人想い一思いする重さ

作:秋月 修二

 




                 

 小学校の裏山は、大雨が降ると地滑りが起こるらしい。去年もあったし、今
年も台風が来たらなるかも。
 詮無き事と馬鹿には出来るが、相応に危機感を駆り立てる噂話。或いは、予
期される事故とその昔話。
 地滑り。成程、地滑りか。
 土色の濁った濁流が樹木を押し流し、全てを圧壊していく様は、相応の恐怖
感を与えて止まないだろう。居合わせた人間に対処法などある訳も無く、ただ
土砂に飲まれ消え行くのみ。
 普通の子供ならば、怖がって近づかないか、からかい半分で近づいて後は運
次第、といったところか。
 普通ならば。
 でも彼は、もしかして答えに、祖母の視点に近づけるかもしれない、という
理由で、強過ぎる雨の日にこうして件の場所に一人立ち尽くしていた。
「…………」
 彼は傘を持たない。
 見上げれば曇天模様の低く澱んだ空から、絶え間無く陰惨な雫が舞い下りて
身を打つ。短い髪の毛を容赦無く打ち据え、瞼を濡らし、頬を伝う味気無い酸
性雨。
 もしかすると、彼は泣いているのかもしれなかった。幼過ぎるその身が抱え
込むにはあまりに重い、色の無い瞳がじっと虚空を睨みつけている。
 瞬き一つせずに。
 その眼に一粒一粒を受けて尚、彼は瞼を下ろそうとしない。頑なに。
 ざ。ざ。
 雨が鳴っている。地を弾いて、単音の乱舞を奏でている。
「…………」
 彼の心中には期待がある。
 ただ見てみたい。
 見届ける者がいなければ再現は出来ないと自分で解ってはいるが、それでも
――祖母が何故ああしてくれたのか。死ぬとはそうも割り切りの良いものなの
か。疑問の解答の断片を、彼は幼いなりに必死で考えて、探そうとしている。
 見詰めた所で、山が崩れる訳ではない。ただこの場で立ち尽すことは、同じ
状況に陥るには可能性が高いとは言えた。
「…………」
 何も言わない。言うべき相手もいない。
 やがて体が冷えてきたのか、彼は僅かに身を震わせて腕を抱えた。濡れてい
ない所など無い。風は決して弱くはない。ぬかるみは彼の足を捕えて離さず、
身動きも叶わない。
 少なくとも最後の考えは真実なのだと思い込ませ、逃げるという事実から逃
げる。
 真正面から向き合う。年齢など関係無く、決めた以上貫き通すだけ。そこに
は少年らしからぬ強さがある。
「……何してる」
「……?」
 凛と澄んだ韻が、雨音を掻き混ぜて遮った。彼は振り向く。僅かに離れたぬ
かるみに、彼よりも背の高い女が足を踏み入れる。
 彼女は彼を睥睨していた。感情が無いのではなく、むしろあらゆる感情が綯
い交ぜになっている所為で、感情が読めない。
 彼は思う。自分の役は彼女なのかと。そして繰り返しは残酷だと。
 でも――見も知らぬ人間に迷惑をかけるよりは、いいのかもしれない。
「……甘えてる」
 少年はついに口を開く。聞こえるか聞こえないか、際どいラインの呟き。つ
まり結論は、自分は甘えているということ。
 姉とはいえ、彼女に自分を押し付けていいものなのかは、流石に判断に悩む。
だから止めておいた。半分くらいは正しい。そういうことにして、彼は思考を
停止する。
「姉ちゃん、何しに来たんだ?」
「…………」
 姉は何も言わない。ただ大きく息をついて、彼の腕を掴む。
 引き寄せるような真似はしない。まして会話をせずとも、行動が意味する所
は、お互いが解っていたから。
 ただ無言。
 姉は腕を掴んだまま。ぬかるみは靴を放さぬまま。
 剣呑。








                 

