だぶるえっくす

*2千HIT記念作。本作はYouさんに捧げます。

作:しにを


 目覚めはいつだって唐突だ。  眠っている最中に起きるぞ、起きるぞと準備万端の上で機を覗うような真似はできないし、 半覚醒のうとうとの間も目覚めた瞬間というのは無自覚の内に存在している。  今朝はぱちりと目が開いたものの、長く眠りすぎた後のように後頭部が痺れてぼんやりとし ている。  学校行かなきゃなあ。  伸びをしつつ上体を起こす。  ベッドの横に人の気配がある。  いつもの「おはようございます」という声が無いな、と思いつつこちらから声をかける。 「おはよう、翡翠。それに琥珀さんに、秋葉に、シエル先輩、アルク……」  ちょっと待て。  なんで朝っぱらからこんな面々がベッドの横に勢揃いしているんだ? 「何だ、どうしたんだ、一体」  俺が言葉を発したと同時に、ぱっと笑みを浮かべる者、泣きそうな顔をする者、難しい顔を する者。  何か尋常じゃない事態のようだ。  そしてどうやらそれは俺に起因しているらしい。  何だ、どうしたんだろう。  寝る前に何か……、うん? 思い出せないな。  何かあったような気がするんだが。 「兄さん」  だんだんと不安を露にしている俺を見てか、秋葉が口を開く。  ちなみに、秋葉は翡翠と共に泣きそうな顔をしていた。悲しみではなく軽い安堵の表情……? 「どうしたんだ、秋葉。俺に何かあったのか?」 「はい。その、何と言うか……」  口火は切ったものの言いよどむ。  秋葉がそんな煮え切らない態度を取っている事に、さらに心に暗雲が広がる。 「どうしたんだ。秋葉らしくないな。俺に何かあったのなら、教えてくれよ。特にどこか痛い とか苦しいとかもないし……」  おや、頭に何か引っかかる。何だ……?  それに何か会話に違和感がある。何だろう。 「秋葉さま……」  琥珀が口を挟む。  秋葉に何かを渡す。 「ありがとう、琥珀。そうね、こちらの方が……」  秋葉が覚悟を決めた様相でこちらを見る。 「兄さん、これをご覧になって下さい。あの、驚かないで下さいね……」  柄のついた丸い木製の……、手鏡?  おそるおそる覗き込む。  いったい何が……。  顔中に斑点でも浮かんでいるのか、角でも生えたか……?  そこには……。  ?  何だ、特に変な顔は無いじゃないか。  髪の長い女の子の顔。  ちょっと顔を曇らせているけど、笑えばもっと可愛らしく見えるだろう。年の頃は俺と同じ くらいだろうか。  ………………ちょっと待て。  これ、鏡だよな。  それで写っているのが、女の子の顔と言う事はだ……。  と言う事だよな。  いや、待て。慌てちゃいけない。 「なあ、秋葉?」  すがる思いで秋葉の目を見つめる。  でも、気づいてしまった。さっきの違和感の元。  俺の声、普段と違う。自分の声だから分かり難いが、これは男の声では無い。少なくともい つもの俺の声と違う。  はたして、秋葉も俺の目を正面から見て重々しく頷く。 「兄さんは今、女性の姿になっています」  助けを求めるように、黙って兄妹のやり取りを見守っていた面々に顔を向ける。  だが、翡翠もシエル先輩も琥珀さんもアルクェイドも困ったように俺を見るだけだった。  ぷちんと頭の中でヒューズが飛んだ。  すっと意識が安息地たる空白へと逃げ込む。  だが、今の衝撃で脳裏から消えていた目覚める前の出来事が浮かんできた。  そうだ、たしかあれは……。   ・   ・   ・ §  §  §  何がきっかけだったか。  確か秋葉に「兄さんはいつも同じような服ばかり着て」とか文句を言われて、そこからああ だこうだとやりとりがあって、それで……。  そうだ、持ってないんだから仕方ないだろうとか言って話を打ち切ろうとしたら、こういう 事になったんだったっけ。  隣町の高級洋品店。   そこに場違いにもお客様としているのだ、今。  いや、遠野家の当主とそのおつきの者がご来店となれば、そうおかしくないのかもしれない。  でも、貸し切りってのは何なんだ。  白髭をたくわえた店長自ら秋葉を恭しく出迎え、何の不思議も無く1階の紳士服フロアを閉 めてしまった。  