作:しにを
もともとこの辺りの土地は温泉場としてではなく、保養地として利用され栄 えた処だった。 戦前にはかなり上流層の人々のみが訪れ滞在していた、知る人ぞ知る名地。 しかし交通の発達した今日では、同じ目的ならば海外を含むもっと遠方の保 養地に行く選択が増えた為、ゆるやかに寂れていった。 また、鉄道の駅で5つほど離れた地脈を同じくする町が、温泉地として発展 した事もこの地から客足を奪っている。 ここはあくまで、自動車なるものが珍しかった時代に、それを自由に使用で きる階級のみを相手にした為、道路はともかく他の交通機関からは離れていた。 もっとも、逆に、その落ち着いた静けさを求めて滞在する客もおり、過去の 名残りと共に名を留めている。 遠野家の一行が向ったのも、そうした歴史を有している高級旅館の一つ。 建物、温泉というハード面は言うに及ばず、料理、仲居の応対、そうそう目 に見えぬ部分にまで向けられた気配りというソフト面が、新興のホテルや温泉 宿とはまったく次元が違う老舗の筈だった。 そしてタクシーが停まり、秋葉たちが降り立った時に目の前にあったのは、 確かにそんな想像した通りの由緒正しき温泉宿であった。 建物は、洋式とは言え常人の想像を絶する屋敷に日々暮らしている秋葉達に も感嘆を誘う風格で、伝統と格式を感じさせる立派なもの。 迎えてくれた女将も非の打ち所の無い立ち居振舞いと、心からの歓迎の意を 湛えて、遠野家御一行様を迎え入れてくれた。 秋葉はともかく、志貴などには場違いという言葉を思い起こさせる程。 ただ、こういった事態にはあまり慣れていないようだった。 女将はともかく、他の仲居などは僅かに、ほんの僅かに動揺の色を隠せずに いる。 まあ、そうであろうと秋葉は思う。 むしろ、それでもなお最大限に普段通りを心がけている辺りを、評価するべ きなのかもしれない。 秋葉は多少呆然としながら、泊まる予定であった建物を見つめた。 いや、正確には建物であったものを見つめた。 古風な歴史を感じさせる、それでいて手入れの行き届いた建物の姿。 しかしながら。 秋葉達が一夜を過ごすべきその宿は、建物の半分を消失させていた。 「事故と言いますか。まあ、幸い客室のみで厨房やら温泉は何ら被害がありま せんでしたので、とりあえず続けております。 予約分についてはご説明したうえキャンセルして頂いて、お望みなら責任を 持って他の宿をご紹介させていただいておりますが……」 申し訳無さそうに説明される。 自分たちの当惑はともかく置いて、お客様へのご迷惑を気にしているという 誠意ある物言いは好感が持てる。 連絡が間に合わず玄関口まで来てしまったのが、私達という事なのだろう。 そしてもう一組の方々という訳か。 ちらりと秋葉は視線を斜め前に向けた。 自分達よりも幾分早めに着いた一行がそこにいる。 女四人に男一人。 見覚えがある集団であった。 よほど印象に残っていたのだろうか、と秋葉は不思議に思った。 言葉を交わした訳ではない。 わずかな一時を、たまたま同じ空間の近くで共に過ごしただけなのに。 達筆で書かれた示し札から、柏木家御一行様と知れたその集団は、秋葉たち がさきほど昼食を取った蕎麦屋にいた面々であった。 あちらも、私達を見て驚いたようにひそひそと言葉を交わしている。 秋葉はそれに気づかない振りをする。 それでも自然とこぼれ聞こえる会話の破片。 遠野家とか、あれ、さっきの双子のとか話している言葉。 どうやら、向うもこちらを憶えているらしいと、少し不思議に思う。 まあ、あまり若い人の集団はこの辺にいなかったし印象に残ったのだろうと そしてそれ以上気にしない。 さし当たって、しなければならない事が幾つかあったから。 「……と言う事です。 兄さんはどうなさいますか?」 秋葉の言葉に志貴は驚いた顔をしている。 