(戻らなかった…。やっぱり試合しないとダメなんだな、きっと)
結局未来のリョーマは突然この世界から掻き消えて元の世界に戻ることなく手塚の家に到着した。
食堂に通され、テーブルについた三人は手塚の用意したお茶を飲むなり誰からともなくため息をつく。
道中何事もなく落ち着ける場所に到着した安堵と、これから先の不安が入り混じった深いため息を。

「…さて、これからどうしたものか…」
手塚は二人の顔を交互に見た。そのとき未来のリョーマがおずおずと手を上げた。

「…手塚先輩、すいません…」
「何か元に戻る方法でも思いついたか?」
手塚が真剣な面持ちで身を乗り出す。

「…や、あの…
そんな顔されたのにこんなこと言うの申し訳ないんすけど…
すいません、何か食べさせてもらえます?
あと…風呂にも入らせてもらえると嬉しいんすけど…
俺、学校から帰ってきてすぐこっちに来たんで…」
「…あ、ああ、そうか。そうだったな…」
「…すいません」

「いや、いいんだ。
そうだな、今から風呂の用意をすると沸くまでに少し時間がかかるから…
先に食事にするか?」
「あ、出来たら先に風呂入りたいんすけど…
シャワーだけ貸してもらえません?」
「わかった。じゃあその間に食事の用意をしておく」

そう言って手塚は立ち上がった。
「風呂場はこっちだ」
「はい」
未来のリョーマも席を立ち、二人は食堂を出た。

手塚は風呂場のドアを開けると、未来のリョーマを中に入れた。
「ここだ。タオルと着替えは今持ってくるからお前は先に風呂に入ってろ。
それから下着はそこの洗濯機の中に入れておけ。後で洗濯するから」
「はい」

手塚は扉を閉め、着替えを用意するために自室に上がる。
(俺も着替えるとするか…)
部屋に入った手塚は自分も手早く私服に着替えると、必要なものを持って風呂場に戻った。
「ここに置いておくからな」
「はーい」



「越前、お前はまだ食事はいいな?」
食堂に戻ってきた手塚はエプロンをつけながら、現在のリョーマに尋ねた。
「はい」
「お茶は?」
「あ、じゃあ、おかわり、いただきます…」
「わかった」
手塚はポットから急須にお湯を注ぐとテーブルの側まで来て湯飲みに茶を入れた。
「どもっす…」

「…朝の残りのご飯と味噌汁があるからそれを温めなおして、それと…」
台所にあるものを確認しながらてきぱきと食事の仕度を進める手塚の後姿を、現在のリョーマはしばらく
ぼんやりと眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「…先輩」
「…なんだ」
手塚は動かしている手を止めずに返事をする。

「もし、あの人が昼間のうちに自分のところに戻らなかったら…
ここに泊めるんすか?」
「そのつもりだが」
「…俺も、一緒に泊まっていいすか?」
手塚が手を止めて振り向いた。

「…え」
「…だって、あの人の事、気になるし…」
手塚は点けていたコンロの火を消すと、今度は体ごと現在のリョーマの方を向いた。

「そうだな…
俺も、お前にそうしてもらえればと考えていた。
…たぶん、俺よりもお前のほうが、あいつの事をわかってやれるだろうから…
自分自身だからな…。あいつが気づかない事でも、お前は気づくかもしれない。
お前達二人で考えたら、何か、元に戻るヒントが見つかるかも…」

(あー…、さっぱりした。
いくら水道で顔洗ってもタオルで体拭いてもシャワーの気持ち良さにはかなわないよね)
未来のリョーマは手塚に用意してもらった長袖のTシャツとジーパンを身につけて、片手に制服を抱え、
もう片方の手にタオルを持って、それで濡れた頭を拭きながら風呂場を出た。

(何か話し声がする…)
なんとなく忍び足で食堂に近づき、ドアのガラスに自分の姿が映らないように注意しながら中の二人の
会話に聞き耳を立てる。

「…そうかな」
(俺が助けになるなんて、そんな風には、思えないけど)
現在のリョーマは憂鬱そうに目を伏せた。

「あ、でも越前。
お前、体の具合はいいのか?ここに来るまでの間、少しふらついていたが」
「…平気っす。
座って休んだら落ち着きました」
「じゃあ、ここにいても大丈夫だな?」