訊ねられない限りはうるさくお客様の邪魔をしないという方針か、従業員もいつの間にか姿 を消している。  ようは、着た切りスズメ同然の兄の為に、可愛い妹が服を見立ててプレゼントしてくれると いう趣向らしいのだが……。 「兄さん、何をぼおーっとしているんです。どうでしょう、こちらのコートは。少し明るめで 兄さんに似合うと思うんですが」 「ええっ、志貴はもっと落ち着いた黒系統の方がいいと思うなあ」 「いえ、もう少しラフな活動的な感じのほうが似合いますよ。格好だけでもそう装えば中身も 伴います」  ああでもないこうでもないと選んだ服を、アルクェイドとシエル先輩に否定され、秋葉が二 人を睨みつける。 「それより、このポロシャツどうですか、遠野くん」 「そんなの兄さんに似合いません」 「あ、シエルにしてはいいの持ってきた。でも色がダメ。センスないなあ」 「どこがダメだって言うんですか」  いや、だからさ、何でアルクェイドとシエル先輩がここにいるんだ?  気がついたら、三人してズホン、シャツ、コート、マフラー、スーツ、夜会服と統一感の無 いことおびただしい、とにかく「兄さんに」「志貴に」「遠野くんに」似合う服を手当たりし だい持ち寄って来ては他の二人にケチをつけられる、というのを繰り返していた。  それでも幾つかは他の二人のしぶしぶの賛意を得て、お買い上げ用として積まれている。  いったい何をいくつ買うつもりなんだ……。  どれもセンスの良いものなのは確かなんだけど。 俺に似合うのかどうかは別にして。  少々うんざりして、その喧騒から離れる。  いつもの騒ぎではあるが、学校、屋敷、街中、と処選ばずになっていると、少々嫌気もさし てくる。  皆、悪気はないだけに始末に終えない。  アルクェイドにしてもシエル先輩にしても、妹ではあるが秋葉にしてもどこにいても抜きん 出て目立つほどの美少女だ。彼女らに多少なり好意を持たれてあれやこやと構ってもらえる状 態というのは、傍から見れば羨ましい立場なのかもしれない。でも時々全て捨てて逃げたくな る事もある。  一人ならともかく複数ともなるとハーレム状態だなどと呑気に喜んでいられない。  おまけに3人ともおよそ尋常なカテゴリーにいないキャラクターであるし……。    はあ、と溜息をついてふと、翡翠と琥珀さんの姿が見えない事に気がついた。  そう言えばどうしたんだろう。  秋葉共々この店に来たのに。  広い店内を見回しながら、歩き回る。  いないなあ。  と、ナイトウェアのコーナーにしゃがむ様にして二人でいるのを見つけた。 仲良く並んであれこれ話をしている。  向こうとは正反対の和やかな雰囲気。  自然とそちらに足が向いた。 「何を選んでいるの?」 「あ、志貴さん」 「志貴さま……」  琥珀さんが振り向いてにこりと笑い、翡翠は少し顔を赤らめる。  見ると幾つかパジャマが並べられている。 「パジャマ?」 「ええ。翡翠ちゃんが、……いいじゃないの、別に恥ずかしい事じゃないんだから」  翡翠が服を引っ張るのを、琥珀さんは気にせず続ける。 「志貴さんのパジャマを選びたいって言うので一緒にあれこれと」 「そうなんだ」 「はい。もうすぐ寒くなってきますからもう少し厚手の暖かいものをお召しになった方が……」 「そうだなあ、冬になると今のじゃ寒いよなあ」  毎朝起こしに来てくれるだけあって、良く気がつくなあ。 「どんなの選んでたの?」 「これなんか如何でしょう」  琥珀さんと翡翠で一つだけ別に置いてあった寝巻きを広げて見せてくれた。 「ふーん。シックな感じでなかなか良いね。それに暖かそうだ。肌触りも……」  袖に手を通してみて裏地の感触を確かめる。  うん、着心地良さそうだ。  ん? これが値札か。  どれどれ、品が良いからそれなりの値段なんだろうけど。  …………。  寝巻きだよね、これ。  普段学食でカツ丼を頼もうとして「か」でためらって結局蕎麦などすすっている身には信じ られない桁の数が並んでいた。  これなら、カツ丼だろうが、B定食だろうが気にせず毎日食べられるよ。それも半年くらい。  値札にびびっている俺を見て琥珀さんは「分かってます」という風にニコニコしているが、 翡翠は……、高い安いとかまったく気にしていないな、これは。  