星の海の下で
作:しにを
戦場ヶ原ひたぎは、攻めの人である。
この場合の攻めとは、行動様式とか思考パターンの問題で、神原の愛読する
BLでの狭義の意味合いとは違っている……訳でもないのかな、今の場合は。
ともかく、徹底した攻めの姿勢を取ろうとする人間であって、それは受けに
回った時にも現れている。一見矛盾しているが、守勢一方に甘んじるのではな
く、次に攻勢に転じる為の準備としての守りの構えでいるというか。少しでも
攻め手に緩みが見えたらすかさず飛び掛り喉笛に食いつこうとする姿勢。
今もだ。十全なコントロールができない状況にあってただ流されるのではな
く、せめて現状を全て見極めようと目を見開く。経験不足ゆえの今の守勢があ
るのならば、経験値を増やして次の機会に備える。
だから、目を逸らそうとはしない。
目を閉じて、ただ待ち受けていようなどしたりはしない。
変わらず、普通に、そのままにこちらを見ている。
正面を向いて決して位負けなど認めようとしない、それが戦場ヶ原ひたぎな
のだろう。
そういう心意気が時に僕には眩しく見える。眩しくて、それでいて惹きつけ
られずにはいられない魅力となっている。
なっているのだけど、今はほんの少しだけ趣旨変えをして欲しい。
こういう時は困る。
「キスをしましょう、阿良々木くん」と言われて余裕が無い今は。
思えば、エロい体を持て余した羽川に体育倉庫で阿良々木くん専用のいやら
しいおっぱいを思うが侭に揉み倒して下さいと懇願された時にも、あそこまで
言われても手を出せなかったヘタレだし。どうもディティールが変化している
ような気もするしって、今は戦場ヶ原だ。胸でなくて唇。
まじまじとこちらの目を見られたまま、普段からは考えられないほど顔を近
づけるのは、著しく困難だ。ちょっとどころでなくやり難い。こっちだって経
験値不足に変わりはないのだから。
かと言ってこちらが目を逸らす事も出来ない。
そんな真似をして、難易度が高い行動をなすのは無理だし、出来たとしても
何か恐ろしい事がおこる気がする。
よって、視線を真っ向から視線をぶつけあいながら近づいていく。
近づいていく。
近づいてくる。
って、うわ、うわあ。近い。
息が触れるほどというより、さらに近いぞ、すでに。。
しかし、戦場ヶ原。もう少し恥じらいとかあってもいいと思うんだ。
震えるとか。
頬に赤みが差すとか。
視線が揺らいでいるとか。
そんな女の子らしいと思われる変化は今なお微塵も無い。
まあ、それは何とも戦場ヶ原らしい。
しかし、こいつ、どうしようもなく綺麗だな。
いつもその姿を目にする度に多かれ少なかれ再認識しているけど。改めて、
こんなに触れるほど間近にして見ていて、戦場ヶ原ひたぎって少女が尋常でな
いほど綺麗な少女なのだと気づかされる。
それは僕がこいつにいろんな意味でやられてしまっているという事による大
幅な上乗せもあるのだろうけど、ほとんどの人間が賛同すると思う。
意識する。
匂い。
息の、空気の動き。
熱。
もうのっぴきならない。
引き返せないし、こうなれば引き換えそうなどという惰弱な心は消え失せて
いる。微塵もない。
後は、ほんの少し、数ミリの前進。
進んだ。
唇が触れた。
戦場ヶ原の、薄く紅を引いたような、ほっそりとした唇が。
僕と戦場ヶ原ひたぎが、今この瞬間にキスしている。
夢のようだった。
そして、感じている感情は、これは何だろう。
寒気にも似た何か。
嫌な心地はまるでない、不思議な震え。
歓喜を混ぜ込んだ慄き。
そして、一瞬の永遠を味わって、僕らは離れた。
というのなら何も問題は無かったが、離れられなかった。
もう少しだけと思って唇を合わせ続けた。
戦場ヶ原の方からも積極的にこの接触を解かれなかった。もしかしたら終わ
らせる方法がわからなかっただけかもしれないが。
しかし、あまり長くこうしているのもおかしいよな。
ただ触れているだけの危うい状態。
なのに、なんでこう柔らかくて、微妙な動きが。
戦場ヶ原の唇なんだよな、これ。戦場ヶ原ひたぎとキスしてるんだよな。嘘
じゃないよな。僕がしているんだよな。
信じられない。
何でこんな事に。
まさか、戦場ヶ原、唇が離れたら足元の水溜りに屈んで、泥水で口を洗った
りはしないよな。
僕に致命的な精神的ダメージを与える為に、あえて我が身に犠牲を強いてい
るとか。まさか、まさかな。
でも、それくらいしても不思議ではないな。
え、不思議ではないのか。
初めてのキスなのに。
恐るべし、戦場ヶ原。
いや、初めて触れた唇の感触に軽く震えていて、
信じがたいほど近くにある戦場ヶ原の小さな顔に胸が高鳴って、
