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first part












「乾杯〜〜ッッ!」
「都大会優勝おめでとうッ!」
 貸し切り状態の店内に、少年達の声が威勢良く響き渡る。
乾杯と言っても、中学生だから当然酒と言う訳にはいかない。大振りの湯飲み茶碗を片手に、元気良い声が響く。その威勢とノリの良さに、リョーマは些か呆れた顔をしている。
 地区予選決勝時、不動峰中の伊武深司との対戦で、折れたラケットの先端によって、左眼瞼をザックリ傷付けたリョーマは、顧問の竜崎スミレの手によって、会場近くの総合病院の眼科に連れて行かれ、乾杯の音頭は途中参加だったから、殆ど恒例と化してしまった
『乾杯』に、リョーマは初めて参加した事になる。
「お前達、次は関東大会って大試合控えてるんだから、羽目はずすんじゃないよ」
 とは、カウンターの椅子に腰掛けた、竜崎スミレの威勢のよい声だった。年齢は抜きにして、部員達を纏める姐御肌の要素を竜崎スミレは持ち合わせていたから、部員達からの信頼は比例していた。竜崎の声に、元気のよい声が返った。
「明日からは大会に向けたプログラムを組む。クリアーできなかったら、特性乾汁が待ってるぞ」
 顧問の隣には部長の手塚が座り、その隣には既にコーチ業が板についてしまった乾が座っている。乾と手塚だけを見るなら、彼等二人の端然さは、とても中学生が持つ気配でも印象でもなかった。
「ゲ………」
 周囲から、呻くような青褪めた声が響くのに、乾はメガネの奥の表情の判らない部分で、ニヤリと酷薄な笑みを漏らす。
 乾の片手に持たれている湯飲み茶碗の中身はただのお茶だと判ってはいても、ついつい乾の手に有るソレの存在を疑ってしまう青学テニス部メンバーズは、立派に乾汁の強迫症に陥っている。
「乾〜〜あの汁だけは勘弁してくれよぉ〜〜」
 菊丸の泣きが入った声。
「殆ど犯罪っスよ……」
 桃城の隣で、ボソリと呟いたリョーマの台詞に、桃城もウンウンと同意を示して頷いている。
「桃先輩、アノ特性汁の味なんて知らないくせに、簡単に頷かないで下さい」
 些か憮然としたリョーマの台詞に、桃城は苦笑する。
乾特性の野菜汁は、桃城も飲まされたから判る。けれど乾汁は飲んではいなかったから判らない。が、副部長の大石をして 『ヤバいもん』と言う事は聴いていた。けれど対してリョーマは野菜汁ばかりか、乾汁にまで格上げされてしまったスペシャルリミッド乾汁を飲まされている。
 今でもアノ独特の匂いと味を思い出し、リョーマはゲンナリとした顔をする。
アノ乾汁の独特極まりない味は、とても表現する言葉は見つからない。とにかく不味い。
何がどうしたらあんな不味いものを造り出せるのか、判らない程とにかく不味い。
「お前なぁ」
 いい加減、この小生意気な後輩の言動に慣れた桃城は、苦笑するにとどまったが、そうはいかないのが、リョーマの周囲に座っている一年生トリオだった。
「リョ…リョーマ君……」
 リョーマの隣に腰掛けているカチローが、慌てた様子を見せる。それはカチローの反対に位置してリョーマの隣に座っている堀尾も同様だった。
「越前……桃ちゃん先輩になんて事言うんだよ…」
 いい加減慣れてきたリョーマの言動や態度に、けれど実際は慣れてなどいない事を、こんな時思い知る堀尾達だった。
 遠慮がないとか、上下関係を理解していないとか囁かれているリョーマの根本的な性格は、帰国子女だと言う事以前に、個人主義な事が原因だ。
「何が?」
 けれどリョーマは堀尾達の慌てぶりなど意に返さない。と言うより、彼等が何を慌てているのか、多分理解してはいないのだろう。リョーマと桃城の会話などいつもこんなものだから、桃城は気にした様子は微塵もない。そんな桃城をして、一年生トリオは『心が広い』など、甚だ勘違いな事を考えていた。所詮一つ年下の後輩に、骨の髄まで溺れている男だと、知らないのだ、彼等は。或る意味で、純粋だ。
「桃ちゃん先輩に向かって」
 自分達の慌てぶりをまったく理解していないリョーマに、いつもの事だとカツオは肩を落として溜め息を吐いた。
「いいって、いいって、こいつのコレは、いつもの事だから」