俺が気に入ったと見て、少し微笑んでいる。 「気に入っていただけたなら、私と姉さんでプレゼントしようかなと……」 「ダメだよ」  間髪入れず拒絶した俺の言葉に、嬉しそうにしていた翡翠が意気消沈する。  暗く視線を落とした翡翠に慌ててフォローを入れる。 「いや、そうじゃない。凄く気に入ったんだ。でも、こんな高いものおいそれと……」  顔を上げた翡翠は不思議そうな表情を浮かべている。わかってないな、やはり。 「高いのですか?」 「それはもう。信じられないくらい……」 「あ、志貴さん。気になさらないで下さいな。私も翡翠ちゃんも現金は持ち歩きませんけど、 けっこうお給金とかで貯金も多いんですよ。カードもありますし」  ほら、と言う様に琥珀さんがクレジットカードを見せてくれる。  意外だ。  でも、確かに翡翠なんかは基本的に家にずっと居て何か買い物したりする事はほとんどない だろうし。 「だから、遠慮せず受け取ってくださいな」 「姉さんの言うとおりです」  お願いしますという風に二人の視線が語っている。  これは、断れないな。  ありがたく好意を受け入れよう。お返しは後で考えるとして。 「ありがとう、嬉しいよ。でも普段世話になっている俺がプレゼントするんならともかく逆じ ゃないかなあ」 「いいじゃないですか。あ、でもまだ全部見てないんでもう少し選ばせてくださいね」 「気の済むまでどうぞ」 いいのかなあ、と言う思いを抱きながら、背を向けてショーウインドウから外を眺める。 少し奥まった処にあって、目の前の車道を車が飛び交うようなことは無い。 静かな雰囲気の処だ。 見える車など、横手の坂に止まっている大きなロードローラーくらいのものだ。  随分大きいものだなあ。  工事自体は休止しているのか、人影も無くただ止まっている。  でも、なんか動いていないか、あれ。  ……間違いない、動いてるよ。  って事は、坂を下って激突するな、ここに。  ……。  とか呑気に考えてる場合じゃない……。  弾みがついたのか、ロードローラーはスピードを上げている。  ガラス越しでありながら、迫力ある重量感。  すぐ後ろには翡翠と琥珀さんがいる。  考える前に体が反応していた。  眼鏡を外し、七つ夜を手にする。  無造作にガラスに穴を開けて外へと踊り出る。  そのまま、巨大なロードローラーを迎え撃つ。  しかし、相手が生き物ならともかく、単なる巨大な鉄塊である。  ばらばらに分割するのも骨が折れるし、出来ても運動エネルギー自体を殺す事はできないか ら、そのまま滑り落ちて店に激突するのは防ぎ切れないだろう。  一瞬躊躇し、答えを見出した。  ロードローラーと自分の間の地面を見つめる。  そして縦に横に、刃を走らせた。  どうだ?  ロードローラーがその地点に触れる。  みし、と言う音がする。  ついでピシという亀裂の走る音。  アスファルトの地面を、その下の地面の結合を出来うる限り殺した。  ローラーの重みに耐え切れず、地は裂け、陥没する。  上手くロードローラーがそこに沈んでくれれば……。  駄目なら後は、何百、何千にもこの鉄塊を切り刻み、分割して少しでも無力化する。  轟音と共に、地面に沈みながらロードローラーは動き……、その巨躯を止めた。  ほっと溜息をつき、一歩前に近づいた時、足元が崩れ落ちた。 「しまった」  殺しすぎた為か、足元の地盤も影響を受けていたのだ。  腰の辺りまで、亀裂にはまった状態。  何とか足を抜こうと四苦八苦している時、ふっと影がさした。  より低い場所に向かってロードローラーが転がって来ていた。  逃げる事も出来ず、周りの土と共に足が圧迫された。  そして、そのまま動けぬ俺を押し潰す様に迫り、僅かな抵抗はしたものの大勢には影響を与 えられなかった。  体の大部分を押し潰され、遠野志貴は意識を失った……。  そして、己の死を受け入れた。 人生最後に耳にしたのは、何処かから聞こえる悲鳴だった……。 §  §  §  ・  ・  ・  って、待て。  夢とも現ともつかぬ記憶と共に意識が浮上した。 「生きてるよな、俺……?」  でも、最後の感覚が蘇る。  押し潰される足の感触、上半身が砕ける表現できない痛覚の爆発、そして自分の体がバラバ ラのモノになっていく束の間の喪失感。  