きっと、息子の成長の第一段階の兆しを、誰より喜んだのは父親の南次郎だったのだろう。
『強くなりたい、もっと、もっとッ!』
強い意志を湛えた眼差しの力感を、間違える事なく南次郎は息子の双瞳から読み取った。
誰かは判らない。けれどリョーマの中に眠るテニスへの闘志に火を付けてくれた存在が、青学テニス部に在る事を知った南次郎は、らしくもなく、そのダレとも判らぬ存在に感謝した。
オモチャを持つ事より先に、ラケットをオモチャにする事を覚えた子供だった。ラケットを持ってテニスをする事より先に、ボールとラケットをオモチャにして遊んでいた子供だったから、意識するより何よりも、ラケットとボールを肌身で感じ取り、テニスというものをリョーマは知っただろう。
ラケットとボールの用途を知って、テニスを覚えたのは、幼稚園入学前だ。誰が教えた訳でも、誰に教えられた訳でもない。別段自分達夫婦は、息子にテニスを強制させるつもりはなかったから、テニスと言う意味を、片言を漸く話せる子供に、教えるつもりはなかった。
けれどリョーマは自ら体現した。
自分のプロ当時のビデオを、母親が観せていた為なのか?血なのか?リョーマはテニスをすると言う意味を、ラケットとボールの意味を、教える事なく覚えていた。
片言を話して足取りもおぼつかない幼い時から、リョーマはテニスを好んだ。幼児が気に入りの毛布を離さないのと同じように、ラケットを離す事がなく、無理強いして取り上げれば、泣いて騒いで、大変だった。
けれど歳を追うごとにリョーマのテニスはかつての自分のテニスをなぞらえている事が顕著になった。それは仕方ない事でもあったし、自分が至らない所為だろうとも思っていた。
求められるままテニスを教え、気付く事なく、過去の自分のテニスを教えていた。けれどそうと気付いた時には遅かった。
リョーマのテニスの才は確かに天の才に違いなかった。
コピーとはいえ、そのコピーを簡単にはできないのが普通だ。しようと思って出来る事の方が稀代なのだ。けれどリョーマはいとも簡単に他人の技術を盗んで身に付ける術に長けていたから、いつしかリョーマのテニスは過去の自分のテニスと酷似し、気付けば侍南次郎と言われた、当時の自分のテニスをなぞらえている息子に気付いた。
だからこそ、青学に入学させた。息子の意志は無視して。
気付いてほしかったのだ。コピーに意味はない。可能性すら狭めてしまう。在る筈の可能性を頭から否定するようなものだ。
確かに、他人の技術を盗む眼は必要で、盗んだ者を再構築し完成させた時、ソレは初めて自らのモノになる。盗んで身に付けただけでは、自らのものになりはしないのだ。それがコピーだ。
在る筈の可能性を、コピーに視野を狭めてしまう愚かさを知ってほしかったから、自分の母校に入学させた。
アノ場所なら、自分の背を押し、世界へと眼を向けさせてくれた竜崎スミレが顧問を勤める青学テニス部なら、リョーマに良い影響を与え、成長させてくれるだろうと思ったのは、案外切実な願いだったのだと、今更気付いた。
自分を超えてしほしかった。壁ではあっても、障害で在る必要はない。だから超えてほしかったと思うのは、大概男親の感慨なのだろと、南次郎は思う。
リョーマがテニスを生活の手段として、報酬を得る道具と手段にするかなどは判らない。
天の才を伸ばすも埋もれさせるも、それこそリョーマの選択で、可能性は常に未知数だ。
それが若さでもあるのだろうと南次郎は思う。けれどテニスを続けるなら、自分と言う存在は、ぶつかり乗り越えるべき壁だった。
その壁をクリアーできない限り、リョーマのテニスに成長はない。
良い意味でも悪い意味でも、リョーマには天の才がある。
技術を盗んでコピーする術は簡単にできてしまうから、ある意味、リョーマはテニスに対して醒めている一面を持っていた。まして全米でも、息子に勝てた相手は居なかったから尚更だ。それで天狗にでもなれば、未だ可愛いものだったのだろう。けれどリョーマは天狗にはならなかった。けれど逆に、燃える事もなかったのだ。けれど今日は違った。
『珍しいじぇねぇかよ、お前から誘ってくるなんて』
未だ部活の時間の筈が、早々に帰宅したのだろう。
