◇5日目朝・学生個室◇ 「うんん……、朝?」 「ふぁああ、よく寝たなあ。ってなんで遠野、あたしのベッドに」 「え、蒼香。何言ってるのよ、あなたが……、あら」 「ほら、みろ」 「ごめんなさい。でも、何で。蒼香、何で私、あなたのベッドに寝てるの?」 「さあ……?」  もつれ合うようにベッドを共にしていた二人。  頭をひねる秋葉。  額に皺を寄せる蒼香。  二人とも寝る前の記憶が定かではなかった。  そしてどれだけ考えても、何も浮かんでは来ない。  「!」 「どうした?」 「ちょっと、朝って何よ」 「え? そう言えば目を覚まして着替えもすませて、なんで寝直してるんだ」 「あああああ」  突然の秋葉の奇声に蒼香は体をびくんとさせる。  秋葉の視線の先をゆっくりと追う。  時計?  秋葉に続いて蒼香もそれが意味するものを認識する。 「どうした……、え、なんだこの時間?」 「そうよ、七時前に外でたのよね」 「ああ。それがなんで今、六時半なんだ?」  壁時計だけでは足りぬとばかりに、恐る恐る腕時計にふと目をやり……、そ して凍りつく蒼香。 「なんで一日跳んでるんだ?」 「……」  秋葉も蒼香の腕の液晶版に目を向けて、その日付表示に絶句する。 「落ち着いて、ええと、確か目が覚めて、散歩に行って」 「そうだ、それは確かだ。それで庭園に行って、何とか言う娘と会って」 「アイーシャ」 「そう。あれ、もう一人いなかったっけ?」 「そうだったかしら?」  おぼろげな記憶がもどかしい。  しばし二人で腕組み。 「まあ、それは置いておいて。で、それから……」 「思いだせない」 「なんか変なものを口にしたような、気のせいかなあ……」  ふと、蒼香は机に置かれたノートやプリントに目を止めた。  手にとり、眼を見開く。 「うん……、え、何だこれ」 「どうしたの、そんな動転して。蒼香らしくない」 「遠野も自分のノート見てみろよ」  疑問符を浮かべつつ秋葉は蒼香の言葉に従い、ぱらぱらとノートを捲る。  数ページ見て動きが止まる。  凍りついたまま数秒を過ごし、それから今度は凄いスピードで他のノートを 確認し始める。 「え、何で。どうして、いつの間に私、講義を幾つも受けているの?」 「それも、まず受けないラテン語読解だの、寄生虫学だの、科学史、あ、これ し少し興味引くな……」 「これ、私の字よね。こっちのテストなんか、一問間違いの成績」 「なんで自分の知らない事で小論文書いてるんだ、あたしは」  とりあえず、今日の講義はきちんと出ようと支度を始めるまで、二人は首を 捻り続けていた……。 ◇5日目午後・大図書室◇     唐突な声であった。  しかしあまりに自然すぎる口調に、秋葉と蒼香は会話に割り込まれたという 感覚を持たなかった。  カウンターにいた筈のクローエがいつの間にか二人のいるテーブルの傍らに 立っていた。  レポートを進めつつ、うるさくない程度に会話をしていた二人は顔を上げ、 静寂を愛する年上の少女を向く。    初めて会った時と同じく、幾分憂いのある表情をしている。  問い掛けるような表情。 「日本語わかるの?」 「少しならば」  クローエは頷く。 「で、私の聞き間違いじゃないわよね」  そう言って秋葉を見つめる。  杏里がいれば、その眼に常ならぬ色を認めていただろう。  他者への関心という、クローエが持つのが稀有に思える、瞳の色を。  しかし、静寂を乱す者と杏里以外にほとんど心を動かさないこの少女の常を 知らぬ二人にも、どことは言えぬ普通でなさが感じられた。  表情は落ち着いている。  声も静か。  激しくもないし、とげとげしい響きが混じっている訳でもない。  なのに、何故か緊迫感が漂う。  不思議な響きが声に乗っている。    「ええ。兄さんがいるわ」  秋葉が答える。  じっとクローエは秋葉を見つめて、そう、と軽く頷いた。 「お兄さんが……、好きなのね?」  小さな、感情のさしてこもらない声。  蒼香などにすれば話題の一つとしてしか取らなかったかもしれない。  しかし、秋葉は反応した。  動きが凍りついたように止まる。  その友人の様子に、蒼香もぞわっとした寒気を感じた。  何かの口火が切られたのだと、理性でなく心が悟っていた。  秋葉はクローエを見つめていた。  じっと。  強くも無く、弱くも無い眼で。  口は閉じている。  すぐには答えようとしない。    傍らの蒼香を少し意識する。  彼女に「はい」と答えるのを聞かれたくはない。  でも目の前の少女に対し、言葉を濁らせたり、兄への愛を否定する事はでき なかった。  何故だかわからないが、彼女への答えは、自分の魂への答えと同じと思えた。  自分の想いの否定は、志貴を自ら殺す事に等しいとすら感じていた。    軽く、すぐに空気に消える言葉として、語ってはいけない。  永劫刻まれ残る石碑の如き、重い言葉として答えねばならない。  クローエの言葉に、ゆっくりと秋葉は口を開く。  濃密に漂う緊張感。  この瞬間、二人は同質なものを抱え煩悶する者として対峙していた。  