 余程体が冷えたのか、歯の根が噛み合わない。姉ちゃんは馬鹿だ馬鹿だと連
呼しながら、タオルで乱暴に俺の髪の毛を拭いている。自分だって寒いくせに、
こういう時だけ俺を先に回すんだ。
 普段は何もしないのに。
「風呂でも入ってこい。風邪引くぞ」
 大人しく頷いた。言い返してもろくな目に遭ったことがない。
 震えながら廊下を行く。頭に引っ掛けたタオルが邪魔だけど、少し温かいよ
うな気がしたので放って置く。家で我慢することもないだろうから。
 濡れた服を脱ぎ捨てて、洗濯機の中に放る。いくら濡れているとはいえ、服
は服だ。来ていないとやっぱり寒い。
 急ぐようにして、浴槽を覗き込む。お湯は張られていない。
「意味無いぞ……」
 姉ちゃんが入れと言うから来てみれば、浴槽はものの見事に空だった。仕方
が無いので蛇口を捻り、お湯を出す。シャワーを浴びればいいんだが、多分こ
の後姉ちゃんも風呂に入るつもりだろう。だからシャワーはダメだ。仕方が無
いので、洗面器にお湯を溜めて時々体に浴びせながら、お湯が張られるのを待
った。
 冷えた体に、じわりとお湯が熱をくれる。指先が痺れるような感じがして、
少し安心する。熱いくらいだ。でも丁度良い。
「ふう……」
 肩先から滑るようにお湯が落ちて行く。体が震えてどうも動きがスムーズじ
ゃないが、寒空の下あんなことをしていたのは俺だし、仕方が無い話だ。
 まるでお百度参りみたいに、何度も洗面器を傾ける。お湯を浴びながら待つ。
じれったい時間が続く。表面的な寒さは収まっても、芯に残る寒さはまだどう
しようもない。
 取り敢えず、踝が埋まるくらいにはお湯が溜まったので、微妙だなあと思い
つつ入浴する。膝を折り曲げて、寝転がるようにして、無理矢理体を湯につけ
る。水面に落ちる水音が、直接耳元で聞こえた。
 あの雨の音と似ていなくもないが、これは、どちらかというと安心する。温
かいからかもしれない。全身がつかるまでにはまだ時間がかかるが、姉ちゃん
も服やら髪やらを乾かすのに時間がかかるだろうから、まあいいか。
「…………」
 蛇口は一杯に捻っている。だから、邪魔な雑念は全て水音に消されてしまっ
ている。
 落ちついてきた。不自然な体勢のまま考える。どうして、姉ちゃんはあそこ
に来たのだろうか。
 誰かに言ってからあんな場所に行くはずもない。危ないことくらい解り切っ
ているのだから。かといってあの雨の中、遠くから俺が見えたというのも難し
いような気がする。
「何でだろう……」
 姉ちゃんに知れるほど、裏山の噂は大きいのだろうか。まあ、姉ちゃんは卒
業生だから、知ろうと思えば知れるのだけれども。
 いずれにせよ、見付かってしまったのは確かだ。そうなると、何を考えてい
るのかが気になる。怒っているのか、心配しているのか。別に自殺なんてする
気は無かったけど、その近くまで行く気はあった。
 正直――後ろめたい。
「ああ、そっか」
 だからこんなに悩んでいるのか。でも今の俺には何が正しくて何が間違って
いるのかなんて、まるで解らない。
 何で、祖母ちゃんはあんなことをしたのか。いや、してくれたのか。俺のこ
とを考えてくれた、というのはいい。いい、というか俺でもそれは解る。
 でも、じゃあ。
 死ぬって何だろう。
 俺は死んだことはない。生きてる。目の前で死なれた。俺は生きてる。死ん
でもおかしくなかった。しかし俺は生きてる。あの時、俺は近くにいた。
 なのに、想像出来ない。
 気付けば、耳までお湯が来ている。溺れる所だった。このまま寝転んでいれ
ば、形は違えど、また近くまでは行けるだろう。
 ただそれは事故じゃなくて、自殺だ。そんな形は間違っている。
 間違っている? うん、間違っている。だったら、どうして、
 浴室のドアがノックされる。
「風呂、どうだ?」
 姉ちゃんの声。心臓が跳ねた。出来る限り落ち着いて、返答をする。
「お湯、張ってなかったんだけど」
「そうだったっけ?」
 今気付いた、とでも言うかのように、姉ちゃんは話を流す。俺はそうなると
どうしようもなくなる。
 会話が続かない。
 だったら……訊いてみようか。
「なあ……姉ちゃん」
「ん?」
「どうして、あそこに来たんだ?」
 解らないなら、本人に確かめればいい。割と素直にその考えに行き着く。姉
ちゃんはどう答えたものか考えているのか、少々間を置く。
 俺は湯船で体を強張らせて、耳を澄ましている。
 答えは唐突に来た。

