キミの横顔と掌の中の願い













 傾いて行く初夏の日差しの中。隔絶される内と外。その内側から外を眺めてみれば、夕暮れ時のデートメッカは、会社帰りのOLやら、カップルやらで賑わっている。
 花の金曜日のアフターファイブだ。デートメッカと言われる場所だけに、様々な人種が揃っている。
 そして外から内へと視線を向け、桃城は内心こっそり深い溜め息を吐いた。
「お前好きだな、そーいうの」
 目の前に座って居る小柄な少年の前には、チョコレートパフェが鎮座していて、それを見ただけで、桃城は胸が焼ける気分だった。  
 練習後の帰宅途中は、お互い様的に質より量で安いが売りのファーストフードでハンバーガを食べる事が日課になっていたが、練習と離れた部分で出掛けて、ファーストフードではない店に入ると、大抵リョーマは食後、食抜きに関わらず、パフェを注文する事が多かった。
 クールな外見に相反し、リョーマは甘い物が大好きだった。近しい距離でなければ、きっとそんな嗜好など知らないだろう。
 自分も知らなかった。リョーマがこれ程甘い物が大好きだとは。知ってしまえば、別段不思議ではないけれど、知らなければ、とてもそうは見えないだろう。
 能率主義の個人主義のクールなリョーマが、胸焼けを起こしそうな甘い物が大好きなどとは、外見的には思えないし見えないし、感じられない。
 第一印象で決め付ける事は賛成しないが、それでも第一印象は存在する。当てになる時も有るけれど、当てにならない時もある。判断出来れば悪いものではないだろう代物。
 クールな外見に相反する甘い物好き。
自分ではとても完食はできない巨大とも思えるパフェが好き。ファンタが好きな事はテニス部の面々なら知っている。彼はいつだって、過剰な糖分を取り過ぎるかのように、ファンタを飲んでいる。けれど、これ程甘い物が好きなど、知っているのは極少数。それが時折、傲慢な倖せを桃城に感じさせる。
 他人の知らない、極少数の範囲に限定されているリョーマの嗜好。そうと思えば、自分だけが知る彼の一部分をこっそり喜んでいる自分が在る。ガキの独占欲だと自覚して、それでもそんな単純な事が嬉しいと思えば、それは倖せに似ていると思う桃城だった。
「好きっスよ」
 長く細いスプーンで喜々としてパフェと格闘しているリョーマは、桃城の疲れた声に、チラリと上目で視線を投げ、即答する。
「桃先輩は、甘いの食べないね」
 桃城の前には白いカップが一つだけ、上品な芳香を漂わせている。それも腹の立つ事に、中学生でブラックを飲むあたり、タラシの要素が見え隠れしている。それが小細工ではなく素直にブラックが好きな桃城を知るから、リョーマは内心腹立たしげに舌打ちした。
 部活以外の場所で、こうして店に入れば、互いに注文する物は決まっている。
桃城は珈琲。自分はパフェ。まるで子供と大人、あるいは子供と保護者だ。もしかしたら、周囲にはそう見えるかもしれない。そう見えてしまう事が腹立たしくて、半ば八つ当たりすれば『大人だって食ってるじゃねぇか』そう笑われるだけだ。
 確かに、周囲ではパフェを食べている大人は居る。どうみてもアフターファイブのOLのようではあるけれど。
 綺麗に着飾った姿も入れば、身軽な服装もある。けれどどうみてもその大半は女性で、自分と同じ程度の年齢の少年が、パフェを食べている姿はない。
「俺だって食うぜ。でもお前みたいに、パフェは食えないな」
 バニラとチョコのアイスが並べられている上に、大量の生クリームがデコレートされ、ポッキーが2本、脇に添えるように突き刺さっている。その周囲はメロンやバナナ、キューイにオレンジと、フルーツで囲まれている。仕上げにとどめとばかりにチョコレートシロップが綺麗な曲線を描いている。それは細長いグラスの内側に続き、底まで到達する部分は、バニラアイスで装飾されている。見ているだけで、桃城には十分胸の焼ける代物だった。
 こんなパフェを、ペロリと完食してしまうリョーマの姿など、青学テニス部の面々では、きっと自分しか知らない。まして少し早めの夕飯を済ませたデザートに、これだけの甘い物を食べられるのだから。見ていて胸焼けが起こる。
「どうせガキだよ」
 自覚の一つくらいある。何一つ、気付けなかった子供だと言う自覚なら。
自分のテニスを求められるまで、何一つのカタも見えていなかったガキの自分なら、嫌と言う程自覚させられた。幾人かの人間に。
「言ってねぇだろ」
 リョーマの言外に滲む『ガキ』の意味を、半ば薄々気付いて、桃城は苦笑する。
ガキと言う言葉に隠されている、見え隠れする劣等。父親を越せず、壁も見えていなかった、焦燥していた以前の自分に対しての。複製の意味に気付いていなかった過去の自分。
 ソレは『変化』と言うより『成長』なのだろうと桃城は思う。変ったと呼ぶよりも、素直に成長の階段を上がり始めている。そういう事なのだろう。
 リョーマのテニスに力を与えた存在は、結局リョーマの成長を促す事になった。それでも、こうして自分の前で笑っている事が、時折不思議になる。 
 スポーツ店でテニス用具を見て、その後に本屋に寄って、次にはCDビデオ店に寄って、そして疲れて喫茶店で休んでいる。完璧にデートコースだ。尤も『デートしよう、桃先輩』そう誘ってきたのはリョーマの方だったから、その意図を考えあぐねてしまう。


