ここに来るのは何度目だろうか。
 すでに数えることを止め、数える意味すら棄てていながら、それでもこの地
を訪れている自分がいる。
 頬を撫でる風は心地よく、閉じた目蓋を開けるように促しているようだ。
 誘われるままに眸を開けて、視界の光景を捉える。

 ―――――

 強い光。
 陽射しの輝きが視界を一瞬で覆い囲み、眉間の辺りにチリチリとした痺れを
与えた。
 再び通り抜ける風と共に耳朶に軽い囁きが舞う。
 衣擦れのようでもあり、誰かが囁くようでもあるその音は周囲の草木が擦れ
あって出た音だ。視界を巡らせれば、天蓋の窓から射し込む光を一身に浴びた
それが確認できる。

 言うなれば、ここは一種の庭園であった。
 広さとしてはそれほどでもなく、植物園のように鬱蒼としているわけでもな
い。
 ただ、淡い色合いの壁に遮られた室内に幾つもの花や草木が植えられている。
手入れのされた痕跡が残っていて、無人というわけではないらしい。

 外に通じる部分といえば、天蓋部分の円を描いた窓と部屋の入り口らしき扉
のみ。だが、天蓋の窓は開閉式ではなく光を部屋に燈すために存在しているよ
うだ。そしてもう一つの扉は別の部屋に繋がっていて、そこから先は寝室が一
つあるのみ。寝室の様子は横手にある窓で確認できた――どうやら、庭園を眺
めるためにあるらしい――が、その先の寝室にはさらなる扉は存在していない。

 ふと、思う。
 ここは何処だっただろうか。

 入り口も出口も存在せず、ただ庭園と寝室のみが用意されただけの空間。
 現実的には絶対に有り得ない世界を受け入れるがままのように立っている自
分。

 明確な答えは出ない。
 ここが何処で。
 今は何時で。
 自分は何故、此処にいるのか。

 それすらも解らずに、横の窓を見つめる。紅い外套を羽織り、色素の抜けた
髪と呆然とした表情――それが自分だった。

「―――?」

 ふと、寝室の扉が開いて中にいた誰かが庭園へと入ってくる。
 誰だろうか、と視線を流して彼は目を見開いた。
 金細工の如き美しい髪、それに彩られた顔は美しい凛々しさを持ちながらも
歳相応の可愛らしさを持っている。一度見れば網膜に焼きつくほどの美しさ。

 そこで、ようやく思い出す。
 彼女の存在を。
 忘れるはずもない。自分にとって、彼女がどれほど特別なのか語りきれない
ほどに、大きなものとして存在している。
 ゆったりとした足どりで寄ってくる彼女。
 改めて彼女へと向き直り、そっと微笑みながら頬を撫でるように手を伸ばす。

「――――セイバー」

 だが。
 穏やかな声とは裏腹に、指先はそっと彼女の身体をすり抜け、そのまま彼の
身体を文字通り通り抜けていった。
 まるで、夢か幻のごとく。




「Anemone」

作:10=8 01(と〜や れいいち)





 彼女が身体をすり抜ける瞬間に。
 改めて思い出した。

 後ろの彼女には踵を返さず、茂る草の中に手を伸ばすと、指先にコツンとい
う硬い感触が伝わってきた。掴むには少し大きいが、なんとか掌に収める。
 蒼と金で彩られた、華美と言うほどではないが凛とした美しさを感じさせる
一振りの鞘。
 それは見間違うことなど無い。
 彼女の聖剣を収める鞘そのものであった。

 無論、これは本物の“全て遠き理想郷”ではない。あの鞘は一ヶ月前の聖杯
戦争――その最後の戦いで彼女の元へと戻った。
 すなわちこれは偽者。彼が投影することでこの世界へと顕現した擬似的な物
にすぎない。もっとも偽物とはいえど本物に限りなく近い偽物であるが。

