遠野家と柏木家の折衝が繰り広げられていたまさにその頃、すっとその場を
離れた人影一つ。
 当事者たるその人物は遠野志貴。
 旅館の裏手から木々の鬱蒼と生え茂った中へと足を踏み入れ、奥へと歩いて
いた。誰にも告げずに単身、ふらふらと。

 宿をどうするかの、話の動向が気にならない訳ではなかった。
 ただ、それほど重要視してはいなかったのは確かだった。
 特にこじれる事にもならないだろうし、どうにかなるだろう、志貴の頭には
そんな考えがぼんやりと浮かんでいた。
 さすがに外だと寒いだろうから、屋根のある処。いくら何でも建物の中に寝
られるスペースは事欠かないだろう。さっきの流れなら自分が布団部屋でも貰
えばそれで……。
 
 半壊しているとは言っても、相当な格式のある高級旅館。
 そこの布団部屋というと、一泊でどのくらいかかるんだろう。
 ふと、馬鹿な事を考えている事に気づき、志貴は軽く表情を変えていた。
 うっすらと笑みにも似た表情。
 そして馬鹿な事といえば……、と連想が続く。
 何をしているのだろう、俺は?
 改めて、意識が自分の行動に向かう。

 自分でもおかしくは思っていた。
 誰にも告げずにこそこそと裏手から消えるなんて。
 別に自分が仕切って交渉に当たる訳では無いけれど。
 取り合えず秋葉の手並みを見守って、部屋に荷物を置いて落ち着いて、それ
から散歩でも何でもすればいいのに。

 ひとりふらりと横手のこんな処に足を運ぶなんて。
 よくよく考えると正気の沙汰じゃない。
 秋葉辺りに後でくどくどと何を言われるやら。
 本当に不思議だった。
 ぶらぶらとその辺を、というにはあまりにはっきりとした足取り。
 目的地があってそこへ行くというより。
 むしろとにかくあそこから離れようと……、え?

 離れようと?

 ふと引っ掛かる。自分の意識の中での吐露に対し、頭のどこか他の部分が醒
めて疑問を感じていた。
 それに対して意識せぬ言葉が続く。自問自答のように。
 
 離れようとした。
 ただ、あそこにいるのが……。

 立ち止まる。
 なんだろう。
 はっきりと言葉を具現化するのに怖れを感じる。

 そうだな、こんな感じだ。
 俺は―――、

   怖かった。
   気持ち悪かった。
   嫌だった。

 そんな言葉が浮かぶ。
 浮かんで、すうっと消える。
 そんな感じの……、いや微妙にどの言葉も違う。
 なんだろう、あの感覚は……。
 志貴の顔が歪む。痛みではなく、もどかしさ。
 手の届かない、喉元まで来たものが口から出ない、そんな軽い苛立ち。

 アルクェイド。

 そして唐突に、思いがけぬ名前、いや顔が浮かんだ。
 見慣れた暖かい笑顔ではない。
 怒った時の冷たい顔でもない。

 あれは……。
 志貴の考え込む顔が、僅かな驚愕を浮かべる。
 
 ドクンと心臓が鼓動する。
 何故、思い出す。

 あれは、表情なき表情。
 僅かな機械的な意識の表明。
 今ならばずっと多彩に感情を露わにして示すであろう顔。

 驚き。
 アルクェイドの顔は驚きを浮かべていた。
 予期せぬ来訪者を迎え。
 今まで未知なる力を振るわれて。
 初めて、抵抗する間もなくばらばらに切断されて。

 志貴は思い出した。
 意識もせず、機械のように、アルクェイドの体を無数に切断した時の事を。
 あの、吐き気とおぞましさ。
 体が震え、眩暈がした。
 手に伝わる感触、熱く同時に冷めている体、湧き起こる快感……。
 打ち消す。
 必死に感覚の再現を押し殺す。
 今の体は倒れこそしないが、それでも志貴は自分の体を抱くようにして呼吸
を静め、ふらつく体を支えていた。
 束の間で波涛のような、突風のような悪寒が志貴の体から去っていった。 
 
 わからない。
 本当のところはわからない。
 ただ、志貴は気がついていた。
 原因を。
 自分にこれを引き起こしたものを。
 間違いない事実を。

 千鶴を、いや柏木家の面々を目にしただけで、体がむずむずとしたのを。
 頭がぼうっとして手足が勝手に動きそうになるのを。
 志貴ははっきりと認識した。

 まずい。そうぼんやりと自覚した。
 でも少し耐えれば、その衝動を抑えられる。
 そう思ったから、その場を離れたのだと。
 自分自身の中にあるものを怖れたのだと。
 怖れたのだ。

