認識力 2
それでは ここで、単純な生活の場面で、先ほど解釈した 認識力 という言葉の
意味するところの内容をとらまえてみることにする。
(場面設定)
バラという花(木)を識(し)らない人がいる。
その人がその花に出くわした。
そこで、その人がバラの花を認識しようとする過程、
認識した力(認識力) を想像して展開してみることにする。
<第一段階>
はじめてバラの花をみる。
「きれいだなあ」 「いい香りがするなあ」 「トゲがあるなあ」等々を
感じる。
認識しようとする入り口である状態。
<第二段階>
「なんて名前なんだろう?」と思い、
その名前を知ろうと行動を起こす状態。
その行動は、図鑑で調べたり、人に教えてもらったりする等々。
(認識しようと 意志の力 が働く状態)
<第三段階>
「バラというんだ」 「バラはきれいで、いい香りがして、しかもトゲがある」
等々。
認識した状態。
<第四段階>
バラという花を認識した結果、そのバラに関して、歌をうたったり、
絵を描いたり、香水をつくったり、バラの木を育てたり、他の人に
認識したことを伝えたり(教えたり)する等々。
認識力 が生活の場面で、発揮した状態(認識した結果、創造・想像・
創作等の 力 が生まれてくる状態)。
まだまだ次なる段階があるであろうが、ここでは 認識力 というものを単純に
とらまえるだけにしておこう。
認識するにあたって、または生活の場面で、認識力 を発揮する時、
心の働きがある(心の働きが大切である)ということに焦点を
あててみることにする。
設定場面・バラの花から 認識力 というものをごく単純にみてきたのだが、
バラの花は、事実(実在)として、ただそこに存在するだけであって、そこに
(それをみた)、人間の心の働き(感じる力等々)がなからねば、認識も 認識力も
生じない・・・ある人がバラの花をみても、何も感じず(心の働きがなく)、ただみて
通りすぎてしまうだけならば、認識も 認識力も生じないということである。
従って、人間生活のすべての場面・出来事で、人間の心の働きがなからねば、
認識も 認識力も生じず、ただ生きている(存在している)だけにすぎない
といえば、いいすぎであろうか?
続きは次回更新にて!