「…大丈夫ですけど。
先輩、何でそんなにあの人のこと心配するんすか?
て言うか別に俺あの人を助ける為にここにいるんじゃないですから。
あの人がどうなるか気になるだけですから。
そんな風に俺が残るからって安心したようにほっとされても俺、困ります」
「俺は、別に…」

「…俺が残ることが先で、俺の具合が悪いことは後に言うし…」
「先に泊まると言い出したのはお前じゃないか」
「それはそうですけど、そういう問題じゃなくて!」
「じゃあ、どういう問題なんだ!」

「…それは」
「…俺が、お前から泊まると言いだされたとき、すぐにお前の体の具合を心配してみせれば良かったという
ことか?」
「……………」

「越前。お前とあいつとどっちが大変な状況なのか、少し考えればわかるだろう?
俺がお前の事ばかりを心配しなかったのはそんなにいけないことなのか?」
「…いけなくはないけど…」
「じゃあ、もういいだろう」

(先輩が自分の事以上に俺の事を心配するのが気に入らないんだ…
このころはまだ、先輩に対してかなり素っ気なくしてたはずなのに、ずうずうしいなあ俺…)
未来のリョーマは苦笑する。

(…せっかくだから、試合以外のところでも出来るだけヤキモチ焼かせておこうかな)
そうした方がこちらの自分の中にある手塚に対する気持ちが、彼の中でよりはっきりするだろうと未来の
リョーマは考えた。
そしてがちゃりと食堂のドアを開ける。

「…先輩、風呂、ありがとうございました」
その声に中の二人がぴくりと体を震わせる。動揺を隠すように手塚は大袈裟な動作で未来のリョーマの方へ
顔を向け、ぎこちなく笑みを作った。

「あ、ああ…、いや…
夜はちゃんと、沸かすから…」
「ありがとうございます。
あと、服。サイズぴったりです。助かりました」
未来のリョーマは嬉しそうな顔で手塚に笑いかけた。
その笑顔に手塚のぎこちなかった笑顔も自然に柔らかく綻ぶ。

「去年の服なんだ。処分せずに残していて良かった」
「へえ、先輩って中二でもうこれくらい身長あったんすね。
俺も早く伸びないかなあ」
和やかに会話する二人に、現在のリョーマがほんの僅か忌々しげに眉を寄せたのを、未来のリョーマは
見逃さなかった。
(俺と先輩のために、君はせいぜい悔しがってよ)



「…ご馳走さまでした」
手塚が用意したご飯と味噌汁と卵焼きをぺろりと平らげ、未来のリョーマはそう言って手を合わせた。
「…ああ」
「卵焼き、美味しかったです」
「…ありがとう」

(俺が食べてる間一言も口きかないんだもんこの二人…
わかりやすいなぁ…
あ…、やば)
「ふあ…
…っと、すいません…」
未来のリョーマは欠伸が出そうになったのを慌てて噛み殺した。

「…眠いのか?」
「…すいません、お腹がいっぱいになったら、つい…」
「…お前にとっては、学校から帰って風呂に入ってご飯を食べて、一番眠くなる時間だからな。
無理はない」
「…すいません、少し、寝かせてもらえますか…?」

「わかった。俺のベッドならすぐ横になれるが…
それとも客間に布団を敷くか?」
「先輩のベッド借ります…
ちょっともう、限界…」
そう言って今度こそ大きく欠伸をした。
「もう少し我慢してくれ。
ほら、上に行くぞ」
「…はい。
じゃあ、おやすみー…」

未来のリョーマはそう言って現在のリョーマに手を振った。
「…目が覚めた時、元に戻ってるといいですね」
「…そうだね」
(君が望んでも、そうならないけどね)



