月明りの舷窓

作:しにを



 学園船ハンギング・バスケット・ポーラスター。  甲板には木々が生え、プールやゴルフ場、乗馬場までも有する巨大客船。  そして世界中の資産家の令嬢が集う学園。  その身には一匹の犬を除きただの一人も男性を乗せず……、食堂や各種のレ ストラン、喫茶店で饗される食肉すら全て雌だという噂もある……、完全なる 女の園。  決まった航路を持たず、学園長の舵取り次第で何処へも向かう外界と切り離 された小世界。  ただし彷徨えるオランダ人の如く乗員全てがそこに永劫棲まう訳ではない。  生徒は当然ながら入れ替わるし、短期の滞在者も少なくは無い。  来てはまた去っていく往来の者達もいる。 さながら寄せては返す波の如く……。   ◇1日目午前・学生個室◇ 「……でさ、かなえさん、楽しみだよねえ」 「うん、何が?」  熱のこもった言葉を上の空で聞き流されたと悟り、ショートカットのボーイ ッシュな雰囲気の少女が軽く溜息をつく。  話し相手だった‘かなえ’と呼ばれた少女は、膝の方まで垂らした黒髪を煩 わしげに手で掻きまとめながらしゃがみ込んで何やら機械を弄くっている。  眼鏡の中から真剣な視線が稼動するそれを射抜く。 「これで……」    軽快な回転音。   「よし、成功だ。ああ、すまなかった、杏里。ツメだったんだ」 「おめでとうかなえさん。何だかわからないけど成功したんだ」 「うん。でもこれは試作の試作で本物はさらにコンパクトにしないといけない からまだまだこれからだ」  この船内で一番彼女に親しい杏里ですら、めったに見ない満面の笑み。  いつも冷静にしている、おまけにめったに人前に姿を現さないこの天京院鼎 という少女が笑えるという事実を、知らぬ者とて多いだろう。  杏里も嬉しそうに笑みを浮かべる。  追従ではなく、天京院が嬉しがっている事が、杏里にも嬉しいのだ。心の底 から。 「で、何だって、杏里?」  「今度は我らが祖国、日本からのお客さんだそうだよ、楽しみだなあ。そう思 わない、かなえさん」  急速に興味を失ったかのように、興奮気味の杏里に構わず、今度は部屋の主 は、デスクの上にあった鉄製の筒をああでもないこうでもないと弄くり手を加 え始める。 「日本といっても別になあ。久しく帰っていないし。ああ、駄目だ」 「ああ、どんな子猫ちゃんがボクとの出会いを待っているんだろう。きっと恥 らいつつボクの瞳を見つめて、感動に震えるんだろうなあ。そうだよ、君の運 命の人も、今ここで胸を焦がしているよ。嗚呼……」  身悶えしてまだ見ぬ来訪者の事を考えて感極まっている杏里。  それは当然、天京院の感情にいらぬ波風を立てる。   「用がないなら、出て行け、杏里」 「ああ、かなえさんにはわかってもらえないのかなあ、この胸の高まり。  こういう浪漫を解さない処がかなえさんの数少ない欠点だと思うな。 ところで、さっきよりずっと小さいけど、それは何?」 「うむ、ミキサー付釣竿の試作品だ。軽量で使い易いものを作ろうとしている んだが、なかなか難しい。これができれば船からカジキマグロが釣り上げられ るのだがね」 「へえ、凄いなあ。でも、かなえさん、釣りなんかするの?」 「いや、そんな趣味はまったく無い」  当たり前だろうと言わんばかりの断言調。  一瞬杏里は言葉を失い、気を取り直して会話を続ける。 「じゃ、誰かに頼まれたの?」 「いや、クローエにどうかと話したら一言のもとに断られた」  かなえさんとクローエという組合せ、何だか不思議だな。  二人とも平気で一日中黙っていられるし、何を話すんだろう。  ちょっと二人の会話は杏里の興味をそそった。   「断られたのになんで、作るの?」 「作りたいからだ」 「……そうか。