 だから桃城も、慌てる一年生トリオに笑顔で応えた。
テニスの技巧は高校生並と評価される部長の手塚と並ぶ実力があるだろうリョーマは、性格的にも個人主義で、入学当時はその性格で誤解されたりもしていたが、元々レギュラー陣はリョーマの実力を高く評価していたから、ある意味縦割り体質の体育会系にしては、青学テニス部は珍しく実力主義を貫いている。それが毎月校内で開かれるランキング戦にも見事に反映されていた。
 伊達に全国区ではない実力は、毎月のランキング戦により、レギュラーが選出されている事がその一部だ。
 誰もがレギュラーになりたいと願うのは当然だから、誰もが必死になって努力を重ねた。それでもたった8人だけしかレギュラーには選出されない。だから青学テニス部の面々は、テニスに対してのプライドは高いし、それだからこそ、リョーマのテニスは歓迎されたとも言える。
 中学三年間。1年と3年とでの年齢差は三年だ。たった三年。されど三年。中学生と言う多感な時期だからこそ、三年の年齢差に意味は有るのかもしれない。けれどそんな下らない年齢差別を、青学テニス部は排除している。実力一本主義が、青学テニス部の強さとも言える。実力の前には年齢など関係ない。それがテニス部顧問の竜崎スミレの考え方だから、リョーマのテニスの実力は、少なくともレギュラー陣には受け入れられていた。本来なら、其処に先輩後輩という礼節は要るのだろうが、リョーマの悪意のない個人主義は、テニス部の面々には浸透して久しい。けれどだからといって、心穏やかな訳がないのが一年生トリオだ。
 彼等は彼等なりに、リョーマが極一部の部員から、反感を買っている事を知っている故の心配だったが、彼等の心配は、概ねでリョーマに伝わってはいなかった。リョーマは個人主義で、何よりマイペースだ。周囲の喧騒にも耳など貸さない。
「俺は乾汁飲むような事は、しねぇんだよ」
 嘯き笑う桃城に、けれど背後から非難の声がとんだ。
「桃〜〜〜お前、言〜〜いたい事言ってくれるなぁ」
 とは、ちゃっかり聞き耳を立てていた英二の台詞だ。
乾特性野菜汁を飲まされた苦い経験の有る英二にとっては、些か桃城の発言は聞き捨てなら無いたぐいのものだった。
 好物のアナゴを頬張り、クルリと背後を向き直る。
「オイオイ英二」
 丁度桃城の後ろの席に座っていた英二が、クルリと向き直って桃城に詰め寄った所を、英二の隣に座っていた副部長の大石が止めに入る。
「ねぇねぇリョーマ君、乾君のその野菜汁って、そんなに不味いの?」
「コラ芝」
 カウンター席からクルリと向き直り、興味津々にリョーマを見ているのは月間プロテニス記者の芝 砂織で、その無遠慮さを窘めているのは先輩記者の井上だった。
 前回の地区予選でも招かれて、今回もレギュラーの河村の家の寿司屋での貸し切り状態の乾杯音頭に招かれ加わっている。既に記者と言う本業を脱し、リョーマの追っかけ要素が色濃い芝は否めないが、南次郎の息子であるリョーマの成長を楽しみにしている井上も、大概南次郎の追っかけ要素が強かったから、多分お互い様の先輩後輩の関係なのだろう。
「不味いなんてもんじゃないにゃ、あれは犯罪だ」
 ゲーと舌を出す英二を、やはり窘めているのは大石だから、大概彼も苦労性だろう。けれどその乾汁の被害者でもある大石だから、英二の台詞は否定できなかった。
「犯罪はひどい言われようだな」
 英二の台詞に、乾は表情の見えないメガネの奥で苦笑する。乾汁の不味さは、作っている本人が一番理解している。不味くなくては意味などないのだ。練習メニューの生け贄的要素で飲ませるアノ乾汁には。敢えて不味くなるよう味を調整しているのだから。
 アレを旨いと言って、莞爾と笑って飲み干せる人間は、大人数を抱えるテニス部でも、テニスの実力は天才と称されるが、味覚は破壊されきっている不二周助くらいだろう。流石の乾も、不二の破壊されきった味覚には些かの心配を見せている程だ。その不二はと言うと、英二の向かいの席に礼儀正しく正座して、ワサビ巻きを食べている。
「そうかな?美味しいと思うけど」
「不二の味覚は異常だ」
 自分の前の席に座っている不二に、英二は恨めしげな視線を投げる。不二の味覚が破壊されている事を、誰もがアノ瞬間に悟ったのだ。