蒼香は黙ってこの突然のプレッシャーに耐えていた。 「好きよ」  無数の言葉を込めた一語。  しかし、クローエは完全なる理解をもって秋葉の言葉に頷いた。  透明な笑みを浮かべる。 「大事にするのね」  僅かな悔恨の想い。  秋葉はそれを間違いなく感じ取っていた。  躊躇いがちに、訊ねる。 「あなたは?」 「忘れたわ」    それで終わり。  どんな言葉を尽くした説明より、伝わる一語。  クローエはカウンターの奥に戻り、閉じた本を手にして、またその活字が織 り成す世界へ戻った。  秋葉も黙って残りの課題を仕上げ、蒼香も今の異世界のやりとりにはまった く触れなかった。 ◇5日目深夜・?◇     闇。  光射さぬ空間。  音も空気も、その闇に呑まれたが如く淀んでいる。   「……いますね、確かに」    常人であれば恐慌しそうな真の闇の中で、少女は平然としていた。  いや、少女にとってはそれは暗闇ではないのかもしれない。  濡れて水溜りとなっている、あるいはごろごろと得体の知れぬものが転がっ ている、そんな足元を気にする事無く足を進めている。  自然に確かな足場、足場と辿りながら。 「これ……」  身を屈め足元の何かを指で突付く。  じっと視線もそこへ注ぐ。  どれだけそうしていただろうか。  確かに満足げに笑みを浮かべ、さしてさっきまでと同じ厳しい冷たい表情に 変わる。    すっと立ち上がると、ひょいと跳び上がった。  助走も無く、単に足で地を蹴っただけ。  たん、と。  無造作に。  しかしそれだけで、ふわりと、体が浮かんだ。  重力が少女の周りだけ消失したかのように、少女の体は自身の頭より高く、 遥か上へと舞った。  ギシッ。  少女の手が意外に低い天井の梁、太い鉄パイプを捉える。  握る事など不可能。  僅かに、手の指が引っ掛かっているだけ。  今にもずり落ちそうに見える。  だが……?  何をしたとも見えない。  それなのに。  手を軸に体が回転し、少女の体は入り組んだ骨組みの中へ消えた。  微かに軋みを上げる音だけが、少女が向った先を告げる。  上へと。  さらに上へと。    数分後には、何もかも動くものは消え去っていた。  初めから静寂と闇だけが横たわっていたように……。      甲板のヘリに白いものが見える。  手、白い手がヘリを掴んでいた。  異様な光景。  すぐ下は暗い夜の海面が広がっている。  決して容易に近寄っていい処ではない。  この高さだと、海面に叩きつけられた衝撃も相当なものになる。  誰かそこにいれば、慌てて近寄ってきて引き上げようとしただろう。  しかし、この時間に酔狂に星を眺めようとしている者はいなかった。    もっとも、手助けを必要とはしていないらしい。  もう一方の手も、がしりとヘリを掴む。  一瞬の間の後、懸垂か蹴上がりの動きの要領であろうか、ぐん、と上半身が せり上がった。  さっきの少女である。  そのまま、身を乗り出すように上半身の重心を甲板に乗せ、片手を索具にか けた。  そこを支点に、残った下半身が姿を現した。  ふう、と一息ついて少女は立ち上がった。  黒衣。  さっきの暗闇に侵されたが如く、漆黒の姿だった。     しかし今の遥かに光に満ちたち言ってよい月夜の下では、それは闇とは反す る聖なる姿とわかる。  神に仕える者の纏う黒いカソック。  本来は忌むべき何物でもない。  だが、今の少女の着衣はどこか禍々しくも見える。    父と子と聖霊の教えに従う事には違いなけれども、むしろ光に背を向ける使 命を帯びているが故に。  少女が属するは、法王庁の直下の異端審問を担う埋葬機関。  少女はその第七位。  少女は……、シエルであった。 「だいぶパターンは見えてきましたね。むしろ動いて貰った方がありがたいの だけど。  でもこの船の人に過度に被害を与えると、相当な問題になりますし」  自分でも聞こえないほどの小声でぼそぼそと呟く。  じっと眼を瞑って深く思索に入る。  一刻。  二刻。  眼が開かれる。  その眼にはもはや迷いはない。  疲れていたように見えた顔が、浩然たる気に溢れている。 「逃しませんよ。いえ、我らが長き手からは、お前たちは如何に抗おうとも決 して逃れられはしない」  見えぬ何ものかに、そして自分自身への宣言。  静かでありながら、鬼気漂うシエルのもう一つの貌。  闇なすモノ達への粛清者たる貌。 「でも秋葉さんはどうしましょうか。  何かあったら遠野くんに申し訳ないし」  しかし、ちらりと今のシエルの、日常の顔が現れる。  無慈悲とも非情とも見えぬ、人間らしい顔。 「いえ、むしろ協力して貰った方がいいのかな。まさかの時には……」  判断を下したのだろうか。  にこりと笑う。  しかし、それが暖かい笑みなのか、冷たき嗤いなのかは見て取れない。  ちょうど月が雲に隠れ、甲板に影が差した為に。    そして月が照らした時には、すでにシエルの姿は消えていた。  つづく


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