頑張ってね」 「ありがとう、まあ技術的な問題はクリアーしているし、後は公差の設定でト ルク変化の許容値を……、やっぱり試作図を見直すか」  後ろ手にデスク隅のカップを手にして、冷たくなったコーヒーの残りを一気 にあおり、天京院は杏里に尋ねた。 「ところで、そのビジターじゃなくて短期留学のお客さんとやらは、何処の学 校から来るんだ?」 「うん、有名なお嬢様学校なんだってさ、かなえさんは知ってるかな、浅上女 学院っていう名前だそうだよ」 ◇1日目午後・上空◇  ヘリコプターが一機、風の無い青の中、洋上の巨大な船へと向かう。  世界最大の移動式学園へと。 「やっと着いたな」 「そうね」  後部座席に座っていた少女が、互いに相手の耳に口を近づけて話す。  最初は体を振るわせるジャイロの音に負けぬ大声を上げていたが、やがてう んざりしてやめてしまった。  もとよりそうそうぺちゃくちゃと空虚さを埋める為の意味の無い会話をする 二人ではない。 「しかし、非常識だな。あれは」 「そうね。まあ、退屈はしないと思うけど」 「だと良いけど」  ヘリコプターが降下を始めた。  近づいて来る甲板。  上空からも見えた木々や噴水、公園らしきものが広がっていく。  なかなかの壮観な眺めに二人はしばし外に見入った。  十日間の短期滞在の命を受けて、浅上女学院より訪れた二人であった。  遠野秋葉と月姫蒼香、この二人がH・B・ポーラスターに降り立った。 ◇1日目午後・操舵室◇ 「それでは、よろしくお願い致します」  学園長に完璧な挨拶をして頭を下げると、秋葉と蒼香は退室した。  後ろ手に扉を閉めるまで厳粛な表情は続いた。  そして、幾分放心した顔になる。  蒼香だけでなく、秋葉までが。 「なんか非常識というか、奥深い人だったな」 「聞こえるわよ」 「別に悪口言ってる訳じゃなし」 「そうだけど。でも誰が聞いてるかしれないじゃない」 「日本語が分かるかな。しかし、これなら羽居でもよかったかな」  独り言のように呟く蒼香。  非常に馴染みのある名前に秋葉の眉がぴくりと動く。 「何か言った?」 「うん、おまえさんの同行者さ、やっぱり羽居に行って貰えば良かったかなっ て言ったんだよ」 「羽ピンが何ですって?」  秋葉はもう一人のルームメイトの愛称を露骨に嫌な顔をして口にする。  声にも動揺の色が混じっている。  予想通りの反応に蒼香は喉の奥で、くっくっと笑う。 「だからさ、今回おまえさんが一人目に決まって、その後で何故か人徳ある副 会長の同行者がなかなか決まらなかったろう?」 「いいわよ、そんな皮肉言わなくても。私と十日間知る者も無く二人きりで過 ごすなんて、そうそう希望者がいないのは知ってるわよ」 「そうかい、アキラなんかは残念がっていたけど」 「そうね、中等部の生徒は対象外と知った後でね。で、それが何? 見かねて 手をあげてくれてありがとうって言えばいいの?」 「いや、そうじゃなくてさ。私の前に同行希望者がいたんだよ。秋葉ちゃんが 行くんなら私も行ってみたいなあ、とか言い出した奴がさ」  秋葉が身震いする。  脳裏ににこにこと笑っている少女の姿が浮かんでいる。  わかったかい、と雄弁に語る目で蒼香はその秋葉を見つめる。 「それ、まさか」 「その、まさか」  秋葉の手が蒼香の手を取る。  痛いほどがしりと秋葉の両の手が蒼香のそれを握っている。  目に溢れんばかりの感謝の念。 「ありがとう、蒼香。持つべきものは友達ね」 「ああ、感謝しな。少なくともこれでお前さんは自分の事だけ心配すればそれ ですむんだから」 「すみません、お待たせしました。秋葉さんと、蒼香さんですね?」  会話に夢中になっていた二人に、話し掛けてきた声。  銀髪に眼鏡、少し硬い雰囲気の少女が社交的な笑みを浮かべて立っている。  柔らかい優しそうな雰囲気と、知性を感じさせる瞳。