た秋田料理の店だった。
「遅いぞオチビ、桃!」
 桃城が店の扉に手を掛けたのと、内側から扉が開かれたのは、ほぼ同時だった。自動ドアではない
日本調の木目の扉が不意に開かれ、中からタイミングよく現れた英二に、桃城もリョーマも元レギュラ
ー陣はあなどれないと、内心冷や汗を掻く結果になった。
 それも当然の結果だろう。結局二人はあのまま互いに桃城のジャケットのポケットに片手を突っ込み、その内側で指を握り合いながら、結局此処まで来たのだから。
「もう皆集まって、始めちゃってるぞ」
 六時の待ち合わせに大きく遅刻した桃城とリョーマが、英二に促され皆の集まる席に付いたのは、約
三十分近く遅れた時刻だった。
「遅いぞ、桃、越前」
 八人分の座席が用意されている広い座席には、三つの鍋から湯気が立っている。漂ってくる匂いが、
食欲を刺激する。
「すみません、大石先輩」
 明るい笑顔で出迎えてくれる面々に、桃城は頭を下げ、リョーマは軽く会釈で応え、席に付いた。
「………なんなんスか、この配置……」
 席に付いた途端、隣に座るのは桃城だと疑っていなかったリョーマの両隣に腰掛けたのは、何故か
元36コンビの不二と英二だったから、リョーマは両隣に腰掛けた二人に憮然となる。
「遅れてきて、文句言わない」
「そうそう、桃とはいつも会うんだから、たまには僕達の相手しないとね」
「………どういう理屈っスか、それ」
 このコンビに、理屈など通用する筈がないのは、彼等の後輩を二年近くしていれば、リョーマにも判る
ことだった。けれど黙って遊ばれてしまう程、リョーマもおとなしくはなかった。黙っていては、延々肴に
遊ばれてしまうのは、火を見るより明らかだからだ。
「それにしても不二先輩、よく秋田料理の店なんて、知ってましたね」
 不二と言えば、洋食を連想させる家庭環境だ。その不二が、駅前の郷土料理の店を知っていた事実
に、誰しも話を聴いた当初は驚いたものだ。だから桃城も、不二から色々話を聴かせてほしいと言われ
た時。指定された場所に、少なからず驚いたのだ。尤も、話を聴かせてほしいという科白の中身は、以
前から予測できていたから、別段驚くものではなかったのだけれど。
 桃城も海堂も、予測はしていたのだ。今は隣接している高等部のテニス部で、レギュラーをしている不
二達から、そういう話が来るだろうという予測なら。けれどまさか鍋を囲みながらというのは予測してい
なかったから、海堂も乾から話を持ち掛けられた時、半瞬驚いた。その海堂は、リョーマの斜め前に座
り、料理事にはまったく役にたたない乾の世話を、文句を言いつつやいている。あれはあれで、結構似
合いで、息があっているんだろうなと、きっと海堂が聴いたら凹みそうなことを内心で思いながら、リョー
マはぼんやりと海堂と乾を眺めていた。そして正面に座る桃城に視線を移せば、桃城は宥めるような視
線でリョーマを見ているから、リョーマは益々憮然となった。
「この店はね、前に手塚に連れてきてもらったんだ」
「部長に?」
 莞爾としたたたずまいで口を開く不二に、リョーマも少しだけ驚いた様子で、隣に腰掛ける不二を見上
げた。
 校則が服を着て歩いているかのような手塚が、駅前のこんな店に、不二を誘ったこと自体が、リョーマ
には新鮮な驚きだった。
「手塚は、お爺さんに連れてきてもらったって言ってたよ」
 美味しかったんだと言って、手塚が不二を連れてきたのは、今年の春。プロを目指し、渡米する少し前
のことだった。
 以前祖父に連れてきてもらったら、思いの他美味しかったから、お前にも食べさせてやろうかと思った
と、知らない者が見たら、無表情にしか見えないだろう表情で、手塚は不二を誘ったのだ。その意味を、
判らない不二ではなかった。