『直球に弱いっスね』

 見上げてきた色素の薄い貌。綺麗な口唇が象る綺麗な笑み。
挑発されるのはいつもの事でも、大抵その前には何かしらのやり取りが存在していて、その延長線上に引き伸ばされた部分での挑発だったから、開口一番、そうと言われてしまっては、彼の意図する部分の在処が判らない。


『万華鏡、見に連れてってよ』

 お気に入りのファンタを飲みながら、世間話しをするように、何気なく開かれた口唇の形。上目で見上げられ、その無防備さに、脱力したのは昨日の事だ。


『お前、俺とは二度と出掛けない。そう言ってなかったか?』

 つい先日訪れた場所で、頭を抱える頭痛物の写真を雑誌社に投稿され、学友からテニス部の面々まで、茶々を入れられたネタが提供された場所。


『アノ時はアノ時。今は今。何事も臨機応変でしょ』

 そーいうの大好きで得意なヒトデナシのくせにと、リョーマはやはりファンタを飲みながら、見上げてきた。


『お前な……俺の事……』

 先輩だと思ってないだろうと続く言葉の前に、意味深な笑みと共に、リョーマの淡如な台詞に遮られた。


『別に、先輩後輩の仲だけに戻りたいなら、いつでも言っていいっスよ』

 あんたができるならね、そう挑発的に笑われては、返す言葉など在る筈もない。できる事と言えば脱力し、


『俺が悪ぅございました』

 脱力のまま、軽口を返す程度だ。


『当然』
          
 満足気に笑うリョーマの笑顔が、綺麗で倖せだと、不意に思った。思った時。溺れていると、もう幾重実感したか判らない実感を反芻する羽目に陥った。




 カップルのメッカお台場は、夏に向かう季節の中。ますます開放的な喧騒に満ちている。暮れ行く時間の中。笑いながら通り過ぎて行く人影の群れを眺めては、再びリョーマに視線を戻す。
「お前さ、何で突然『デート』なんだ?」
 半瞬だけ、ガキの顔をしてパフェを食べているリョーマを眺め、瀟洒な白いカップに口を付け、芳香の漂う珈琲を口に含んで問い掛ける。
「気分」
「……………気分……」
 喜々としてパフェと格闘しているリョーマは、鬱陶しげに即答しては、桃城を脱力させた。
「これから都大会だし。練習も厳しくなるし。その前にね」
 改めて何故と問われると、巧く言葉が見付からない気がした。自分でも、よくは判らない。只また来たいと思った。その程度の気もするし、根深いナニかが在るのかも知れない。
 世界一高いと言われる、一周約16分の観覧車。切り取った小さい窓から覗いた地上の夜景。『生きている』のだと、痛感した街の灯。
 アノ夜に見せてくれた夜景が、焼き付いている。
未来は自らが掴み取るもので、その為に知る必要のない言葉は『限界』なのだと。明滅している街の明かりのように、未来は明滅している。そう言った桃城の柔らかい笑みが、掲げてくるナニかが、時折疼いて仕方ない。確かめたかったのかもしれないと、今更思う。
 判っている事といえば、端然と、それでいて柔らかい笑みを湛え告げてきた桃城を忘れられない。その程度の感傷だ。
「珍しいな」
 食べる手を止め、視線はパフェに落としたま告げられた言葉。背後に横たわる言葉は、判る気がした。
「だから気分って言うんスよ」
 こんな時、言葉は不便だと痛感する。感情を乗せるなら、言葉よりテニスの方が伝わりやすい。そう思える。
 単純に繰り返されるボールの行方。ただそれだけの事が、
伝える物の大きさに、今までは気付く事すらなかった。
 とても単純な筈だ。打って返してまた打って。繰り返されるラリーは、けれど言葉を含んでいると、気付いたのはいつだっただろうか?少なくとも、アメリカに居た時間ではなかった。アメリカでは、そんな余裕など、欠片も無かった。