少なくとも理性的であ る事を重んじて、規律とか秩序とかを遵守する事に意義を見出すタイプ。  その姿は少なくとも秋葉の目には好感を持って映る。 「えっ。ああ、失礼しました。私が遠野秋葉、彼女が」 「月姫蒼香です、よろしく」 「ヘレナ・ブリュルーカです。あなた方の手助けをする為に参りました。英語 は大丈夫ですよね。もし不自由あれば、あまりお勧めはしませんが、日本語の 出来る……」 「ああ、君達が日本から来たお客さんだね。  この広い世界に浮かぶ船の中で出会うなんて天文学的な確率だというのに、 この素晴らしい神のお導きに感謝するよ。  二人共何て愛らしい。  今日という日をボクは絶対に忘れないよ」  いつの間にか、第四の人物が混ざっていた。  とうとうと言葉を紡ぎだすのを、三人の目が見つめる。  絶望を含んだようなヘレナの目と、何、これは……と雄弁に語っている秋葉 と蒼香の目。 「なんて綺麗な長い黒髪なんだろう。  着物を着たらきっと日本人形のように、妖しく美しいんだろうなあ。外観は 冷たいくらい強いのに、中は弱く庇護を求めている。そんな風に見えるよ」  うっとりと秋葉を見つめて評する。 「君は、ああ、か細く見えるのに覇気がある。ニンフのように気ままに駆けて 躍動している時の姿が目に浮かぶなあ。放埓で自由な小鳥のように手の中から 逃げ出してボクは必死に追い求めるんだ。うん、素敵だなあ」  近くにいた蒼香の手が取られ、そっと握られる。 「杏里・アンリエット。いきなり何なの」  ヘレナが一番早く我に返り、杏里を叱責する。  蕩けるような笑みをヘレナに向けて杏里はそれに答える。 「ああ、決して君を蔑ろにしてはいないから、怒らないでおくれ、ボクの可愛 いヘレナ。ボクはただ、遠方から来たボクの故国の子猫ちゃん達にご挨拶をと 思っただけだから」 「そんな事で怒ってるんじゃないわ。お客様になんて事をするの。ごめんなさ い、彼女が」 「杏里・アンリエット。日本人とフランス人のハーフ。京都で生まれ育ったん だ。よろしく」 「よ、よろしく。遠野秋葉です」 「月姫蒼香。で、いつまであたしは手を握られてなきゃいけないのかな」  言いつつ、すっと手を捻る。  さりげない動きだが、杏里の呼吸を計っての、崩し。  その気になればそのまま手を軸に一回転させる事も可能だが、バランスを崩 して転びそうになる程度に抑える。 「とっ、とと」    軽く蒼香は目を見開く。  蒼香の動きに杏里は見事に反応した。  軸足から、上げかけた足に重心が移され、僅かによろめきそうになった程度 ですんでいる。  今のをこらえるなんて……。  感心とも動揺ともつかぬ目で蒼香は杏里の顔を見つめていた。   「それより、ヘレナ。数学の先生が呼んでいたよ」 「えっ、何で」 「セカンドクラスのデータがどうとか言ってたよ」 「それで何で私が呼ばれるの?」 「ボクがお手伝いしていたんだけど、何だか凄い騒ぎになっていて、ヘレナの 助けが必要になったみたい」 「杏里が悪いんじゃない」  とは言えヘレナの挙動が急にそわそわとしたものになる。 「良かったらボクが引き受けるよ」 「でも」 「船内の案内だろ、それくらいなら任せてよ。ヘレナは先生の手伝いが出来る し、彼女達も日本語が使える相手の方が助かる事もあるだろう。それに何より ボクは嬉しい。ほらみんな丸く収まるんだ。神のお導きもかくやと言えるよ」  それでもお客様を連れて船内を案内するという、自分に与えられた使命を放 棄するのは葛藤があるらしくヘレナは困った顔をする。  秋葉は同情気味に声を掛ける。 「ご用事なら、気になさらずにどうぞ。杏里さんにお願いしますから」 「すみません、用事がすんだらまた戻ります」  秋葉の声にすまなそうにヘレナは頭を下げる。 