あのころ、ぜんぜんやさしくしなくてごめんね…
高等部進学前、中学最後の春休み。手塚は、朝早く学校へと向かって歩いていた。
『再び雑用で走り回らされる悲しい最下級生生活が始まる前に、僕らが現役だったころのレギュラー
みんなで最後に思いっきり打ち合わない?
後輩達の練習がない日に一日コートを使わせてもらえるよう、もう許可は貰ったから』
という不二からの提案で、今日は早朝から学校に集まる事になっているのだ。
(昨日、雨が降ったからだろうか…)
周りには淡く靄がかかり、手塚の体を包む空気はひやりと冷たい。
手塚は、着ているジャージがうっすらと湿り気を帯びていくのを振り払うように足を速めた。
校門をくぐり、真っ直ぐテニスコートへ向かう。通常部活動が始まる時間よりもかなり早く来たので、途中、
他の生徒の姿は見当たらなかった。
まだ、靄はすっきりと晴れない。
テニスをするのに支障が出たら嫌だななどと考えながら歩いていた手塚は、部室の側まで来た時、ふと
誰かがコートを囲うフェンスの前に立って、じっとコート内を見ている事に気づいて足を止めた。
不透明な視界の中目を凝らすと、どうやら黒い学ラン姿の男子生徒のようだ。
(着替えもせずに、何やってるんだ)
それとも、テニス部とは関係のない生徒なのだろうか?訝しく思って手塚はゆっくりと近づいた。
はっきりしない視界の中、少しずつその姿が露わになる。
手塚より頭ひとつ分くらい背が低い、華奢な体格の男子生徒。
形の良い小さな頭を丸く包み込む黒く真っ直ぐな髪。
手塚の靴音が耳に入ったのか、男子生徒はぱっと手塚のほうへ顔を向けた。
真っ直ぐ下ろした黒い前髪に縁取られた小さな顔。見開いた目は大きく、ツリ目がちで、瞳の色は金色を
帯びた明るい茶。鋭く力がある視線。小さく尖った鼻に、同じく小さい口。
「…越前か?」
誰だかわかって安堵した手塚は、ふっと肩から力を抜くと、リョーマの側まで歩み寄った。
ところがなぜかリョーマはなんだかおかしな具合に目を白黒させて、困ったように頭や鼻のてっぺんを掻き
ながらそわそわしている。
手塚が不審げに眉を寄せて首を捻ると、小声で『ちぃーす…』といつもの素っ気ない挨拶が返ってきた。
「遅刻常習犯のお前にしては早いな…
それにしても…。越前…、お前…。しばらく見ないうちにずいぶん背が伸びたな…?」
手塚は感心したようにリョーマを何度も上から下まで眺めた。
それを聞いたリョーマは一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間弾かれたようにのけぞってゲラゲラと笑い出した。
「何が可笑しいんだ」
フェンスに肩を預けて金網をがしゃがしゃ鳴らしながらヒイヒイ笑うリョーマに手塚は詰め寄る。
そのとき、リョーマの学ランに付いている襟章に手塚の目が止まった。
「高等部の襟章…?」
手塚の呟きにぴたりとリョーマの笑いが止む。
「お前…。制服のサイズが合わなくなったから誰か高等部の人間から借りたのか?
…そうか。レギュラージャージもサイズが合わなくなったから着てきてないんだな?
バカだな、俺に言えば大きなサイズのジャージなどいくらでも貸してやったのに」
手塚の言う事を黙って聞いていたリョーマだが、その痩せた肩がわなわなと震えだしたかと思うと、
再び全身を波打たせて笑い始めた。
今度はフェンスにしがみついてひくっひくっと体を揺らすリョーマに、流石に手塚も何かおかしいと思い
始める。
「お前…。越前じゃ、ないのか…?」
じり、と手塚が後ろへ後ずさろうとするのを、笑うのをやめたリョーマが手首を掴んで止めた。
「!」
「怖がらないで。何もしないから」
つい先ほどまで爆笑していたリョーマとは一転して真剣な雰囲気に変わった事に、手塚は緊張して
息を飲む。
「…逃げないから、手を離せ」
「はい」
リョーマは、素直に握った手を離した。
再度、手塚が問い質す。
「お前は、越前リョーマではないのか?」
質問にリョーマは小さく笑うと
「いえ、越前リョーマっすよ。
…ただし、俺、高校二年生ですけど」
と短く、しかしはっきりと答えた。
「………は???」
リョーマは、すっかり呆気に取られて動けずにいる手塚を安心させるように少し微笑んで続けた。
「俺…。三年後から来たんです」
「じょ、冗談は…よせ……」
「アンタねえ…。しばらく会ってないっていっても卒業式から今日までせいぜい二週間かそこらでしょ?