 テニスは父親から自分を取り戻す為の手段でしかなかった。楽しい筈のテニスは、いつしか辛いものばかりの重荷を背負っていたように思える。
 打って返して打って。繰り返されるボールの在処や行方など、興味はなかった。ただ、勝つ事。それだけしか、頭になかった。勝敗の延長線にある筈の物など、何一つ見えてはいなかった。そんなテニスが楽しい筈もない。媒介ではなく、道具と手段だったテニスに、父親の複製ばかりのテニスに、壁のカタチも見えなければ、当然見えない物など、乗り越えられる筈もない。そんな単純な事を、知る事もなかった。知る事も、できなかった。それ程に、余裕などなかった。
 無責任な称賛と羨望をラベルに張り替え送ってくる世間から、自らを取り戻す為の手段で道具の一つだったテニス。
 乗り越える壁のカタチ。壁の向こうに垣間見る事もなかった時間。教えて貰ったのは、手塚であり、青学テニス部の面々で、そして何より桃城だった。
「勝ち続ける為のテニスがどれ程怖いか、お前もちゃんと判った分、成長してるんじゃねぇ?」  
 当たり前のように勝つ事が、勝ち続けて目標にされる事が、どれ程困難で恐ろしい事か、今までのリョーマなら、知り得なかった怖さだった。
「桃先輩……」
「お前のテニス、まぁ変ったっちゃ、変ったからな」
「どんな風に?」
「道具じゃなくなった」
「………」
「気付けない程、お前の事見てなくなかったぞ」
 言葉をなくし、瞠然とするリョーマの表情を窺って、柔らかく深い苦笑を刻み付る。
 つまりは、極簡単に気付けてしまう程度には、見守っていたと言う事だ。気遣いを感じさせず、鬱陶しくはならない範囲で。
 何気ない動作、何気ない仕草。クールと言う印象のあるリョーマも、案外見ていれば時々に応じてちゃんと感情が滲んでいる。むしろ感情は豊かだ桃城は思う。
 その分、アメリカで父親の名に傷つけられてきた事も、判ってしまった。尤も、同じ立場になった事などないので、理解と言うには余りに安易な事も判っているので、限定される思考領域の内側での理解、そういう事ではあるのだけれど。
「今は何?」
 再び、スプーンを動かし、パフェを食べ始めたリョーマのグラスの中から、桃城が一本残ったポッキー手を伸ばす。
「手や脚みたいな媒介じゃねぇ?言葉っていうのも変だけどな。お前と打ち合いしていると、言葉って感じするしな。早く言や、コミュニケーション?受け取って返して、そんなもんだな」
「コミュニケーション……」
 やはり桃城は、読み間違えはしないのだろうと、リョーマは窺うように眼前に視線を移す。
言葉にする事が苦手な自分の言葉を、読み取る術。みたいなものを、ちゃんと持っていてくれる。多分それは誰に対してもそうなのだろう。場の空気や人の心理を案外容易く見抜けてしまう桃城だから、別段苦もないのかもしれない。
 青学一のクワセ者。手塚をしてそう呼ばれる二つ名の所以。明るい笑顔の裏側に隠された盾。そのくせ人の心理を飄々と見抜いて行く悪党。生まれ付いてのタラシだ。
「判るっていうのは、無責任かも知れないけどな。打ち合いしてると、お前の調子とか、何かな、そーいうの判る気するしな」
 するつもりの理解。けれど判る矛盾。整然としていて笑えるけれど、判るのだ。
多分、リョーマを一番手っ取り早く理解するなら、テニスが一番なのかもしれない。父親の名に押し潰されそうになって、それでもどんな結果になっても、結局テニスを放棄する事はなかったのだから。
 やめてしまえば、放棄してしまえば、簡単だった筈だ。
どれ程世間が手の平を返したとしても、投げ出す事は、ある意味賢い逃げ方だった筈だ。
けれど、それでも立っていたのだから、やはりリョーマはテニスが好きなのだろう。無責任なレッテルとラベルを張られても尚、テニスをする事を選んでいたのだから。
