「お前さ、桜見た事有るか?」 「何スか?突然」 桃城の自転車の後に乗っての帰り道。突然の桃城の台詞にリョーマはキョトンとした表情になった。 「お前ずっとアメリカだったろ?」 学校は今日が終業式で、三学期が終了した。その数日前に、三年生の卒業式があった。答辞を読んだのは生徒会長でも在った手塚だったが、三年生は相変わらずテニス部の練習に顔を出している。それでも終業式の今日だけは練習は休みだった。けれど明日は昼過ぎからの数時間、練習プログラムが乾の手により組まれていた。 昨年の夏、部長に就任した桃城にとっても未だ部長は手塚だった。既にテニス部では『部長』という名称は、イコールで 『手塚』と言う固有名詞になっていたから、誰もが違和感なく手塚を部長と呼んでいた。その変り、誰もが部長に就任した桃城を『部長』と言う肩書きで呼ぶ者は存在しない。1年生などは気遣って『部長』と呼ぶが、呼ばれる桃城自身が『勘弁しろ』と頭を掻くから、テニス部で桃城は部長と呼ばれる事は滅多なかった。 「桃先輩、今時桜なんて、アメリカにだって在りますよ」 「バーカ、お前、そりゃ桜じゃねぇよ」 「桜じゃないって」 何の根拠でそんなに断言するのだろうか?リョーマはフト可笑しくなって笑った。 「桃先輩、俺の事1年も送り迎えしてて、ウチの寺の周辺に桜並木が在る事、知らないって訳じゃないっスよね?」 リョーマの家の後の寺には幾本かの桜が植えられているし、周辺にも桜並木が植えられている。昨年リョーマが日本に帰国した時も、満開の桜が咲き乱れていた。 「知ってるぜ勿論、でも味わって見た事ないだろ?お前」 「味わって?」 振り向かずに告げられた声に、やはりリョーマはキョトンとし、細い首を傾げて見せた。 今日の桃城は確かに可笑しい、そう思う。 「今からちょっといい場所連れてってやるよ」 「いい場所?」 「アア、桜の名所」 「ねぇ桃先輩、何か今日、いつも以上に変」 『変』の部分を殊更強調し、リョーマは不思議そうな表情をして見せた。 「お前も本当に、口が減らなねぇな」 「だって本当の事っスよ。今日の桃先輩、スゲー変」 何かあったのだろうか? まっすぐ正面を向き、自転車を運転している桃城の顔を覗き込むように横顔を凝視すると、 「だって初めてだろ?お前と桜見るの」 桃城は精悍な面差しを少しだけ背後に向けると、相変わらずの笑顔を見せた。 「変なの桃先輩。別に誰と見たっていいんじゃないスか?」 花なんて誰と見たって変らないだろうと、リョーマは思う。けれどどうやら桃城には、桃城なりの思惑が有るらしい。 「まぁいいっスけど」 「お前今夜時間あけとけよ」 「ハァっ?何言ってるんスか?だって今見に行くんでしょ?」 「やっぱお前桜見た事ないんだな」 「だからぁ〜〜桜なんて寺に咲いてるって。今だって満開で、もう今日明日に見ないと散っちまうってくらい、春爛漫です」 「ヘェーお前でも『春爛漫』なんて言葉、知ってるんだ。まぁいいから、夜もあけとけよ。悪さはしねぇから」 ニヤリと笑う桃城の台詞に、リョーマは深々溜め息を吐き出した。吐き出し、 「相変わらずバカ。悪さなんてできないくせに」 求められれば拒む事もなく躯なんて開いてやるのに、それでも気遣ってくる相手が、時折無償に腹立たしく、苛立ちを募らせる。腹が立つ程、ギリギリの場所で桃城は大人だ。 たった一の年齢差が、遠く感じられるのはきっとこんな時だ。だからこそ益々腹が立つのもこんな時だ。 「バカはどっちだ」 求めれば、拒まれた事なんて一度もない。だからこそ、益々手が出せなくなるのは、大切だからだ。 「桃先輩」 「ん〜〜?」 「しようか?セックス」 リョーマが耳元でクスリと笑って小声で呟くのに、桃城はハンドルを危うく操作し損ねる所だった。 「お前なぁ〜〜〜」 耳元で笑う声は何処か淫靡で、桃城の焦燥を誘うのには十分だった。 「ホラ、悪さなんてできないくせに」 あんたバカ、リョーマは笑う。 「お前さ、も少し自分を大事にしろよな」 「桃先輩ってさぁ」 その時リョーマの笑みがピタリと消える。スゥッと表情が綺麗に消え失せた。 「?どした?」 瞬時に変ったリョーマの気配を感じ取れない桃城ではなかったから、リョーマの気配が変った事を敏感に悟った。それでも背後を振り返る事はしないから、リョーマが今どんな表情をしているかを見る事はなかった。 「人でなし……」 ボソリと告げられた声は、けれど小さすぎて桃城の耳には届かない。 「何か言ったか?」 「別に」 自転車の二人乗りで、当然リョーマはバランスを取るのに桃城の方に両手を付いている。その指先に力を込め、ギリッと幅広い肩に爪を立てた。 「オイ、痛いぞ」 そういえば、前にもこんな事があったと不意に思い出す。 『ねぇ桃先輩、ネコの所有意識って知ってる?』 つい二週間程前に尋ねられた台詞。意味は未だ判らない。 菊丸や不二に訊いても、『愛されてるねぇ』と笑って教えてくれない。 初体験の従兄弟に訊いても、電話口で相変わらず綺麗な声で、コロコロと笑われた。 『愛されてるわね、可愛い恋愛じゃない。大事にしなさいよ、自分の事よりね』 「可愛い恋愛ね……」 従兄弟の台詞を小声で反芻する。 