髪なのか、体なのか、甘い匂いが鼻をくすぐって陶酔とさせられて、
それでいてこんな事を考えている僕も相当なものだ。
でも、そろそろ。
幾らなんでも。
もう何秒経ったのだろう。
ほんの数秒だったとしても、何分にも渡っていたとしても不思議ではないよ
うな気がした。
しかし、まだだった。
これで終わりではなかった。
そう、受身のままで終わらせたりはしなかった。
何かが触れた。
唇に触れ、歯に触れた。
そのまま、強引に入ってこようとする。
舌だった。
驚愕。
ショックだ。
こいつ、初めてなのに、あれほど性行為に連なる諸々を嫌がっていたのに。
自分から舌を入れてきた。
それとも、キスという範疇であれば何をしても性行為ではないという線引き
があるんだろうか。
でも、この舌。
じっとしていない。
動いている。
ああ、何て、何でこんなに凄く柔らかい。
唇に触れるのも、その感触に、自分のものと同じパーツなのが信じられなく
なるけど、この舌はやばい。
未体験の異次元の感覚。
肉体がそれに引きずられて何が何だかわからなくなりかけている。肉体を制
御しているはずの理性は、戦場ヶ原の舌が僕の口に入って、舌を絡めていると
いう事実にショートしそうだった。
棒立ちで戦場ヶ原の蹂躙を受け続けた。
さながらサンドバック。
ただ打たれるだけにのみ立ち上がったのだ、みたいな。
とにかく、ぼろぼろだった。
でも、このままでいいのか。
少しは抵抗の色を示すべきではないのか。
デートのお膳立てをして貰って、向こうから誘われて、挙句に唇を奪われた。
いや、奪ったのかな。
でも、本来こちらがなけなしの勇気を振り絞るべきだったのだろう。
このままで終わってら、能動的に何もしなかった事実だけが残る。
まあ、それはそれで悪くは無いのかもしれないけど。戦場ヶ原とつきあうに
はむしろ賢いあり方かもしれない。
でもなあ。
……。
そうだ、こちらからも舌を入れてみようか。
追い詰められたからこその戦慄的な脳内提案。
何を言い出すんだ、僕の頭の中の僕は。
でもどうなるだろう、そんな事をしたら。
自分がしている事でも、他人がやろうとしたら拒否するかもしれない。
舌を噛むかもしれない。
もちろん僕の舌をだ。
前に戦場ヶ原が言っていたのは、冗談かもしれないけど、決して根も葉もな
い戯言じゃない。
やろうと思えば出来るからこその鋼の如き言葉。
この場合の出来るというのは、物理的な可能不可能、肉体的な可能不可能も
そうだが、精神的なものを含んでいる。
わずか半歩を踏み出すのがどれほど難しいか。そんな経験は誰にでもある。
戦場ヶ原にだってある。
で、この恋人であろう男の舌を噛み切るという行為のハードルの高さを考え
ると……。
それは出来るだろう。
必要とあれば、服に忍ばせた数々の文房具を専用にあつらえられた殺人器で
もあるかのように駆使する女だ。単に噛むという行為を躊躇うものか。
口の中に他人の血が溢れ、今まで口の中で途端に生の残滓をとどめるに過ぎ
ぬ肉片となる。そんな事にひるむ筈は無い。
それでも。
それでも、僕はこの柔らかくて暖かくて、ぬめぬめとしている快感のさらに
先を望んでしまった。
ひたぎの舌をかすめるように、交差するように。
僕の舌が彼女の口に入った。
んん…ッッふ……、んんん……。
信じられない。
戦場ヶ原が、驚いたようにもがいている。
こっちが何かをする前に、気配とか何とかで察しそうなものなのに。
意表をつかれたような、そんな感じ。
でも、嫌がられてはいないよな。
少し身をよじりながらも、顔を離そうとはしていない。少なくともまだ。
心底嫌がっているのならば、いやほんの少しでも不快に思ったのならば、単
に逃れようとするだけで済ませる訳がない。
こんな密着している状態は反撃をするには絶好の好機だろう。舌を噛むとい
うのは置いておくとしても、他に方法はいくらでもある。
こちらは逃れるすべはなく、突かれ、抉られ、刺され、斬られ放題。
それは危険だ、危険すぎる。
横腹とかならともかく、首から延髄にシャーペンを刺されて、それでも平気
で生きていられるとは思えない。
背中に回された手が何かを探るように這い動くのをイメージさせられる。
さながら獲物を目指す毒蜘蛛の如くに。
ひと咬みされれば、哀れにも死を迎える、逃れられぬ定め。
って、あれ、いつの間にか危ないのは僕のほうになっている。
なぜか生死の境にいる。
何だってこんな事態に陥ったんだ。
恐るべし、戦場ヶ原ひたぎ。
しかしながら血生臭い方向への思案と別に、もっと別なものに心は奪われて
いる。
比率的には圧倒的に。
柔らかい。
柔らかい。