 リョーマの内心を推し量るなら、多分テニスが一番理解しやすい手段の一つで、ある意味伝達手段になる。装飾された技術を凌駕し、隠す事もできずに内心が綺麗に現れてしまう。
「まぁ、楽しそうに打ちまくってるし」
 レギュラー落ちして、今ではコーチ兼業というより半ばテニス部のコーチと行っても差し支えない乾の特別メニューをこなすレギュラー陣は、様々な形式で対戦を組まれている。その時々の中、リョーマは楽しげにテニスをしている。
 そんなリョーマを見て、その楽しげな様が嬉しいと感じてしまうのだから、倖せなんて案外簡単に見付かるものだと、判ってしまった桃城だった。
 自分のテニスと言うものに気付き、乗り越える壁のカタチに気付いてから、リョーマのテニスは確実に変った。元々テニスに対する天性の動物的な勘を持っていたリョーマの事だから、伸び伸び打つ姿は綺麗なフォームが更に増し、見ていて気持ちがいいくらいだ。そしてやはり思うのだ。笑っていてくれればと。そう思えば、大切なのだと痛感する。 
「そりゃね、楽しいっスよ」
 パフェも底を付いてきて、後二口程度で食べ終わってしまう。
「楽しくなかったら、乾汁飲んでまで、してないっスよ」
「……ハハハ」
 そりゃそうだと、桃城は乾いた笑みを漏らした。
アノ野菜汁を飲んでまでしているテニスだ、好きでなければ続けてなどいられない。
「桃先輩さ」
「ん?」
 カップの中の珈琲は、今は綺麗に飲み干されていて、目敏いウェイトレスがソーサーを持ってくる。それにお代わりを注いでもらっている桃城を眺め、やっぱタラシで始末が悪いと、毒づいた。
 ウェイトレス相手にまで笑みを見せているあたり、身に付いた習性なのか天然なのかと考えて、ついつい表情が憮然としている事に、リョーマは気付かない。
「倖せの定義ってナニ?」
「なんだよ急に」
 薄い蒼味を帯びた双眸が、ジィッと凝視してくる様に、桃城は怪訝な貌をしてみせた。まさか此処で『倖せの定義』などという、文脈を綺麗に無視した台詞が飛び出してくるとは、思わなかった。
「バカだから」
「あのな………」
「あんた本当にバカだから」
 言葉に出さずに見守られている事を、気付かなかった訳ではないけれど、それでも。こうして明確に告げられてくると、 『バカ』と思わずにはいられない。
 バカみたいに優しいタラシで詐欺師で悪党のヒトでなし。
そういえば、悪党で詐欺師のタラシの定義は『優しさ』だと思い出す。まぁそれは極当然的に、上辺の表情ではあるのだけれど。
「何かお前の台詞で一番多いの『バカ』ってのだぞ」
 追加された珈琲カップに、ミルクだけを少し流し込むと、緩やかな円を描いて白色が珈琲に溶けて行く。
「だって本当の事でしょ」
 バカなんだからと、リョーマは最後一口のパフェを口に運ぶ。綺麗に平らげられた瀟洒なグラスを眺め、半瞬だけ桃城は胸を押さえた。
「俺はね、こうしてパフェ食べてる時、結構倖せ」
 ナプキンで口許を拭うと、桃城のカップに手を伸ばす。
口直しと、珈琲を飲むのさえいつもの事だ。桃城がお代わりをしたのは自分の為ではなく、リョーマの為が半分以上を占めている。
「俺は胸が焼けるよ」
 甘いものは嫌いではないが、特別好きでもないので、パフェを食べたいとも思わない。
「まぁでも」
 カップに口を付けるリョーマを眺め、桃城は緩やかに笑った。
「そういうお前見てるの、俺は結構倖せかもな」
「安いっスね」
 やっぱあんたバカ、リョーマは珈琲を飲みながら、ボソリと呟いた。
「お前な」
 深々溜め息を吐く桃城に、罪は無いだろう。
「桃先輩、そろそろいい時間だから、行きません?」
 リストフォッチを指し示すと、確かによい時間になっていた。
「万華鏡、見に行くか」
 桃城は立ち上がると、当然のようにレシートを持ってレジへと向かった。