「越前、あんまり寝ると夜眠れなくなるから、適当な時間に起こすぞ?」
「あー…、そうっすね…
よろしくお願いします…」
「パジャマに…」
「いいっすよ、ちょっと寝るだけだしもうこのままで…」
未来のリョーマは自分の制服を無造作に床に置くと、もぞもぞと手塚のベッドに潜り込んでそのまま目を
閉じた。
手塚はそんな未来のリョーマの様子に呆れたようにはぁとため息を零すと、制服を拾い上げそれを丁寧に
畳んで箪笥の上に置いてある自分の制服の隣りに並べて置いた。
そして窓にかかっているカーテンを閉めておやすみ、と呟く。

(越前は、眠り込んで目が覚めたらこっちにいたと言っていた…
もしかしたら、起こしに来たときはもういなくなっているかもしれん…)
それならこちらに来たときに着ていた制服を着せて寝かせたほうがいいのか?と手塚は考えたが、こんな
眠りにくそうな服を着て寝ろというのも少し可哀相だなと思ってやめた。

(もし制服がなくなっても、未来の俺が越前にやるだろう。ちょうど卒業したところだし。
……それまでに俺の身長がどれだけ伸びているかにもよるが…)
元に戻る時の持ち物がどうだとか、そんな事を考え出すときりがないなと思い、とにかく今はゆっくり寝かせて
やろうと手塚は部屋を出た。



「越前…」
手塚が自室から降りてくると、現在のリョーマもテーブルに突っ伏して眠りこけていた。
「越前」
呼びかけて、肩をそっと揺らす。

「…っ、あ、な、なんですか?」
「…やっぱり、具合が良くないのか?
…家に戻るか?」
現在のリョーマは首を振った。

「今日はちょっと早起きしたから眠たいだけっすよ…
俺もちょっとあっちのソファで横になっていいすか?」
と、隣りの居間にあるソファを指差した。

「さっきのことは悪かった。
だから、体が辛いなら」
「本当に大丈夫ですから。じゃあ…」
立ち上がって移動すると、現在のリョーマもソファにころんと寝転がって目を閉じた。

「こら、上に何かかけないと…」
(風邪をひいてしまうぞ)
手塚は、客間の押入れから薄い毛布を引っ張り出してくると、現在のリョーマの体にかぶせた。

(顔色がまた悪くなっている…
あいつの事も心配だが…。越前の事も…
どうすればいいだろうか。やはり家に帰したほうがいいか…?)
しかし、丸くなって眠り込んでいるのを起こすのも可哀相だ。手塚はこちらのリョーマも今はとにかく静かに
眠らせておいて、しばらく様子を見ることにした。

(風呂掃除と洗濯と食事の後片付け…。今のうちに終わらせておくか…)



手塚は片付けと掃除を終え、最後に洗濯物を干して居間に戻ると、眠る現在のリョーマの顔を覗き込んだ。
先ほどよりはだいぶ顔色が良くなっているように見える。

(よかった…。やっぱりただの寝不足らしいな…)
赤みの差した頬にほっと胸を撫で下ろした手塚は、もう少し二人を寝かせておいてやろうと思いひとり掛けの
ソファに腰を下ろすとローテーブルの上の新聞を広げた。

(もうすぐ一時か…。そろそろ俺達も食事を…)
手塚は新聞を置いて昼食の用意を始める。そして出来上がったところで現在のリョーマに声をかけた。

「越前、そろそろ起きろ。
昼食を用意したが、食べられそうか?」
「…んん……、もうそんな時間すか…
あ…、うん、なんだかお腹空いたし…。いただきます」
「そうか。良かった」



二人で遅めの昼食を済ませた後、手塚は未来のリョーマを起こしに自室に向かった。
「入るぞ…」
静かにドアを開けてベッドへと歩み寄ると、まだ未来のリョーマはそこにいて、そしてまだぐっすりと
眠っていた。

(越前…
戻っていない…)

手塚は音を立てないようにゆっくりとベッドの縁に腰を下ろして、未来のリョーマの寝顔をしげしげと
見つめた。

(越前…、大きくなったな…
高校二年生のこいつは、どれだけ腕を上げただろう…
もう、今の俺より強いのだろうか…)