その間に身長が二十センチ近く伸びてる方がよっぽど冗談すよ…」
「で、でも…
そんな……、まさか………」
「まさかって言われても俺は今こうして大きくなってアンタの目の前にいるんだし」
手塚は、さっき握られた手首の感触を確認するようにそっとそこを握りしめる。
そして、少しの間俯いて考え込むと、口を開いた。
「じゃあ…
お前、俺がお前と初めて試合をしたとき、俺がお前になんて言ったか覚えているか?」
「…越前、お前は青学の柱になれ」
淀みなく答えるリョーマに、手塚はため息を漏らした。
「…越前…、なんだな…」
「ずいぶん簡単に信用するんすね?」
肩を竦め、からかうように意地悪く笑って尋ねるリョーマに
「越前が、あの言葉を誰か他の人間に言うとは思えない」
だから、お前がそれを知っているだけで十分だと言わんばかりに、手塚はきっぱりと言い切った。
(へえ…、信用されてるんだな、俺)
「…大和部長が言ったことの使いまわしだって知ったとき、俺激怒しましたしね」
そう言って苦笑するリョーマに手塚は心底ぎょっとしたように顔を引きつらせた。
「どうしてそれを…!」
「何で今ごろ驚くんすか…。だから言ったでしょ。三年後から来たって」
「お前……、本当に……」
「はい」
三年前の世界が懐かしいのか、嬉しそうに笑うリョーマに、手塚はただ困惑して呆然と立ち尽くす事しか
出来なかった。
しばらくしてようやく混乱が収まったのか、手塚は懸命に言葉を探している様子でぽつりぽつりと話し出す。
「と、とりあえずお前が…、三年後、の世界からきたことは…わかった。
で…、それで…だ。どうしてこんなことになったか…わかる、か…?
何か、理由があって、こっちに…来たのか?」
普段歯切れ良く喋る手塚にしては珍しくしどろもどろなのにリョーマはくすりと笑うと
「うーん、目的か…」
と大袈裟に眉を寄せ、目を閉じ腕を組んで考え込むポーズを作り、フェンスに背中をつけて寄りかかった。
手塚も背負っていたバッグを下ろして、その隣りに並んで寄りかかる。
(実はね、手塚先輩…)
どこから話そうかと、リョーマはここに来てからの事を順番に思い出し始めた。
自分がいた世界は越前リョーマが青春学園高等部二年に上がったばかりの春。
部活と、四月にしてはずいぶん上がった気温のせいで、疲れ、汗だくになって帰ってきたリョーマは自室の
ベッドに寝転がり、特に何を考えるでもなくなんとなく手塚の事を思い出していた。
(今は…。ライバルとして先輩をとても大切に思っているし、大切だという事をちゃんと先輩にわかるように
表に出して接しているけど…
出会ったばかりのころは…、いろいろと…、素っ気ない態度だったよなあ…
あの人が俺を特別扱いするのをいいことに…、からかって遊んだりもしたり………
ずいぶん悪いこと、したよな、俺………
ご、ごめんなさい………)
と、手塚が中学三年生、自分が中学一年生のころの事をちょっとだけ反省しつつうつらうつらとしていたら、
階下から母親の『リョーマ!ご飯よ〜!』と自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのでむくりと起き上がったら
そこは
自分の家ではなかった。
(あれ…?)
ぱちぱちと瞬きして、目を擦る。目の前には、懐かしい中等部の正門があった。
(俺…。うっかり部室で寝ちゃったのかな…)
そして自宅に帰ってベッドで眠る夢でも見たのかとリョーマは考えた。
そのわりに自分はなぜか学校の外、しかも中等部の前にいるが、これは寝惚けながら部室を出て、しばらく
歩いた後ようやく頭がはっきりしたのだと考えれば、今のこの状況もわからなくはない。
しかし、部活の後眠り込んだにしてはずいぶん周りが明るい。いくら冬が終わって夏に向かう季節でも、この
時期の夕方がこんな風に明るいはずはない。
そういえば、いつも学校で使う荷物をまとめて入れているテニスバッグを持っていない。
(あれ…?)