『なんだ旨いよコレ、お勧め』


 ニッコリ笑われてしまった日には、誰もが青褪める事しかできなかった。作り主の乾さえ、呆れた程なのだから。


「まぁそう言う事だ。もうすぐランキング戦も始る。乾汁の犠牲になりたくなかったら、練習あるのみだ」
 乾の隣で湯飲みを啜る手塚の台詞は、重みがある。
たった一言で、部員を静められる実力が手塚にはあるが、それだけではないカリスマが在るのだろう。中学テニス界でも、確かに手塚は将来を嘱望されている選手の一人だと、井上は思う。
「もうアノ乾汁は勘弁だにゃ」
 ブツブツと言いながら、ホイホイと寿司を口に運んでいく英二だった。そんな英二に誰もが笑みを浮かべた時だった。
「アチッッ!」
「越前?」
 突然響いた声に、視線がリョーマに集中した。
「どした?」
 英二に首根っこを掴まれていた桃城は、リョーマの台詞に振り返る。振り返った視線の先には、湯飲みを片手に舌を出しているリョーマが在るから、瞬間リョーマの台詞の意味に、誰より早く気付いたのは桃城だった。
「ア〜〜お前、ネコ舌なんだから、気を付けろよ」
 これさえ、二人の間では毎度の台詞でやり取りだ。
「オチビ、ネコ舌なんだ」
「お前と同じだな」
 公私共にペアを組んでいるような大石は、英二のネコ舌を知っている。
「越前のは、もっとひどいっスよ」
「詳しいじゃん桃」
 英二の意味深に笑った台詞に、桃城は肩を竦めて苦笑する。英二のネコ舌は、リョーマと比較すればマシだろう。
 熱い物は熱い時に。冷たいものは冷たい時に、料理にあわせた味を楽しむ桃城と違い、リョーマは極端にネコ舌で、彼の飲む珈琲や紅茶は、桃城にとっては温すぎる程のものだ。
「すみませ〜〜ん、水下さい」
 片手を上げ、水を要求する。桃城にとって、リョーマのこの仕草はある意味で見慣れたものの一つだったから、対応も慣れたものだった。
 ネコ舌なくせに今一つ自覚がないリョーマは、桃城との帰り道、日課と化しているファーストフードの店内で、熱い物を口にしては同じ事を繰り返している。リョーマの集中力は、一極集中型なのだと、その時桃城は初めて気付いた。最優先事項がテニスになってしまうから、それ以外のものに関しては、自分の事にさえ頓着がない。何でも程度は卒なくこなす桃城とは違い、或る意味でリョーマは不器用なのかもしれない。
「ハイ」
 河村がリョーマに水を差し出してやると、一言の礼と同時に、グラスを呷った。
「ウ〜〜しみる〜〜」
 氷の浮いた冷たいミネラルフォーターは、喉に心地良く浸透して行きはしたが、舌先にチリチリと沁みる痛みをもたらしていくから、きっと火傷したのだろう。
「見せてみ」
 まったくお前ドジだな、桃城が座敷のテーブルに身を乗り出すと、卵の先端のように形良く細い頤を掬い上げる。
「ん〜〜痛いっスよ」
 そんな桃城に、けれどリョーマは反駁も抵抗もなく、ひどく慣れた様子で頤を掬われ舌先を曝しているあたり、周囲が一瞬沈黙してしまったとしても、仕方ないだろう。
「……オチビちゃん……」
 二人の慣れた様子に、レギュラー陣は呆れているが、呆れて済まない人間は多数居た。
「オッ…オイ越前……」
 見慣れない奇怪な光景に固まってしまったのは、一年生トリオと、レギュラー以外の他の部員だった。芝と井上は、やはり奇怪な光景を視るように、眼を丸くしている。
「ア〜〜お前、火傷してんぞ。だからいつも気ぃつけろって言ってるだろうが」
 肉色した舌先が、少し赤くなっている。ひどいものではないが、確かに数日間はしみるだろう。
「だったら注意して下さいよ、桃先輩」
 何の為に居るんスか?言外に、そんな言葉が滲んでいる。
「いつも言えば、お前ガキ扱いするなって文句言うだろうが」
 周囲の人間にしてみれば、リョーマの発言は甚だ理不尽なものだろかうが、桃城は気にした様子もない。と言う事は、この程度の事は、二人にとっては日常的なものなのだろうと、誰もが思った。日常会話になってしまう程、こんな会話を繰り返しているのだろう二人の事実に、周囲が不毛なものを感じてしまったとしても罪はないだろう。
「TPOによる」