「もしも、貞操の危機を感じたら、遠慮なく実力行使をして下さい」 「貞操の」 「危機?」 「やだなあ、ヘレナ。ボクがまるで危険人物みたいじゃないか」 「よくそんな事が言えるわね。私に何度も何度も……」 「少なくともボクは相手の女の子に酷い事をした事はないよ。ヘレナだってい つもあんなに喜んで……。行っちゃった」  顔を真っ赤にして逃げるように去っていくヘレナ。 「じゃあ、行こうか。ポーラスターの船内を案内するよ」 ◇1日目午後・学生個室◇ 「で、なんだって真っ先にあたしの部屋にやって来るんだ、いの一番に?」  冷ややかとまではいかないが、お世辞にも暖かみのあるという顔ではない。  それでも天京院は少し迷った末に、焼結のギアの噛み合せを測定を中断して ノートに数値を書き止めた。  杏里が来た以上、作業は続けられまいという判断と、見知らぬ来客の姿を認 めた為。  普段であれば、もう少し気を配ったかもしれないが、浮かれ気味な杏里は満 面の笑みで天京院に対する。 「やだなあ、かなえさん。今朝話したの忘れたの?   かなえさんが会いたいって言っていたから、何はさて置き二人を連れて来た んだよ」  それを皮切りに杏里は二人の紹介と、自分と彼女らを引き合わせた運命の喜 びをとうとうと語り始める。  天京院は「いつ言った」と力なく呟くのがやっとであった。  まぎれもない杏里の善意と、遠方からはるばるやって来た(のだろうか?  天京院には今ここが北極海なのか、東京湾なのかはたまたサルガッソーでもさ 迷っているのか知らないのだが……)故郷からの訪問者への礼儀ゆえに、溜息 をついて表情を改める。  彼女にしても礼節に基づく温和な態度が取れない訳ではない。  天京院にしては親しみを込めた目で、その二人、秋葉と蒼香の方を見る。  二人はと言うと、この部屋の惨状を呆れたを通り越して感心した表情で眺め ていた。 「凄いな、これ。どこをどう積み重ねればこんなになるんだ?」 「ほんと。このまま美術館に運んだら前衛芸術として高く評価されそう」 「なあ、遠野。あたしらが無理矢理食い止めてるから無事なだけで、羽居だっ て放っといたら、部屋をこんなにするんじゃないかな?」 「……否定できないわね。と言うか、平気なの、10日も留守にしてて」 「いや、不安だな。でも、さすがにここまでは……」  二人の前に広がる混沌、カオス。  本と機材と各種の機具。  どこがどうなっているのか見当もつかないほど、戸棚も床も窓枠もテーブル も物、物、物の山であった。  特に大小種々雑多に並べられたミキサーの群れが異様に見える。  いったい何に使うんだろう、そんな疑問に一向に答えが見出せない。  その部屋の主がこちらを向いているのに気付き、挨拶が交わされる。  乱雑に見えて、天京院が無造作にそこらの部品と図面をまた別の山に載せ換 えると、魔法のようにテーブルと椅子が現れる。 「杏里、カップを出してくれ。しまってあるのがのがニ客か三客あった筈……」  杏里が慣れた様子で自分と天京院のマグカップと来客用らしいコーヒーカッ プを並べ、天京院はコーヒーサーバーから薫り高い液体を注ぐ。  おや、と杏里が壁に設置された破砕音が特徴的なコーヒーマシンに目をやる。  故障中なのか電源が入っていない。  喫茶店にあるような「CLOSE」の木札が飾られていた。 「あら、美味しい」 「ほんとだ」 「まあ、主食だからな」 「かなえさんはコーヒーが切れると死んじゃうんだ」  冗談めかして杏里が口にすると、天京院は真顔で頷く。  興味がないと言ったものの、杏里ばかりでなく天京院も時折、日本の出来事 について質問する。 「ここには、ビジターとして短期間過ごす者達も定期的にやって来るけど、そ れはあくまで彼女らないしその保護者が希望しての事だ」 「小さい子猫ちゃん達も可愛いよね」 「それとは別に、各国の格式あるお嬢様学校とつながりを持って、交換留学生 や来客待遇で何日間か招くケースもある。