それを見て秋葉は少し顔を顰めた。 「なんです、兄さん?」 「いや、どうして秋葉が俺に意見を求めるのかな、と思って」 「変ですか? 普段の家での事ならともかく、遊びに出かけている訳ですし、 年長者の兄さんのご意見を求めたのですけど」 そう言いつつも威圧感がちらほらと見える妹に、志貴は慌てて口を開いた。 「そう? そうだな、ここでいいんじゃないか」 「どうしてです」 「今から移動するのも面倒だし、きちんと泊まる部屋もあるんだろ、特に問題 があるとは思えないけど。 温泉は此処がとびきりだって話で、それは入れるんだしね」 「なるほど」 兄の言葉に秋葉は頷いた。 秋葉にしてみればどちらでも良い。 こうして出掛けているというだけで、旅の目的の半分以上が達成できたよう な気がしていた。 後は志貴がここでいいと判断すれば、それはそれで秋葉の意思にもなる。 その場を離れていた琥珀が、姿を現した。 「どうも近場はどこもふさがっていて、山を降りてあちらの温泉街まで行かな いとダメみたいですね。一応、名前が知られたホテルなり旅館なりを抑えてく れるそうですけど」 「そう。それではたっぷり時間がかかるわね。兄さんの仰るように此処に泊ま ることにしましょう」 それがいいよ、と志貴は頷いた。 翡翠と琥珀も黙ってはいるが、同意の雰囲気。 「あ、そうだ、事故の原因ってわかった?」 「それが隠しているとかでなくてわからないらしいんです。本当に力づくで叩 き壊したみたいで、熊ではないかって調べて警戒しているらしいですね」 「熊ったって一匹や二匹じゃああもできないと思うけどなあ」 「また、襲ってきたりはしないでしょうか、姉さん」 翡翠がぽつりと言った。 さすがに琥珀もそれには答えられず、妹の顔を見つめた後で、その真面目な 顔を保ったまま志貴の方を向いた。 「その時は、志貴さんに守ってもらいましょう」 「そうですね、兄さんお願いしますね」 「志貴さま……、頼りにしています」 志貴がどんな顔をすればいいのか困っていると、くすりと笑って秋葉は話に ケリをつけた。 「どうやら、あちらも同じ結論みたいね。となると問題が発生……か」 こちらの雰囲気を見て取ったのか、柏木家側から一人歩み寄ってきた。 一番の年長と思しき女性。 同性である秋葉から見ても、溜息をつく程の、端的に言えば「美人」のカテ ゴリーに入る女性だった。 濡れ羽色の長い黒髪と、優しげな眼差し。冷たい印象をほとんど感じさせな い、温和な暖かい雰囲気が自分とは違うな、と秋葉は密かに思う。 兄の眼がまっすぐにこの大人の女性に向けられているのを、内心で僅かに毒 づきつつも、一方で仕方ないなと溜息をつく。 綺麗な人、小声で呟く。 不思議に素直な響きだった。 「ご相談したい事があるのですけど、よろしいですか?」 秋葉は頷いた。 ◇ ◇ ◇ 「さすがに、こういう時は手馴れた感じだなあ、千鶴姉」 未知の一行と話を始めた千鶴を見つめ、少し感心したように梓が呟く。 「お仕事の時もああいう風なんだろうなあ、格好良いよね、千鶴お姉ちゃん」 「……」 初音の囁き声に楓が少し小首を傾げる。 しかし、変化が激しく、この場合は良い方向にそれが現れているという点で は楓も頷けた。 先刻、ここに辿り着いた時。 半壊した旅館の様に、いちばん茫然自失となっていたのは千鶴であった。 建物を見てはおろおろし、どうしようどうしようとうろたえていて、梓と耕 一をすがるような目で見て、二人に少々戸惑い気味に顔を見合わせた程に。 梓しろ耕一にしろ驚いたのは同じであったが、別に他所に行って泊まっても 構わないし、とあまり動揺はなかったから。 しかし初音と楓が駆け寄ってきて、宿の女将さんがご相談だって、と伝えに 来ると、千鶴の様相は一変した。 