その一口

作:しにを

            




 間桐桜は逡巡する。
 ためらう。迷う。立ち尽くす。
 試されるのは己の判断力。得るもの、そして失うもの。変化の見極め。
 水面への一石が、大きく広がる波紋となるように。
 些細な原因が大きな結果を生む。
 何度となく見たもの。悲劇的な結末。
 一時の快は、後の悲嘆へと繋がっていく。
 すぐに姿を現さずとも、ゆっくりと確実に。
 大なり、小なり、姿は違えども現れる。
 何度も何度も目にしてしまったた過去。
 それをまた繰り返すのか。
 また、あれを?

 どうすればいいのだろう。
 桜は考える。
 深く強く考える。
 時間は僅かしかない。
 答えを待っては貰えない。
 待ってくれと口にする行為が、そのまま別な意味を持ってしまう。
 かと言って無駄に沈黙のままでいる事も許されない。消極的ではあっても明
らかな否定を意味してしまうから。
 早く答えを言葉に。
 どちらにしても不本意でない答えを。

 桜は息を深く吸った。
 真正面を見る。
 しっかりと見つめる。
 少なくとも今は、選択の余地があるのだから。
 ただ一方的に抗う事も出来ずに流されていた昔とは違う。
 受け入れるにしろ、拒むにしろ。
 それは自分の意志によるものだった。

 だから桜は―――








 話変わって。
 間桐桜は自分自身についてどう思っているのか。
 少し漠然としているだろうか。では、もう少し照準を絞ろう。桜は自分の体
形についてどう思っているだろうか。
 この問いへの答えを引き出すのは、そう難しくない。
 桜という少女は自分の体に対し、万全の評価など与えていなかった。決して。
 それが後天的に身についたものであったかはわからないが、自己肯定を異様
なまでに行わない性格の少女である。
 客観的な長所についてすら、桜自身の目には容易には映らない。
 桜の外観的なチャームポイント、例えば、胸。着衣していてもわかる形良く
豊かな胸。
 内側から布を押し上げる量感溢れる盛り上がり。
 多少の運動をすると、見事な動きとなって表現する弾力や柔らかさ。
 露出度の高い服でこれ見よがしにする事は皆無だが、むしろそれが良い。
 その、ふたつの胸の膨らみについても、全肯定はしていない……のだが、実
のところ心密かな自負の対象とはしているようだった。そこはそれ数字として
はっきりと表れているものであったし。
 しかし、あくまでこっそりと、それこそ胸に秘めるレベル。決して万能の武
器として認識している訳ではない。
 むしろ評価の針は、動きは簡単にマイナス方向へと動きを転じ得た。
 もっとも、これは桜だけではなく、性差を感じる頃から他者よりも早く膨ら
み始めてしまった胸を有する少女には、ときどき見受けられる事象だった。
 体の変化への戸惑い。その肉体的変化への好奇の目。
 同性異性を問わず、それに触れる声や視線は、それは賞賛として受け止める
よりも、羞恥の認識へと繋がった。
 桜にしてもそれは同じ。
 胸が大きいのは好色である印。胸ばかり大きいのは頭が軽い証拠。そんな統
計学的に実証されぬ、あるいは恣意的にすぎる俗知識もまた、桜の胸中を苦し
めたかもしれない。
 美乳は誇ってもいいものであると認識してからも、そのたっぷりとした量感
は別の恐怖を桜に与えていた。
 豊かな胸と言えば聞こえが良い。しかしそれは見方を変えれば、巨大なる単
なる肉と脂肪の集合体。
 もしも同じ背丈の少女がいたとしたらどうであろう。胸の分だけ余分な重み
が増してしまう。
 現実にはそんな単純比較は無意味であるが、スレンダーな少女に比べれば多
少の体重付加となるのも確かだった。
 この同性から羨まれ、男性諸氏の憧憬を受けるに足るものすら、桜認識では
欠点であり嫌悪の対象になりえたのだった。
 二つの大きな胸、しかもまだ成長を止めようとしない膨らみ。
 それを持つ事は桜を時として、自分自身を何も語るに足る所のないみにくい
アヒルの子だと思わせた。
 
 そして絶対的評価についての是非は棚上げするにしても、さらに桜には常に
自と比べるべき相対的存在があった。
 言うまでもなく、実の姉である遠坂凛。
 妹である桜にとっての圧倒的な存在。
 いろんな面で太陽の如く輝かしい。
 単純に女性としての魅力だけで判断しても、遠坂凛は傑出していた。
 地味な自分と比べて遥かに優っている綺麗で魅力的な女性。それが桜の認識。
 それが客観的に見てどうなのか、桜の方が上回るべき要素はないのか。それ
はこの際どうでも良く、あくまで桜がどう感じていたかが問題。
 確かに、遠坂凛の魅力を数え上げ、議論の対象とすれば、学校中の男子生徒
が有意義な一夜を過ごせるのは、間違いない事実であった。