 小柄だけれど、綺麗に背筋の伸びた細い背。逸らす事なく正面を見詰めて歩く姿が綺麗だと思う。足取りに澱みはなく、躊躇いも迷いもない。
 何処に在ても、他人の視線を集めてしまうと言う人間は、存在するのだと知っていた。
青学はそのカリスマ的な存在に手塚が在るから、別段不思議には思わない。けれどこうしてテニス以外の場所でリョーマと歩くと、嫌でもそれを痛感し、ついつい溜め息が口を付く。そういえばこの場所で、リョーマは先日幾人かの業界関係者に纏わり付かれていたのを思い出す。
「何、溜め息付いてるんスか」
「お前が無自覚だからだよ」
 自分に集まる視線をまったく綺麗に無視しているリョーマに、更に溜め息が増す。テニス以外に関しては無頓着なリョーマは、警戒心という言葉を知らなすぎると思う桃城だった。とどのつまり、無関心なのだ、周囲に対して。
 あれ程テニスに関しての嗅覚は動物的な天の才と呼ぶに似つかわしい勘まで持ち合わせているくせに、どうにも一極集中の思考回路は、日常に於いては綺麗にナリを潜め、役には立たないらしい。
 これも、付き合って判ったリョーマの一部だ。小生意気なくせに、日常生活には自分の事さえ無関心。無関心というより、頓着がないと言う方が、適切なのかもしれない。倖せの定義と言うのなら、そんな些細な事だと改めて思う。
「お前とこうして話したりしてるの、俺は結構倖せなんたけどな」
「だから安いって」
「お前は?俺と話してて、そーいう風に感じねぇ?」
 軽口に誤魔化す言葉ではあったけれど、リョーマを見詰める桃城の眼は、綺麗にそれを裏切っている。
「倖せだなぁって?」
 呆れた様子で溜め息を吐くと、リョーマはクルリと向きを換え、背を伸ばし、桃城を覗き込む。
 黒々瞬く黒曜の眸。色素の薄い自分の眼とは、全然違う桃城の眼。
 見透かされていると感じる時は多々ある。言葉に出される明確さより、多分注意しなければ判らない程度の気遣いで、桃城は自分を見ている。
「楽しいけどね、桃先輩とこうしてるのは」
 誰より多分ウマが合うのだろう。言葉に出す事のない部分まで理解されてしまう事が多少の痛みはあるけれど、それでも、誰と在るよりラクに呼吸ができるのは確かだ。
 今までなら、歩調を会わせて歩かれる事など、堪らないと感じていたと言うのに、随分変ったものだと自分でも思う。その分、自分もダレかと歩調を会わせると言う意味を知ったのなら、それは成長というものなのだろうが、今は未だ判断はできない気がした。
「ラクだし。気ぃ使わなくていいし」
「………お前な、俺は先輩だぞ」
「取り敢えずでも付き合ってるなら、先輩より恋人がいいんじゃないの?」
「………この確信犯」
 繰り返す繰り言じみた言葉遊び。その延長線で繋がるナニかに、不意に臆病な互いを、こんな時に感じ取る。
「倖せなんてさ、案外身近に転がってるものなのかもね」
 テニスをしたり、部活の帰りにファーストフードに寄って、他愛ない話をしたり。そんな日常的な事が、きっと倖せなのかもしれない。
「あんたがそうやって、いつも俺の隣じゃなくて、半歩後ろに下がって歩こうとしてる程度にネ」
「………お前さ…」
 どうでもいい事ばかり見抜いて行く双眸が、綺麗だと思う。倖せはそんな些細な事だと、改めて気付かされて行く。気付かれているとは、思わなかったのだけれど。
「だから言ってるじゃん。バカって」
 根拠なく言っていた訳ではなくて、裏付けされた台詞。言葉遊びに誤魔化してはいるけれど。
「隣に立つ方が、ラクなのに」
 大切に、されている事など、今更他人に指摘される事なく、当事者の自分が一番理解している。
「そうやって俺の半分後ろに立って、その位置からナニが見えるの?」
 問い掛ける視線の深さに、半瞬息を飲む桃城を凝視し、リョーマは再びゆっくり歩き出した。
 他人の視線を集めるくせに、こんな時ばかり綺麗に雑踏に混じっていく小さい姿。
「別に、ソレがあんたの選んだ位置なら、俺は何一つ言う権利はないけどね」
 絶句する桃城を背後に感じ、リョーマは腹立たしげに、呟いた。
 隣ではなく半歩後ろに佇んで、彼はナニを見ようとしているのか?問い掛けなくったって、今更だ。
「俺は、ダレかに後ろを守ってもらなきゃならない程、弱いとは思ってないけどね」
 隣に立つ方がラクな筈なのに、会えて半歩の距離を於いて後ろに佇む。やっばりバカだと、リョーマは内心呟いた。