「なんだよそりゃ」
 だったら今こそ自分で注意する場面の筈だと、桃城はリョーマの甚だ理不尽な台詞に呆れて見せる。
「アレだね、越前君、ネコだからね」
 何事にも動じない神経の持ち主は、不二と手塚、乾くらいだろう。
英二の目の前で、不二は動じる事なくワサビ巻きを食べている。
「なんスか?ソレ?」
 ネコ?
不二の台詞に、リョーマは怪訝に首をかしげ、桃城を窺った。リョーマの怪訝そうな貌に、けれど桃城は、
「判らねぇな」
 首を振る。
不二の言動など、推し量る事など無駄と言うものだ。元々手塚と同じで、断片的要素の会話が多いのだから。  
 互いにテーブルに身を乗り出し、未だ顔を付き合わせている桃城とリョーマは、周囲から浮きまくっている自覚はなかった。
「性格ネコだと、舌もネコなんだなって、思っただけだよ」
 両手で礼儀正しく湯飲みを持ち、不二は一口口にする。
性格ネコのリョーマは、桃城にだけは懐いている。そして振り回す事を楽しんでいる。振り回される事を楽しんでいる桃城を、不二は知っている。互いに良いコンビだと思う。それでも個性が強いから、ダブルスはあわない。
「ネコ……」
 不二の台詞に、少しだけ憮然とするリョーマだった。
脳裏に想起するのは、愛猫カルビンの姿だ。
「そりゃ言い得て妙だなぁ」
 反対に、桃城はニヤニヤとリョーマを見ている。
「っるさいっスよ、桃先輩」
 そのネコに、手ぇ出しといてよく言うと、リョーマは桃城を睥睨する。
「否定できねぇからな」
 性格ネコで、ネコ舌で、確かにリョーマはネコだろう。
「だったら、ネコはイヌは嫌いっスからね」
 ツンッとそっぽ向くリョーマに、
「……俺の事かよ」
 この場でイヌと表現されるのは自分だと言う自覚は多大にある桃城だった。
「犬猿でしょ」
「そりゃイヌとサル」
「屁理屈言わない」
「漢字はそうだろうが」
 間違ってねぇぞと、桃城は笑う。
「アノさ二人とも」
 流石にこの状況はどうよ?英二も呆れている。
既に二人の会話は言葉遊びに転じてしまっていた。これさえ二人の日常会話だと思えば、眩暈しかできない。
「状況見て、痴話喧嘩しようね?」
 不二が莞爾と笑った。
「アッ……」
 此処に至って、漸く自分達の態勢を理解する二人だった。
互いに顔を見合わせ、ストンと腰を戻す。戻すと、リョーマはツンッとそっぽ向くように桃城から視線を逸らした。そんな態度に、桃城は苦笑する。
「オチビもさ、桃にだけは噛み付くよねぇ」
 意味深に笑う英二に、けれどリョーマは我関せずを決め込む事にした。此処で問い直したら、墓穴を掘る事は決定だろう。話しのネタで肴にされるなら、桃城だけで十分だ。
「こいつ本当に、ネコっスからね」
「そのネコが可愛くて、仕方ないんだよね、桃は」
 意味深に笑う不二程、得体が知れなく、厄介なものはない。まして其処には、桃城が否定する材料など、何処にも転がってはいないのだから、反駁は無駄と言うものだった。不二を相手に反駁などしようものなら、更に愉しい肴のネタを提供するようなものだった。
「でもさ、ネコも特定だけには懐くじゃない?たとえばダレかさんの飼ってるヒマラヤンとかさ」
「アレは……」
 それを言われると、再び肴にされてしまう話題で、リョーマは憮然と口を噤んだ。この場合反駁は肴と同義語に転じる事を、リョーマは身を以て知っていた。
「ハハハ……」
 桃城も、この面子の中で触れられたくない話題で、乾いた笑いを漏らす。
 リョーマの愛猫の白いネコ。結局リョーマが駆けずり回って探している最中。安心して部室のベンチで昼寝をしていて、桃城が届けたヒマラヤン。けれど結局、桃城以外の誰にも抱かれる事はなく、不二に意味深に囁かれた言葉を思い出す。
「懐いてたよねぇ、越前君のネコ。桃の腕にはちゃっかり抱かれてお持ち帰りされたもんね。桃以外の手には、全然抱かれなかったのに」
 どうしてかな?
嘯く不二に、所詮口で勝てる人間は居なかった。リョーマは憮然と我関せずを決め込み、黙々と寿司を摘んでいるし、桃城も同様だ。此処で口を挟んだら、話しの肴にされてしまう事は、火を見るより明らかだ。