今まで、泣きそうな顔で「みんなに楽しんで貰おうと思っていたのに……」 などとこぼしていたのが嘘のように、背筋も伸び顔つきもしっかりとしたもの に変わっていた。 あるいは、初音と楓に対しては弱い部分を見せられなかったのかもしれない。 「そう、とりあえずお話を聴かないとね」 そう笑顔すら見せて呟いた千鶴の顔を、耕一と梓は唖然として見つめたのだ った……。 「それにしても、さっきは千鶴さんもみんなもやたらと同情的だったね」 耕一が思い出したように言った。 「え、何がさ?」 「だからさ、予約してわざわざ遠方からやって来たのに、宿が半ば壊れていま したなんて目にあったら普通はもっと怒ったりするんじゃないかな」 「そうかなあ。だって宿の人も困っているし」 「うん……」 そういう処、普通は相手側の視点から見ないと思うけど。 そんな耕一の思いに答えるように、梓が口を開く。 「やっぱり、他人事みたいには感じないよ。同業者だからね」 「まあ、そうだろうなあ。あと、千鶴さんがなんか女将さんに感銘受けてたみ たいだね」 「そうだね。態度とかこっちへの誠意の見せ方とかさすが老舗だなって感じだ ったからね」 「ねえねえ、耕一お兄ちゃん、あの女将さん、千鶴お姉ちゃんの事知ってるみ たいじゃなかった?」 「あ、初音ちゃんも気がついたか」 女将は予想外に同情の意を示す一行に、やや怪訝の色を見せたが、予約台帳 の住所にちらと目をやり、何かを思い出すかのように千鶴の顔を見つめ、さら に「柏木様……?」と呟くと、一瞬だけ目を大きくして平静に戻った。 そんな様子を耕一は見ていた。 「雑誌か何かで見たのかもしれないし、温泉業界では、隆山温泉はそれなりに 知られているだろうしね」 「じゃあ、同業者にこんな処見られるの嫌だったかな?」 「うーん。なんだか気づいてから外を勧めるのに熱心になっていた気がした」 「迷惑だったのかな」 「いや、千鶴さんが是非とも泊まらせて貰いますと断言した時は、それはそれ でほっとした顔していたし、大丈夫だよ、楓ちゃん」 耕一が顔を下に向けて言うと、楓は僅かに表情を柔らかくして小さく頷いた。 「それにしても、こんな処でまた会うとはね」 梓の声に、改めて千鶴と、その交渉相手に耕一達は目を向けた。 宿泊場所をここと決めまだ部屋にも向かわないうちに、現れた逗留客。 さて、どうしたものだろうと見つめる中、柏木家の面々の前でタクシーから 降りて来たのは見覚えのある一団であり、あれと驚嘆の声をあげさせる事にな ったのだった。 今、こうして見ているとさっきは見えなかった組織構造が、窺えた。 双子のうちの一人が宿の者から簡単に話を聞き、髪の長い少女に報告してい る様子。 その少女の傅かれるのに慣れた自然な様子。 「秋葉さまって呼ばれているね」 「うわあ、お嬢様っぽい」 「ぽいじゃなくて、本物だろう、あの雰囲気」 「兄さんって事は、兄妹かあの二人」 「似てないというか、雰囲気がまるで違うな。あまりお坊ちゃまぽくないね」 「親戚か何かかもしれない」 「そうだな、俺だって初音ちゃんに、お兄ちゃんなんて呼ばれてるんだから」 「なるほどね」 あまり大きな声にならないようにしながらも、向うの一家を観察しつつ会話 が弾む。 しかし少しそれに加わってから、耕一はちょっと黙り込み、梓達三人に向け て口を開いた。 「千鶴さんは一人でいいですって言ったけど、やっぱり俺も傍にいるよ。 まさか険悪な事にはならないだろうけど……」 はいはい、千鶴姉が心配なのね、とにやりと笑った梓には気づかない振りを して、耕一は千鶴に向かって歩き出した。 ◇ ◇ ◇ 千鶴がまず名乗り、ついで秋葉が応える形で、僅かな探りあいにも似た会話 は始まった。 柏木千鶴さん。 妹さん達と従兄弟の方。 秋葉は正面で微笑む千鶴を見て、その背後へちらりと目をやった。 さっき浮かんだささやかな人間関係に対する疑問が、取りあえず解決された。 