 少しだけ待って、ゴンドラの順番が回ってきて、二人は無言で乗り込んだ。沈黙が心に重い。そう感じる。
 ゆっくりと地上を離れて行く。足許が失われて行く不安定さに、内心慌ててリョーマは足許を視る。
 桃城を窺えば、黙ったまま自分の目の前に座って、切り取られた視界で夜景を静かに見ている。
「俺はさ、本当思うよ」
 不意に静かな声が胸に落ちて、リョーマは桃城に視線を映した。相変らず桃城の視線は狭い視界から夜景を見下ろしている。
「お前が案外甘い物が大好物だとか、個人主義っていうより、自分の事にも無関心で頓着がない一極集中の思考回路で不器用だとか」
「………それ一個も褒めてない」
「尊大で、小生意気で」
「喧嘩売ってんスか?」
「知らなかったお前を少しずつ知ってくのは楽しいって事だよ」
 視線が、ゆっくりリョーマに戻って来る。
「さっきのお前の話じゃねぇけどな、倖せの定義は人それぞれで、俺はそれが嬉しいって思うよ」
 半歩後ろから覗く綺麗な横顔や、綺麗で伸びやかな姿勢で歩く姿や。自分のテニスを模索して、泣いて迷って辛くても。それでも正面を視る眼が綺麗だと思う。
「地位とか名誉とか金とか。成績で記号化された価値なんかより、そういった些細な事を感じる事ができる方が、倖せだって思うぜ。俺は現実的に、そういったお前を知る事が楽しいんだし」
「………だからバカなんじゃん」
「バカで単純な方が、大事なもん、無くさないかもしれないぞ。物質的なステイタスが条件だって思えない方が、簡単に倖せになれんだよ」
 知らなかった側面を知って安堵して、ついでにタチの悪い独占欲まで感じて。それでも、それがひどく楽しく優しい感情に転換するから、倖せなのだと思えた。独占欲が狂気を孕む感情に転換されない限り、倖せでいられる。その程度の分別は、持ち合わせているつもりだ。
「甘い物が好きなお前だったり、アメリカの生活が忍ばれる程、酒が飲めたり、ネコ舌だったり。キスが大好きで、セックスなんて大した事ないって断言して挑発して、」
「……やっぱ褒めてない」  
「そんな全部引っ括めてお前だけど、そのお前を知らない人間の方が多いだろ?」
「セックスはね」
 シレッと言うリョーマに、桃城は苦笑する。確かに、未成熟な躯を開いて快楽を教え込んだのは、間違いなく自分だろう。
「……まぁ若干バレてる人間は在るけどな」
 それでも、バレている人間は若干在る。
「お前は、これから強くなるさ」
 自分が追いつけない程の高みに。
「お前が笑っててくれれば、俺なんて案外単純に倖せになれるしな」
「本当、単純バカ」
 泣き笑いの貌が、桃城を凝視する。
「迷った時は、いつだって付き合ってやるぜ?」
