どうも寝苦しくて、寝付けない。
 汗で寝間着は肌に張り付き、シーツも湿っている感じがする。
 枕は汗を吸い込んで平たくなり、頭を包むと言うよりも押さえている感じす
らする。
 開け放した窓からは雲で煤けた月が見える。
 ぴくりとも動かないカーテンは、風がないというよりも湿り気で重くなって
いるような気がした。

 そんな蒸し暑い夜。

 そっと自室を抜け出して、足音を立てないようにして台所を目指す。
 目的は水。
 今はただ、水が欲しい。
 市販されている美味しい水でも、よく遠野家で出されるような柑橘系の香り
のするような水でもなくていい。
 カルキの匂いが鼻につく、普通の水道水でもいい。
 とにかく水が欲しかった。

 誰にも気付かれることなく、台所へとたどり着く。
 ひとつの明かりもなく、黒い影だけが頼り。
 冷蔵庫の唸り声だけが、その部屋を支配していた。

 手探りで蛇口を見つけると、それをひねる。
 勢いよく気持ちのよい流れる音がして水が飛び落ちる。
 コップやグラスなどというものはいらない。
 ただ、欲求に応えるかのように口を蛇口へと直接つけて、水をあおる。

 首を捻って、口を無理矢理上へと向ける無理のある体勢。
 だけど、今はその状態から抜け出ることなど欠片も思わない。
 とにかく、喉に水流を流し込むことだけが頭にあった。

 ようやく人心地ついて、蛇口から口を離し、流れ出る水を止める。
 首を振って、顔や髪にかかった水滴を振り落とす。
 そうしていると、視界の端に一人の女性が立っているのに気が付いた。

「志貴さん、なにをやっているんですか?」

 その声は琥珀さんだった。
 そう、声で気が付いた。
 その姿からは、彼女だとはすぐには気がつけなかった。

「ああ、お水が欲しかったんですね。もう、それならそうとおっしゃてくださ
れればいいのに」

 そう言って笑いかける、彼女。
 手を口に当てて、からかうような笑顔を浮かべる。
 そう、その仕草は琥珀さん。

「本当にびっくりしましたよ。真っ暗な台所から音がするんですから」

 暗闇の中で、淡く見えるその立ち姿。
 それは、記憶の中の、ある人と重なる。
 彼女とその人とは似ても似つかないのにそう思えるのは、彼女の今の姿のせ
いだろう。

「どうしたんですか、志貴さん? 黙って突っ立っちゃって」

 そう言って近づいてくる、琥珀さん。
 歩く事に衣擦れの音がかすかに響く。
 だけど、音を出しているのはいつもの割烹着ではなかった。

「あ、もしかして私の姿にびっくりしているんですか?」

 途中で立ち止まって、下から伺うように覗く。
 この距離でも、彼女が今までどうしていたかがわかる。
 そのかすかな、石けんの香りで。

「ごめんなさい。私も熱かったから今までシャワーを浴びてたんですよ。こん
な格好で失礼しますね?」

 そう言って、笑いかける。
 湯上がりの女性というものは、似たような動きをするものなのだろうか。
 胸を押さえ、髪に手をやり、瞳を潤ませている。
 そうする仕草、動作、立ち振る舞いがあの人を彷彿とさせる。
 暗闇に浮かぶその姿も、よく似ている。
 暗い空間に浮かぶ白い布をまとう姿はあの人を思い起こさせる。

 そう、あの時の、あの人を。





「憧憬」

作:のち







 その日もやはり暑かった。
 年月を経た木の香りが湿気と共に鼻をくすぐる。
 いつもなら心地よいその香りは、こんな夜には心をささくれ立たせる。

 だいたいこの病院は古くさい木造で、クーラーとかそう言う近代的なものは
ほんの一部にしか置かれていない。
 ましてや、住居部分はなにをいわんやって言うことだ。
 なんだか用法を間違っているような気もするが、それについて考えるのも億
劫。
 むしろこんなところに泊まることになった不幸を毒づく方に思考は傾く。

「なんだって、電車が事故起こすのかなあ」

 ある事件を境に体に変調をきたした体は、定期的に検査を受けなければなら
なかった。
 つまるところ、病院へ定期検診をするということ。
 週に1回、必ず通わされているこの病院を時南病院という。
 時南宗玄という、もういい年をした爺さんが院長をしているこの病院は、実
家の遠野家とゆかりがあり、その縁で有間家に養子にされた今も通っている。

