◇4日目朝・庭園◇ 「気持ちのいい朝ね」 「まあな」  足元の草は露に濡れ、陽はまだ完全には姿を現していない。  夜明けは過ぎていても、明らかな朝ともなっていない微妙な、独特の雰囲気 を醸し出す時間帯。  朝陽に視線を向け、僅かに眼を細める秋葉。  そのまま顔を下に傾ければ、木々が自分と同じく光を受けて眩しげにしてい るのが目に入る。  隣の蒼香は、名も知らぬ草をちょんとつま先で突付いた。  朝露がぱらぱらと靴の先に落ちて流れてしまう。  期せずして二人は同じ感慨を抱く。  本当にここが船の上とは信じられない……、と。  頬を優しく撫ぜる風、それに幾分かの潮の香りを感じる事が無ければ、本当 に洋上にある事を忘れてしまいそうだった。 「でも蒼香が付き合ってくれるなんてね」 「何が?」 「お散歩。嫌だね、そんな年寄りじみた真似は、とか言い出すかと思ったわ」  声真似をする秋葉。  揶揄が入ったその言葉を受け流すと、蒼香はあっさりと答える。 「おあいにく様。これでも年少のみぎりには朝早くから目を覚ましてお勤めを しておりましたのでね。朝から庭掃除とかは普通だと思ってるよ」 「そう?」 「なんだその疑わしそうな目は。まあ、それに反発して今こんなになってるの も確かだけどな。早く起きた時くらいなら、つき合うのも悪くないさ」 「ふうん」 「けっこう気持ちいいし、遠野とこんな事するのも珍しいしな」 「そうね、ものは試しと思ったのだけど……」」  頷きつつ秋葉はルームメイトを見た。  昨日とはうって変わって早起きした蒼香に、こちらはいつもの習慣通りに目 を覚ましていた秋葉が散歩に誘ったのだ。  まさか賛同はすまいと思っていたのに、蒼香はあっさりといいよと答え、さ っさと着替えてしまった。 「しかし本当に凄いな。本当に船の上っての忘れそうだよ」 「本当、呆れるけど素敵だわ」 「この先だったっけ、庭園って」 「確かね。朝しか咲かない花なんてのもあるそうだし、行ってみましょうよ」 「いいけど。でもしょっちゅう移動して気候とか変わるのはどうしてるんだろ う。全部が全部温室って訳でもなかろうに……」  ぶつぶつ言う蒼香を気にせず、秋葉は悠然と足を進める。  やがてそれらしい一角が二人の前に広がる。 「うわあ」 「凄いな、これは」  絢爛豪華。  さすがに、それほど極端に広い訳では無い。  また学術的にはどうかと疑問が起こる。  ただ、インパクトは相当にある。  様々な花、草、樹。  手当たり次第好きなものを詰め込んだような造園。  きちんと庭園らしく整えられた部分もあるが、かえってその秩序は、それ以 外の領域の無秩序さを際立てている。   「ここまで統一感無いと逆に見事だな」 「季節も地域分布も何も関係ないのね」  とにかく紫の花というカテゴリーでまとめられたと思しき雑多な一隅。  入念な世話で育てられ高値を出すであろう薔薇が、無造作に巨大な松に寄り 添っている。  ご丁寧に松は和風に刈り込まれている為、違和感が夥しい。   「甲板ぶち抜いて生えてるんだな、この木って全て」 「あまり常識で考えない方がいいわね」  そう語りつつも景観を楽しみつつ奥へ。  確かにある種の美に溢れていた。 「こっちはまともだな」 「亜熱帯って感じね。あら……」  人影があった。   「先客みたいね」 「ああ」  黒髪の少女。  肌は日焼けしたように浅黒く、そして滑らか。  東洋系の繊細な顔立ち。  ふと少女が秋葉達を見た。  手にしたホースからちょろちょろと水が下に落ちる。  やや緊張を帯びた、怯えたといってもよい表情に変わる。 「えと、あの……」 「私たちはその……」  何か悪いことでもしたような後ろめたさを感じて、二人は慌てて見知らぬ少 女に弁明を始めた。  しばらく二人を見ていて少女は口を開く。 「何か、ここにご用ですか?」 「朝の散歩に来ただけ。綺麗だって聞いたから」 「その制服、ここの生徒ではないの?」 「短期滞在」  合点がいったというように少女は小さく頷いた。  そして、ふと思いだしたという様に慌てて名乗る。 「あの、私はアイーシャ・スカーレット・ヤン。出身はシンガポールです」  慌てて蒼香と秋葉もそれぞれ簡単に自己紹介をする。  日本から来たと聴いて、アイーシャは僅かに興味を引いた表情を浮かべる。 「あなたがここを世話しているの?」 「ときどき。専用の庭師さんはいるけど。