「………俺、迷ってたんだ」
 答えが、ストンと胸に落ちて来る気がした。
「気付かないのが、まぁお前らしいっちゃ、らしいよ」
 迷いの意図まで判りはしない。けれど、迷っている事だけは明確な程理解出来た。
だからココに訪れたくなったのだろうと言う事は。 
「色々有ったし。一区切りして疲れて迷ってたんだろ」
 小生意気なリョーマとて、年中無休で小生意気ではいられない。歳不相応な装飾された技術を持っている分だけ、勝ち続けて行く怖さに気付いてしまったら、足許が竦むのは当然だろうし、迷いのも当然だろう。迷いのない場所に、成長など有る筈もないのだから。
 迷って足掻いて行く事は、必要な事だろう。特に、自らのテニスを模索し始めたリョーマには。その為に必要な事なら、自分は何だってしてやりたいと思うのは、やはりガキの独占欲なのだろうかと、桃城は苦笑する。
「夜景がさ…」
「ん?」
「この前見せて貰った夜景がさ、綺麗で。また見たいって思った」
「いつだって、連れてきてやるよ」
 自分がリョーマにしてやれるものなど、その程度の事だ。
それでも、してやれるナニかがある倖せというものが存在するのも、簡単な事実の一つだ。気付く事なく今まで通り過ぎてきてしまったけれど。
「お前が笑っててくれれば、俺なんて単純だから、簡単に倖せになれるさ」
「俺の倖せは?」
「だってお前はパフェ食べてりゃ倖せなんだろ?あとはテニスしてる時」
「……安い…」
「倖せに安いも高いもあるか」
「あんたの倖せ安すぎ」
「高いだろ?小生意気なルーキーの知らない部分を知ってて、こうしてデートしてるんだから」
「俺は腹立つよ。あんたクワセモノの悪党で人でなしのタラシで、詐欺師」
「………なんだよそれ。褒めてねぇだろ」
「バカみたいに優しくて、俺の先回りして守ろうとして、バカじゃん。安すぎるよ。自分の為に、使えなきゃ」
「だから俺の為だろ?俺はお前が思うより傲慢でガキなんだよ」
「ガキがガキにこんな事、教えない気もするけどね」
 肩を竦めて笑うと、リョーマは席を移動し、桃城の膝の上に横座りに越しを落とした。
「キスが好きでセックスは挑発的で。教えられたのは全部あんたになんだからね」
 桃城の首に両腕を回し、薄い笑みを刻み付ける。
「少しさ、疲れてたのかもね」
 コトンと、肩口に顔を埋めて、視線だけが流れて夜景を見下ろした。
こうして触れて始めて、見たかったのは夜景ではない事に気付いた。
 綺麗だとは思う。生きているとも思える。街を流れて行く血と呼吸なのだと言うのも納得出来る。けれど、多分見たかった光景は、夜景でもなく、血の通う街でもなくて。アノ日の光景なのだと、今更判った気がした。 