君らはそれだろう?」 「そうね。でも何が目的なのかしら」 「さてね。外の上流階級層の人間にこの学園を見て貰うというのは重要なのか もしれない」 「戻ってから、宣伝になると言う事かな」 「そう。直接的にどうこうではなく、世界中から集まったお嬢様達を乗せた全 長1,000mの学園船なんて、事が伝えられ話題に上る事がここの幻想を強 化しているのではないかな」 「遠野はともかく、あたしはお嬢様なんかじゃないけどな」 「うーむ、そう言えばあたしはお嬢様なのかな、杏里?」 「かなえさんは……、ボクよりはお嬢様かな?」 「実家が金持ちで家に置いておけない問題児が隔離されている側面もあるな」 「何処も変わらないのね、全寮制の女子校なんて……」  それなりに活発に話が続く。  久々に二人以外の間で日本語での話をしていた為もあっただろうか。 「しかし、なんで素人である事がより評価に値するのか……」  突如バラバラ言う爆音に遮られる。 「あたし達が乗って来たヘリだな」 「また、ヘリで来たか……」 「普通は違うの?」 「うん、やっぱり港に着けるのが普通だよ。ね、かなえさん」 「そうだな、別に決まった航路がある訳でもなし好きな処へ行けるんだから。  大量に倉庫備蓄があるとは言え、補給の機会は多い方が良いし、陸が見える というのはやはり喜ぶ者も多い」 「でも最近ヘリコプター使うこと最近多いよね。と言うかしばらく港に着いて ない気がするなあ」 「そうだな」 「ふうん、普通は使わないのか。じゃあ30分程だけど珍しい体験できてラッ キーだったかな」 「そうね。そう言えば私たちの後に、どなたかここの生徒の方が乗せられたみ たいだけど」 「ああ、ちょっと具合悪そうだったっけ」 「ふん、医療施設も医師も超一流だぞ、ここは」  訝しげに呟く天京院。  けっこう長居した事に気がつき杏里が立ち上がる。   「そろそろ次に行こうか。それじゃ、またね、かなえさん」 「ああ」 ◇1日目午後・大図書室◇ 「で、ここが知識の泉、ポーラスターが誇る図書室だよ。  相当凄い蔵書だよね。もっとも実を言うとボクはあまり本に用があって来る 事は無いけどね」  感心したように秋葉と蒼香は周りを見回した。  本、本、本……。  嵌め込み式の本棚が迷宮のように壁となり広がっている。  荘厳な感じと共に、妖しい雰囲気すら漂わせているようにも見える。 「そちらがカウンターで、閲覧室がそっち。  ゆっくりと本を読むのもいいし、調べ物をしたり勉強したりするのにも向い ている……、らしい」  階段をぐるりと廻ると、一転して、直射日光を避けつつも柔らかい光を取り 入れている一角があった。  読書をするには良さそうな空間。 「面白い造りね。随分独創的と言うか」 「設計者が凄い天才だったんだ。あ、そうそう、それで思い出したけど、ここ では一つ気をつけねばいけないんだ」 「なに?」 「それはだね……」  怪談話でも始めるように、声色を入れる杏里。 「ここでは決して静寂を乱してはいけない」 「普通、図書館で騒ぐものではないでしょう」  秋葉が水を差すが気にした様子はなく、杏里は続ける。 「静寂を破ると、図書館の格闘王、深遠なるヌシ、這い寄る静寂……」 「なんだい。それ」 「現れるんだ。ここで騒いだりすると恐ろしい目に遭う。  あ、信じていないね、二人共。でも、本当に容赦がないんだよ。そこが魅力 ではあるけど、知らずにいて君たちがだね……」  次第にボルテージが上がっていく杏里。  何を脳裏に浮かべているのか、オーバーアクションで嘆きのゼスチャーをし ながら、さらに……。  ぐぼっ  何かが鈍器で殴られたような、何かに穴が穿たれたような嫌な響き。 