「あ、大石」
ふい、と不二が手塚の目から視線を逸らす。
「…え?」
不二の視線の向かう先を追って手塚も振り向くと、こちらに向かって走ってくる大石の姿が目に入った。
「おーい、手塚ー。
あっちで竜崎先生が、お前を呼んでる。
何か用事を頼みたいらしい」
「そうか。わざわざすまない」
「今日はもう練習を終わって片付けるだけだから、あとは俺がみんなに指示しておくよ。
手塚は、先生のところに行ってくれ」
「すまん。
………あ、大石」
(もしかしたら、必要ないかもしれないが…)
「ん?どうした?」
「いや…
先生の所の用を済ますのにどれくらいの時間がかかるかわからないから…
今日は、部室の鍵を俺に預けてくれないか?」
「でも…、特に時間がかかる用事だとかは先生言ってなかったけど…
だから、すぐ済むと思うよ?
俺、待ってるから」
「駄目だ。いつもお前にばかり面倒をかけられない。
頼む」
「…そうか?
なら、今日と明日の朝、頼むな」
「ああ」
大石は自分のバッグの中から部室の鍵を出して手塚に手渡す。
手塚はそれを受け取るや否や、後は頼むとだけ言い残して走り出した。
「そんなに、慌てなくても…
どうしたんだろう?」
不思議そうに大石は首を捻る。
「…さあ、どうしたんだろうね?」
不二は、大石にわからないようにごく小さく笑うと、黙ってただ小さくなる手塚の背中を見つめていた。
「…っと、練習終了の号令をかけないと…」
大石がてきぱきと部員達に指示を出す。
二、三年生は部室に引き上げ、一年生はコートの後片付けをし始めた。
竜崎が手塚に頼みたい用事とは、少女を正門まで見送ることと、そのあと職員室に書類を取りに来て欲しい
ことの二つだった。
駅までではなく正門でいいのかと問うと、正門のところで親と待ち合わせしているから大丈夫なのだと少女は
答えた。
手塚は彼女を正門まで送っていき、待っていた彼女の両親と挨拶を交わす。
すっかり体の具合もよくなって、夢だった全国制覇も果たした手塚に、二人は大変嬉しそうだった。
桃城は混雑している部室の中で、うっかり近くにいる誰かに肘打ちを食らわせたりしないように注意を払い
ながらポロシャツを脱いだ。
「あー、暑ー…」
「ねー桃ー。
帰りにみんなでどっか行ってなんか食べようかって話してたんだけど、桃も来るよね?」
すっかり着替えを済ませた菊丸が、裸の桃城の背中にまとわりつく。
「わー英二先輩!ぴったりくっつかれると熱いから!熱いからー!
離れて離れて!」
苦笑して体をよじる桃城に、菊丸は『してやったり』とでも言いたげな笑いを顔いっぱいに浮かべると、さっと
体を離した。
「ね。だから桃、早く着替えちゃいなよ」
「あー… スイマセン。
俺今日越前に渡さなきゃいけないもんあるんで…」
CD貸す約束してるんすよ、と桃城は言う。
「そうなんだ…
うーん…
待っててあげたいけど…
俺今すげーおなか空いちゃってるんだよね…」
菊丸がむむーとうなって考え込む。
「じゃ、俺と越前はまた今度、ってことで」
「ごめんね。桃」
「いえいえ」
ばいばい桃ー、と、菊丸が大石達を引き連れて出て行くと、部室の中は急にがらんとなった。
(片付け終わって戻ってくるまでもう少しかかるかな…)
既にほとんどの部員が帰っていって、広く感じる部室の中、桃城はのんびりとシャツを羽織った。
一年生達がコートの片付けを終えて部室に引き上げようとしたところに、リョーマのクラスの図書委員だと
いう女子生徒がやってきた。
図書委員の仕事について、リョーマに伝えたいことがあるのだという。
「わかった。何?」
立ち止まって話し出そうとするリョーマに、堀尾達は口々に『先に行ってるから』と声をかけ、部室へと歩いて
いった。
「おー、堀尾ー。
越前は?」
「あ、桃先輩。お疲れ様っす。
越前なら、クラスの図書委員に委員会の仕事のことで話があるって捕まっちゃいましたよ」
「…そっか」
「急ぎなら、俺呼んで来ますけど」