「そうか。また俺は―――」

 これを使ったのか。
 言葉にならない事実に自嘲の笑顔を重ねる。

 全ての世界から己を隔離することで、絶対的な守護を約束する宝具。それが
“全て遠き理想郷”と呼ばれる、この鞘のことだ。
 おそらく自分は聖杯戦争で敗れた後、これを最後に使用したのであろう。令
呪の結びつきを考慮すると、その世界ではサーヴァントとして生きていること
になるのかもしれないが、この鞘はそれすら超えて隔離世界を作り出す。
 つまり、庭園は鞘の世界。
 その中で自分は擬似的に生きている、ということ。

「何故、俺はまたここに……」

 自問するが答えは返ってはこない。
 敗北を受け入れることができなかったのだろうか。それとも未練が残ってい
たのだろうか。いずれにしても死んでも別の使いまわされるだけの英霊として
は、随分と情けなく女々しい。

 いくら隔離された世界だからといっても抑止力として借り出されることだっ
てある。元々、複製した武器はランクが下がるのだ、この隔離世界も擬似的な
もの故に、世界の手は届く。

 振り向いて、彼女に視線を戻した。
 庭園の一角に腰掛けて、天蓋をそっと見据えている。

 彼女の場合になると話は異なってくる。本物の鞘によって加護を受けた彼女
ならば、世界の干渉を受けずに隔離された世界に身を置き続けることも可能で
あろう。

「それに……セイバーは聖杯の呪縛から、抜け出せたんだしな……」

 それは遠い、遠い記憶。
 明確な部分を思い出すことは不可能となってしまい。もはや霞んでしまった
出来事であったが、自分自身の中でそれは深く楔を打ちつけた様に根付いてい
た。

 重く閉じた目蓋の向こう側で声が聞こえる。
 闇の中、覚束ない輪郭とそれを飾る金糸の髪が微かに揺れた。

 ―――シロウなら、解ってくれると思ったのに。

 ズキリと胸の内側が疼く。
 体内から外側へと引っ掻くような痛み。

 ―――貴方は私の鞘だったのですね。

 脊髄が貫くように痺れる。
 否定の言葉と受け入れの言葉が交互に脳内を明滅し、彼女の姿が何度も、幾
度も、瞬くようにフラッシュバック。
 一つ一つが、静止画のように存在し、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 それは、ほとんどが彼女の笑顔で埋め尽くされていた。

 解っている。
 もう彼女とは触れ合えない。
 そんなことは、当の昔から理解している。
 この記憶を見る前から。
 その前から。
 あの別離の瞬間から、全て、解っていたことだ。

 彼女は笑顔を向けていた。
 それは心から嬉しそうに笑うという類の笑顔とは違い、どこか穏やかな風を
思わせる優しい笑顔。
 それは決して己の為のものではない笑顔。
 彼は夢と知りつつも、手を伸ばし彼女の輪郭を優しく撫でた。どこか虚ろで
歪なそれを飽きることなく指先でなぞる。

 ――――

 だが、触れ合えない。
 それは眸を開けた先にいる彼女も同じであった。
 本物の鞘によって生じた世界と、偽物の鞘によって生じた世界。
 複製された鞘によって創られた世界は限りなく本物に近いが、決して重なる
ことは無い。せいぜい掠る程度であり、今の自分と彼女は端だけが触れ合った
世界で、擬似的に出会っているだけなのだ。
 故に触れ合うことは不可能。

 それだけではない。
 時間軸にもズレが生じているため、こちらを彼女は確認していないようであ
った。
 いくら声をかけても、届かず。
 いくら手を伸ばしても、触れられず。
 いくら想えども、伝わることは無い。

「セイバー」

 呟くが、結果は変わることは無い。
 見やれば、彼女は庭園から寝室へと戻っていた。
 どこかの城の一室を思わせる寝室に、彼女が一人佇む。大きな窓から外を眺
めているが、その表情はどこか晴れない。
 彼女のいる部屋は、食事が用意されていたり、紅茶のセットが置いてあった
りした。本も結構な数が用意されており退屈はしなそう。室内の家具なども一
見しただけで身を委ねたくなる穏やかさを持っていた。
 それが隔離世界の具現の一つ。
 使い手に平穏を与え、外界の全てから守護する世界の形。

