遠野志貴は犬を飼っている

作:しにを

            



 最近の出来事である。
 遠野志貴は犬を飼い始めた。
 突然に品評会に出るような血統書付きの犬の飼育に、興味を抱いたという訳
ではない。
 かといって雨に濡れた捨て犬を拾って、こっそりと部屋に隠してといった幼
年向けドラマがあった訳でもない。
 もとより隠してなどいない。家の者にも知られている。
 単純に犬を飼いたいと思ったから、それが理由。
 志貴の希望に対し、屋敷の中であらゆる事柄に対しての決裁権を持つ秋葉、
志貴の妹にして遠野家の当主は反対をしなかった。
 やや戸惑った顔をしたものの、兄さんがお望みならと同意をした。
 生物としての本能的欲求は強いものの、モノへの執着が乏しい兄の希望であ
れば、遠野家のルールに抵触しない限りは秋葉は否定しない。むしろ望まれる
事を待っている。
 今回も世界に何頭といない珍種が欲しいと言えば、きっと嬉々として応えた
だろう。そんなものは志貴は望まなかったけれど。
 ともあれ、許可を得た為、屋敷の外や中で飼い犬を世話をし、気の済むまで
戯れる事が可能となった。
 志貴と秋葉以外の遠野家の住人、メイドの琥珀と翡翠は、なんでまたこんな
事を始めたのだろうと思ったかもしれない。だが、嬉しそうにしている主人に
異議を唱えたりはしない。
 少年は犬を好むという俗説があるが、小さい頃犬を飼っていた、あるいは飼
いたかったという話を志貴がした事はない。
 ただ、有間の家ではそんな希望があっても、なかなか口に出来なかったのか
もしれない。
 志貴の姿を見て、二人はそんな事を思ったりもしていた。



 志貴が犬の散歩をするのは、たいてい夜だった。
 早朝に散歩がてら犬を連れ歩く人間は多いが、志貴にはそれは出来なかった。
 目覚めてから学校へと行くまでには、それだけの時間的余裕が無い。
 もしも犬の散歩が出来るほど早起きが出来るのであれば、これまでも文句を
言われる度合いはずっと少なかっただろう。
 しかしながら、犬にはそんな道理を納得するつもりはないのだろう。志貴が
翡翠に起されて部屋から下りてくると、じっと待っている。
 外へ連れて行ってくれと懇願する眼を向けるが、志貴はごめんよと言うこと
しか出来ない。
 志貴が慌しく朝食を取っていると、犬はふらりと外へ行ってしまう。
 そんな姿が視野に入っていると、志貴は帰ってから必ず散歩に行こうと声を
掛けたりする。

 学校の授業を終えて帰宅し、夕飯を食べた後などに、志貴は散歩に出掛ける。
 首輪と散歩紐を用意する。
 本来は必要ないものではある。普段はつながれていないのだから。そんなも
のがなくとも犬は聞き分け良く従う。
 そもそも、遠野家の敷地内だけで<、尋常でない広大さを誇っている。
 散歩だって敷地内をあちこち回るだけである。それならば、わざわざ首輪と
鎖など必要ない。
 それでも、必ず志貴は散歩だと言うと、それらを手にして犬に近寄る。
 何となく、そうしたものがないと犬の散歩らしくない。そんな考えから。
 大人しくついて来るとは分かっていても、そうした道具立てが雰囲気を作る
のだ。
 犬にしても、それが散歩の時のアイテムであると了解しているのだろう、志
貴の手の中のものを認めると嬉しそうに目を輝かせる。
 志貴が首筋を探り、きつくないように気をつけつつ首輪をつけるのを、犬は
じっと受け入れる。
 優しく撫でてやりながら、志貴は留め金に散歩紐の金具を取り付ける。
 犬の散歩はこうして始まる。
 月が綺麗な夜、星が瞬く宵闇、そうして気の向くままに連れ立って夜を歩く。
 ひょこひょこと尻尾が揺れる。
 道すがら、ぽつりぽつりと志貴は犬に話し掛け、犬もそれに応える。
 ゆっくりとした逍遥は、志貴の心を和ませる。
 