一番年長だから千鶴さんが来たのね。 そう思い、そして何故千鶴さんはこちらに近づいて、迷う事無く私に話し掛 けたのかしらとも思う。 年長者だし男だし、普通は兄さんを相手にするものじゃないかしら。 秋葉はそう思いつつも公的な場での薄い笑顔を、自然に作り出す。 簡単に自分達の説明をする。 はたして、千鶴はどうしようと戸惑った表情を一瞬浮かべた。 「ああ、お兄さんだったのですか。私……」 秋葉と志貴の顔を見比べるようにして、何か葛藤があったようだが、そのま ま秋葉を相手として話を続けた。 兄さん、どう思われていたのかしらというあまり答えを求めてはいけない問 いを秋葉は脳裏から消した。 「ええと、遠野さん。これからまた何時間も車に揺られて、隣の市まで行く気 は……、ないですよね」 もう夕刻に近い。 秋葉は小さく頷いた。 それを予期したように千鶴は言葉を続けた。 「女将さんに聞いてみたんですけど、今残っているのは、二人部屋が4つと三 人部屋が1つなんですよ。そう考えると全然部屋が足りないという訳でもない んです」 「そうですね」 秋葉は部屋の数と人の数を簡単に頭の中で動かしてみる。 何とは無く千鶴の言葉の方向が見えたが、秋葉はあくまで相手の提案を聴く スタンスを変えずに対する。 「遠野さんは三つ部屋を予約されてましたけど、一つ減らして貰えませんか。 二人部屋を二つと言う事になりますけど」 「ええと、そうなると琥珀と翡翠で一部屋、私と兄さんで……。だ、駄目です」 「お兄さんとご一緒ではダメですか……? ああ、そうですね、高校生くらいだとそういうのは微妙かもしれませんね」 千鶴の顔に困ったような表情が浮かぶ。 それを見て秋葉も何とも困惑したような顔に変わる。 いえ、嫌じゃないんです、むしろ。 むしろもっと押していただければ、仕方なくという形で……。 口にする訳にもいかず、秋葉は内心で呟く。 「じゃあ、わたしか翡翠ちゃんが志貴さんとご一緒するのは如何ですか?」 横から、弾んだ声が聞こえる。 千鶴が唖然とするほど素早く秋葉は琥珀に向き直り、断ずる様に答えた。 「却下。冗談じゃないわ」 「いい考えだと思ったんですけどねー」 と、秋葉の背後から新たな声が投げ掛けられた。 「じゃあさ、俺が三人部屋貰ってそちらのお兄さんと相部屋ってのはどうかな」 あら、いつの間にと秋葉はその男性を振り返る。 大学生位かな、と秋葉は割にしっかりとした体格の青年が目に入る。 千鶴が簡単に紹介を済ませ、秋葉も名前を名乗る。 秋葉は、千鶴の「…従兄弟の耕一さん」と言う時の微妙な間と何とも言えな い響きに少し興味をひかれた。 どういう関係なのかな、この二人……。 「それとも、初音ちゃん達に三人部屋行って貰って、俺と千鶴さんとでという のも……、千鶴さん、冗談だって。 ええと、そちらが嫌じゃなければだけど、どうだろう?」 あ、けっこう笑顔が暖かくて……、じゃなくて。 秋葉はその提案を吟味する。 琥珀と翡翠で一部屋で、私が一部屋。 ここは当初の予定通り。 兄さんか、割と他人に慣れない方だけど、平気かしら? 「それはありがたいお申し出ですね。兄さんさえ……、翡翠? 兄さんは何処 にいったの?」 「あの、秋葉さまにまかせると仰られてお散歩に」 当惑した様子の兄付きのメイドを軽く睨むような顔で見て、秋葉は溜息をつ いた。 こんな時に何処へ行ったのかしらという非難めいた気持ちと同時に、どうし て今、この場を離れたのかしらと疑問が起き、消えた。 「ああ、もう。じゃ、いいわ」 なおも口の中でぶつぶつと呟くと、一転してすまし顔で千鶴と耕一に対する。 「申し訳ありませんが、それで結構です。柏木さん、相部屋をお願い致します」
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