「フーン」
 不二の科白に店内を見渡せば、駅前とはいえ郷土料理の店だからだろう。落ち着いた、それでいて、
何処か暖かみの有る、たたずまいを醸し出している。居酒屋とも趣が違う郷土料理の店内は、帰宅途
中のサラリーマンや家族連れが見受けられるものの、誰もが静かに食事と談話を楽しんでいるのが判
るから、きっと味だけではなく、この店内の雰囲気そのものが、手塚は気に入ったんだろうなとリョーマ
は思った。
「部長の趣味、渋いっスね」
 そういうリョーマは、けれど手塚が不二を誘った明確な理由を知らないから、単純に渋いと思ったのだ
ろう。普通中学生が、同級生を誘うには、郷土料理の店というのは、気軽に足を踏み込める場所ではな
いからだ。それでも静かな店内は、手塚のたたずまいにとてもよく似合うものだっただろうから、きっと手
塚を見て、誰も中学生とは思わなかっただろう。尤も、現在こうして集まっている面子の大半が、春先中
学を卒業したばかりの高校生には見えないだろうから、誰もが似たり寄ったりなのかもしれない。まして
リョーマと桃城、海堂の三人は中学生だ。この面子の中、歳相応に見えるのは、きっとリョーマだけだろ
う。
「まぁ、手塚だからね」
 リョーマの科白に、不二は柔らかい笑みを漏らした。
春早い季節。プロを目指し留学する手塚が、何故自分をこの店に誘ったのか?不二は今思い出しても、微苦笑が漏れる。けれど今此処でそれを話すつもりは、不二にはなかった。それは二人だけの秘密だからだ。
「コレ、なんなんスか?」
 長方形のテーブルに三つ置かれた鍋。白い湯気を立て、食欲を刺激する匂いに覗いてみても、中身
にさした違いは見受けられない。その鍋の中には、菜箸のような棒に、餅のようなものが刺さっていて、
それが鍋の中で煮えている。初めて眼にする食べ物に、リョーマは小首を傾げ、湯気の立つ鍋の向こう
に座る桃城に疑問符を口にする。
「オチビ、日本食好きなのに、きりたんぽ知らないんだ」
「きりたんぽ?」
「たんぽは、形がたんぽ槍という似ていることから、呼ばれた名称だ。炊き立ての飯を、擂鉢で餅のよう
につぶし、杉串に円筒形にぬりつけて、焼き上げたものだ」
 理路整然と話す乾に、桃城や海堂は関心しているものの、きりたんぽなど、聴くのも見るのも初めて
のリョーマにしてみれば、それは却って得体が知れないの一言になる。
「乾、却って越前は困惑してるぞ」
 憮然とした表情なら珍しくもないリョーマの表情の中、けれど困惑の貌というのは滅多に拝める代物
ではなかったから、珍しくも困惑顔のリョーマに、大石は柔らかい笑みを漏らし、乾に声を掛けた。
「………俺の説明じゃ判らないか?」
「全然」
「コラ越前」
 即答するリョーマに、桃城が正面で苦笑する。
「理屈は判っても、俺見るのも聴くのも、初めてなんだから」
 仕方ないじゃんと、リョーマが憮然となれば、そんな二人のやりとりを、
「眼と眼で会話するな、オチビと桃」
 やらしいぞと、英二が軽口を叩く。
「論より証拠、美味しいから、食べてみてごらん」
 良く煮えて、食欲を刺激する香りをしている鍋から、不二はきりたんぽを一本取り出すと、ついでに他
の具をと共に、リョーマの手元の取り皿に乗せてやる。
 既に三十分遅刻している二人は口に運ぶのはこれからでも、周囲は既に食べ始めている状態だ。
「熱いから、火傷するなよ」
 ネコ舌のリョーマに正面から注意する桃城に、去年の山吹中との対戦後、打ち上げで見せた、リョー
マと桃城のやり取りを、不二達は思い出す。
「そいやオチビ、熱いのダメだっけ」
 あの時も確か、お茶か何か口にしたリョーマが、口内を火傷したんだと、英二は思い出す。そして更に
思い出すのは、周囲の人間を憚ることなく、桃城に舌先を差し出して見せたリョーマの無防備なまでの