『ネコって普通警戒心強いんだよね。だから簡単にダレかの腕に抱かれたりしないんだけど、そのネコは違うね。ご主人の匂いが付いてるから、安心なのかな?アアッ、でも彼の場合逆かな?越前君に、誰かの匂いが染み込んでるから、かな?ねぇ?』


リョーマの可愛がっているネコが行方不明騒動を起こしたどさくさで、不二が桃城とリョーマに意味深に舌打ちした台詞だった。同じ台詞を、二人は南次郎にも言われていたから尚更だった。


『お前ぇら、それで本当の所は、何処まで進んでるんだ?』



 意味深に嗤う南次郎の眼差しは、ヒタリと桃城を見据えていた。笑っているけれど実際は笑ってはいなかった。南次郎を前に、ガキの演技に等しいクワセ者等、通用する筈もない事を、桃城は悟った。
 自堕落である事を享楽的に甘受しているクワセ者のリョーマの父親になど、ガキの演技など通用する筈もない。




「それじゃ私はこれから学校に戻るから、お前達、羽目はずしすぎるんじゃないよ。桃城、お前さんは今日脚を痛めてるんだから、無茶すんじゃないよ。下手すると癖になるからね。よくマッサージしとくんだよ」
 顧問の竜崎が席を立つと、倣って手塚が席を立つ。
「それじゃ俺と大石は学校に戻るが、お前達、ご迷惑をかけるんじゃないぞ」
「それじゃ英二、明日学校で」
「今日はお疲れさん」
 今日の決勝戦で、大石は昨年の失敗を冒さず、冷静な試合展開を運んだ。針の穴をも通す正確無比なコントロール能力を誇る大石のプレーがあってこそ、英二のアクロバテイックプレイは成立する。その事を英二自身、良く理解していた。
「それでは、ごちそうさまでした」
 とても中学生とは思えぬ礼節は、祖父から躾られたものだろう手塚と、礼を尽くす事を良く知っている大石は、揃って河村の父親に頭を下げ、竜崎と店を出て行った。
「俺達もそろそろ帰るか?」
「そうっスね」
「仲いいね相変らず。桃ってやっぱアッシーじゃん」
「そうは言っても、前みたいに、寝坊して遅刻されちゃ堪りませんからね」
 今回の都大会初日、リョーマは寝坊して遅刻した。その言い訳は言い訳にもなにない理由で、誰もが頭を抱えた程だ。揚げ句の果てには『桃先輩がちゃんと迎えに来てくれないから』と、理屈にもならない理不尽な台詞を吐かれてしまっては、桃城としてはリョーマを迎えに行くしか、選択肢は残されていなかった。
「オッシ、んじゃ帰っか」
「明日は朝連休みだから、オチビも多少は朝寝坊できるにゃ」
 ヒラヒラと手を振る英二の前で、
「桃も、今夜はムリしたら駄目だよ。ちゃんとマッサージしてもらいなね」
 『もらいな』の部分を強調し、不二は笑って手を振った。
「んじゃお先っス」
 立ち上がり、不二の意味深な台詞に憮然となってしまったリョーマに苦笑し、小作りな頭をクシャリと掻き混ぜると、桃城はリョーマを促し店を出た。
「ポーカーフェイスにみえて、案外顔に出るよね」
 小生意気なリョーマが、それでも悪口雑言を叩くのはいつだって桃城だけで、桃城が自分のソレを、笑って受け止めてくれる事を理解している無意識に出る甘えなのだろうと、不二や英二は認識していた。
「大人びえて見えても、オチビは子供だからにゃ」
 不二と英二が、顔を見合わせ笑っている光景を、一年生トリオは不気味なものでも視るように、眺めていた。
「まぁ、大事には、されてるよね」
 傍から見ていてだって判る。桃城が、一つ年下の後輩を、大事にしている事など。大した注意などして二人を視ていなくても容易に判る。その想いを向けられている当人が、何処まで自覚しているのかは甚だ謎な部分は存在するが、ああして、舌を曝してしまう程度には、親密な関係と言う事なのだろう。 