『お前に何か、見せてやりたいって思ったんだけどな』

 そんな不器用な言葉に隠されていたバカみたい優しさ。
大切に、されている事なんて今更だ。


「悩みがない場所に成長なんて存在しないからな。精々悩めよ」
「………一つしか違わないくせに、何言うんだか」
 夜景から視線を移し、至近距離に覗き込む。
一つの違い。されど一つの差は大きい。歯噛みしている自分の内心など、桃城はきっと知らないだろう。
「大丈夫だよ。お前はお前で、ダレかじゃないから」
 サラリと、見た目より柔らかい感触の髪を梳いてやる。
許されている行為がやはり倖せだと思えば、単純なのだと苦笑する。
「本当にさ」
 腹が立つ程、桃城は欲しい言葉を何でもないかのように提示する。
「バカな方が、世の中倖せって事は、沢山あんだぞ」
 半眼閉ざされた眼差しの意味など今更だ。キスをねだるリョーマの仕草。
 なんだと、胸の奥で笑いが漏れた。
自分はもう随分、今まで知らなかったリョーマの仕草や癖や何かに慣れてしまう程、知っていたのではないか?気付かなかっただけで。
「倖せがどうか判らないけど、俺も楽しいから」
 多分ソレは倖せと呼ぶのだろう。
ダレかと居て楽しいなんて、今まで感じた事はなかったのだから。
「お前は、笑ってろ」
「あんたの倖せの為に?」
「笑ってる方が、倖せは多く訪れるって言うぜ?」
 繊細な貌を両手で包み込み、口唇を寄せる。
甘い吐息が狭い空間に満ちて行く。
 自分は何を知って、知らなかったのだろうか?
重ねられて行く口唇の感触に、リョーマはそう思った。
 何も失う事もなく、得られる物はないのだろう。けれど。
掲げられてくる願いの名前は判らない。それでも、胸に痛い程突き刺さる優しさに、泣き出したくなるのは桃城の前でだけだった。
 倖せなんて、案外簡単に身の裡に持っている物なのだと、気付かされて行く。気付けば簡単な事なのだと、教えられた。 泣き出したい程優しくて、時折切ない程痛い倖せ。
 倖せの定義なんて、案外そんな簡単なものなのかもしれない。倖せの在処に気付きさえすれば。







「もう終わりだな」
 ゆっくりゴンドラが降りて行く。夜景は既に地上のものではなく、同一の視界の中に収まっている。大した落差のない世界の中に、浮かび上がっている街の明かり。
「また、連れてきてやるよ」
「都大会終わったらね」
 それまでは、そんな余裕など何処にも無い。
そう笑うリョーマの横顔が綺麗だと桃城は思う。思えば、どうか笑っていて。そんな願いを掲げてしまう。
 笑いながらテニスをして、パフェが好きだと笑っていて。
それが自分の倖せの在処なのだと、痛感する。
 掌の中に持つ願いなど、そんな一言で足りてしまう。
綺麗な横顔を眺めて、触れて初めて得た倖せに気付いて。
持っている願いなど、持ち続けていく願いなど、きっとそんな簡単な言葉だ。


 笑っていて。


 掌の中の願いなど、そんな簡単で単純な事。
気付きさえすれば、案外単純に見付かるもの。それが倖せ。



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