 遠坂凛だけならばまだ良かったかもしれない。
 何と言っても姉であったし、幼い頃からの憧憬やコンプレックス、その他の
長い歳月で築き上げられたものはそびえる山の如し。容易な克服は望めないし、
その輝かしい存在がある事を救いとしていた心理的動向もあったりなかったり。
 しかし、さらに。 
 聖杯戦争の最中で自らの傍らに立ったライダーの存在があった。
 ギリシア神話に刻まれし、メドゥーサ。化け物と伝えられた彼女の真の姿。
 召喚されて後ずっと自分を守ってくれたサーヴァントの存在もまた、桜にと
ってある種の敗北感を与えるに到っていた。
 海神を魅了したほどの非の打ち所のない美女。すらりとした長身、美しく流
れる髪。
 同性である桜から見ても心奪われるような魅力がある。
 飾り気のない格好をしていても肉感的な体つきは色っぽい。立ち居振舞いに
しても、何処から見ても隙がない。
 また、時として微笑む時の花開くような様。
 そして何より。
 桜が宝具とは決して思っていなかった二つのこぼれるような膨らみ。それす
らが、ライダーと比べてみた時には桜を激しく打ちのめした。
 やはり何だかんだと言っても、最後の頼みとしている気持ちが存在したのだ
ろう。
 もうひとりの仮想敵たる実の姉はと言えば、その点に関してだけはかなり控
え目な様子ではあったから。
 それが凌駕された時の心理的ダメージはいか程のものだっただろうか。

 他人の美点を認めるられるのは長所であったが、それが己を刺し貫く刃とな
るのでは逆に短所ともなりかねない。
 ともあれ、桜はしなやかにしてほっそりとした姉の体を高く評価した。
 同時に、肉感的であっても長身ですらりとしたサーヴァントの体をも。
 挙句、自分を判断する物差しとして考えてしまった。
 二方面を同時に。
 愚策であった。

 挙句、彼女は結論する。
 間桐桜は太っている、あるいはそうなる恐れがある体形だと。

 これだけでも暴論であった。
 しかしこれは生易しい表現。 
 隠喩として、どう間桐桜は呟いたのか。
 彼女は、鏡を見つつ、こう真顔で口にしたのだ。

 間桐桜は豚である、と。

 ちなみに牝とかはつかない。
 そうなるとまた意味合いが少々異なる。
 自分の性癖やら何やらについては語っていない。
 あくまで、純然たる外観についてのみ。念の為。

 しかし、何たる暴言。
 若さ故の考えの無い言葉。
 恐ろしいばかりの無知の傲慢。
 本当に何という誤った認識であったろう。
 他ならぬ比較対照となった二人からして、その誤りに対して呆れたり、眉を
顰めたであろう。
 凛にとって、あるいはライダーにとって、間桐桜とは特別な存在であった。
その贔屓目にならざるを得ない色眼鏡を外しても、決して凡百な中に埋もれる
存在には見えない。
 それどころか、むしろ桜を羨ましく思える気持ちもあった。
 凛からすれば、自分よりも女の子らしい桜こそが、魅力的に思えた。
 それに何より、もう少し胸に厚みを。そう思うのは決して心の贅肉ではない。
 切実だった。
 もしも桜が正面切って胸の大きさを嘆いたりなどしたら、凛はどう反応した
だろうか。
 呆れたであろうか、窘めたであろうか。
 もしかしたら笑いだしたかもしれない。
 最初は小さく、そして段々と大きく狂的なまでに。
 そして見る者を凍りつかせるような笑顔に。あの目だけは決して笑っていな
い笑顔に。
 ライダーにしても、実のところ決して自分の姿態を万全と思っている訳では
なかった。
 何でこんなに不必要な程の背丈が。もっと小さな可愛らしい姿であったなら。
 無い物ねだりのように思えるが、人は自分に無い物を貴しと思うもの。
 それは神の血を引くものでも、魔術師でも同じだった。
 桜にしても、隣の芝生の青さにのみ感嘆しているのも確かではあった。

 桜が魅力的か否か。
 これは、馬鹿馬鹿しいほどに一方に答えが集まる設問であったろう。
 凛やライダー、あるいは学校のクラスメートや、弓道部の部員達といった同
性だけでなく、男性にとっては特に。
 桜の一番身近な存在、あるいは一番大切な存在にしても、それは同じ。
 士郎ならば迷う事無く、肯定しただろう。
 さらに、桜のひそやかな悩みを知ったら、心底から不思議に思っただろう。
 士郎にしてみれば、悩みの理由がわからない。
 どう悪意的に見たとしても、桜が太っているようには見えなかったから。
 実際に体に触れてみても、柔らかい体は決して無駄に肉がついてなどいない。
 要所要所はきちんと引き締まっている。
 胸のたぷりした感触を堪能した後、ウェストのラインを手で撫でると、その
両立に感嘆の念すら浮かべる程。
 桜が自分の上で体を動かしている時も、桜自身が思っているほどの重さなど
はまったく感じていない。
 その重みはむしろ歓喜につながるものであったのだし。