自分の置かれた状況がよくわからないまま、なんとなく正門近くの桜の木に目をやって、そしてリョーマは
不思議な事に気がつく。
(高等部の桜はとっくに葉桜になってたのに…
なんで中等部はまだ蕾なんだ…?
桜が咲く時期って、木によってこんなに違ったっけ…?)
自分が毎日目にする高等部正門脇の桜の木を思い出してリョーマは首を傾げた。
その時、ぼんやりと木を眺めるリョーマの頬を風が撫でた。
その風の冷たさに決定的な違和感を感じて、リョーマは桜の木を凝視したまま固まった。
(今日は…すごく蒸し暑かったのに……)
日が完全に落ちているならともかく、まだこんなに明るいのにここまで急に気温が下がるとは思えない。
さらに周りをよくよく観察して見ると、朝靄のようなものが淡くかかっていて、周囲の景色をぼんやりと
霞ませていた。
…高等部と中等部で全然違う桜の木。
…ついさっきまで暑いと感じていたのが嘘のように肌寒く感じるこの気温。
…まるで朝のような、この、靄…
空には分厚い雲がかかって、太陽の位置ははっきりわからない。でも、これでもし、もし太陽が東の空に
あったりなどしたら。
(一体なんなんだ…、これは…)
そのときちりんちりんと自転車のベルの音がして、はっとリョーマがそちらを見ると、新聞を籠いっぱいに
積み込んだ自転車が自分の方に近づいて来ようとしていた。
リョーマがぎこちなく体をずらすと、新聞配達人はちらりと一瞬訝しげな視線をリョーマに投げたが、こんな
朝早く手ぶらで突っ立っている怪しげな学生に下手に関わるとまずいと思ったのか、少し先の民家の新聞
受けに新聞を手早く差し込むと、そのまま振り返ることなくさっさと次の角を曲がって行ってしまった。
(新聞…)
リョーマは、さっき差し込まれたばかりの新聞を引き抜いた。
その新聞を見て、愕然とする。
新聞は朝刊で、そして…
…記載されている日付は、三年前、三月最後の日の、日付。
呆然としたまま新聞を戻し、また引き抜いてもう一度日付を確認する。
(やっぱり、三年前…)
そしてその新聞をまた折り畳んで戻すと、リョーマは自分の頬を左手で強く引っぱってつねった。
「ひはひ…」
非常に痛い。どうやら夢ではないようだ。
自分の肉体的な感覚に加え、新聞に記載されている事がおそらく間違っていないのも、まだ咲いていない
桜や、朝靄が出ていることから容易に推測できる。
はっと気づいてリョーマは三度新聞を取り出した。
(この事件…。覚えてる…)
大きな見出しの出ている事件は間違いなく三年前にあったことで、さらに裏返して見たテレビ欄には、昔
流行ったドラマのタイトルが載っていた。
ここは…、三年前の三月最後の日の世界だ…
(でも夢じゃないって納得は出来ても…。わけはわかんない…)
リョーマは、新聞を戻した後、赤くなったであろう頬を撫でながら、大きなため息をついた。
ふーっと長いため息をついたその時、ふいに手塚の顔が頭をよぎった。
こんな場所で目覚める直前、自分が思い出していた中学三年生の手塚の、顔。
(もしかして…。俺は、先輩に謝りたいのか…?だから…こんなことに…?)
(まさか…!でも、本当に昔の世界に来てしまったんだとしたら、思い当たる理由はそれくらいしか…)
(でも、いくらなんでも…。昔のことを少しくらい申し訳なく思ったからって、こんなこと…
起こるか…?)
(いやでも…。実際起こってるんだ…。新聞社や新聞配達の人が俺を騙す理由なんてないし…
つねった顔は痛いし…。これは…やっぱりどう考えても実際に起こっているとしか思えない…)
リョーマは事の重大さに、この時初めて心の底から恐ろしくなって、青ざめた。
(どうしよう…)
(元に戻れなかったら…)
(俺…、手塚先輩に二度と…)
リョーマは思わず両手で顔を覆った。
その瞬間、唐突にある考えが頭に閃いてリョーマは顔を上げる。
(昔の先輩に悪いことしたなと思うなら、じゃいいことすればいいんじゃないの?)