テニスウェアーに着替え、ラケットを持ち境内に来た息子の姿に、昨日まではなかった眼の光彩の変化に、南次郎は瞬時に気付いた。
静かな淵を浮かべた気迫と力感。昨日までのリョーマにはなかったもので、南次郎がリョーマに求めたテニスへの熱が、蒼味がかった眼差しの奥に、横たわっているのが見て取れた。
ダレかがリョーマに教えてくれたのだと、瞬間、悟った。
自分が教えてやる事のできなかったテニスへの情熱。リョーマのテニスがコピーにとどまる事なく、可能性を引き出す熱を教えてくれたダレかが、居たのだろう。
『強くなりたいッッ!』
静かな気迫の籠った声。燃え立つ眼差しの深さに、リョーマの成長の跡が見て取れる。未々卵の殻を破ったばかりのヒヨッコだけれど、その手には、無限の可能性を秘めている未来を持っている。それが自分にはもうない若さなのだと、南次郎は思う。
『もっと、もっと、強くッ!』
勝敗だけではない強さ。時には負ける事の強さをも教えてくれたダレかに感謝する。
自分から一球を奪った時のリョーマの笑みは、心底のものだ。偽りでもなく、醒めた一面でもないテニスへの熱が、確かな形となって放たれた打球だった。
いつか子供は親を踏み代に未来へと歩いて行く。その踏み台になる事が親の役割なのだろうと南次郎は思う。
オモチャで遊ぶより先に、ラケットをオモチャにする事を覚えたリョーマだったから、南次郎は願った。過去をなぞらえるテニスは切り捨てて行くべきで、テニスを続けるなら、その事に早く気付くべきだと。けれど自分には教えられない。技巧やテクニックという表面を飾り立てるモノは幾らでも教えてやれる。けれど努力でも天の才でも手に入らないものが在るのだと、リョーマに気付いてほしかった。それこそリョーマのテニスを伸ばすもので、成長させる為の唯一なのだと。
盗んだ技術は再構築され、自らに還元された時、初めて自分のモノになる。幾重も盗んで体現して、再構築して、戻ってくるものは同じものでも、ソレはリョーマの中で必ず本質は変化する。しなければ、ソレは自分のテニスとはいえないものだ。だから早く気付いてほしかった。
そんな下らない感傷が、けれど男親の感慨なのだと、今更南次郎は思った。
「まだまだだね」
コピーを自分のものへと本質を変化させた時。リョーマは何処まで走る事ができるだろうか?限りない可能性と無限性を秘めている天の才。
気付くべきなのだ。才能は伸ばす為のもので、努力は形を出すもので、手の中には必ず未来があるのだと。
自分もダレかに背を押され、世界へと旅だった。
リョーマの未来はこれからで、テニスを生涯のものとするかは未々で、けれど続ける以上、その情熱は必要不可欠なものだ。
自分のテニスを構築できなければ、遅かれ早かれリョーマは潰れる。無残な塵となって消えるのも由。それが選択した結果であれば後悔はないだろう。けれど何の苦もなく得られた才で、無残に消える事だけはしてほしくはかったというのも、親の下らない感傷だと、南次郎は理解していた。
「ったく、気付いているのかねぇ」
挫折と壁を乗り越え繰り返し、必ず終焉を迎える到達点は存在するけれど、いつだって可能性は残されている。
見上げた空は、無限に続く未来に似ている。視野を狭める事なく手の中の未来へと気付けたら、可能性は広がりを見せるだろう。未知こそ無限の可能性。伸ばすも埋もれるも自分次第。続く可能性の在処を恐れないのなら、無限なのだ。
□
ゆったりした心地好さに湯船に使って、リョーマは湯気で煙る天井を見上げた。
『お前は青学の柱になれ』
気迫も威勢も何もない、ただ静かな声を思い出す。
適わないと思った相手は幾人も居ない。片手で十分足りてしまう人数の中に、確かに手塚は端然と立つ人間だった。
鋭利な眼差し同様、決して隙を見せないテニス。隙を見せたら確実に負ける。適わないと思った。けれどリョーマが何より適わないと痛感したのは、技術ではなかった。
テニスに対する熱の形とその気迫。高校生レベルなのだと聴いはいたが、それは完成途中の技術や技巧より、精神力がそうなのだろう。テニスに対する絶対的な自信、その意識はプロに近い。
突き付けられた気がした。お前のテニスは所詮真似事なのだと。ラリーの応酬で、言葉より雄弁に語られた気がした。