 時に志貴は歩みを止める。
 どうしたのかと見上げる犬と視線を合わせ、しゃがみこむ。
 そして戯れたりもする。
 横に座ってただ犬を撫でてやる事もあるし、両手で持って抱きしめて動きを
封じてしまう真似もする。
 唐突な飼い主の行動に犬はじたばたとする事もあるが、大抵の事は嫌がりも
せずに受け入れる。
 草むらで夜露や他のものに汚れてしまったりもするが、そんな事を志貴も犬
も気にはしない。
 そうしていて思いもかけぬほど時間を喰ってしまい、慌てて屋敷に帰る事も
ある。
 散歩させている志貴の側でなく、されている側がぴたりと歩くのを止める場
合もある。高い木の幹や、自然石の前。
 そんな時は志貴は意図を察して、無理に引っ張らずに歩みを止める。
 紐が邪魔にならぬように腕を動かしつつ、犬が片足を上げるのを眺める。
 犬の体の震えが紐を通して伝わってくる。
 ひとしきりあちこち歩き回り、犬が満足したと見ると、志貴は屋敷へと帰る。
 辿り着くと、志貴は足や体をタオルで拭いてやる。
 思いもかけぬ部分が濡れていたりもするので丹念に。

 検分をして、まだ汚れが落ちきっていないなと判断すると、犬を連れてその
まま浴室に向かう。
 一緒に風呂に入り、ざっと洗ってやる。
 手早くお湯をかけて、両手で体中に石鹸の泡を伸ばす。
 手のひらでさすり、爪を立てないように掻く。
 そしてまた、お湯を何度もかけて洗い流す。
 別段こそこそする事も無いのだが、夜遅い時分でもあり、効率優先で行う。
 


 いつもが気ぜわしい入浴ではない。
 散歩後だけでなく、休みの日などにも、志貴は犬との入浴に興じる。その時
には時間を気にせずゆっくりと過ごす。
 義務や作業というよりも、楽しみ。
 天気が良い日は、屋内ではなく庭で洗う事もある。
 もともとは何に使ったものなのか、大きな桶。
 外で水を引くのは容易だし、その一つはお湯すら出てくるものだった。
 お湯を張り、犬を入れる。
 最初の頃は少し警戒していたが、最近ではおとなしくなって来ていた。
 それでも、綺麗にしてあげるよと優しく声を掛け、強引にならない程度に背
を押すようにしてお湯に浸からせる。そんな志貴の行動に変わりは無い。
 いざ入ってしまえば、そんなにも不快ではないのだろう。
 犬は大人しくしていた。いや、むしろ心地よいのだろうか。
 お湯を掛け、石鹸の泡を立てながら、体中を洗いたてる志貴の手を決して拒
まない。
 首筋を洗い、足を綺麗にし、お腹のほうもそこかしこを弄る。
 志貴自身も濡れてしまいながらも、熱心に洗う。
 一通り済ませると、お湯を捨て、ぬるめのシャワーを浴びせる。
 泡がみるみる落ちて行き、綺麗になった姿が現れる。
 それから志貴はバスタオルを何枚も使って、濡れそぼった体を拭いてやる。
 全身を包むようにして、洗った時と同じように体中に手を這わせる。
 少しでも水気が残っている処を拭おうと試みる。
 それがくすぐったいのか、犬は身じろぎし、逃れようとする。
 ダメだよと志貴は少し強い顔をするが、そうすると犬は反撃のつもりなのだ
ろうか、見つめる志貴の顔をぺろりと舐めたりもする。志貴は悲鳴を上げてし
まう。 



 食事を一緒に取る事もある。
 一緒にといっても、犬であるから、まさか同じ食卓に座らせてナイフとフォ
ークを手に取らせる訳にはいかない。
 犬は志貴の椅子の下辺りにぺたんと座して見上げている。
 食卓ではなく、ソファーの辺りで共に食事をしたりする事もある。