手塚は掛け布団からはみ出している未来のリョーマの左手を見る。
今よりひとまわり大きく、たくましくなっている手のひらが見えた。

(こんなときにこんな悠長なことを考えている場合ではないが…
試合が、出来たら…)
手塚は、しばらくじっと寝顔を見つめていたが、やがて未来のリョーマの肩にそっと手を置いた。

「起きろ」
「………」
「越前、起きろ」
「……んん……」
「越前、いい加減に起きろ」
「……んんん………」
「越前!」
「…っ!!」

「やっと目が覚めたか」
「…手塚、先輩…?
…………あ、ああ、そうか…、俺………」
「…ひょっとしたら、帰っているかと思ったが…
そうはならなかったな…」

「あー…、そうっすね」
「お前…他人事みたいに…」
「いや…、別に…
自分の事だってちゃんとわかってます、よ?」
「ならいいが」

「………」
「まだぼんやりしているようだな。
風呂場に洗面台があっただろう?そこにお前の分の歯ブラシを出してあるから歯を磨いて、ついでに
顔も洗って来い。タオルも出してある。」
「…あ、はい…」

「歯ブラシは青い歯ブラシだからな」
「はい…」
「終わったら食堂に来い。
…またここに戻ってきて眠るんじゃないぞ?」
「…はい」
未来のリョーマは目を擦りながらのろのろとベッドを出て階下に下りていった。



未来のリョーマが食堂に戻ってくると、現在のリョーマは残念そうに
「戻ってなかったんだ」
とぼそりと零した。

「戻ってなかったね」
と未来のリョーマはその言葉に苦笑交じりで答える。
「どうすんの?」
「どうしよう?」

「自分のことでしょ、ちゃんと考えてよ」
「…考えたらわかんの?
君は俺と同じ状況になったらあっという間に帰る方法を見つけられるっていうわけ?」
言いながら未来のリョーマはテーブルにつき、腕を組んで挑発的にふんぞり返る。

「でも考えないといつまで経ってもアンタ戻らないじゃん!」
ばん、とテーブルに手をついて現在のリョーマが立ち上がったところで手塚が割って入った。
「いい加減にしないか。お前達」

「…すいません」
(ちょっと可哀相な事したかな…。帰る方法、ほんとはわかってるのに…)

「………………」
(………俺は、悪くないのに)



「…俺達二人で昼食をとったときに、越前と話したんだが」
徐に手塚が話し始める。未来のリョーマはその続きを促すように小さく首を傾げた。

「今夜はうちに泊まるとして、明日以降は、越前の家でお世話になるのがいいんじゃないかと
いう事になった」
「…そうですね」
「…アンタも知ってると思うけど、うちには空き部屋がいくつかあるでしょ。
それに、うちの両親は、アンタのこと話してもきっとそんなにびっくりしないと思うし…」

「…あの人達ならそうだろうね。
でも今回ばかりはああいう親で、助かる」
「…でも。
やっぱり、俺はできるだけ早くアンタに、アンタの世界に戻って欲しい」
「…うん。ごめん」

「越前、あんまりこいつを…
ああ、同じ名前だとややこしいな…」
「あ、じゃあ俺のことはリョーマでいいっすよ?」
(えっ!!)
さらりとそんな事を言う未来のリョーマに現在のリョーマは内心ぎょっとした。

「い、いいのか…?そんな、呼び捨て…なんて…」
「別にいいっすよ?なんか変ですか?」
「いや、別に変ではないが…」
「じゃあ決まり。
俺のことはリョーマであっちは越前、でいいでしょ?」
「あ、ああ…」

(嫌だ…)
そんな間柄ではないのに、名前で呼ばれるなんて。
自分がそう呼ばれるわけではないと頭ではわかっていても現在のリョーマは釈然としないものを感じる。

「じゃあ、先輩、さっきの続き。
俺を…、なに?」
なんだか楽しそうな未来の自分の様子に、現在のリョーマは苛々してきた。

「あ、ああ…
越前、あんまり…そ、その………」
「ああもう!呼ぶなら呼べばいいじゃないすか!
変に恥ずかしがられると俺まで恥ずかしくなるんでやるならさっさとやって下さいよ!」
なかなか言い出せない手塚に現在のリョーマが早口で吐き捨てる。