波打ちのように静かで、それでいて柔軟で幅のある技巧。
高校生レベルと囁かれる手塚の真骨頂を、思い知った気がした。適わないと痛感する。
自信なら有った。勝ち負け以前に、自らのテニスに対する自信なら有った。けれど自分の自信は手塚の前では何一つの虚勢は剥ぎ取られていく気がした。
自分自身も偽り誤魔化す事に成功していた筈のソレが、手塚の前では呆気なく剥ぎとられた。剥ぎとられ、突き付けられて来る手塚の静かな気迫。決して荒くならない静かなソレは、肌を重ねて荒ぶる事なく、理性的に自分を抱く桃城を何故か思い出させた。
思い出しては、二日間、顔を会わせていなかったと今更思い出す。きっと明日は煩いだろうし、何かと詮索されるだろう。何が楽しくて自分にちょっかいを出すのか判らない先輩は、けれど青学テニス部一のクワセ者だ。きっとただでは済ませてはくれないだろう。
テニスにしか興味はなかった。けれどとどのつまり自分の興味は、父親に対する劣等の裏返しなのだと気付かされた。
引きずる劣等意識。勝てない父親に、だから打ち勝つ事だけを目標にして、いつしか目的と手段が逆転していた事にも気付かなかった。けれど気付かせてくれたのは手塚だったのかもしれない。
可能性など、今まで考えた事はない。父親に勝つ事だけが目標で、その先など考えた事はなかった。テニスをする意味はと問われて、冷水を被せられた気分だった。手塚のテニスに対する想いは強固で生半可ではない。いっそ真摯な程だ。その真摯さに、どれ程の技術で飾り立てても、勝てる筈はないのだ。
勝ちたいと思った。無性に勝ちたいと願った。それは飢えに似ているのかもしれない。
負けて悔しいから勝ちたいという、勝敗の行方にのみ着目される、子供じみた感情ではなかった。もっと根の深い奥底の部分で、勝ちたいと願った。それはきっと初めての衝動に違いなかった。
技術と技巧で装飾しても、真摯な精神には勝てない。それが嫌と言う程判った気がした。
「腕……大丈夫なのかな…」
痛めていた腕が完治したばかりの筈で、大会前にはそれこそ養生が必要な筈で、自分に全力を出す事が、どれ程リスクのある事か、手塚に判らない筈はない。それでも、手塚は身をもって教えてくれたのだろう。
到達する場所は個々に在り、途は幾重も在る。けれどテニスを続けるなら、今はもう乗り越える壁に気付くべきなのだと、壁の形を示してくれた。
今なら判る。父親が何故いつも自分相手に、ふざけたテニスしかしなかったのか。今ならきっとその幾重かは判る気がした。10は判らない。けれど1は判る。察する程度の理解でも、できなかった昨日に比べればマシだろう。
コピーのテニス。
自分のテニスが、かつての父親のテニスのコピーだと、気付かないわけではなかった。けれどそれでも勝ててしまうテニスに、きっと自分は何処か醒めた一面を持っていたのだろう。だからきっと全力でぶつかる事はなかったのかもしれない。けれど今は勝ちたいと願う。
『お前のテニスを見せてみろ』
端然と告げられた言葉。それはとどのつまり、未だ自分は自分のテニスを得ていない。
そういう事なのだろう。
他人の技術を盗む事はなんなくできる手段の一つで、その場その時に応じ、臨機応変に対処できる技術は当然勝つ為には必要不可欠なものなのは確かだ。けれどそれはどれもが他人のもので、父親の過去の技術で、それでも未だ自分は勝てない父親の技巧なのだと、リョーマは気付いた。
自分のものとして得ていない技術。他人のままのコピーのソレ。だから自分のテニスをみせてみろと、言ったのだろう手塚は。
盗む事は簡単だ。大変なのは、盗んだソレを、自分のものとして再構築する技術や努力だと、今更理解した気がした。
父親のコピーで、父親に勝てる筈もない。そして劣等意識だけを刺激される父親と言うものから、もういい加減脱却する時期なのだろう。
結局自分は、アノどうしようもないクソ親父のテニスを真似てしまう程、憧れていたのだと言う事なのだろう。だろうと、リョーマは湯船に漬かり込んだ。
□
「オーイ、越前ッッ!」
春も終わりを告げ始めた快晴の早朝。桃城の威勢良い声が響いた。その事に、相変わらず朝練ギリギリの時間に起床し、朝食を摂っていたリョーマは、二日ぶりに聴く桃城の声に、リョーマは「相変わらず煩い」と、ボソリと呟き、笑みを見せた。