 だが、彼女は外を見つめる。
 充実した室内には見向きもしないで、窓越しに外を眺めるのみ。
 不意に彼女に関する伝承を思い出す。

 瀕死の王は湖の妖精たちによってアヴァロンの島へと運ばれていく。

 そんな伝承だったと記憶している。だとすれば、ここは遠き理想の郷という
ことになるのだろうか。彼女の腰にはあるべき剣が無い。常に王として生き続
けた彼女が剣を手放していたはずがない。それを考えると聖剣は泉へと棄てた
ことになるだろう。

 全ての責務から開放された彼女。
 そこには長く彼女を縛り付けた鎖は存在しない。
 だというのに。
 何故、そんな顔をして外を見つめるのか。

 目を伏せ、無意識の内に奥歯に力を込めていた。
 記憶の中の彼女の微笑みと。
 俯きがちに外を見つめる光景。

 もう未練は無いはずなのに、あの光景を見てしまうとそれが大きく揺らいで
しまう。微笑みを携えて彼女は彼と共にいたというのに、そして全ての役割を
終えて解放されたというのに、その末路は微笑みすら無い世界だというのだろ
うか。
 確かにあの部屋は何不自由無い世界だろう。
 だが、彼女を本当の意味で自由にはしていない。
 英霊という魂を責務から外しはしたが、解放はせず郷の中へと封じ込めただ
けだ。
 それは鳥籠に閉じ込めた小鳥を思わせる。

 不自由の存在しない生活。
 だが同時に自由も存在しない。

 窓辺で俯く彼女。
 金の髪は結ばれておらず、肩まで伸びたそれが揺れる。聞こえはしないが微
かな音色を奏でるように思えるほどに美しい。
 だが、同時に彼女の翡翠色の眸が雫を生み出していた。

 窓辺に咲いた金の花は。
 枯れたように俯き、露を零す。

 何故、こんな光景が見えるのか。
 彼女を見つめながら、彼は思考を働かせた。その手の中の鞘は軋む音が聞こ
えそうな程に力強く握られている。
 掌に痛みが走り、暖かい何かが広がってゆく。だが、彼の知ったことではな
い。

 何で。

 燃える荒野を駆け抜けて、血に濡れた大地を踏みしめて。
 渇ききった死体を踏破し、鋼の刃を幾度も交えて。
 少女であった自分を棄て、王として己の生涯を費やして。
 誰にも理解してもらえず、自分でも理解すらせず。
 ただ、自分以外の人の笑顔の為に戦い続けた彼女が。

 こんなにも報われないのだ。

 納得がいかない。全てを終えて解放されたはずの彼女が笑っていないなんて
不公平ではないか。笑うことすら許されない場所に身をおいていた彼女が、何
故、何故、何故―――

 報われないのは、自分だけで十分だというのに。

 答えを求めて天を仰ぐが、そこには無機質なほどに燦々とした輝き。
 降り注ぐ陽射しは、視界を覆う雫を蒼く彩った。




 そして彼は一つの行動に出る。
 庭園の脇から、とある花の苗を取り出して植え始めたのだ。時間軸にズレが
あることは理解している。だが、それはあくまでもこちら主観の話。向こう側
に自分が見えているとは思えなかったが、一つの賭けとして苗を植えることに
した。

 汚れることも厭わずに、一心に作業へ没頭する。
 慣れない庭仕事に多少戸惑いはしたものの、英霊になる以前のことを思い出
しながら、なんとか苗を植え終えることができた。

 後はこれが無事に花を咲かせるのを待つだけ。
 これが彼女に伝わるかどうか自身は無かったが、それでも彼は十分に満足し
ていた。
 何故、自分がここに何度も戻ってきていたのか解る気がする。
 記憶の中の彼女は微笑んでいた。
 ただそれだけなのだろう。
 窓辺で俯き、鳥籠のような世界で閉じ込められた彼女を一目見て、我慢がな
らなかった、それだけなのだ。
 それだけのために、何度も呼び出されようとも、何度も朽ち果てようとも、
この地に帰ってくることだけは忘れなかった。