「ア〜〜すっかり暗いなぁ」
 河村寿司から出てみれば、周囲はすっかり初夏の夜の闇に覆われていた。晴れた夜空には、星と月が綺麗に光っている。
「桃先輩、脚、大丈夫なんスか?」
 等間隔に点在する街頭以外、照明はない。そんな夜の中を、自転車を引きながら、二人はゆっくり歩いて行く。流れる初夏の風が気持ち良かった。
「ああ、もう何ともねぇよ」
 心配したか?桃城は言外に滲ませ笑った。
「まさか」
「薄情だな」
 予想どおりの即答に、桃城は笑った。
「する必要ないでしょ?」
「俺負けるって、思わなかったのか?」
「なんで?」
 あんた変なの、リョーマは不思議そうに桃城を見て笑ってみせる。
「人間の力って、極限状態でこそ発揮されるし、力量が試されるって言うっスよ。極限状態こそ、その人間の持つ本質的な力が判るって」
「親父さんか?」
 流石天衣無縫の強さを、畏怖と畏敬で称賛された元プロだ。並のクワセ者ではない。自堕落で在る自分を楽しんでいる。
 その深い意味など、子供の自分には到底考えも及ばないから、南次郎は飄々とした大人だと言う事なのだろう。
「受け売り」
「そんでお前から見て、俺はどうよ?」
「極限じゃなきゃ、引き出せないジャックナイフで終わらないように」
「きついなお前は、相変らず」
 幅広い肩を竦め、苦笑する。
確かにリョーマの言う通りだ。以前手塚に指摘された通り、捻挫した右足を無意識に庇っているようでは、先には進めない。手塚は、部員一人一人を、恐ろしい程よく視ている。リョーマの事に関してもそうだ。恐ろしくその本質的な部分を指摘して、リョーマのテニスに力を与えた。とても自分には出来ない事だ。
「ねぇ桃先輩」
 不意にリョーマが歩きを止める。
「んっ?」
 ピタリと止まった小さい躯。目線を下げれば、意味深に見上げられて、桃城は端整な顔を覗き込む。
 同じ時間、部活でテニスをしているにもかかわらず、相変らずリョーマは白皙の綺麗な貌をしいる。常に帽子を被っているのは、日焼けしやすい体質をカバーするものなのか?尋ねた事はなかった。
「マッサージしてあげようか?」
 街頭の途切れた簡素な住宅街。続くダレかの家の壁に凭れ、リョーマは意味深に笑った。
「………謹んで事態します」
 『マッサージ』の意味が判らない桃城ではない。ないから、こう口にするしかなかった。
「頑張ったご褒美欲しいでしょ?」
「別に、自分の為にだからな」
 これだけは本当だった。誰の為にでもなく、自分の為に勝ち続ける途。自分の為の成長に欲しかった勝利。ダレかの為にではない、自分の為だ。だから褒美など欲しい筈もない。
「お前こそ、ご褒美欲しいか?」
 覗き込んだ綺麗な貌。左の瞼に薄く残る傷跡。引かれるように、瞼に口唇を落とした。
「もう痛くないっスよ」
 そのキスの意味を十分心得ているリョーマは、苦笑する。時折覗き込まれては思い出したように、桃城が残していくキスだ。
 テニスをしていて、まさかこんな傷を負うとは想像もしていなかった。些かアクロバティックにとんだ試合が展開している中。眼科医にも恐れ入られた傷は、確かに自分でも他人事のようにそう思う。