「彼氏の迎えか?」
キッチンと隣接している居間で、ゴロリと朝から横着に寝っ転がっている父親が、愉しげな声を漏らすのに、リョーマは、
「みたいね」
シレッと南次郎の言葉を躱した。
「否定しねぇんだな」
ククッと新聞に視線を落としながら、南次郎は喉の奥で笑った。
可能性と言う未知数を、リョーマに教えてくれた人物は、けれど毎朝迎えに来る桃城ではないのだろうと、南次郎は思う。気が合うというより、ウマが合う様子の桃城と息子を見ていれば、そんな緊張感がない事は判る。桃城に引き出される可能性なら、今頃リョーマは桃城と馴れ合ってはいないだろう。
二人を何気なく冷静に観察していれば、何処となくただの先輩後輩と言う関係ではない事は判る気がした。
現在でも、日本の平均中学一年生の体格数値を見れば、リョーマは小柄だから、アメリカに在る時は、それこそ更に年齢は下にみられていたのは言うまでもない。故に、南次郎には些か頭の痛い事態が起きていた事も暫々だった。
リョーマにいれ上げていた人間の多さ。それも男ばかりが群がって、リョーマにちょっかいを出していた事も珍しくはない。確かに、整った顔立ちをしているのだろうとは思う。清涼な輪郭が縁取る白皙の貌。長い睫毛に二重の怜悧な双瞳。極め付けに、均整のとれた小柄な姿態。脆弱ではない若々しさ。だから危ない方向の輩からの誘いも多かった息子は、鬱陶しげに辟易しても、親として些か心配してしまう程度に警戒心を持ち合わせてはいなかった。けれどその反面、小動物を可愛がる傲慢さで、リョーマをどうこうしようとした輩も確かに在たが、リョーマのテニスの才に惹き込まれた人間も多かった。
水を吸収する砂丘のように、教えた事をすぐに再現するリョーマのテニスの才。その才に、惹き込まれた人間も多かった。そんな相手に、リョーマが鬱陶しげに下した鉄槌は、『自分よりテニスの強い相手じゃなきゃ付き合わない』だったから、桃城はリョーマよりテニスの腕前は強いのだろうかと勘ぐってはみたものの、跳躍力や精神力はリョーマと些かの遜色はないが、幾重もの飾り立てた巧みな技術と言う装飾には、適わないらしい。それを考えれば、今こうして鬱陶しげに口を開いても、その口調を裏切る表情をみれば、息子が桃城と言う先輩を気にいっている事は簡単に判る。本人はポーカーフェイスを気取ってみても、親で在る自分に誤魔化しなど効く筈はない。
「精々、精進しろ、少年」
引き出された可能性の在処。未知数だからこその若さ。もう自分にはない若さと可能性が、羨ましくないと言えば、嘘になる。
「俺、負けないよ」
ごちそう様と口を開いて、研ぎ澄まされた眼光が父親を凝視する。
「オーオー、いつでもかかってこい、ヒヨッコ」
相変わらずの横着さで、ヒラヒラ手を降り新聞を読んでいる父親に、
「エロ親父」
ツカツカ南次郎の元まで歩いて来ると、新聞の間に挟み、読むと言うより見ているエロ雑誌を、バサリと畳に放り投げた。
「バカ息子〜〜〜」
瞬間、南次郎の叫びが上がった。
□
「遅ぇぞ越前」
ガラガラと玄関を出てきたリョーマに、自転車に跨がったまま、桃城が口を開いた。
「っるさいっスよ、桃先輩」
開口一番、相変わらず小生意気な返事に、桃城は内心安堵の溜め息を漏らす。
会うのは3日間ぶりの事だった。
「二日間病欠して、何かあったか?」
自転車にまたがったまま、桃城は玄関から現れたリョーマを、窺うように眺めた。
何があったのかは判らない。きっと尋ねても話しはしないだろう。そういう性格だ。自分から話そうとしない限りは、どれ程の詰問にも揺るがない。だったら聴くだけ時間の無駄と言うものだった。
「別に」
桃城の窺うような視線に、リョーマは素っ気なく返事をして、極当たり前のようにその後ろに跨がった。
いつもの朝、いつもの会話。けれどきっと昨日とは何処か違う朝だと感じる。
「元気じゃん」
いつもと変わらぬ朝のやり取りだ。小生意気な言葉に態度。その姿に安堵している自分を知れば、溺れている自覚のある桃城だった。
「桃先輩は、薄情もんっスね」
ゆっくり走り出す自転車に跨がって、リョーマは桃城の頭を見下ろし、次には頬を撫でる風に、周囲を見渡した。