「そうか………そうだよな………俺は、衛宮士郎なんだから」

 寝室のベッドで寝息を立てる彼女に、そっと微笑む。
 それは、他ならぬ彼女の為だけの微笑み。

 そして、そっと彼の身体は薄らぐ。
 淡く、微細な粒子の様に肉体が崩れ解けてゆき、この隔離された擬似世界か
ら再び現実世界へと引き戻されてゆく。一陣の風が吹き抜ければ、一瞬にして
消え去ってしまうかもしれない、そう思わせるほどに儚い燐光。
 どうやら、世界は衛宮士郎ではなく、英霊エミヤを必要としているらしい。
 彼は眸を閉じた。
 思い浮かぶのは、何度も通り抜けた過去。

 焼き付けられた、黄金色の別離。
 刻み込まれた、剣戟と答え。

 他にも、自分には溢れてしまいそうなほどの思い出で満たされている。それ
が、今までの自分を構成してきたのだろう。
 そっと踵を返すと、彼は決して振り向かずに呟いた。

「いってくるよ―――セイバー」

 一つの誓いを胸に。
 彼の身体は微細な輝きとなって、消えていった。




 斜陽は心地よく、それでいて目蓋には厳しい。
 頬を撫で付ける風。
 揺れるカーテンの音が耳朶を優しく打つ。
 快い虚脱感が彼女の内側から滲み、そのまま起きかけた身体を傾かせる。

 視界と意識が戻り、脳裏の霧が晴れていくのと同時に肉体の方は安息を求め
て力が抜けてゆく。天蓋付きのベッドは柔らかく、全てを委ねても構わないと
思わせるほどだ。
 だが、彼女は身を任せずに起き上がり、窓元へと向かう。

 視線だけを硝子窓の向こう側に向けると、庭園には一人の男がしゃがみこん
で何か作業をしている様子だった。ここからではよく見えない。
 外へ出て確認しよう、と踵を返しかけた時。
 しゃがみ込んでいた彼が顔を上げて立ち上がった。どうやら作業の方が一段
落着いたようである。
 紅い外套に色素の抜けた髪。
 それは彼女の知っている人物のもの。

「ア―――」

 だが、言いかけた言葉が止まる。
 顔を上げた彼に浮かぶものは微笑み。
 それだけで誰なのかを改めて理解する。
 自分の為には笑うことなく、誰かのために笑う、その微笑。
 それは彼女の知っている人物のもの。

「シロウ―――」

 慌てて、起き上がり駆け寄る。
 だが、そこには誰もおらず、まるで先程までの光景は幻であったかのように
庭園は静寂を保っていた。
 やはり、見間違えであったのだろうか。
 彼女が俯く―――と、その視界が庭園の一角を捉える。
 先程、彼が何かをしている幻視があった場所だ。窓を開けて、彼を幻視した
庭園の様子を間近で見つめ直す。

 そこには、眠る前には確かに存在しなかった花。
 ここにいる。彼がそう伝えているように思えた。

 見間違えかもしれない、都合のいい解釈かもしれない。
 だが、彼女は確かにそこにいた彼のことを実感していた。

 鮮やかに咲き誇る、赤い花。
 その色合いが、幻視した彼の後姿と重なる。

 風に乗ってきたのだろうか、それとも天蓋からの陽射しだろうか。
 微細な輝きが、アネモネの花をそっと揺らした。

 刹那の幻視を頼りに、彼を想い。
 穏やかに彼女は微笑んで一言。

「シロウ―――いってらっしゃい」

 一つの誓いを胸に。
 彼女の言葉は風に乗って、天蓋へと吸い込まれていった。


 彼の想いを託したアネモネが、微笑むように揺れる。



                <アネモネの花言葉:君を愛す>


                            END


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