口から血を吐きながら、こんな形で死ぬのかと思った。  こんなありふれた日常の中で。  不思議と驚きはなかった。  ただ仕方ないな、と思った。  いや、そういう思考を司る何かが既に壊れていただけかもしれない。  ただ、思ったのは、次はもっと……。  もっと、何だったかな?  いや、そんな事よりそこまで克明に覚えている事実からすると……。   やっぱり。あれで生きている訳が無い。 「死んだのか、俺……?」  じっと手のひらを見る。見慣れぬほっそりとした白い指。  うーん……。  じっと見慣れぬ我が手を凝視していると、そっと同じくらい綺麗な細い指に絡め取られた。 双の手で痛いほど指を握られる。 「生きています。兄さんは、生きています」 「秋葉……」  秋葉だった。  そうだな、生きているな。そうでなければお前の震える手の感触、ぽたぽたと落ちてくる熱 い雫を感じる事はないだろうから。 「でも、これはいったい」 「状況を説明しましょうか」  シエル先輩がそっと横手から声をかけてくれた。  この中では比較的冷静な様子だ。 「お願いします、先輩。何が起こったんです?」 「はい。あの、遠野くん、ロードローラーにぺちゃんこにと言うか、ぐしゃぐしゃにと言うか、 バラ……」 「シエルさま」  翡翠が非難する目でシエル先輩を見つめる。 「ごめんなさい。的確な表現が……、そうですね遠野くんが挽き肉になった処までは憶えてい ますか」  挽き肉……。 「あ、ああ。その辺で意識が途絶えた」 「はい。そこで一度遠野くんは肉体的に死にました」 「死にました?」  体に衝撃が走る。  やっぱり、やっぱり、やっば……。 「あくまで、体、肉体です。器が壊れただけです。重要なのは中身である魂なんです」  シエル先輩の諭す様な言葉。 決して強い口調ではなかったが、その声は体の芯に通った。  暗示にかかった様に、パニックを起こしかけた頭が平静を取り戻す。 「もう一度言います。遠野くんの体は死に、いえバラバラになりました。当然、そうなれば遠 野志貴という人間は死にます、普通ならば。  でも、幸運にも遠野くんの周りには秋葉さんと私、そしてアルクェイドがいました。それに 感応能力を持つお二人が。  難しい話はあとでゆっくりとするとして、簡単に言うとですね、遠野くんが死んでいくのを 強引に停止させて、その間に遠野くんの細胞辺から新たに体を作り出したんです。そして消え ようとした魂をその体に宿らせる、そんな段取りですね。  かなり表沙汰になるとやばい処置を取りました」 「……。つまり、これは俺の元の体じゃ無い訳?」 「はいでもありいいえでもあります。新しく作ったというより、遠野くんの魂が憶えている身 体情報通りに、再生したんです。元の体の残骸を材料としながら。  私やアルクェイドが体を八つ裂きにされたら、そのバラバラの体を用いて元に戻ろうとしま すよね。そんなイメージです」  何とはなく分かったような、分からないような。  常軌を逸しているのは確かだ。  とりあえず、死なずにすんだ。今ここにいる皆のおかげで。そう思っていいんだろうなあ。  でも、あれ、そうすると……? 「じゃあ何で俺、こんな姿なの?」  そうだよ、元通り復元したのなら、なんでこんな女の子の姿なんだろう。  次なるシエル先輩の説明を待ったが、いっこうに続きが無い。 「先輩……?」  困った顔で口を閉じたまま。  ?  どうしたんだろう。 「わからないの」  横合いから今まで黙っていたアルクェイドが口を挟む。 「わからない?」 「うん」 「うん、って」 「だからね、今シエルが言ったように、志貴は元の姿になるしかないの。それなのに、順調に 進んでいって大まかな形成段階に入ると、その姿に変わっちゃうの。何度やってもね」  何故かワキワキとアルクェイドが嫌な手つきをしていた。  先輩の方を見ると、同意を示す頷き。 「理論的に元の遠野くんの姿にしか成り得ないんです。処置は成功はしているのですから。遺 伝子レベルまで微細に調べても恐らく、元の遠野くんとほぼ酷似している筈です。染色体の配 列が男を示すXYかXXかという僅かな、それ故に大きな差異があるだけで。  