 だけど、この病院は遠野家本家から指定された病院ということで、こちらの
状況とかを考えて決めたのではない。
 まあ、有り体に言ってしまえば、めちゃくちゃ遠いっていうこと。
 だから、電車に乗って1時間も揺らされて通わなければならない。
 普通、毎週のように通う病院にそこまで時間をかける必要があるのかどうか、
きわめて疑問だった。

 とは言え、こんなワケの分からない状態の体を見せる相手がよく見知ってい
る人だというのは確かに気が楽だった。
 悪態もつけるし、文句も言える。
 何よりもそこに行って緊張しないで済むような場所だということが、有難か
った。

「でも、遠すぎるんだよな、ここ」

 それでも、ぼやきがでる。
 まあ、それも仕方がない。
 家の方で色々とやっているうちに時間が過ぎてしまい、ここに来るのも帰る
のも遅くなってしまった。
 その上駅で帰りの電車を待っていると、この先の線路で事故が起きて復旧の
めどが立たないといわれる始末。
 夜も遅いのでこの時南病院で、一泊させてもらうことになったのだ。
 まあ、確かに幼い子どもに夜中に帰らせるのもどうかとは思うけど。

 それにしても暑い。
 窓を開けていても風ひとつ通らない。
 その上この湿気。
 汗だけではなくて、湿り気が体を覆う。
 まったく、踏んだり蹴ったりとはこのことだと思った。

 水をもらうために、院内を歩く。
 夜というのは、昼にはなんでもないところを変えてしまうものだ。
 夜の学校、夜の体育館、夜の道、夜の病院。
 よく見知っている廊下ひとつとっても、気配が違うような気がする。
 年の浅い子どもにとっては、それはなおさらだ。
 どうすることもできないのに、なんとはなしに身構えながら前へと進む。

 ようやく、蛇口のあるところへとたどり着く。
 いわゆる台所。
 窓からは、闇にかすれながらも裏庭が見え、その真ん中に物干し台と竿があ
わあわと浮かぶ。

「別になにもいない、いない、大丈夫」

 呪文のようにぶつぶつと口の中で言いながら、そろそろと足を進めてコップ
を取る。
 食事の後に洗ったばかりなのか、そこにはほんのりと水が残っていた。
 それを持って流しの蛇口を背伸びしながらひねる。
 蛇口のひんやりとした冷たさが気持ちいい。
 水を飲んでいると、先ほどまでの不安が嘘のように消えていた。

「あれ? 志貴くん?」

 背後から声をかけられて、文字通り飛び上がる。
 そーっと後ろを見ると、そこには朱鷺恵さんがいた。

 時南朱鷺恵。
 彼女は宗玄の一人娘で、この家の主人のようなものだ。
 母親のいない彼女はまだ中学生ながらも、家事全般を一手に引き受けている。
 そんなわけでこの家の全権を握っている人だ。

「どうしたの、志貴くん?」

 首を曲げただけで見ているその姿勢を崩さずに朱鷺恵さんを見続ける。
 いや、姿勢を変えることすらできない、と言った方が正しい。
 その原因は、朱鷺恵さんのその姿にあった。

 そう、彼女はバスタオル一枚でいたのだった。

 別に彼女のそんな姿をはじめて見たわけではなかった。
 もっと小さい頃、と言ってもたかだか2、3年程前のことだが、一緒にお風
呂に入ったりもしていた。
 入らなくなった理由は説明するまでもないだろう。
 そう、『性への目覚め』っていうヤツだ。
 だけど、朱鷺恵さんに対してはそれだけではなかった。
 彼女もまた、成長していき、そしてそれに対して恐れのような感情を持つよ
うになっていったのだった。
 そう、今まで気にしてこなかった胸のあたりや腰つき、顔つき、……いや、
そんなものではない。
 そういう、単純な、そして部分的なものでは、けっして、ない。

 きっと、それは、美しくなっていくモノに対しての、畏れだったのだ。

「ははーん、喉が渇いたのね? ちょっと待っててね」

 すらりとした足を見せて、颯爽と歩く。
 白く丸い肩で風を切って、部屋を横切る。
 水を吸っている肩までに切りそろえた黒髪が、美しく揺れる。

 その仕草ひとつひとつ、その体のひとつひとつが、この人が女性だと言うこ
とを思い知らされる。
 なのに、目の前にいるこの人は、そういうことに頓着しないで、昔のように
俺と接する。
 そのことが俺の自意識を刺激する。