『恐ろしいテニスだねぇ』


 確かに、普通なら考えないだろう。ラケットが折れるショット。運が悪ければ、眼球を傷付けてさえいた疵。


「判ってるよ、俺の気持ちの問題」
 コートに流れていた赤い血。実際瞼を傷付けただけの疵だから、大袈裟に流れてこびりついている訳ではないけれど、記憶は常に変質して行く。自分の都合のいいように。
 記憶に残るのは、実際の血より随分赤い印象だろう。自分の腕や躯の一部を傷付けてみた所で、あんな赤い紅のような体液など、流れる筈もない。モノクロの光景の中。リョーマを取り巻く周囲だけが、紅のように赤い色彩で描かれている記憶。
 後悔が下らない感傷の一部だとは知っている。自分が居た所で、何一つ回避できるものではないし、対処など誰でもできる。一歩駆け付けるのが遅かった。傷付く瞬間を見逃した事が、後悔なのだと知っている。
 片目を血に濡らし、それでも冷冽に笑っていた勝ち気な笑み。冷ややな熱の籠った研ぎ澄まされた笑みに、ゾクリとした。
 生血の流れる生温い感触が奇妙な程に心地好く、そして後悔が押し寄せた。
傷付いた瞬間、傍に居る事のできなかった後悔と、それだけではないナニか。 
だから時折薄く残る疵痕に、こうして口唇を落としたい衝動に駆られてしまう。けれどその口付けに情欲の色がない事をリョーマはよく心得ていた。
「俺も自分の為にしかテニスしてないスから」
 別に褒美は必要はないと告げながら、
「でも俺が桃先輩にご褒美上げたいから。俺のはでき割高の現物支給だから」
「なんだよそりゃ」
 『ご褒美を上げたい』の意味など、容易にしれる。まして 『現物支給』とはとんでもない台詞だ。
「このまま桃先輩の家に寄って明日の授業道具持って俺の家に行く」
「………俺の意思は無視かよ」
「あんたんちが家族不在って言うなら手ぇ打ちます」
「……オイオイお前なぁ」
 そう続く言葉の後など、幾らも聞かされてきた台詞だ。
一挙に脱力すると、桃城は深々溜め息を吐いた。
「当然、本堂っスよ」
「このバチ当たりッ!」
「だから俺、無宗教っスから。親父も代理で住職するから僧籍は取ったみたいっスけどね、基本的には無宗教だし。いいじゃないスか、合宿みたいで」
「ヘイヘイ」
 理路整然、立て板に水。こんなリョーマに口で適う筈はなかった。投げやりと自棄で返事をすると、桃城は自転車の進行方向を自宅へと向けた。
「桃先輩が俺に何かくれるってんなら、ポイント制にしといて下さい」
「………ポイント制…。それでファンタ何本分って換算すんのか?」
「それは、そん時の気分でしょ、当然。桃先輩、賞味期間って言うのはね」
 其処で一端言葉を区切ると意味深に笑い、背伸びをして、彫りの深い造作を覗き込む。
「美味しく食べられる期間、なんスよ」
「そんで俺は美味しく頂かれるのか?」
「美味しくなきゃ、食べないでしょ?アアでも俺悪食っスかね」
「…お前はまぁヌケヌケと」
「ネコっすからね」
 シレッと笑う。どうせ性格なんてネコだろう。言われなくても判っている事だ。
「みたいなもんじゃねぇか」
 扱いが簡単なようで、反面、気難しくて、いつだって手を伸ばせば支えられる位置に在たいと願っている自分の内心など、きっとリョーマは知らないだろうと桃城は思う。
 だからこそ、勝たなくては意味がなかった。試合にではなく、自分自身に。リョーマは知らないだろうと思い、知らなくていいと桃城は思う。
「んじゃ、折角の現物支給、ありがたく受け取るとするか」
「念入りにマッサージ、してあげますよ」
 蒼い闇の中、妖冶な笑みが象られるのに、桃城は肩を竦めた。



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