八月も残り僅かとなったある日、九州から一人の少女が手塚を訪ねて青学テニス部にやってきた。
手塚が九州でとても世話になったというその少女は、自身も手塚と同じくテニスをする人間であるので、彼が
学校でどんな風に部活動をしているのか一度見てみたかった、だから夏休みの旅行で東京へ出てくることに
なったとき、すぐに手塚に連絡して見学の約束を取り付けたのだと話した。
休憩時間、『堅物部長の女性の知り合いってどんな子なんだろう』と部員達が手塚と少女の周りに興味津々
といった体で集まってくる。
九州で二人の間に何があったのか聞きたそうにしている部員の前で、彼女は喋った。
自分と出会ったときの手塚は、自分が部を導いて全国大会優勝を果たすという先輩との約束を、怪我のため
に果たせないかもしれないと非常に焦ってピリピリしていたこと。
聞けば時間はかかるが完治はすると九州で診てもらった医師から言われていたこと。
だったら別にそこまでピリピリしなくてもいいんじゃないかと思ったこと。
それでふっ飛ばされたこっちはたまらないと思ったこと。
身振りを交えて面白おかしく話す彼女に部員がどっと沸く。
その中でひとり、リョーマだけは何も言わずただ手塚を冷ややかな目で見ていた。
少女はまだ話し続けている。
初めて会ったときの手塚の印象はよくなかったが、自分もテニスをするのでテニスが出来ない手塚の辛さは
よく理解できたこと。
だから、その方面で高名な医師である自分の親を紹介し、怪我によく効く温泉等自分達が知っている限りの
情報を手塚に提供したこと。
親の見立てでは、こんなになるまで試合で酷使して、完治するだけでも御の字だったということ。
それでも手塚は必死になって怪我を治して東京へ帰っていったこと…
そして、同じテニスプレイヤーとして手塚のその姿に胸打たれたこと。
だから東京に出てくるときは手塚の部活動をぜひ見てみたかったこと。
ああまでして守りたい、約束の青学テニス部とはどんなものなのか見てみたかったこと。
あまり余計なことは話すなと少女をたしなめようとする手塚を、彼女は本当のことだと軽くあしらう。
堅物部長の旅先での色っぽい話を期待していた部員達は、彼女がどちらかというと男としてよりはテニス
プレイヤーとしての手塚に興味があるらしいことと、手塚自身も九州ではひたすら治療とリハビリに励んで
いただけで二人の間には何も起こっていないらしいことを知って少しがっかりしたが、でも何があっても変わ
らずテニス一筋の手塚も手塚らしいなと、内心苦笑したところで休憩時間はお開きとなった。
他の部員達と一緒に練習へ戻ろうと足を動かすリョーマの胸中に苦味と痛みが広がる。
リョーマは思う。
自分は、手塚にとって大和という人間がどういう意味を持つ人間なのか知っている。
特別な存在の人だ。
手塚の目の前に新しい世界を示した人。今までなかった可能性を示した人。だから特別な人。
自分にとっての手塚も同じ。
自分の目の前に新しい世界を示した人。今まで知らなかった可能性を示した人。だから特別。
自分が手塚に抱く気持ちと手塚が大和に抱く気持ちはきっと同じ。
だからわかる。
その人との約束を簡単に破ることなど出来ないのだと。
その人に託されたものを、全力で守りたくなるのだと。
自分が手塚と同じ状況になったら、きっと同じことを考えて同じことをするのだと。
(…俺だってきっと、部長との約束を守ろうと、必死に…)
だから腹が立つのだ。
自分の中の手塚への気持ちの大きさと、手塚の中の大和への気持ちの大きさはきっと同じ。
だから許せない。
その気持ちがどれほど大きいか、大切か、自分の身をもってよくわかっているから。
(…それでも、約束を守れない焦りや苦しさ以上に、俺とまたテニス出来ることを喜んで欲しかった…)
そうしてくれないことがどうしようもなく悔しい。
手塚にそう出来るはずなどないとわかっていても、手塚の中の大和への気持ちが消えないものだとわかって
いてもなお、どうしようもなく悔しくてたまらなかった。
(部長…)
ただひたすら、胸がきりきりと痛んだ。
(ムカツク…)
手塚は、練習に戻るために自分から離れコートへ向かうリョーマの後姿をじっと見た。
リョーマが自分と大和のことを面白くないと思っていることは知っている。
だから、彼女に九州でのことをあれこれ喋られてしまったときはしまったと思った。
あの話を聞いて、十中八九、リョーマは機嫌を損ねただろう。
でも、と手塚は思う。
完治すると判明した以上、その次に重要なのは『いつ復帰できるか』だ。
それについて考えて何が悪い?
そして、自分とリョーマは今はただの部活の先輩後輩であって、なんら特別な関係でもない。
大和と自分も然りだ。
嫉妬めいた感情を向けられる謂れなどない。
こちらがリョーマの機嫌を取らなければいけない謂れもない。
(…だいたい、何をどう詫びるというのか。
『お前のことだけを考えていなくて悪かった』?