その考えは、思わずコブシで軽快に手のひらをぽんと打ちたくなるような感じで、リョーマの心の中にある
この現象の謎の答えを欲しがって満たされない部分に、これ以上ないくらい気持ち良く爽快にすとんと
収まった。
確かな根拠は何もないが、なぜか強く『これだ』と納得出来た。
(まあ…
根拠は何もなくても、何もしないでいるよりは、思いついた事をやったほうが、いいよね)
そう思うと途端に普段の強気な自分が戻ってきた。
(よし…。そうだな…ここで突っ立ってても仕方ないし…
とりあえず、学校の中に入るか。そこでこれからどうするか考えよう…
いいことっていっても…具体的に何すればいいのかまではピンと来なかったし…
なんだろ、喜んでもらえる事すればいいのかなあ…?)
幸い、自分は眠り込んだ時のままの制服姿だし、高等部と中等部では襟章も異なるが、でも近くでまじまじと
見ないとわからないくらいの違いなので、少しばかり自分の姿を見られても、高等部の生徒が中等部にいる
なんて気づかれないだろう。
「懐かしいな…」
校門をくぐって真っ直ぐテニスコートへ向かったリョーマはコートを見てぽつりと呟いた。
胸がいっぱいになる。本当に、ここではいろんな事があった。
しばらくの間これから先の事を考えるのも忘れて、ぼんやりとリョーマは中学生のころを思い出していた。
(で、そこに先輩が来たんだよね)
リョーマは手塚の姿を見た時『なんでこんな朝早くに!?』と驚いたのだが、すぐにそう言えば昔不二先輩の
提案で春休みに丸一日、レギュラーで好きなだけテニスしたっけと思い出した。
(あの時もこんな風に先輩は未来から来た俺に会ってたのかな…?)
しかしそれは自分が元の世界に帰ってそちらの手塚に聞いてみないとわからない。
少なくとも自分には三年前に未来の自分とご対面、なんて奇妙な経験はなかった。
(まあそういうことをあんまり深く考えてもややこしくなるだけだし…。今はやめとこ)
「越前、どうした…?
…心当たりは何もないのか?」
待ちきれなくなったのか、手塚が心配そうにリョーマの顔を覗き込む。
「あっ…、いえ、そうじゃないんすけど…」
(うわー…、びっくりした。先輩顔、近いよ…)
手塚も中学三年生で成長が止まったわけではなく、あれからもまだ身長が伸びている。
リョーマも成長したとはいえ、普段なら背伸びでもしない限り顔がこんなに近くに来る事はないので、内心
とても面食らった。
(先輩は今びっくりしなかったのかな…?
まあ、変なところ鈍いから、この人は………)
「えっと、今考えを整理してますんで、もうちょっと待って下さいね」
「わかった」
(どういう風に先輩に話せばいいかな…)
昔先輩に素っ気なくしたりからかったりしてた事を申し訳なく思いながら眠り込んで、そして目が覚めたら
ここにいました。たぶん何か先輩を喜ばせるような事をしたら元の世界に戻れます。
…というのが一番正直に今の自分の状況を説明する台詞になるのだろうが、リョーマは『素っ気なくしたり
からかったり』の部分は少しマズイと考える。
(だって…。この人あの時それが意地悪だと気がついてなかったかもしれないし…)
自分が今ここでその事をバラすと、こちらの自分に対して手塚は嫌悪の情を抱くようになるかもしれない。
そこまではいかなくても、二人の関係が変にギクシャクするようになってしまうかもしれない。高校二年生の
自分が手塚の事を自分にとって必要な人間だと思いそしてとても大切にしている状況を考えると、こちらの
自分も自分と同じように近い将来手塚を大切に思うようになる可能性が高い。
なのでその時こちらの自分が肝心の手塚から好かれていないという、自分で自分を不幸な状況に追い込む
ような真似はなるべくしたくなかった。それにおそらくだがそれは、いい事をして手塚を喜ばせるという目的にも
反する気がした。
大体自分があのころの中学一年生だったとして、自分と手塚の間にどういう形であれ誰かが介入する事を
喜ぶだろうか。答えは否だ。手塚の中の大和の存在が許せなかったように、手塚に対して好意と呼べる
感情があろうがなかろうが、とにかく自分と手塚の間に誰かが入ってくる事は許し難いと思っているという、
そんな自覚だけはこのころから既にあった。