 それでも、今の桜は危機的状況にあった。
 あくまで自分の思惟の中で。
 食べ過ぎてはいけない。
 減らさねばならない。
 そう思っていた。




 



 そして冒頭に戻る。
 つまりは、そうした些細にして重大な葛藤。
 口にするや、拒むや。
 混じり気のない善意から差し出されたものを。
 桜の大の好物、それも、愛する士郎の手によるもの。
 傍に寄れば、湯気が立ちそう。
 うっとりとする匂い。
 新鮮この上なし。

 衛宮士郎は料理に対しては、なかなかの腕を持っていた。
 本式に料理人としての修行を積んだ訳ではないから、作る料理の種類は家庭
料理の域は出ない。
 しかし、何度となく繰り返して熟練し、決して手を抜かずに専心して作られ
る皿々は決して平凡なものではない。
 仕方なく始めたという彼の言葉は真実であろうが、料理に対する固執・拘り
は嫌々やっている者からは遠い。
 もしも彼の代わりに台所の全権を握ろうとする者が現れたら、果たしてすん
なりとその座を明け渡すだろうか。答えは明白。
 とにかく、士郎は料理の腕を持ち、作る事や誰かに食べて貰う事に喜びを覚
える性質であった。
 さて、そうした料理を作る事に快美を覚える者の共通の性癖として、喜んで
食べてくれる者、たくさん食べてくれる者に対しては限りない好意を感じる。
 何よりの賞賛であり、大きな喜び。 
 まして、その相手が自分が愛している人物であれば。
 一番重要な相手に対して料理を振舞うのだとすれば。
 それはもうありったけの腕を振るおうというものだった。
 食べてくれる、喜びの顔を向けてくれる、それだけで天にも昇るような心地
になるのだから。
 士郎とて同じ。
 桜が美味しそうに手料理を食べてくれる事は、士郎にとっては何よりの喜び。
 もっと頑張ろうと思うのも当然。
 常に桜に供しようと思うのは必然。
 熱心に勧める。少しでも喜んでくれたら、もっともっとと次を出す。
 もちろん、無理に勧めはしないし、好みで無いものであればそうと察する。
 でも、明らかに喜んでくれる筈の物、それを抑制しようとするだろうか。
 する筈はない。
 さあ、桜。 
 そう目が語っている。

 しかし、桜の方は栄養分の摂取に対し厳格なる規制を己に下そうとしていた。
 僅かな甘味。
 僅かな脂分。
 僅かな……。
 何もかもが敵。
 そんな修羅の道を進もうとしていた。
 同時に。
 そんな事実を誰にも、とりわけ目の前の士郎にだけは知られる訳には行かな
かった。
 その背反の辛さ、切なさ。

 桜は迷い、狼狽し、うろたえていた。
 どうしよう、どうしよう。
 これだけならば、ほんの少しだけ。
 全部を口にしてしまうのでなく、最初の芳醇な味わいのみを。

 確かに、一口で劇的に変わる訳ではない。
 それほどの影響はない。
 あくまで。
 一口だけであれば。

 しかし、一口だけと受け入れて、それで終わるだろうか。
 途中で箸を置けるだろうか。
 皿の端にナイフとフォークとを揃えられるだろうか。

 間桐桜に、それほどの意志の力はあるだろうか。

 自問自答。
 知性は否と答える。
 経験もまた、それに同意する。
 しかし、桜はそれを打ち消す。
 一瞬の享楽の為に。
 舌の喜び、喉の喜び。
 それに、先輩が喜んでくれるからという言い訳によって。
 これから運動すればというもっともらしい弁解によって。

 口を開く。
 飲み込む。
 それだけで幸せ。
 そして、熱く脈打ち。

「美味しい、桜?」
「はい、先輩。とっても。もっと欲しいです」

 嗚呼、言ってしまった。
 馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿。桜の馬鹿。
 そう思いながらも、桜は口の中に広がる香りに幸せそうな顔をしていた。




 ところで、これは料理の話なのか?
 ……そうだな、考えてみるがいい。
 こんな真夜中に突然台所に立ってでガシャガシャやると思うかね?

 
  了











―――あとがき

 阿羅本さんのサイトでの「ぷち桜祭」用の書きかけを完成させたものです。
 10KBはオーバーしてしまいましたが(自分の独りよがり拘り)
 他にも書き掛けは幾つかあったり。何かに使えると良いのですが。
 桜は書きやすくていいなあとは思います。
 しかし手綱を間違えると酷い書き方になりそうで、その辺が課題でしょうか。

 それと、似たようなコンセプトのようなまるで違うようなお話を秋葉でちょ
ろちょろと書いてまして、まあ、そちらも形になるといいなあと。
 同じような話しか書けないのはどうにかしたいです。

 といったお話を、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。

 
  by しにを(2005/6/21)




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