「す、すまん…」
「いいですよ謝らなくて」
手塚はひとつ大きく深呼吸するとようやくその言葉を口にした。

「…越前、あんまりリョ、リョーマを追い詰めるな…
こんな事になって、一番大変なのは、リョーマなんだから…」
手塚は自分の言った事に赤くなって俯いた。現在のリョーマは苦虫を口いっぱいに噛み潰した気分になる。

(…名前で呼ばれるなんて…
…俺の事じゃないけど…この状況じゃ仕方ないけど…
…ああ、もう、そんな風に恥ずかしがられても、そんな風に名前を呼ぶのに緊張されても…
困る…
だって俺は、同じ状況になってもなんとも思わずに国光さんって呼べるのに…
アンタにばっかり、そんなに気を遣われても…
困る…!)

「…だって、早く帰って欲しいのはほんとのことだし」
「越前!」
ぷいと横を向く現在のリョーマを庇うように、未来のリョーマが口を挟んだ。
「…すいません、二人とも。俺、ちゃんと考えます」

(まずいな…。こんな風に二人を悩ませるつもりは…
本当の目的に支障が出ない程度に戻る方法を話した方がいいなこれは…)

「いいんだ。
…越前、お前も力になってくれるな?」
「…なるべく」
「越前…」
「…わかってますよ」
(でもだからってどう協力すればいいかなんてさっぱりわからない)
ここであからさまにため息なんてついたらまた手塚が怒って面倒だと、現在のリョーマは心の中だけで
盛大にため息をついた。



「…あの、俺、思ったんですけど」
未来のリョーマが口を開く。
「なんだ?」
「昔の事を思い出しながら眠って、起きたら昔の世界にいたって事は、やっぱり何かこっちに心が惹かれる
ものがあったからだと思うんです。
それが何かは、はっきりわからないんですけど…」

「…まあ、そう考えるのが一番妥当だろうな」
「だから、俺が、眠る直前に何を考えていたか、どういう気持ちになっていたか思い出せたら…
そして、それが何なのかわかったら…
そのとき考えていた事がどこかの場所の事なら、そこに行ってみるとか…
人の事なら、その人に会いに行ってみるとか…」

「ちょっと待ってよ。会うってのはいくらなんでもまずくない?」
「うん、だから遠くから姿を見るだけ」
「…とにかく、何かやりたいことがあったり、会いたい人間が居たかもしれなくて、でその目的を果たしたら、
お前は元に戻れるかもしれない…という事だな?」

「たぶん」
「じゃあ、頑張ってそれ思い出して下さいよ」
「そうしたいけど…
あの時は本当に、ただぼんやりととりとめなく考えてただけだから…
手塚先輩のことを思い出してはいたけど、それだけだったのか、他にも何か考えていたのか、そこら辺が
曖昧で…」
「…まあ、何かの拍子にふっと思い出すこともあるだろう。
ところで、越前には何か心当たりはないか?
部活から帰ってきて、疲れてうとうとしているときによく思い浮かべることは何かあるか…?」

「…何もないっすね。
いつもバラバラで…。その日の部活のことや…、その日にやらなきゃいけない宿題のこと…
昔の事なんて…俺は全然…」
「そうだな、年も違うし…」
「手塚先輩の事を思い出してたって事は、たぶん何か先輩絡みの事か、部活か…、テニスの事かだと
思うんですけど…
でもこれだ、っていう感じの事は、何も…
すいません…」

(嘘ばっかり。さすがに心苦しくなってきた…)

「じゃあ、ここで俺といれば思い出すきっかけが見つかるかもしれないな。
今夜一晩は家族もいないし俺達だけでゆっくり出来る。
気負わずに、リラックスして行こう」
「…はい」

手塚はそこでちらりと時計を見た。
「もう、三時か…
そうだ。夕飯の買い物がてら、三人で出かけないか?
もし、リョーマが…」
名前を呼んだ手塚も、呼ばれた未来のリョーマも、その名前で相手を呼ぶという行為にどこかくすぐったそうに
でも幸福そうに、ほんの僅か小さく微笑むのを見て、現在のリョーマは陰鬱な気持ちになった。