姿だった。
 周囲の眼をまったく気にしない無防備さに、リョーマがどれだけ桃城に思いを傾けているか、その時英
二達は理解したのだ。それまで英二達は、リョーマがネコ舌であることを、全然知らなかったのだ。
「越前、思い切りネコ舌なんですよ」
「越前は日本食好きなのに、だったら鍋とかは、もしかしたら辛かったか?」
 端に腰掛けている河村が、煮物を口に運びながら、リョーマを窺っている。誰の脳裏にも想起された過
去の光景の中。宴会場は、いつも河村の父親が握る鮨屋だった。
「俺、家で鍋とか殆ど食べたことないんで…」
 勝手がよく判らないと、不二が受け皿に乗せてくれたきりたんぽの串を弄びながらリョーマが口を開け
ば、桃城以外の誰もが、不思議そうな表情をして、リョーマを眺めた。
 それはそうだろう。日本食が好きなリョーマの家で、鍋をやらないなど、あまり信じられないからだ。
「越前ちって、お袋さんが洋食好きなんですよ。だから鍋だとシチューとか、ブイヤベースが出てきます
よ」 
 補足説明すれば、それは却って桃城がリョーマの家に出入りしている頻度の高さを証明してしまった
のだろう。英二など呆れた様子で、桃城を見ている。尤も此処にいる面子で、桃城がリョーマの家に、
週末ごとに通っているの知らない者は存在しない。
「桃と越前は、週末婚みたいだね」
 店内の静かなたたずまいに綺麗に適応し、莞爾と笑う不二の科白に、桃城は危うく噎せ掛けた。綺麗
な造作に相応しい柔和な笑みを浮かべながら、タチが悪いことを言うのは不二の得意技だ。
「不二先輩〜〜〜〜」
 勘弁して下さいよと、桃城が情けない声を上げる。
「週末婚?それ何?」
 けれどリョーマは不二の科白の意味が判っていないのだろう。キョトンとした様子で、不思議そうに桃
城を眺めている。
「そのまま、オチビと桃のことだにゃ」
「だから何が?」
 鍋の中身を取り皿に取り分けながら、英二が面白そうに話すのに、けれどリョーマは益々意味が判ら
ないという様子で、キョトンと小首を傾げ、正面の桃城に説明を求めている。
「あ〜〜〜だからなぁ」
 キョトンと瞬く色素の薄い空色の瞳に桃城は苦笑すると、
「単身赴任の旦那が、週末家庭に戻ってくることだよ」
「ちょっと違うにゃ〜〜〜」
「同じですよ」
 面白そうに笑う英二に、鍋から野菜や肉を取り皿に取り分けながら、幅広い肩を竦めて苦笑する。
「週末だけ、夫婦」
 端的に告げる乾に、そこでリョーマは漸く納得がいったのか、興味なさげにフーンと呟くと、きりたんぽ
を口に運んだ。
「アレ?リアクション薄いなオチビ」
 つまらないと理不尽を口にする英二に、けれどリョーマは淡如だ。
「別に今更でしょ?」
 シレッと言いながら、温度を確かめるようにきりたんぽを口にするリョーマに、英二は呆れ、桃城は微
苦笑を漏らしている。
「火傷するなよ」
 苦笑を滲ませる桃城に眼で応えると、リョーマはきりたんぽを一口噛み切った。
「オチビ、成長しちゃったんだねぇ」
 桃城と自分の関係を、サラリと今更と言ってしまうリョーマに、英二はさめざめと嘘泣きをして見せる。
けれどその眼が微塵も笑っていないことに、けれどリョーマは気付いていなかった。
 理屈を抜きにして、物事の本質を適格に見抜くことは桃城に劣らぬ英二だ。そんな科白を意識なくサ
ラリと言ってしまえるリョーマに、英二はこれから先。リョーマが辿るだろう道を思い、その想いの深さが、これから益々リョーマを傷つけていくんだろうなと、不意に言葉にならないナニかが、胸の奥から迫あ
がってくるのを感じていた。
「そのセーターも、桃のだし?」
 華奢なリョーマが着るには、どうみても一回りは大きいセーターは、手編みのようにザックリしたオレン