(とりあえず、この時代の俺が後々不利になりそうなのと、この時代の二人の関係にヘタに口を挟むような
発言は控えたほうがいいよな…)
こちらの自分と手塚の関係に悪い影響を及ぼさずに、うまく状況を説明する…
しばらく考えて、結局、リョーマは手塚に
「部活の後、疲れて家に帰ってきて、でなんとなく先輩がまだ中三だったころの事を思い出しながらうとうと
して、そして目を覚ましたときは三年前の中等部の正門前にいたんすよ」
と言うに留めた。
それを聞いて手塚はわかったようなわからないような複雑な顔をして首を傾げた。
「不思議なことも…あるものだな…」
「…そうっすね」
「お前の話をよく考えてみると…
お前は、俺に会いたかったということになるのでは……」
手塚はそう言ってリョーマから目を逸らすと、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
(こういうところの勘は結構いいんだよな…、この人…)
「…うーん。疲れててぼんやりしてたんで…
あんまりはっきりそのときの気持ちとか、覚えてないんすよね…」
リョーマは申し訳なさそうに苦笑する。
「そうか…」
少しがっかりした様子の手塚を見てリョーマは胸がきりきりと痛んだ。
(先輩、ごめん!ほんとは先輩の言う通りなんだけど…
でも、その通りですって言っちゃうと、アンタたぶん図に乗るから…)
三年経ったらリョーマは自分のものになっていると思われて、こちらのリョーマをぞんざいに扱われたら
困るのだ。なぜならこちらのリョーマはまだそんなに手塚に対する思い入れがないので、ちょっとぞんざいに
扱われただけで壊滅的に手塚に対して幻滅するに決まっているからだ。
(他人の人生あんまり引っ掻き回したくないし…ね。いくら昔の自分でも)
「越前、それと、元の世界に戻る方法は…
やっぱり、わからないのか?」
「それも…」
ふるふると首を横に振る。
(嘘だけど。ほんとは見当ついてるけど。
けどやっぱりほんとのこと話したらこっちの自分のイメージダウンだしこの人はこの人で図に乗りそうだし…
余計なことは言わない言わない)
「そうか…
なあ越前、お前これから先の当てはあるのか?」
「当て?」
「もし…、何日も、戻れないんだとしたら…」
「あっ!そうか…!」
(しまった、そんなこと考えてなかった)
「なさそうだな…
じゃあ、とりあえず俺の家に来ないか?」
「えっ?」
「今日と明日、祖父と両親は法事で親戚の家に出かけていていないんだ。
あまり人目につくよりも、そのほうがお前も気が楽だろう?」
(うん、確かに説明には困るね)
「家族が戻るまでに帰る方法がわかるかもしれないし…
わからなくても、友達だと言って出来るだけ泊めてもらえるようにする」
「先輩………」
(確かに俺は初めて試合したときに先輩から言われたことを誰かに言う気なんてこれっぽっちもない。
だからって…、普通、こんなに簡単に信用するだろうか…
自分で言ってても胡散臭いって思うのにこんな話)
「どうだ?」
(ほんとにこの人、こんな昔から、俺のこと………)
切なくて胸がつまって、泣きそうになる。
「…すいません。お世話になります」
「そうか。じゃあ行くか」
手塚は下ろしていたテニスバッグを肩にかけた。
「でも先輩、今日の約束は放っておいていいんすか?」
「構わん。どこか近くの公衆電話から不二の携帯に連絡を入れておけば大丈夫だろう」
(こっちの俺だって今日のアンタとの試合楽しみにしてるんだけど…
俺を選んでくれて嬉しいような嬉しくないような…。フクザツ…)
そんなリョーマの心情にはまったく気づかない様子で、手塚は、行こう、とリョーマの背を押した。
「不二先輩に連絡して、手塚先輩はどこ行くんすか」
「越前…!!」
突然かけられた声に二人が振り向くと、そこにはジャージ姿のリョーマが仏頂面で立っていた。
(…うわー…、自分だ………、自分が目の前にいる………
って、いざ対面してみると意外に冷静でいられるもんなんだなー…
そうだ、そういえば、すっかり忘れてたけど、先輩早く来てないかなーと思ってこの日は張り切って早起き
したんだった…
だからだろうな、俺機嫌悪そう…)
(ん?)