(…そんな、大事なものみたいに、大切そうに俺の名前を口にしないでよ。
俺はアンタの名前呼ぶときはきっとそうならないのに。
…アンタも、なんで嬉しそうにしてんの。
俺は、嬉しくなんかならないのに。
困る。
困る…なんか、どうしたらいいのかわかんなくて困る)

「…眠る時にどこか場所の事を考えていたのなら、外を見て歩くことでそれを思い出すかもしれないし」
「そうっすね」
「ああ…、そうだ、越前」
手塚が現在のリョーマの方を向く。

「…あっ…、なんすか?」
「どうしたんだ、ぼーっとして」
「な、なんでもないっす」
「ついでにお前のうちにも行ってみないか?
お前、着るものがないだろう?着替えを取りに…」
「あ、そうっすね…」
「ほんとにどうしたんだ、また具合が悪くなってきたのか?」

手塚が現在のリョーマの顔を覗き込んだ。
「…また、顔色が悪くなってきている…
熱は…」
手塚は立ち上がって現在のリョーマの側に寄ると、自分の手のひらを頬や額に触れさせてみた。

「よくわからないな…
リョーマ、すまん、あそこの戸棚の一番上に体温計が入ってるから」
「あ、はい」
未来のリョーマが手塚の指示で居間の戸棚の前に急ぎ足で向かうのを現在のリョーマはうつろな目で
見ていた。
(…なんで、自分じゃない自分が勝手に先輩と仲良くしてるんだろ…
俺は、好きとか嫌いとかまだ何も言ってないのに、勝手に…
もう、嫌だ、こんなの…)

「う…っ、げほ…っ」
リョーマは口元を抑えて噎せながら椅子から落ちて床に蹲った。
「大丈夫か!?越前!」
手塚も側にしゃがみこみ、現在のリョーマの肩を抱いて背中を擦る。
「…んん…っ、大丈夫です…」

(胃が痛い…、吐きそう…
でも、家に帰るのは嫌だ。俺の知らないところで俺じゃない俺が勝手に先輩と関わるなんて嫌だ。
先輩に俺の知らない俺の記憶が残るなんて、そんなの…そんなの…
嫌だ…)

「…越前、落ち着いたら、家に帰ろう。送るから」
「嫌です!」
きっと顔を上げて手塚の言葉に猛然と抗議する。

「…ちょっと、噎せただけですから…
大丈夫ですから。
先輩に迷惑かけませんから」
現在のリョーマは体を落ち着かせるように目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

「越前。もういい。あとは俺とリョーマで」
「嫌だ!!」
自分の肩を抱く手塚の手を振り払うように嫌々と体を小さく縮ませながら現在のリョーマは叫んだ。

「え、ち…」
「…嫌です。自分の知らないところでもう一人の自分が勝手に誰かに関わってるなんて…
そんなの…」
床に丸くなったまま顔を上げない現在のリョーマに未来のリョーマも戸惑った。

(………ちょっと、やりすぎたかな…)

「…ごめん。俺が君の立場でも、きっと嫌だ」

(…関わる相手が手塚先輩ならなおさら)

未来のリョーマは体温計を取り出すと静かに戻ってきて、しゃがむ手塚の手元にそっと置いた。

「先輩。俺、一人で出かけます」
「…でも」
「(一緒にいてあげて)」
声に出さずに口の動きだけで伝えられたその言葉に、手塚も声を出さずに頷きだけで答えた。


(豚肉、鶏肉、ごぼう、油揚げ、銀杏、椎茸、ちくわ、こんにゃく、レトルトのお粥、こっちの俺の分の
替えの下着、と…)
未来のリョーマは駅前のスーパーに向かう途中の信号待ちの間、手塚から渡された買い物メモに
目を通した。
(ああ…、俺は手塚先輩の下着でもいいけど、さすがにこっちの俺はチビで履けないもんね…)
すとんと下着がずり落ちるシーンが浮かんできて、思わずぷっとふき出す。