 自分のことを『僕』から『俺』に変えたのはいつのことだったろう。
 半ズボンが嫌になって、長ズボンばかり履くようになったのはいつのことだ
ったろう。
 髪型も、体型も、前とさして変わってはいないのにもかかわらず、その内面
だけは確実に変わっている俺。

「えーっと、冷やしておいた麦茶がそろそろ飲み頃なんだ……っと」

 首をならして、肩を回し、それから冷蔵庫の扉を開ける。
 焦げ茶色の液体の入った瓶とコップを持って、机におく。
 冷蔵庫が開きっぱなしなのに気が付いて、足をのばして音を立てて閉める。

 その動作ひとつひとつ、その態度ひとつひとつが、昔ながらの友人だという
ことを思い出させる。
 なのに、目の前にいるこの人は、胸のふくらみ、鎖骨のあたり、腰のまわり
が、女性なのだということを俺に示す。
 そのことが俺の自意識を動揺させる。

 彼女のことを『朱鷺恵ちゃん』から『朱鷺恵さん』と呼ぶようになったのは
いつのことだったろう。
 同じ布団で眠ることが拒否するようになり、抱きかかえられるのをいやがる
ようになったのはいつのことだったろう。
 言葉遣いも、態度も、心も、前とさして変わってはいないのにもかかわらず、
その外面だけは確実に変わっている彼女。

「あ、まだちょっと温いかな? 氷、入れようか」

 そういって俺に背を向けながら、腰を突き出して冷凍庫から氷を取り出す。
 それは平凡な、普通の行動。
 だけど非凡で、異常な行動。

 これが昼のことで、さらには彼女がいつもの服装だったら、別になんていう
ことはない。
 だけど今は夜で、さらには彼女の姿はいつものような格好ではなかった。

 そうして、俺は体を動かした。

 後ろへと。



 気が付いたらそこは自分の寝床で、布団の上に体を大の字にしながらうつぶ
せに寝転がっていた。
 枕を両手で抱きながら顔を埋めているので、まわりは見えない。
 ただ自分が息を切らしていること、汗をかいていることがわかる。
 布団にはいまだに幼い子どもの匂いがしていた。

 抱いている枕をさらに強く抱きしめる。
 どんな風な事を考えているのか、よくわからない。
 心が動揺していることだけが、わかる。
 強く目をつぶり、ただ自分の鼓動を聞いていた。

「うわっ」

 思わず声を上げる。
 いきなり背中に冷たいなにかが放り込まれたのだ。
 あわてて、背中に入り込んだその物体を取り出す。
 氷だ。
 上半身だけを起きあがらせて、首から後ろに振り向く。

 そこには寝間着を着ている朱鷺恵さんがいた。

 歯を見せて笑いながら、してやったりという顔をしてこちらを見ている。
 ピンク色のチェックの柄の寝間着は、そんな彼女の動作によく似合っている。
 動きやすく、機能性を重視したその寝間着は、上から下まで一直線に落ちて
いて、体をすっぽりと包んでいた。

「いきなりなにするんですか!」

 当然、いつものように抗議する。
 こんないたずらは日常茶飯事で、この人は意外に人をからかったりするのが
とても好きなのだ。

「ふふーん、人のことをおばけみたいに見ていたお返しだよ」

 俺の額を人差し指で押して、舌を見せながらいう。
 俺をからかった後のいつもの仕草。
 俺は頬をふくらませて文句を言う。

「だからって、いきなりこんなことする必要ないじゃないですか!」

 彼女の片手は後ろに隠している。
 彼女がなにかをする前のいつもの仕草。
 彼女は満面の笑みで隠していたものを見せる。

「あれ、眠れない志貴くんにプレゼント持ってきてあげたんだけどなー」

 それは一杯の麦茶だった。

 ため息をついて、手を伸ばす。
 それを察して、届かないようにコップを上に上げる。
 そして彼女はこう言う。

「お礼は?」

「……ありがとうございます」

 結局のところ、それは、いつものやりとり。
 俺がなにかをやって、彼女がそれをからかって、そして俺が最後には折れる。
 まったく、さっきはいったいどうしたっていうんだろう。

 麦茶を飲み干して、コップを手渡す。
 口の中に残っている氷が心地よい。
 がりがりと音を立ててかじりながら、一言、言う。

「ああいう格好して歩いていたら、爺さん、また小言いうよ」

 いつもの抹香臭いお説教。
 こういうところがまた、この人にからかわれる原因だとはわかっているのだ
けど、性格なんだからしょうがない。
 そして、また、朱鷺恵さんにからかわれるのだ。