初夏の匂い含む風。高くなっていく空。樹々の緑が鮮やかな事に、初めて気付いた。
「何だよ。薄情って」
「可愛い後輩が二日間も病欠したのに、電話の一本もない。俺達取り敢えず付き合ってるのに」
薄情モン、リョーマは笑う。
「バーカ、電話して困るの、お前だろ?」
背後を振り返る事なく、桃城は笑う。
リョーマと手塚に、何かしらあったのだろうと言う推測は付く。気付いたのは別に自分だけではなく、レギュラーは誰もが気付いた。だからこそ、電話をしなかったというのは、桃城の気遣いだ。
心配を、しなかった訳ではない。一日目は大石すらもが病欠をした。何か訳在りなのだと、気付かない筈はなかった。電話をする事は簡単でも、登校はしても部活は休んでいたテニスバカのリョーマの事だから、理由がある事に気付かない桃城ではなかった。
理由が在れば、其処には当然意味が有る筈で、リョーマは大概肝心な事は何も言わない。そんな時に電話を掛けても、何も話す事がない事を、付き合っていて判らない桃城ではない。だから電話をしなかった。というのは建て前だと、桃城は苦笑する。本音は単純な事だ。嫌われたくは無かった。ただそれだけだ。心配と自分の現在のポジションを秤にかけた時。呆れる程素直な臆病さが意識を恫喝させたから、電話をする事を躊躇った。それだけの単純さだ。
煩く詮索をする事は簡単だ。けれどそうしたらリョーマはますます口を閉ざすだろう。だから電話をする事をしなかった。単純な理由だ。
「ねぇ桃先輩、俺テニス好きだよ」
桃城の内心に、気付いているのかいないのか判らない笑みで、リョーマは口を開いた。
「何だ今更?」
好きじゃなきゃ、過酷ともいえる練習メニューに堪えられる筈もない。そんな事は、今更だった。リョーマがテニスを好きなのだと、知らない部員は存在しない。
「大体、1番テニス、2番テニス、3、4がなくて、5にテニスだろ?俺なんて10番目くらいだろうが」
「……桃先輩、其処で10本の指に入ってると思うあたり、図々しいっスよ」
自分は、何を知らなかったのだろうかとリョーマは思う。
こうして当然だろうと笑ってくれる存在が在るくせに、笑ってもらうまで、自分がテニスを好きだとも、気付けなかった気がする。
吸収されていく技術が楽しかった。上辺の楽しみだけを追求していただけのような気もする。けれど今は違う。純粋に強くなりたいと願った。
何故父親を倒したいと思ったのだろうか?思い出せば、幼い頃の自分を思い出す。
テニスの意味も知らなくて、ラケットを手放さなかった。持っていれば安心できた。テニスの1から10まで父親に教えられた。楽しい事も辛い事も負け続ける悔しさも。負けた悔しさ。ただ単純にそれだけで、だから父親の技術を盗む事で、超えようとした壁。
自分は何を忘れていたのかと思う。中核にあるべき筈の大切なものだけが、欠落していたように思える。
対戦で勝ち負けは必要で、勝たなければ意味はなさない。
努力をしても、結果が出なければ意味はない。結果を出して初めて報われるのはどんな局面でも同じ事だ。努力をした自己犠牲と自画自賛だけでは成長など何一つはない。その為にも勝敗は必要なものだ。けれどそれだけに囚われてしまえば、身動きできなくなってしまう。
「大体テニス好きじゃなきゃ、乾先輩の乾汁なんて、飲めねぇよ」
何かあったのだろう。今更テニスが好きだと語ってくる声には、今まで感じる事のなかったナニかが滲んでいる気がした。
「桃先輩、何かこうしてるの久し振りっスね」
二日間、顔を会わせなかっただけで、久し振りだと奇妙な感慨が湧く。それだけ自分の身の裡の深くに、この男は入り込んでいたのだろう。そう思えば、やはり青学一のクワセ者だと思える。
付き合うなら自分よりテニスが巧い人間だと思っていた。そう鉄槌を下してきた。けれど桃城はどうだろうかと思う。
重く鋭い打球を打つテニス。跳躍力は自分以上で、精神力に遜色はない。けれど技を競って勝敗を決めるなら、その行方はどちらに傾くだろうか?最初の最悪な出会いの時以来、試合はした事がない。自宅のコートでのラリーはあっても、真剣勝負の勝敗はなかった。
何故、付き合っているのだろうか?