(てことは?)
(介入しちゃえばいいんだ?)
手塚を喜ばせる事を、イコール手塚に幸せになってもらう事と考えた場合。
この時代における手塚国光の幸せとは何か。言うまでもない、手塚国光が越前リョーマに抱いているのと
同じ気持ちを越前リョーマも手塚国光に対して抱く事だ。
(うん、それを望まれてるのはあのころから俺もよくわかってた。
わかってて素っ気なくしてたけど…)
で、こちらのリョーマにそんな気持ちを抱くに至らせるにはどうすればいいか。
今まで、自分が一番手塚に対する気持ちを昂ぶらせた状況はどういう状況だったのか。
(それは、あの時だよね、やっぱ)
手塚の言葉が、大和の言葉だったと知ったときだ。
(つまり、あの時みたいに悔しがらせればいい。
先輩の関心を一番引くのが自分ではなくなるかもしれないという危機感を与えればいい。
そうすれば、こっちの自分はそうならないように必死になる。
これだ)
とここまで考えて、ふと疑問が浮かぶ。
こちらのリョーマがあっさりと手塚を諦めてしまう場合だ。
(でも、あっさり諦められない繋がりがこのころの俺にも、あるよね)
(そう、テニスだ)
これらのことから導き出される答えは。
(俺がこっちの自分の目の前で、先輩と試合をしてみせればいい)
なぜ今手塚と対峙しているのが自分ではないのかと、心底悔しがらせるような最高の試合を。
(決まりだね)
昔の悪行を帳消しにする何かをすれば元の世界に戻れるのだと閃いた時と全く同じ感覚で強く確信できた。
根拠は何もなくても、『間違ってない』とはっきり思える。
(よかった…。これでたぶん戻れる)
ほっとしている未来のリョーマを他所に現在のリョーマの追求は続いていた。
「で、どこ行くんすか?」
「…す、すまない、ちょっと、急用が出来て…」
「で、その人と帰っちゃうんだ。
ふーん…
ん?」
(この人…。俺に似てる…)
現在のリョーマが未来のリョーマの顔をしげしげと眺める。
(自分に似てるって思ってるんだろうなー。
そりゃそう思うよな、先輩なんか一発で正体当てちゃったし)
「ねえ、俺が自分に似てると思ってる?」
「えっ?」
「似てるに決まってんじゃん。だって俺」
と未来のリョーマは自分を指差し、そして自分に向けていた指を現在のリョーマの方へ向けた。
「君だもん」
「………は???」
(あ、反応が先輩と一緒だ。結構似た者同士なのかな?)
あっさりと正体を暴露してしまった未来のリョーマの行動に手塚が慌てふためく。
「えち…!