ジ色のセーターだから、きっと桃城のものだろうと不二は言われるまでもなく、気付いていた。
「この人、俺の部屋にちゃっかり、服の変え置きしてますからね」
 舌に合う熱さになったきりたんぽを、確かめるように咀嚼しながら、リョーマは不二の科白を肯定して
いる。それこそリョーマにとって、そんなことは今更のものだ。
「それをオチビは、私物化してると」
「当然。そんなことより、これ美味いっスね」
「だろう?」
「餅みたいで、でも違う。味がしみてて美味いです」
 二口、三口ときりたんぽを食べながら、リョーマは不二が取り分けてくれた他の具も口にする。
「俺んちじゃ、絶対、出てこない」
 初めて口にした日本の鍋に、リョーマは美味しそうに口を付けていく。
「ちゃんと冷ましてから食えよ」
 美味しいからと次々口にしていては、結局ネコ舌のリョーマは、口内を火傷してしまう羽目になってし
まうから、正面に座る桃城は、鍋に舌鼓を打っているリョーマに、注意も忘れない。
「……お前も過保護だな」
 リョーマに対し、何処までも過保護な桃城を知っていても、此処まで過保護にしている姿を見ると、呆
れてしまう海堂に、きっと罪はないだろう。けれど当の海堂は、隣の乾に鍋の中身を極自然に取り分け
てやっている仕草に自覚はないから、お互様と言うところだろう。
「そういう海堂もな」
 以前なら、容易に衝突していた桃城と海堂も、部長、副部長という立場を一年こなしてきたからなのか、成長したからなのか、簡単には衝突しなくなっていたから、海堂の呆れた科白に、桃城は軽く押収
しているだけにとどまっていた。そして軽く返された桃城の科白に、海堂は初めて、自分が無自覚に乾
の世話をしていることに気付き、半瞬渋面を刻み付けた。
「おいおい桃城、海堂にちょっかい掛けないでくれよ」
「あんたは黙って食ってろ」
 この局面で、乾に何か喋らせたらロクな結果にならないと、海堂は渋面を刻みつけたまま、綺麗な動
作で箸を使いながら、皿の上のものを口に運んでいく。
「ひどいな海堂」
 ちっともひどいという表情を覗かせず、相変わらず抑揚を欠いた声で、乾は海堂が取り分けてくれた皿
のものを、綺麗に片付けていく。
「倖せ色、か」
 鍋は大勢で食べるから美味しいのだとよく言われるが、確かにこうして親しい関係の人達と鍋を囲む
のは、それだけで美味しく感じられた。まさかこうしてこの面子で、鍋を囲む日が来るとはも思わなかっ
た桃城は、数時間前、リョーマが何気なく呟いた科白を思い出し、無自覚に言葉に出していた。
「んにゃ?にゃに桃?」
「何か今、桃の口から聴くには、面白い科白聴いた気がする」
 耳聡く、桃城の独り言を聞き付けた英二と不二だった。
鍋だけではなく、広いテーブルに並べられた料理は他にも沢山ある。此処は郷土料理の店だったから、
田舎風味の煮物や、珍しくきりたんぽを、揚げ出し豆腐風に煮付けた物、パリパリの大根サラダなど、
種類も豊富に並んでいる。リョーマはそれを食べるのに忙しく、桃城の独語にはまったく気付いていな
かった。
「いや、さっき越前が」
「オチビが?」
「この子が言ったんだ」
 美味しそうに鍋を食べるのに忙しいリョーマの姿に、桃城は微苦笑を漏らすことで、英二と不二の科白
を肯定した。
「どういうシチュエーションだったんだ?」
 帰国子女という免罪符を、リョーマが周囲に求めたことはなかったが、リョーマが国語が苦手なことを
知らないテニス部員は存在しない。それくらい、リョーマが国語を苦手しているのは有名だった。だから
リョーマの口から『倖せ色』なんて言葉が出ると、一体どういうシチューエーションで、リョーマが桃城に
言ったのか、英二や不二を興味を持ってしまっても、それは当然だろう。尤も、リョーマは国語が苦手な