柔らかい。
もう一回ぐらい加えたい。
柔らかい。
自分の舌がどうなのかなんて自分ではわからない。
誰もがこうなのか。
羽川とか神原とかではなく、戦場ヶ原だからこうなのか。
こんな時に、半瞬とはいえ違う女の子の顔が浮かぶのは正直どうなのか。
八九寺とか出ないだけまだマシなのか。
こんな無駄な思考をしていてなお圧倒的。
ああ、本当に何だこれ。
柔らかいものなんか世の中に溢れるほどあるというのに。
何でこんなに全神経が集中するくらい震えているんだろう。
舌で舌を舐められると、震えるほどに気持ちよい。
おまけに、立っていたら膝が笑ったんじゃないかと思うほど、力が抜ける。
舌と舌を合わせるだけで、唇を重ねるだけで。
こんなにも気持ちよいんだ。
なるほど、納得した。
結局、どれだけそうしていただろう。
何だかいろんなものが空になったような気分で、ようやくキスは終わった。
戦場ヶ原ですら放心したような瞳だった。
互いにハンカチで口を拭う。
さすがにどちらのものともしれない唾液でべとべとにして戦場ヶ原の父親の
車には戻れない。
とりあえず、身だしなみを整え終えた。
戦場ヶ原と顔を合わせる。
うわ、ドギマギする。
あの唇を舌を貪ったんだよな、今の今まで。
赤面しているのが自分でもわかる。
戦場ヶ原ですらほんの僅かに紅潮はている。
「満足したようね」
「しました」
素直に頷く。
自分でもわかるくらいに満ち足りた声。
「感謝なさい。
これで二度と誰ともキスなんて出来ないかもしれないんだから」
どんな表情が顔に浮かんだのかはわからないが、戦場ヶ原が何かを判断する
ように僕を見ている。
結果はどうやら合格圏に入ったらしい。
「仕方ないわね、それほど言うのであれば考えないでもないわ。
それならば、また、キスをさせてあげる。
ん、違うわね。
キスして欲しいのなら、這いつくばって靴を舐めなさい……、これも違うか
しら。少し違いような気がしないでもないわね」
ううん、激しく違うと思う。
というか、最後が疑問形なのかよ。
そもそもお前は自分の靴を舐めた唇と、自分の唇を合わせたいのか。
あら、嫌だ。私の靴はとても綺麗にしているわ。
ふうん、なら、そのままでしてもいいんだな。
一応顔を洗浄してからなら、ううん、消毒もして欲しいわね。何なら焼却で
もいいわ。
といった会話がリアリティをもって浮かぶが、それは口にしない。
言うのなら、こうだ。
ひとつだけ今言わねばならない答えがある。
しかし、我ながらいつになく、積極的だ。
戦場ヶ原の構成成分の何がしかを吸収したのだろうか。
口を開く。
「また、キスをしよう」
言えた。
でもまだ半分、残りがある。
「僕は戦場ヶ原、いや、ひたぎと何度でもしたい」
無表情。いや、微かな、心持の驚き。
魔術のように、寸鉄どころでなく人を貫く言葉を発する口が動かない。
毒を棘を撒き散らす唇が止まっている。
挙句に、今しがたの感触が残っている薄紅の唇が開いた。
「ええ、いいわ」
柔らかな声。
そして、晴れやかな笑顔だった。
戦場ヶ原ひたぎらしからぬ、それでいて戦場ヶ原ひたぎにしかできない凄く
魅力的な表情でもって、僕の言葉は受け取られた。
これが、彼女との初めてのキスだった。
大切な誰にも話せない、二人だけの秘密、珍しくも甘美な思い出。
僕らの記念すべき日。
だと思っていたんだけどなあ。
了
―――あとがき
TM作品以外のSSを書くのは非常に少ないのですが、「化物語」を読んだ時に
純粋に面白かったのと、戦場ヶ原ひたぎにやられたのとで、何か書きたいと強
烈に思いました。が、あのテンションの文章を模倣するのは淡々とした文章し
か書けない人間には無理で、それでもとちょこちょこ書いてみて忘れ去ってい
たものを、前日譚たる「傷物語」を読んで面白かったものの戦場ヶ原成分が無
くて少々物足りなかったので引っ張り出して弄って手直しを加えたのが本作と
なっています。
見ての通り、「つばさキャット」での原作で省かれた部分について書いてい
ます。 こんなのひたぎじゃねえという意見にはある意味同意しつつ、これは
これでとお楽しみ頂けたのなら、嬉しいです。
それはさておき、「傷物語」での吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・
ハートアンダーブレードとアルクェイド・ブリュンスタッドの比較などしてみ
るとなかなか面白いのではないかと思ったり思わなかったり。
by しにを(2008/8/4)
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