あ、いや、お、お前…!!!」
「いいじゃないすか先輩。考えてみればこっちの越前リョーマが一番の当事者なんだし」
(…なんてね。
俺の正体はバラしておいたほうがいい。
だって…
先輩がこっちの俺に好意を持ってくれている以上、越前リョーマの一番のライバルは越前リョーマだ)
ぽかんとしていた現在のリョーマがやっとのことで口を開いた。
「…先輩、これ一体どういう」
「早くここ出ないと、他の人来ちゃいますよ?」
現在のリョーマが手塚に質問するのを遮るように未来のリョーマが口を挟む。
「ちょ…、アンタ、俺が質問してるのに邪魔しないでよ!」
手塚も現在のリョーマの質問には答えずに
「…そうだな。
とにかく今は騒ぎを大きくしないほうがいいだろう。急ごう。
越前、お前も一緒に来るんだ」
と言って現在のリョーマの腕を掴んだ。
「だから、これは一体どういう」
「学校から離れたあと話す。行くぞ」
手塚は現在のリョーマの腕を取ったまま走り出した。
「えっ、ええー???」
集まってくる他のレギュラーとかち合わないように注意しながら正門を抜け、駅へ向かう道を小走りに
移動する。
「ちょ…っ、もうわかりましたから!おとなしく先輩についてくから手離してよ!」
「あ…、すまない…」
現在のリョーマが立ち止まって、手塚の手を振りほどいた。
(まったく…。どうなってんのさ、一体…
先輩が早く来てたらラッキーだと思って頑張って早起きして学校行ってみればなんだかわけわかんない
ことになってるし…)
「…ちょうどあそこに公衆電話があるな。
二人とも、ここで待っていてくれ。不二に電話をかけてくる」
と手塚は少し離れたところにあるコンビニエンスストアを指差した。
二人のリョーマが頷くのに手塚も頷き返して、手塚はその場を離れる。
手塚が離れたのを見計らって、現在のリョーマはぐったりと側の民家の塀に寄りかかると
「アンタ…」
と下から上目使いに未来のリョーマを睨みつけた。
「ほんとに…、アンタ…、俺なんすか?」
そう言って見上げる目は、くだらない嘘なんか吐くなよ?とでも言いたげな、強く相手を威圧する光を
放っていた。
「…そうだよ。俺は、今から三年後の、越前リョーマ」
「…何か、俺しか知らないこと、言ってもらえます…?」
「そうだな…
俺が中一の時の三学期。スーパーで国光って林檎を見つけて、で誕生日にもらったマドレーヌのお礼だって
口実で手塚先輩に食べさせたけど、実は内心『共食い』って思ってた」
「…!!」
「他にもなんか聞きたい?」
「…もう、いいすよ…」
ふう、とため息をついて現在のリョーマはひどく疲れたように肩を落とした。
「そんなことしてもらわなくても…。アンタが嘘吐いてないのはなんとなくわかる…
理由なんてないけど…
わけわかんないけどなんかわかるってこの感覚が、『相手が本当に自分だから、だから自分にはわかるって
ことなんだろう』って感じ、しますもん…」
「話が早くて助かるよ。」
「で、何しにこっちに来たんすか」
「先輩にももう話したけど…
俺が高校二年に進級してすぐ、部活から帰ったあとうちのベッドの上で手塚先輩が中三だったころのことを
なんとなく思い出しながら転寝して、で目が覚めたら中等部の正門の前にいた。
こっちに来た時の状況はそういう感じ。なんで来たかは、わからない」
「先輩のこと考えてたら…?マジすか…」
将来の自分が時間を超えて現れるほど手塚に執心しているらしいのが気に入らないのだろうか、現在の
リョーマはげっそりと項垂れた。
(まあ仕方ないよね…。俺だってこのころはまさか手塚先輩がこんなに大事な人になるとは全く思って
なかったし)
「で、どうやったら元に戻んの?」
「うーん…それも…
わかんない」
「そんな…」
「映画や小説じゃないんだからさ、そんな都合よく帰る方法を知ってるわけないじゃん…」
(ほんとは、もうわかってるんだけどね。
君が俺に感じている理由のない確信とたぶん似たような感覚で)
「それはそうだけど…
あ、そうだ。釘さしときますけど」
「何?」
「知っちゃうとつまんないから…
未来のネタバレ、一切しないで下さいよ」
「未来の…、ネタバレ…?」
そこで未来のリョーマははたと考え込む。
「どうしたんすか?何か喋りたい事でもあるんすか?あってもやめて下さいよ。蹴りますよ」
「いや…ないから安心してよ…
ちょっと待って、考えさせて」
「…どうぞ?」
(未来のネタバレ…?ちょっと待て。何か引っ掛かる…なんだ…?)