「いや、いい。
…待ってる」
桃城はベンチに腰を下ろすと、喉を反らせて窓から夕方の空を見上げた。
図書委員の女子生徒は、リョーマに自分の手帳を広げて見せながら、仕事のことについて説明した。
「あ、じゃ、俺達の図書室当番、時間が変更になったんだ?」
「そう。だけど出てくる日に変更はないから」
「うん」
「あと仕事の割り振りが微妙に変わった。
これはまた当番で会ったときに詳しく言うね」
「うん。
あ、わざわざ知らせに来てくれてありがと」
「どういたしまして。
今日はアタシも部活で学校に来てて、そのとき先生に言われたの。
で、越前くんなら電話よりテニス部来たほうが早いと思ったから」
「…そう」
「じゃ、またね」
バイバイと手を振って女子生徒が正門のほうへ駆けていく。
リョーマはひとり、その場に取り残された。
誰かと話したり、一緒に何かしているときは心の中から追いやることが出来ても、こうして独りになった
途端、すぐにじわじわと苦々しい気持ちがこみ上げてくる。
(………考えたところでどうにもならないし、どうにもしようがないのに…)
相手が自分に求めているものと、自分が相手に差し出せるものが一致していないのだから。
自分が相手に求めているものと、相手が差し出そうとしているものも、一致していないのだから。
だから考えるな。だから考えるな。
でも、いくらそう思おうとしても、こみ上げてくるものを抑えられない。
(………振り切りたい。何もかも)
自分を動揺させて、立ち竦ませてしまう思いなど。
(立ち止まりたくない。たとえ苦しくても)
強くなれば、もっと強くなれば、今度こそ手塚は自分とのテニスを何よりも求めてくれる…?
リョーマは、重い足取りで歩き出した。
手塚は、三人が角を曲がって見えなくなるまで見送りをしたあと、急いで職員室に向かった。
(…思っていたより、話し込んでしまったな。
一年は片付けがあるからそんなに早く帰りはしないだろうが…
…あまりぐずぐずしてもいられない)
水道の蛇口を全開にして、リョーマはバシャバシャと顔に水を叩きつける。
どれだけ自分の怒りや苛立ちが正当なものではないとわかっていても、それでも今日、ふいに突きつけ
られた『自分が手塚を思うほど、手塚は自分を思っていない』という事実がリョーマの心を暗く曇らせる。
その曇りは、いくら冷たく澄んだ水の力を借りて洗い流そうとしたところで、全然流れ落ちてはくれないの
だった。
(………くそっ…!)
キュッときつく蛇口を閉めると、リョーマはごしごしとタオルで顔を拭った。
「お、越前?」
すぐ近くから名前を呼ぶ声が聞こえたので、リョーマは顔に押し当てていたタオルを下ろした。
目の前に荒井と林、池田が立っている。
「先輩…
お疲れ様っす」
リョーマはぺこと頭を下げた。
「あーお疲れ。
ところで、部室で桃がお前待ってるけど。
なんか約束でもしてたんなら、早く行ってやれよな?」
「桃先輩が…?」
リョーマは思い出した。
(そういえば、俺が貸してって頼んだCD、そのうち持ってきてくれるって言ってたけど…
今日持ってきてくれたんだ)
「…すいません。
すぐ行きます」
「ああ、じゃーな」
手塚は、職員室で竜崎から書類を受け取り、それについて二、三説明を受けたあと、急ぎ足で部室へ
向かった。
(越前が大和部長に対してどういう気持ちを持っているのか、俺は知っていたのに…
アイツが腹を立てるのも無理はない。
…でも、そういうつもりでは、なかったんだ………)
自分にとって、大和との約束だけが大事だと、あのときそんな風に思っていたわけではない。
それを、リョーマに直接話したいと手塚は思った。
(今日はもう話せなくても、せめて話す約束だけでも…
…それに…)
(…それに、俺が大和部長のことを考えていたというだけで、あれほどのダメージを受けるなんて)
不二とまともに試合出来なくなるほど。
嫉妬しているのか。自分と大和のことに。あのリョーマが。