ここは静かだし、どこか故郷を思い 出すから好きなの」 「ふーん、そうなんだ」  蒼香は少女を見つめる。  艶やかな肌、儚げな瞳。  話してみると、意外に会話が心地よい。 「サードだよね、その制服」 「ええ」 「そうか、じゃあ対象外か」 「?」  可愛らしく首を傾げるアイーシャ。  秋葉が言葉を添える。 「杏里が好きそうなタイプなのにって思ったんでしょ、蒼香」 「ああ、そうだよ」 「あ、杏里さんと、もうお知り合いなのね」  嬉しそうな顔。  ぱっとアイーシャの顔が笑みを浮かべる。  親しみを込めた表情になって、二人を見る。  そうすると驚くほど綺麗な少女なのだと気づかされる。 「あれ、杏里と仲いいの?」 「はい、私の数少ない、おともだちなの」  おともだちという響きに意味が過剰に含まれているな、と女子校特有の嗅覚 の鋭さで秋葉と蒼香は感じ取っていた。 「でも、年上だよね」 「そうよね、上級生なんだし」  不思議そうな顔の二人にアイーシャはクスと笑いを洩らす。  杏里の性質について共通認識を持つ者故の、当然の疑問に対して。 「私、スキップでサードクラスに入ったから、本当はファーストの年齢なんで す。入学時は、制服も違っていて」 「あ、そうなの」 「杏里もそんな事言っていたっけ」   「疑問が解けた処で、はい、キャンディーをどうぞ」  アンシャーリーが手籠からキャンディーを取り出す。 「こちらの赤いのは舐めると子供になるの。こっちの赤いのは舐めると大人に なるの。それにこっちの赤いのは大当たり」 「どう見ても同じじゃないか」 「ツッコミ処が違わない、蒼香。まあ、いいわ、こっち」 「あたしは、これ」  チープな化学香料ではなく、自然な甘味と香りが口に広がる。  ほっぺを少し膨らませながら、秋葉と蒼香はころころと口中でキャンディー と言うより飴といった方が相応しい珠を転がす。 「アイーシャは? 好き嫌いを言うと後ろからバッサリよ」 「え……」  露骨にアイーシャは警戒心を見せてキャンディーを見つめる。  アンシャーリーは構わず籠を……。 「ちょっと待ったあ」  蒼香がはっとして叫ぶ。  秋葉も我に返った顔で続く。 「あんた、どこから現れた」 「と言うより、誰?」 微妙な違和感を感じさせる着こなしと態度。  後ろで髪を編み上げた姿は可愛らしいのに、何処か警戒心をおこさせる。  琥珀色の瞳の焦点の危うさ故だろうか?  少女は、アンシャーリーは、返却日を遥か前に迎えたレンタルビデオを見る 眼で秋葉と蒼香を見つめ、そして熱意を込めた嬉しそうな物言いで答える。  なんともアンバランスな態度。 「あら、物覚えが悪いのはお祖母さん譲りなのね。私はアンシャーリーだって、 ボルガーノンが何度も釘で刻んだのに」 「アンシャーリー・バンクロフト……、何故だ、なんで初対面なのにフルネー ム知っている?」 「実家はコロンビアでって、なんでこんな事まで浮かんでくるの?」  呆然と蒼香と秋葉はして、言葉を失う。 「甘いものの舐めたら、今度はお薬、はいどうぞ」 「あら、それって」  秋葉が驚いた顔をする。  アンシャーリーがひらひらと手で夫って見せた小瓶。  確か、今は自室にある筈のものだった。大きな旅行鞄の中のポーチのそのま た中に収納してあるはずの一品。  琥珀が酔い止めとか、その他諸々と一緒に持たせてくれた気付け薬よね。  でも、鍵は閉めてきた筈だし。  秋葉が驚きで固まっている間に、アンシャーリーは「良薬は口に苦しですけ ど、効果はありますから」と琥珀が説明していた丸薬を一つ、自分の口に放る。  黒色しているんだ……。  秋葉が見つめる前で、もう一つ取り出す。  今度は緑。  次は紫。  って、なんで色が違うのよ。 「一つ目はお薬。  二つ目は天国行き。  見つめは……し、……」  不思議な節をつけながら、アンシャーリーは丸薬をごくりと呑み込み、そし てばたりと倒れた。  目がくるくると廻っている。 「おい、大丈夫か、あんた」 「アンシャーリーさん」  蒼香とアイーシャが屈み込む。  秋葉は手から転がった瓶を拾い上げる。  どう見ても琥珀手製の薬。 「ボルガーノン、私が今銀盤へ駆けた真っ赤に燃え上がる昨日のワルツに火の 鳥、そんな事信じられないわ。クスクスクス……」 「生きてはいるけど、大丈夫なのか、これ……」 「普段通りですから、平気だと思います」 「普段からこんななのか……」  ほっとした顔をするアイーシャと、顔をしかめる蒼香。  