二日間会わなかっただけで、こうして朝から顔を会わせてホッとする。
自分より強い人間と言うなら、現段階では手塚になってしまう。そんな発想に、リョーマは苦笑いを浮かべた。そんな可能性は、ゼロに等しい。
強いテニスとは一体何なのだろうか?技術と精神力と、一体何を揃えたら強いのだろうか?
「なんかお前変だぞ、やっぱ病欠ってのは、本当だったんだな」
見下ろされる視線を感じて、桃路は軽口に口を開く。
「そういう事言うんスね」
こんな会話もひどく久し振りな気がした。
見上げた空。初夏の色を映し、続く蒼。
「負けないっスよ」
今度こそ。
蒼い空に手を翳す。指の隙間から零れてくる早朝の光。
「お前、ソコから何視える?」
チラリと背後を振り返り、桃城が意味深に笑う。
知らないけれど、何が有ったのかはまったく判らないけれど、ナニかがリョーマの中の一部を変えた事は判る。
「何スか?」
「光、溢れてくるだろ?」
天に高く翳した掌中。溢れ漏れる光。
「それが?」
「手の中に何が在ると思う?」
「桃先輩、朝から謎々?」
俺嫌い、リョーマは桃城の前に手を突き出した。
「オイ、危ねぇだろ」
一瞬遮られ、切り取られた視界。自分より小さい手。けれど無限に広がる可能性を持っている掌中だと思う。小さく細い腕。けれど鋭いショットを打つ事を知っている。
「答え」
「少しは考えろよお前」
「朝から頭使いたくないっス」
まったくお前はとボヤきながら、桃城は笑った。
「未来」
「?ハァ?」
「だから、赤ん坊って生まれた時、手ぇ握ってるだろ?アレは倖せを握ってるって言うんだよ。そんで成長すれば手ぇ開くだろ?人生ってのは、その時手から零れた倖せを拾い集めて行くってナ」
「って、ソレ誰の受け売り?」
「忘れた」
シレッと言う桃城の言外の意味は一体何なのだろうか?リョーマには判らない。けれど何ごとにも勘の鋭い桃城の事だから、二日間の自分の何かしらの変化を、感づいたのかもしれない。
「も一度、空に手ぇ伸ばしてみろよ。見えるだろ?」
「……本当だ…」
言われて、腕を目一杯天に翳す。
伸ばした腕。開いた指先。溢れてくる光。
道筋は幾つもあって、到達点も個によって変わる。手の中に在る無限の可能性。
切り取った視界に映る蒼い空。翳した手の隙間から、切り取って続く空の蒼。
必要なのは、視野を狭めず、可能性を否定しない事。
父親のコピーになり下がらない為には、その技術を確かにする事。その為に乗り越える壁を示してくれた手塚には、感謝する。確かに彼は部長なのだろう。リスクを冒しても、教えてくれたその可能性。広がり続く空のように、可能性は自分次第。
「桃先輩、俺強くなるよ」
「お前、それ以上なるつもりかよ」
軽口に誤魔化しながら、桃城は笑う。
「まだまだだからね」
翳した手。広がり続く空。未来は手の中に在るのだと。
『まだまだだね』と言う口癖は、結局自分に対してのものだと、改めて気付く。
「俺もウカウカしてらんねぇな」
初夏の鮮やかな緑と頬を撫で通り過ぎて行く風。
可能性は一つじゃないから、選ぶのも決めるのも自分自身。
掌中から覗いた何処までも広がる空のように、可能性の在処は無限大。
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