友達以上恋愛未満。そんな所だろう、自分達のこの微妙な尺度の感情は。少なくとも、リョーマには。 桃城は一つ年下の想い人に、内心コッソリ溜め息を吐いた。 「ホラ、綺麗だろ、これが桜って言うんだぞ」 「へ…え……凄いっスね…」 いつもと違う帰り道を走って、知らない場所に出向いた。 そこは丁度桃城とリョーマの言えの中間地点くらいの位置だろう。 「この周辺じゃわりと名所なんだよ。桜の森」 簡素な住宅街から離れた場所にあるそこは、森と呼ばれてはいてもれっきとした公園だ。ただ敷地が広く、四季折々の花が順番に咲き乱れる。春この季節は、数十本植えられている桜が見事に咲き乱れていた。 「まっ、上野公園の桜公園には到底及びつかねぇけどな」 「上野公園?」 「そっ、1000本からの桜が植えられてるのはちょっとしたもんだぜ。でもあそこは連日人が出て宴会してっから情緒はねぇしな。此処は昼間は静かだし、どうよ?綺麗だろ」 クシャリと、リョーマの髪サラリとした柔らかい髪を掻き乱す。もういい加減、桃城のそんな行為にも慣れてしまったリョーマは、掻き乱す指を振り払う事もなくなっていた。 「アメリカと比べてどうよ?コゥ、時間の流れが停まったみたいで、綺麗だろ?」 「そう言われば…」 頭上から降るように咲き誇っている桜は、日差しの中で淡い紅色をしていた。 春の穏やかな風に舞う薄紅の花弁。確かに桃城の言う通り、この空間だけは時間の流れがひどくゆったりと感じられた。それは住宅街から離れている事も幸いなのだろう。 シンッと静まり却った深閑さが、何故か肌身に心地好く感じられる。確かに周囲に花見客は在るし喧騒もあるのに、日差しの中に悠然と咲き誇るその韶光さに圧倒される。 煙花と言う言葉が有るが、この光景はまさにソレだ。白にさえ見える見事な花は、周囲の光景を霞ませてしまう程の力を秘めている。 「不思議っスね……」 珍しくも、リョーマの口から嘆息が漏れた。 不思議だった。時間の流れは一定で、遅くも早くもなりはしないのに、それでも。こうして桜を眺めていると、ひどくゆったりとした時間の流れを感じる事が出来る。 確かに、アメリカで見る桜とは、同じようで違うのかもしれない。それが感傷的な部分で感じる感情の一つだとしてもだ。 「夜はまた違うんだぜ」 「夜、時間あけとけって、また此処に来るって事スか?」 「お前の寺にあんだけ桜あんのに無頓着だからな。昼と夜の二面の顔、全然知らねぇんだろ。勿体ねぇぞ」 そして再びクシャクシャとネコっ気の髪を掻き乱して笑顔を見せた。 「やっぱ今日の桃先輩、可笑しいっスよ」 クシャクシャに髪を掻き乱され、リョーマは不思議そうに桃城を見上げた。 そこには在るのは見慣れているのに、少しだけ苦笑を含んだ笑みを刻み付けている桃城だった。 「まぁいいから、あけとけよ」 「何時?」 「ん〜〜本当は深夜ってのがいいんだけどな」 「別にいいけど」 「あっさりOK出すなよ」 「別にウチ放任だし」 「ってもなぁ……」 流石に中学一年生を、深夜に呼び出すのは考え物だろうという配慮も常識も、桃城には在ったから、あっさりOKを出すリョーマに、脱力してしまう桃城だった。 「自分の行動に責任とれれば、基本的には行動制限されませんよ」 「アメリカ流だな」 「そうスか?日本の親の方が変なんじゃないスか?」 親の管理下に在る筈の子供が、親も知らない場所に出入りして、事件を起こしても問題は社会へと転嫁されてしまうシステム。親が子供に対して責任も持っていなければ、子供自体が自分の年齢に甘えているシステムが構成されている日本と言う国。自由の意味を誰もが履き違え、選択の権利と発生する自己責任を、考えてもいない。 「だから大丈夫スよ、別に。それに桃先輩、信用されてるし」 リョーマの台詞は嘘ではなかった。 確かに桃城は、リョーマの両親にも従兄弟にも信用されていた。 家庭で学校の事を話す事は滅多ないリョーマの口から、時折漏れ出る桃城の名。そしてリョーマが青学に入学して1年。毎朝毎晩、登下校の送り迎えをしている桃城は、リョーマの両親から信用を託されていた。特にリョーマは父親の南次郎に『彼氏か?』と訊かれた程だ。 「ソレ強迫だな」 「なんで?」 「悪さできない」 ニヤリと笑う精悍な笑みに、リョーマはやはり薄い笑みを湛え、 「悪さしないんじゃなかった?」 意味深に笑った。 「していいんじゃねぇの?」 見上げてくる薄い笑みは、情事の最中のリョーマを連想させた。中学生が持つ気配ではない淫靡で妖冶なモノを、リョーマは合わせ持っている。昼間は小生意気なテニス少年でしかないのに、肌を合わせれば嫌と言う程その雰囲気はガラリと表情を変える。薄布いちまい引き捲った背後から、見知らぬダレかの表情が現れるかのように、リョーマは表情を巧みに変える。 男の理想が昼は淑女で夜は娼婦なら、リョーマは確かに理想なのかもしれない。まるでこの桜のように、昼と夜の表情が違う。 「んじゃ、11時、お姫様を迎えに行くかな」 「桃先輩、なんんならこのまま、ウチに寄ってきます?」 「ん〜〜一応家帰るわ」 「寝てるかも知れないっスよ」 「起きてろよ」 お子様め、桃城が笑った。 |