まさか。
越前だって… アイツだって、俺のことだけをいつも考えているわけではない)
手塚の脳裏に桃城の顔が浮かぶ。
自分だって、リョーマが桃城に懐いているのを常々腹立たしく思っているのに。
しかもリョーマは、時折、手塚の気持ちをわかっていてわざとやっている節もある。
(…俺のほうから言うことなんて、何もない)
手塚は練習を始めるべくラケットを手に取った。
(…だが)
手塚が視線を向けた先にいるリョーマに、不二が何か話しかけている。
二人がネットのこちらと向こうに別れていくところを見ると、試合形式で軽く打ち合うようだ。
(気には、なる…)
しばらく観察していると、リョーマの動きはほんの僅かだがいつもよりも精彩を欠いているように見て取れた。
(やはり、気にしているのだろうか…
でも、だからと言って、いったい何をどう、言えば…)
わからない。
手塚はため息をついた。
「じゃ越前、行くよ!」
「ハイ!」
不二と打ち合いながらリョーマは思う。
(いつも、俺のことを物欲しそうな目で見てるくせに…!)
そのくせ、手塚は自分が一番欲しいと思っているものを差し出そうとはしない。
手塚の中の自分が一番欲しい場所には大和もいる。ずっと。
手塚がテニスをする理由に大和も関わる。ずっと。
(だったらせめて黙ってりゃいいのに…!
俺が大和部長のことどう思ってるか、部長は知ってるくせに…!)
あんな風に他人に思いを話さなくてもいいじゃないか。
あんな風に他人にはっきりわかってしまうほど思いを露わにしなくてもいいじゃないか。
(くそ…っ)
では、例えば手塚が大和のことなど彼の中から綺麗さっぱり消し去って自分を求めてきたら?
今度こそ自分が欲しいものを手塚から全て捧げられたら?
その時、自分は手塚の要求に応えられるのか?
(…応えられない)
だって桃先輩が。大好きな先輩が。
いるから。
だから、おそらく自分の全てを求めてきているであろう手塚には応えられない。
手塚を手放したくないと思う。絶対に。でもそこに優しい、温かい感情は欠片もない。
桃城を自分ひとりのものにしたいとは思わない。桃城が誰を一番大事にしても、それが彼の幸福なのだと
いうならそれでいい。
でも、それでも自分の中の優しくて温かい情は桃城のものだ。
(だから、俺はあなたの要求には応えられない)
応えられないから、自分も自分が差し出せるもの以外のものをあなたに要求しないから。
(だから、俺の望みを叶えてよ…!)
手塚に望むことは多くないのに。
ただずっと手塚に強くいて欲しい。強い手塚とずっとテニスがしたい。
(…俺とのテニスを、何より求めて欲しい…)
大和との約束ではなく。
自分とテニス出来る喜びだけ感じてくれたらよかったのに。
たったそれだけなのに。
(…それだけ、なのに。
でも俺はその『たったそれだけ』が無理なことも、わかってる…!)
自分が自分の中から手塚を消したくないと思うように、きっと、手塚も。
(…消すわけがないんだって、わかってる…!)
堂々巡りから、いつまでも抜け出せない。
「あ!」
いつものリョーマなら容易く追いつけるポイントを、不二の打ったボールがバウンドして跳ねていった。
「………くそ!」
「越前」
不二が、険しい表情でリョーマのほうへ歩いてくる。
「…なんすか?」
「キミ…
心ここに在らず、って感じだよ?」
間近から見下ろしてくる不二に、リョーマはいたたまれなくなって目を逸らす。
「…そんなことは」
「ない?そうかな?
僕にはそう思えないけど。
…練習相手を頼んだ僕のほうからこんなことを言うのは申し訳ないけど、今日はもうやめよう。
集中力の乱れは怪我に繋がる。
大事な後輩を怪我させるわけにはいかないからね」
「不二先輩、でも、俺は…」
不二は黙って首を振った。
「…わかりました」
「もうそろそろ練習も終わる時間だから、クールダウンしておいで」
コートを出るリョーマの背を見送って、不二もコートから出る。
しゃがんでバッグにラケットを仕舞っていると、頭上から手塚の声が降ってきた。
「不二、どうしたんだ?」
「手塚…
ちょっと待って。今仕舞っちゃうから」
不二は手早く道具を片付け、バッグのジッパーを閉めると立ち上がった。
「何?」
「越前と…、何か、あったのか?」
「………越前、テニスが荒れてた」
「…そう、か…」
「ねえ、手塚」
不二が手塚の目を真っ直ぐに見つめる。
「越前…、どうしたんだろうね?」
どうしたんだろうね?と問いかけているのにもかかわらず、不二は手塚が答えることを全く期待していない
ようだった。
ただ、そこから何かを探し出そうとするように、手塚の瞳をじっと覗き込んでいた。
「不二………」
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(05/09/12)
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