未来のリョーマが考え込んでいるそのとき、手塚が帰ってきた。
「待たせてすまない…
ん?どうしたんだ?」
手塚がじっと考え込む未来のリョーマを見て、現在のリョーマに小声で問い掛けた。
「なんかちょっと考え事したいみたいっすよ…」
「そうか…。ところで、俺が電話してる間、お前達二人で何か話したか?」
「話しましたよ…。いろいろと信じられない話を…
でも嘘だとはどうしても思えない話を…」
「そうか」
「あー、わかった。
大丈夫、俺には未来のネタバレ、出来ないよ」
「何のことだ?」
話がわからない手塚が未来のリョーマに尋ねる。
「今ね、こっちの俺に未来の話はするなって言われたんですよ。
それがなんか妙に引っ掛かって…
で、考えてみたんですけど」
「で?」
手塚が続きを促す。
「俺はね、中一のころこんな風に未来から来た自分に会った事はないんです。
もしかしたら現れてたかもしれないけど、少なくとも、俺は会ってない。
で、未来の自分に会ってないこの俺と、未来の自分に会うなんてめったにない経験したこっちの俺とが、
全く同じ未来を作るとは思えない。
だから、こっちの世界は時間が経っても俺がいる世界と全くは同じにならないと思います」
「お前が現れた影響で未来が違ってくるということか…?
…なるほど」
「なんか、おかしな世界にならなきゃいいけど」
現在のリョーマのその台詞に未来のリョーマは少しかちんときた。
(可愛くない…
なんで自分が昔生意気って言われてたかよくわかった…)
「まあとりあえずアンタが何喋っても俺達は全然気にしなくていいってことはわかりましたよ」
「うん、まあつまりそういうこと」
(でもよかった。喋っていい事と悪い事を考えながら喋るのは疲れるし…
これは俺も助かったな)
未来のリョーマは二人にわからないように、小さく安堵のため息をついた。
「で、俺達これからどうするんすか?」
現在のリョーマが、寄りかかっていた塀から億劫そうに体を離して二人を見上げる。
「お前が来る前に話していたんだが、とりあえず俺の家に行くことになっている」
「手塚先輩の…?」
「今朝早くから明日の夜遅くまで、祖父と両親は法事で田舎に帰っているんだ」
ここで手塚は一旦言葉を区切ってちらりと手首の時計を見た。
「…これから帰って家に着くころにはもう皆出かけた後だな…。
ちょうどいい。じゃあ、行こうか」
手塚に促されるままに歩き出そうとして、現在のリョーマは自分の体の異変に気づいた。
(あれ…?)
なんだか足がふらつく。手塚が目敏く気づいて振り返った。
「越前、どうした?」
「なんでもないっす…」
「なんでもない…?
なんだか、顔色が悪いようだが…」
「なんでもないっすよ!」
手塚が帽子を取って顔をよく見ようと伸ばした手を、現在のリョーマが振り払おうとしたその瞬間、現在の
リョーマは振り上げた腕の勢いにバランスを崩し、塀にぶつかってしまった。
「大丈夫か!?」
手塚は現在のリョーマが肩にかけているテニスバッグを下ろさせると、その小さな体を支えるように抱き
しめて現在のリョーマが塀にぶつけたところを擦った。
「……………すいません…
ちょっと…、頭痛くて………
大丈夫、歩けます……」
「無理はするな…」
「ほんとに、大丈夫ですから…」
「本当だな?」
現在のリョーマは手塚の胸の中で頷いた。
手塚は現在のリョーマの体を離すと、自分が下ろさせたテニスバッグを手に取り、未来のリョーマへ差し
出した。
「すまないが…、運んでもらえるか?」
「構わないすよ」
「…すんません」
「気にしないで。自分が困ってるのをほっとくわけにはいかないでしょ」
そう言って未来のリョーマが笑うのに、現在のリョーマも辛そうにだがどうにか笑顔を作ってみせた。
(…自分で言うのもなんだけど、体は丈夫な方なのに…
なんで急に…
それに昔のこの日、俺は普通にテニスをしていたはずだ。体におかしなところなんて、何も…)
手渡されたテニスバッグを未来のリョーマが背負うのを待って、手塚が口を開いた。
「じゃあ、行こう。
越前、辛くなったらいつでも言うんだぞ。お前ひとりくらいならいつでも背負えるから」
「…それは遠慮します」
現在のリョーマは苦笑してぶっきらぼうにそう答えると、少し危なっかしい足取りで歩き出す。
手塚も、いつよろめいてもしっかり支えられるように、その隣りにぴったりとくっついて歩き出した。
(…なんか俺が何もしなくても結構いい雰囲気じゃん…
俺、いきなり向こうに戻っちゃったりして…)
前を歩く二人を見てそんな事を考えながら、未来のリョーマも歩き始めた。
続く→
(04/09/19)
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