「うるさいわよ、杏里」  杏里の体が崩れ、倒れ伏せる。 「見えた、蒼香?」 「落ちる瞬間はどうにか。でもどこから現れたのかわからなかった」 「私も」  突如何かの塊が杏里の頭上より飛来。  そこから棒のようなものが頭に向かう。  それが足だと認識。  踵が脳天に打ち下ろされた。  倒れる杏里。  何とか二人に見て取れたのはそんな光景だった。  杏里の傍らにはさっきまでいなかった人影、少女。  しかし、その少女がどこから跳んだのか、落ちてきたのか。まったくわから なかった。 「ここにはあらゆる国の本もあるし、かなりの希書も保存されているわ。  何か欲しいものがあれば探すからカウンターに来てくれればいいから。  でも、ここでは静寂を守ること。わかったかしら?」  すらりとした長身、首の辺りまで黒髪を垂らしている少女はそう言うと二人 の返事を待った。  二人は口を開かずこくこくと頷いてみせる。  よろしいと言わんばかりに振り返ってカウンター裏へ歩もうとした少女に恐 る恐る蒼香が声を掛ける。 「あの、これはどうすればいいの?」 「ああ、杏里なら平気よ。そろそろ何も無かった様に起き上がるから」 「でも、こんなに血を流して……、えっ」 「ああ、ボクの事を心配してくれるんだ。やはり優しいなあ」 「うわ、もう復活したのか」  何も無かったように、杏里はむくりと立ち上がり「安心して」というような ポーズを取る。 「クールな感じが素敵な彼女は、クローエ・ウィザースプーン。  お父さんとお兄さんがこの船を設計して造ったんだよ。代々実家が造船家で 高名な人達を輩出してるんだ」 「へええ」 「ふうん」  秋葉と蒼香が改めてクローエの方を見る。  既に彼女は我関せずと、カウンターの中で本に目を落としている。 「杏里と同じ制服って事は同学年?」 「うん、クローエもボクと同じセカンド。生まれたのはボクより後、神様に感 謝だね」 「図書委員なの?」 「違うんだ。ボクもてっきりそうだと思ってたけど」 「じゃあ何であそこに当たり前のようにいるの?」 「図書委員の姿見たことないからなあ。司書の先生はいる筈だけど。  でも実に似合うと思わない?  クローエがあそこで静かに書物を紐解いて思索に耽っている姿って。ボクは 大好きだな。  そして、あの姿とのギャップ……、可愛らしさ。それが素晴らしいんだ」 「なんか一睨みしたけど」 「おっと。さすがに二回も踵落としを食らうのは勘弁だな」 「じゃあ、行くね、クローエ。読書の邪魔してごめんね」  クローエは本に目を落としたまま、微かに頷いて見せた。 ◇1日目夜・学生個室◇ 「いろんな処を案内されたけど、大分偏ってる気がするわ」 「そうだな。その代り普通なら行かないような処も連れてってもらったけどな」  二人用の私室として用意された一室。  杏里と共に広い船内のあちこちに赴き、夕食を取り星空を眺めた後で秋葉と 蒼香は当面の住まいへとやって来た。  かなり広く快適な部屋を見回し、舷窓からの眺めやバスルームなどを見て回 ると、荷物を片付けベッドに腰掛ける秋葉と蒼香。  さっそく湯浴みもすませ、パジャマ姿になっている。   「どんな処かなと思っていたけど、これならまあ楽しく過ごせそうね」 「遠野なら、何処でも自分の家みたいに過ごしそうだけどな」 「蒼香こそ」 「あ互い様か。でも、久々だな」 「そうね。こうなると羽居がいないのがちょっとだけ残念ね」 「そうだな。結構寂しがってたぞ、あいつ」 「……そう」  少し沈黙が支配する。 「寝ましょうか」 「そうだな」 「おやすみ、蒼香」 「おやすみ」  かくて二人の一日目の夜は更けた。 つづく
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