意識はあると見て、二人でアンシャーリーを起こす。  ゆらゆらと立ち上がり、アンシャーリーはまだ立ちつくしている秋葉を、い や秋葉の持つ瓶を見つめる。 「凄いお薬。ええ、凄いお薬ですもの。そうよ凄いお薬だけれども」  真顔でさかんに『誰か』と頷きあいながら、言葉を口にする。  なまじ冷静な口調なだけに、かえって周りの三人は引いてしまう。  杏里なら、苦も無く相手にしただろうが、さすがに秋葉達には不可能。 「それで、キャンディーはもういいの?」  しばらく空気相手の会話を続けると、また様相が変わり、アンシャーリーは 手の平一杯に青いキャンディーを載せて差し出す。 「いらないわ」 「あたしも」 「そう、解毒剤なのだけど、それじゃ行くわね、双子のお祖母さんによろしく ね、ボルガーノンもそう言っているわ」 「双子?」 「そうよ、あら、あなたは誰?」  何事も無かったようにアンシャーリーは去って行った。  しばし秋葉達は佇み、それを見送るともなく見つめていた。 「戻るか」 「そうね」 「ええと、アイーシャさん、また来てもいいかしら」 「はい、別に私の場所という訳ではありませんけど、いつでもどうぞ……」  アイーシャに別れを告げ部屋へと戻る秋葉と蒼香。  しばらく無口。 「ところで、遠野」 「何かしら」 「昨日、少し調子悪いって言ったら、おまえさん、あの瓶取り出さなかったか?」 「え? なんの事?」 「よく効く薬だからとか言って」  秋葉はちょっと考え、顔を逸らす。  蒼香は待つが返答は無い。 「なんて事するんだ、おまえ」 「知らないわよ。私だって……」 「金輪際、あんな薬は呑まないからな」 「そうね」  二人が戻ると、きちんと部屋の鍵はかかっていた。  部屋の様子は変わりなく、秋葉の鞄もまったく動いていない。  それでいて、ポーチの中に瓶は無かった。 「どういう事よ?」 「知るかい」 ◇4日目午後・学生個室◇    「うん……」  ぼんやりとした顔で、秋葉は顔を上げた。 「何処、ここ?」  ベッドの上。  見慣れぬ部屋。  なんだか脚が重い。  どうにも頭が働かない。  眠気がある訳ではないが、思考しようとしても集中力無く、浮かび上がった ものが霧散していく……。 「ええと……」  ぼーっとそのまましばらく頭をふらふらとさせていたが、ようやく何で脚が 痛いのだろうと、視線を向けた。 「なんだ、蒼香か……」  蒼香が脚に縋りつくようにして上半身をのせていた。  秋葉とは逆向きで、足の方に向って頭を。  まだ回転の遅い頭で視線を動かすと、人文字でアルファベットのVを描くよ うに蒼香の体が見える。 「そっかあ、蒼香が起きないと、私も起きられないんだ」  真理に到達できたというように笑みを浮かべ、くっくっと笑い出す。  目はどんよりとしたままで。 「じゃあ、私も寝よう」  ばたりと、ベッドに倒れる。 「あれ、さっきも……、いいや、おやすみなさい」  十数分後。 「うんん?」  やけに可愛い声を出しつつ蒼香は目を開いた。  手でぱたぱたと辺りを探り、うつむけの体勢から顔だけを少し上げる。 「なんだっけな、何かやらないといけなかったような……」  さっきから触れている細い棒に頬擦りする。  感触が良い。  すべすべで、しっとりとした感触。 「まあ、いいや。朝が来たらで……、眠い」  その細い棒を、ルームメイトの足をかき抱いて、蒼香はまた眼を閉じた。  異様なほど早く、健やかな寝息が聞こえてくる。  交互に目覚めては、また眠りの世界へ戻る。  二人同時に目を開く事は無く、二人はまどろみ続けていた。 ◇4日目午後・教室◇    「あれえ、この講義は二人とも受けるって言っていたのに」 「どうしたの、杏里? それとあなたのコネティカット通りの妹さんにもこん にちは」 「うーん、多分妹はいないと思うんだけど。いたらちょっと素敵かな。  珍しいね、アンシャーリーが授業出ているなんて」 「時に人は送られた小包より、包装している新聞紙に夢中になるのだわ」 「秋葉と蒼香、どうしたんだろう。きみに訊いても知らないよね?」 「知らないわ、初めて聞く名前。ボルガーノンもそう歌っているわ」 「まあ、そうだろうねえ」  つづく


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