(それと…『何か気に入っている入浴剤があるなら買ってきても構わないぞ』か…
優しいなあ、先輩は…。
まあ俺のためもあるだろうけど、たぶんこっちの自分のためだろうな。
ひっくり返ってたし…)
愛されてるなあ、と未来のリョーマは小さく独りごちる。

(それでいいんだけど…。ちょっと寂しいような…
って俺も元の世界に俺の先輩がいるのにずうずうしい…)

可笑しくなって、苦笑する。

(会いたいなあ…)

信号が青に変わった。未来のリョーマはメモをポケットに仕舞って歩き出す。

(…それにしても、こっちの俺があんなにダメージを受けるなんて…)

手塚に対する気持ちを決めかねているのに、いきなり現れた未来の自分はどうも相当手塚の事を好いて
いるようだとすればそれは困惑もするだろう。
手塚に対する気持ちを急いではっきりさせなくても、手塚の方はいつだって自分に気持ちを全て捧げて
くれているはずだったのに、いきなり現れた未来の自分に気持ちが少しでも動いているのを見るのはそれは
不愉快だろう。
手塚と自分の関係は自分と手塚だけで作っていくはずだったのに、いきなり現れた未来の自分に将来の
二人の関係を勝手に匂わされるのは、有無を言わさず未来を決め付けられるようでそれは腹が立つだろう。

(…そういう風に仕向けてるんだけどね)

こちらの自分の不快な気持ちは自分にも良くわかる。自分自身のことだから。
(…でも、我慢してよ。
俺は、そんなに柔じゃないでしょ?)
吐き気を催して倒れるまで追い詰めたのは正直やりすぎたと自分でも思うが、でも手塚に対する気持ちを
今よりはっきりさせてもらわないと自分も困るのだ。

(…悪いけど、試合はさせてもらうよ)
試合は、こちらの自分には辛い事になるだろうなと未来のリョーマは思った。
未来の自分が負けたなら、手塚との縮まらない差に落胆し。
未来の自分が勝ったなら、誰よりも自分が倒したい手塚の負けるところをまた見るはめになる。

(…まあ、別に必ず決着をつけなきゃいけないわけじゃないし…
いい試合をしてこっちの自分に地団駄踏ませればいいだけだから…
途中でなんか適当に理由つけてやめてもいいんだけど…)

どうしようかな、と考えているうちにスーパーの前まで来て、そこでふと未来のリョーマは考え込む。

(…こんな経験またあるかわからないし、せっかくだから買い物は後にして少しうろうろしてみようかな…
先輩もあちこち見た方がいいって言ってたし、少しくらい帰りが遅くなっても怒らないでしょ)

未来のリョーマは踵を返して、なんとなく西に大きく傾きつつある太陽を追うように歩き出した。



「越前、大丈夫か?」
再びソファに横になった現在のリョーマに、手塚は胃薬と水の入ったグラスを差し出した。

「…平気っす」
「お前は…、俺とあいつが一緒にいたら、嫌か?」
「…別に先輩に限らず、俺の知り合いに俺の知らないところで会われてたら嫌です。
俺の知り合いが俺の知らないところで俺が知らない俺との思い出作ってたら気持ち悪いじゃないですか」

「…そうだな」
「だから、あの人がここにいるなら俺も一緒にいさせて下さい」
「…ああ」
「さっきは俺もちょっとわけわかんなくなってみっともなく醜態さらしましたけど…
もう大丈夫ですから」
「…わかった。
じゃあ、俺は客間の準備や他の事をしているから…
お前はここでゆっくり横になっているんだぞ?」
「…はい」

(…未来の自分が俺の前で先輩と何をしようが、今の俺と先輩の関係には関係ない。
あんなのに振り回されてたまるか)
現在のリョーマは渡された薬を勢いよく飲み干すと、ソファに体をうずめてきつく目を閉じた。

(…それにしても、あの人はいったいこっちに何しに来たんだろ…?
手塚先輩の事考えてたって言ってたけど…
…まさか…)




続く



(04/09/29)

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