 七夜の血を……。
 
 ぶるぶると頭を振る。
 馬鹿な。
 何を考えている。
 あの人達は日の光の下を歩いていた。
 それに、死徒のような邪気も、違和感も無かった。
 では、混ざりものなのか。遠野の一族の如く。
 いや、それとも少し違う。あれは……。

 そこで思考を止めた。
 意識せぬように努める。
 
 気を逸らすように前を見つめる。
 樹木の群。
 光が通りづらく、先は薄暗く視界を閉ざしている森の奥。
 まだ日の暮れにはやや早いが、時間の流れを異とするように昏い薄闇。
 
 どちらかと言えば人に怖れを感じるであろうその空間。
 しかし、志貴は心が穏かになるのを感じていた。
 安らぎ、平穏、そんなものが心に染みてくる。
 今初めての感慨では無い。宿に向かう車の中でも、それら樹木の連なりは志
貴の気を引いていた。
 後であそこに行ってみたい、そんな想いを抱いていて、志貴は車中の窓から
視線を向けていた。
 こうして実際に立ってみると、何故とは知らず、郷愁にも似た心の動きが起
こってくる。
 志貴の記憶の中には無い遠き過去の日々。
 七夜志貴としての自分の、断絶した過去が心の奥底から欠片となってでも浮
かび上がるのだろうか?
 どこか懐かしい。
 初めて来た筈のこの森が、懐かしく感じられる。

 きっと自らも知らぬ心の奥底の埋め火によるもの。
 退魔としての血を怖れながら、同時にその血故の憧憬にも似た想いを心で転
がしている。
 勝手なものだなと思う。
 それでも、この暗き木々の群に心和ませるのがあるのは確かだった。

 志貴は再び歩き始めた。
 まだ戻るのは、良くない。
 何故とは知らず、そう確信する。
 しばし、木々の中にて、鬱蒼たる森の中にて気を休めよ。
 その声に従う。従ってさらに奥へと進んでいく。

 進むほどに見通しは悪くなっていく。
 日も先程よりは落ちているだろう。
 しかし、そんな事はさして志貴には気にならなかった。
 木々の根や落ちている枝葉で足場は悪いが、道無き道を歩きなれた歩道でで
もあるかのように、志貴の足は自然と進む。

 山や森に慣れた人間は、初めての処でもさして苦もなく歩くことが出来る。
 もちろん、思わぬ地形の変化、樹木の密集の違いに戸惑う事はあるが、それ
でもまるで旧知の処のように道無き道を進む事が出来る。
 暗がりの僅かな光。
 空気の流れ、匂い。
 音。
 そして何より足で道を“視る”事を知っているから。

 志貴もまた、初めて来た筈のこの木々の中を、自分の庭でも逍遥するように、
何ら不安げも無くしっかりした足取りで奥へ奥へと進んでいた。
 ほとんど意識する事無く。
 自然に。 
 ふと気がついて、不安になるほど深く。
 まずいかなと思ったが、一方でたとえ迷ったとしてもどうとでもなるだろう
と確信している意識が頭の片隅にある。
 それが何に起因するものなのか、よくわからないが、志貴はそんなものかな
と疑問に思わない。
 あるいは思わないようにした。

 そうしている間にも、より歩きやすい足場を、足が求めてずんずんと進む。
 木の根を踏み越え、腐葉土のようになった泥濘を避け。
 先へ先へと、背後の宿からは離れていく。
 
 背後?
 果たして振り返った時に、逆戻りしようとした時に、見慣れぬ建物を目にす
る事が可能だろうか。
 初めて、志貴は背筋に水を垂らされた様にびくりとした。
 
 だが、幸いにも事態は収縮へと向かう展開を見せた。
 先に見える木々の隙間。
 ある処で開けている。
 それにそこかに垣間見えるのは……。

「さっきの道路だな」

 志貴は小さく呟く。
 自分でも気づくほどほっとした響きが混じっている。
 舗装された道。開けた空間。
 この辺の地形図についてはよくわからないが、それでも何とか志貴には位置
関係がつかめた。
 とにかくこの道を登っていけば、宿に嫌でも着く筈。森をまっすぐ奥に歩い
ていると思っていたら、微妙に蛇行するかして出たのだろう。
 かえって逆戻りするより、こっちから……。

 と、気持ちを反映して弾んだ志貴の体がぴたりと止まった。
 
 違和感。
 何かがおかしい。
 居心地が悪い、何とも説明のつかないむずむず感。

 何かがいる。何者かがいる。

 殺気……とは違う。
 でも、身を潜める気配と、消しきれぬ緊張感。
 それをはっきりと目や耳で確認できる訳ではないが、志貴の感覚は気取っていた。
 
 

  ・・・以下、鋭意書き直し中。



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