ものの、昨今の子供のように、読書が嫌いではないことも、周囲の人間は知っていた。現にリョーマは
ちゃんと新聞には眼を通しているから、中学生の割りに、事情には詳しいことも、英二達は知っていた。
同時に、リョーマが新聞を読む習慣を身に付けた原因が桃城だとも知っていた。
「さっき此処に来る前、越前がココア飲みたいっていったから淹れてやったんですけどね」
「………桃、幾らなんでも過保護すぎ。ココア淹れてやるのは」
 極当たり前のように口にする桃城に、英二は脱力する。何もそこまで甘やかさなくてもいいだろう。
そういう心境だろう。
「まぁ週末婚の二人だからね。今更越前の家じゃ、桃をお客様扱いなんて、してくれないんだろうし?」
 すべてを見透かし莞爾と笑む不二に、桃城は乾いた笑みを漏らし、蟀谷を掻いた。そこで漸く、リョー
マは桃城達のやり取りに気付いた。
「あんた、何口にしたの?」
「オチビ、本当甘やかされてるにゃ」
「?」
「ココア、淹れてもらったんだって?」
 不二の科白に、やっと先刻の家でのことをいわれているのだと気付いたリョーマは、半瞬憮然として
桃城を睥睨した。
「桃先輩が悪いんですよ。俺を起こさないで、一時間も莫迦みたいなことしてるから」
「なんか意味深だにゃ」
「起こさないでって、寝てたんだ」
「昼寝してたんです」
「………そんで桃の奴は、オチビの寝顔を一時間も眺めてた揚げ句、ココアまで淹れてやって、そんで
此処に遅刻したと」
 バカップル!英二が内心拳を握り叫んでいたとしても、罪はないだろう。
「それで?この子がどういう意味で、そう言った訳?」
「不二先輩達には、関係ないですよ」
「コラ越前」
「オチビ、可愛くないぞ」
「別に、可愛くなくていいです」
 興味津々で身を乗り出す恰好で桃城に尋ねる英二に、リョーマは桃城に向けた睥睨を深くする。
「まぁ、二人だけの秘密ってことで」
 リョーマが教えてくれる、幾重もの綺麗な光景。それは二人だけの秘密にしても許されるだろうと、桃
城は英二と不二に、これ以上は答えられませんと、幅広い肩を竦めてみせる。その仕草が妙に大人び
ていて、英二と不二は互いに顔を見合わせる。


『湯気ってさ、倖せ色って気がしない?』


 手元のマグカップから立ち上がる、甘いココアの香りと白い湯気を眺め、リョーマが何気なく呟いた科
白。
 こうして見ていれば、確かに極親しい人達と囲む鍋は、そこから立ち上ぼる淡い湯気は、確かに倖せ
を象徴しているように思えるから、桃城はリョーマの感性に驚くばかりだ。
「本当、桃は過保護だねぇ」
 二人だけの秘密を持ちたいと思うのは、恋愛関係にある恋人同志なら、極当然の感情だろう。けれど
桃城はそう言った意味で、秘密にしたいと言った訳ではないように不二には思えたから、どれだけリョー
マは大切にされているのかと思えた。
「ったく、甘やかされてるな、オチビ」
 そしてそれは不二同様英二も感じたものだったから、リョーマは一体どれだけ大切にされているのか
と思う。思えば、桃城の精神の変容が哀しいくらいだった。もう少し子供でいられたら、桃城はきっともっ
とうんと、ラクだったろうに。
 リョーマを愛したが為に、子供のままではいられなくなってしまった桃城に、英二が少しばかりの哀し
みを感じるのは、可愛がっていた後輩が、急速に等身大の大人になって現れてしまった感慨に似てい
るのかもしれない。
 そしてクシャリと英二に髪を掻き回されたリョーマは、容赦なく英二の腕を叩き落としていた。
「桃も、かなり愛されていると思うけどね」
 容赦なく英二の腕を叩き落としたリョーマは、その行為を桃城にしか許していないから、桃城も大概リ
ョーマに想われていると思う不二だった。