「……うん、気を付けるね」

 それは予想しなかった返答。
 想定外の行動。
 だから、俺は思わず顔を背けて呟く。

「そうだよ、気を付けてよね」

 返答はない。
 部屋の中を沈黙が沈み込む。
 それがどのくらい続いたかはわからないけれど、それを破ったのは彼女だっ
た。

 それは確かに沈黙を破った。……言葉ではなく、音で。
 その音は俺の額から発せられた。
 小さく、かすかで、確認するのが難しいほどに、わずかな音。
 だけど、それは、沈黙を破るのに、十分すぎる程な音だった。

「お休み、志貴くん」

 返答はしない。返事はできない。
 ただ、額に手を当てて、部屋の扉の前から消えていく朱鷺恵さんを茫然と眺
めるだけ。
 最後に、消えるか消えないかのほんの一瞬の時間に、彼女は別の言葉を口に
していた。

「……続きは、もっと、大きくなったら、ね」



 背中に感じるのは、ふかふかとした感触。
 それが壁のように、左側にもある。
 右側からかすかな風が顔をくすぐり、意識が醒めてくる。
 首だけ、右に向けてみる。
 琥珀さんが、うちわで俺を扇いでくているのがわかる。

「あ、お目覚めですか?」

「うん、起きた」

 ほっとした表情をして、彼女が胸を押さえる。
 そんな彼女から視線を外して、まわりを見て、今自分がソファーで横になっ
ていることを理解する。
 そんな俺の動作に、いつもの注意するあの仕草をして俺に言う。

「もう、いきなり倒れるんですもの、心配しましたよ」

 俺は思わず笑みを浮かべる。
 なんだかわからないけど、笑いがこみ上げてくる。
 我慢しきれなくて、静かに声を立てて笑う。
 そんな俺に不満を持つかのように、むっとした顔をする琥珀さん。
 それをなだめて、先ほどから持っていた疑問を彼女に投げかける。

「眠る時も和服なんだ」

「ええ、結構これって涼しいんですよ」

 彼女がきているのは白襦袢。
 暗闇の中ではそれが白く映えて見えたのだ。
 先ほど、どんな風に見えたかを彼女に言って聞かせる。

「いや、暗いところに白いのがぼうっと見えたから、おばけかと思って」

「あー、失礼ですねー、志貴さん」

 今度は二人ともくすくすと笑いあう。
 どれほどそうしていたかわからないけれど、眠気がやってきたので散会する
ことにした。

「それでは、おやすみなさいましね、志貴さん」

「うん、おやすみ」

 暗い廊下を進んでいく彼女を見届けると、自分も部屋へ戻ろうとする。
 ふと、思い立って、居間を覗いてみる。
 いつものように、ソファーがあって、大きなテーブルがあり、絵や壺といっ
た調度品が並ぶ、重厚な部屋。
 その奥に、台所へと続く扉がある。

 そこに白い人影を見たような気がしたが、まばたきをすると、消えている。

 口元にわずかな笑みを浮かべて、首を振って2階に続く階段へと向かった。



 彼を見送るかのようにして、白い人影が厨房の扉の前に立っている。

 そうして、彼の姿が完全に消えたと同時に、その影も、姿を消した。

 まるで、陽炎のように。








 2003年7月1日

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 というわけで、朱鷺恵さんでした。
 お姉さん属性の私としては、一子さんと同時に避けられない関門だったので、
書けてちょっとほっとしていたりしてます。
 ……琥珀さんが部分が長いような気もしますが。

 ああっと、いつもはあまり解説みたいな事は言わないんですが、ひとつだけ。
 別に朱鷺恵さん、死んではおりません(笑い)。
 最後の部分は、まあ、そういうものだと思ってください。
 そういうこと以外の解釈は、完全に自由と言うことで(笑い)。

 最後になりますが、60万ヒットおめでとうございます。
 私が最初に投稿したのが25万ヒット記念天抜きだったことを考えると、ス
ゴイ勢いになっていますね。
 しにをさんの様々な努力が実を結んでいるんだと、今さらながら感心してし
まいます。
 すごいところに投稿しているもんだなー、私。
 あらためて、これからもよろしくお願い致します。。

 さて、とりあえずこのへんで。
 それでは。

 のち


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