…悪い気分では、ない。
自分は求められているのだと感じられて、手塚は胸が躍った。
リョーマが走って部室へ向かう途中、すれ違った堀尾達からも荒井と同じことを言われてしまった。
ずいぶん長く桃城を待たせていたのだとリョーマは青くなる。
慌ててドアを開けた。
「も、桃、先輩…?」
「おお越前。遅かったなー」
桃城は嬉しそうに笑うと、『ほら、これ。約束してたヤツ』と手にしたCDをリョーマに見せた。
「すいません…、待たせて…」
まだ少し肩で息をしているリョーマに、桃城はいいからいいからと笑った。
「かまわねえって。
委員会の仕事だろ?なら仕方ねえよ。
それに俺も今日持ってくるってお前に言ってたわけじゃねえし。
俺が待ちたくて待ってたんだし。
気にすんな」
「…桃、先輩……」
桃城の明るい声に、笑顔に、リョーマは自分の心の中の曇りがなくなっていくのを感じた。
自分はやっぱり桃城のことがたまらなく大好きなのだと思う。
桃城が、自分のために物を持ってきてくれて、待っていてくれて、笑ってくれる。
ただそれだけでこんなにも満たされてしまう。
(…俺だって、手塚部長を欲しがりながら、桃先輩のことを大事に思ってる…
桃先輩から優しくされただけで、こんなに嬉しくなってる…)
やはり、大和のことで手塚に嫉妬めいた苛立ちをぶつけるのは、自分勝手な我侭でしかないと思った。
同じようなことを自分もしているくせに、自分の行動は改めないで、相手の行動だけを非難するなんて、
あつかましいにも程がある。
「越前?」
黙って突っ立ったままのリョーマに、桃城は怪訝そうに首を傾げた。
「…あ、なんでもないっす。
桃先輩、CD持ってきてくれてどうもありが」
「越前。お前ちょっとこっち来い」
リョーマが礼を言いかけるのを遮って、桃城がとんとんとベンチの上を叩いた。
こっちに来て自分の隣に座れと言いたいらしい。
リョーマはおとなしく桃城の側に行って腰を下ろした。
「今日、練習中、お前ちょっと変だったぞ?
不二先輩との練習も、途中でやめさせられてたみたいだし…
どっか具合でも悪いのか?
…それとも、何か悩みでもあんのか?」
桃城は心配そうにリョーマの顔を覗き込んだ。
(桃先輩…)
ああ、この人のこういうところがとても愛しくてたまらないのだ、とリョーマの心は震える。
聡いところが、理解しようとしてくれるところが、思いやりを見せてくれるところが、とても。
「…越前?」
「…気にしていたことなら… ありました。
でも、それはもう解決したんです」
(…もう、考えてもどうしようもないんだって、そう答えが出てるから)
「ほんとか?
でもお前…
顔、強張ってんぞ?」
桃城はリョーマの帽子をひょいと取ると、リョーマの頬に手のひらを当てて、顔がよく見えるように軽く
上向かせる。
「桃先輩の手…
あったかいっすね…」
頬に触れている優しい感触にリョーマは急に切なくなって、目を閉じた。
…この、大好きな先輩に、優しい先輩に、何もかも全て捧げられたら。
でも、自分がテニスをやり続ける限り、自分はどうしようもなく手塚を欲しがってしまうのだとも、リョーマは
わかっていた。
だから自分は桃城を欲しがれない。
自分の全てを捧げられないのに、相手の全てを欲しがるなんて出来ない。
「おいおい…
お前、ほんとに大丈夫かー?」
リョーマはゆっくりと目を開けると、いつもの不敵な笑みを作って、言った。
「ほんとに大丈夫っす。
ありがと、桃先輩。心配してくれて」
「そうか…?
なら、いいんだけどよ…」
桃城も安堵して微笑む。
リョーマは、触れたままの桃城の手のひらにそっと自分の手を重ねて、頬から離そうとした。
そのときふいに桃城の視線がドアのほうへ動いた。
「…まだ、誰かいるか?」
声と共にドアが開いて、手塚が入ってきた。
後編へ→
(05/09/16)
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