遠野くんに二卵性の双子の妹さんでもいたら、そんな感じになったんではないでしょうかね」  虚ろに笑いかけて、シエル先輩は表情を戻す。 「とりあえず違和感はあると思いますが、日常の生活に不自由は無いと思います。全力を尽く して何とかしますから、しばらく我慢して下さいね」  辛そうなシエル先輩の声。 「うん。……とりあえず助かっただけでもありがたいし、いや、皆が俺を生かせてくれたんだ よな。ありがとう。まあ、この姿じゃ外にも出づらいし、しばらくゆっくりしているよ」  努めて明るく言ったつもりだが、実際にそんなに落ち込んでいる訳ではなかった。  生きていられただけで有難い、それは本当のことだったから。 §  §  §  それから、一週間ほど過ぎた。  依然として女の子の遠野志貴として屋敷で過ごしている。  何度もシエル先輩が訪れたが変化はなし。  日ましに焦燥の色を浮かべるようになっていた。  今日も定期検診を行い、何やら術方の進捗を確認して溜息をついていた。 「何で駄目なんだろう」  そう暗く呟いて、はっと笑顔を作って「大丈夫ですよ」と言ってくれる姿が逆に痛々しくす ら思える。  当事者の俺は最初の驚きから抜けると、意外と平静な心持になっていた。  普段絶えず「俺は男だ」と認識して暮らしている訳ではなく、自分の部屋や庭でひねもすの たりとぼうっと過ごしている分には男でも女でも関係なかった。  前の体との違いでむしろ大きいのは、今は眼鏡をかけていないという事実であったかもしれ ない。かけたくても顔の幅が違っててずれ落ちるだろうが、今は必要が無かった。  万物の破壊と死を顕在させる眼が今の遠野志貴には無かった。  眼鏡をかけずに何を見ても、無数に走る線も点も現れることは無かった。  その代り、自分や他の人の体に薄い煙とも靄ともつかぬ何かが浮かぶのを時折見ることはあ ったが、ほとんど気になる程のものではなかった。  シエル先輩は診断とも治療ともつかぬ行為を終えると、俺の髪や皮膚片といった研究材料を しまい込む。 「先輩、そんな気落ちしないでよ。本当に今、生死を彷徨っているとかいう訳でもないし、む しろ前より元気なくらいなんだから」 「……遠野くんは、優しいですね」  ぽつりと言うと複雑な表情で「また来ますね」と言い残して先輩は帰っていった。  今の表情、秋葉達も時折見せることがある。  どういう意味のものかわからないのだけど。    さすがにこの姿で学校に行く訳にはいかないので、あれ以来ずっと休んで屋敷に篭っていた。  秋葉に琥珀さん、翡翠という面々は普段と変わらない様子で接してくれていた。 ただ別に俺は怪我や病気でベッドに寝たきりで世話をされるという状態でもないし、単にごろ ごろと一日過ごしているだけなので、何か特別の事をされるいわれもなかったけれど。  朝には、翡翠が起こしに来るし、起きて下に行けば秋葉と琥珀さんが待っている。  学校が無いと思うと何故か早起きが出来るので、朝食を秋葉と食べ、見送り。昼間は屋敷の 中をいろいろと探索したり、翡翠や琥珀さんを手伝ってみたり。  そんな日常の中過ごしていた。  実に平和なものだった。    強いて言えば、女物の服をあれやこれやと用意されて着せ替え人形の如く遊ばれたり、秋葉 と呼称をどうするか延々と議論して「兄さん」に落ち着いたりとか、その程度の出来事が起こ った位だった。 そうだ、お風呂に入っていたら突然、翡翠が現れたりというのもあったな。 「な、何だ翡翠、こんな処に」 「お背中を流そうかと。それに御髪もお一人だと大変でしょうし」 「今まで、こんな事しなかったじゃないか」 「今の志貴さまは女性の体ですから。姉さんも秋葉さまの湯浴みのお世話をしていますが?」 「それはそうだけど」  ああ、あとお風呂上りに自分の体に見入っていたら、着替えを持って現れた翡翠に白い目で 見られたり、日常生活を送るにつれ女性観が微妙に変わっていったり、とか。  そう言えば一つ不思議な事があった。 あれ以来アルクェイドはあまり姿を見せていなかった。  一番こんな事を面白がりそうな奴なのに……。
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