 柔らかく焼き上げた肉片やハム、茹野菜の一端を齧り、残りを犬に差し出す。
 志貴の食べかけを、犬は首を伸ばして食べる。
 喜んでいるので、志貴は次々と食べさせてしまい、琥珀にやんわりと叱られ
たりもする。志貴はそんな時に恐縮し、犬も一緒に小さくなる。

 犬はミルクも大好きだった。
 餌入れである浅皿にミルクを注いでやると、ピチャピチャと夢中で舐める。
 最後まで舌を伸ばす様を、志貴は微笑ましく眺めたりもする。
 そして顔にはねた滴を指で取ると、犬の口元に近づける。犬はそれもペロリ
と舐め取ってしまう。




 夜寝る時も、ときどき志貴は犬と一緒にベッドに入る。
 ダメだよと部屋から出そうとはするのだが、寂しそうな顔で無言の懇願をす
る犬に、無げなあしらいはなかなか志貴には出来ない。
 仕方ないなという顔を志貴がすると、対照的に犬は喜びを露わにする。
 扉を閉める前に志貴は、一応廊下に顔を出し、左右を確認する。
 そんな事をしている姿を翡翠や琥珀に見られる訳にはいかないので、こっそ
りと人目を忍ぶ真似になるのだ。
 消灯と戸締りの確認に、翡翠と琥珀は夜の屋敷を回る。
 夜が明ければ、志貴を起こしに、翡翠はやってくる。
 ばれていないだろうかと志貴は思う。
 それまでの間に犬は志貴の部屋を去らねばならない。
 今のところは見つかってはいない……、筈だった。
 ただ、志貴は疑念を持っている。
 一人寝にしては乱れすぎたシーツ。取り繕いはするが、戯れの跡はそこかし
こに残っているのではないだろうか。
 実は翡翠などは当の昔に気付いているものの、眉を顰めつつも主人の私事で
あると目をつぶっているのだろうか。
 それを志貴から確認はしない。する事は出来ない。時に翡翠の顔色を疑いつ
つも、疑念のままにしている。
 でも現場を見られたら、決まり悪いだろうなと志貴は思う。
 静かにと思っていても自然と声をあげてしまい、動きと共に音を立てる。
 ふと、扉の向こうに誰かいるのではと思った事も何度かあった。
 そんな時に、翡翠か琥珀がノックしようとした手を止めているのかもしれな
い。そんな想像は志貴の背筋に冷や汗を感じさせる。
 でも、犬が身を摺り寄せるのを、抱きしめて眠りにつくのは、志貴にとって
放棄しがたい快感なのだった。そうした状態は志貴を安堵の心にさせる。




 こんな毎日を志貴は良いものだなと思っている。
 とびきり変わったことではないけれど、日常での喜びを感じさせる。
 ささやかなる幸せ。
 犬と他愛のない戯れに興じつつ、志貴は思う。
 たまには、外に出かけてみようか。
 人の多い繁華街は無理だけど、閑散とした夜の街を散歩するのは楽しいので
はないだろうか。
 きっと犬も喜ぶに違いない。

 そんな志貴と犬との日々。
 
  了











 ※注意

 冒頭に書き忘れたが、本作品は18禁に類するものである。
 どこがと問われても困るが、補足の為に以下の事実を記しておこう。

 遠野家には、食肉目犬科犬属となる生物は現在のところ存在していない。

 以上。

  




―――あとがき

 ジャンル、ほのぼの。
 書きかけを見て貰ったら、何故か「黒い」とか評されましたけど。
 少年と犬の組み合わせっていいじゃないですか。
 映画の「少年と犬」とか。「農場へ……」
 
 クールトーの存在はどうしたというご意見はあるかもしれませんが、あれは
別物と言う事で。
 また変なの書いてしまったなあ。

 お楽しみ頂けたのなら、嬉しいです。


  by しにを(2004/7/19)


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