「何となく」








                 

 正直に言うと、私はどうのこうのと人を気にかけることが苦手だ。何より私
らしくないと思うから。そも、頭を悩ませることが嫌いだ。少なくとも私に関
しては、そうして巧く行った試しなど、ありはしない。
 となるとやはり、この状況は不自然極まりない。
 馬鹿は馬鹿なりに考えているらしい。アイツなりに真面目に考えているのは
解るが、少々間違った方向に向かっている気がしてならない。
 言った所で聞くまい。だから言う必要は無い。第一、こんなこと自分で気付
かなければ欠片も意味が無い。
「難儀だな……」
 馬鹿がこうして暗い生活を始めて、もう何日経ったのか。いまいち覚えてい
ない。時間は確実に過ぎるが、アイツが祖母さんの死んだ過去から進んでいる
のかは、アイツ次第。少なくとも私は、アイツが良い方に変わったと意識出来
るまで、この閉塞感からは逃れられない……と思う。
 他人なら無視も出来ようが、流石に弟となるとそうも行かない。相応な厄介
さを以ってして、私は地味に追い詰められているという訳だ。
 疲れる。しかし不思議なことに、だったら何もかも捨ててしまえ、という結
論にはなってくれなかった。いつもなら単純にそう片付けるのに。
 体を震わせる。
「……っくしゅ」
 しまった、失敗だった。お湯を張ったつもりだったが、つもりに過ぎなかっ
たらしい。すぐに体は温められると考えていたのになあ。馬鹿はまだガキだか
ら、風邪を引かないようにしてやらなければならない。こういう時に年の甲を
味わう為に、年上をしている訳ではないのだけれども。
 さっき取ってきたドライヤーで、せめて髪の毛だけでも乾かそうとする。ど
うせ風呂に入ればすぐに濡れるのだが、かといって冷えたものをそのまま放っ
ておくとますます冷える。濡れた服は洗濯機に突っ込んで、もう着替えは済ま
せている。だから、後は寒いと愚痴でも零しつつ、アイツが上がるのを待てば
いい。
 そういえば、ポットにはまだお湯が残っていたような。……ん、あるな。
 内心小躍りしつつ、お茶を淹れる。何でもない飲み物が、ありがたい時だっ
てある。
 ドライヤーの風音を耳元に浴びつつ、緑茶を啜る。自分が年を取ったような
錯覚を受ける。そういえば、祖母さんはよくこうしてお茶を啜っていたっけ。
 意識しているつもりは無いが、やはり似ている所というのもあったのかもし
れない。今となっては確かめようもない。祖母さんは、私みたいな人間だった
ろうか。少なくとも、私よりはずっと人間が出来ていたように思えるが……ど
うだったんだろう。
 写真が嫌いな人だったので、私が知らない程の昔を偲ぶ手段は無い。モノク
ロの一葉があれば、皺の無いあの人の笑顔を見ることも叶ったのかもしれない。
「感傷だよな……」
 結局の所、私はただ調子が狂っているとしか言えないようだ。自分で考える
私という生き物は過去に縋る程弱くもないし、かといって未来を楽観する程強
くもない、そんな半端なラインを貫いてきたのだが。
 それがどうして、こんなに昔だこの先だと頭を悩ませているのか。
 生乾きになった髪の毛を適当に手で払い、ドライヤーを放り投げた。
 茶を啜る。現状に苛立ちは無い。ただ釈然としないだけだ。今の私を左右す
るのが馬鹿な弟だというのが、またなんとも。
「さむ」
 考えたら、身震いが生まれた。しかし寒いのが私の思考なのか身体なのかは、
微妙な所だ。しかも自分に一人突っ込みしてる辺りが、ますます馬鹿らしい。
 本当、調子が狂うな。
 手で大雑把に髪を跳ね上げた。一部だけ集中的に乾かし過ぎて、熱が篭って
いる。少々気持ち悪い。
 ああ、早く上がらないのか、あの馬鹿は。けどせっついて風邪でも引かせれ
ば、結局私に返ってくるし、どうしたものか……。
 まあ私がまかり間違って風邪を引いても、あの馬鹿よりはまともな結果にな
るだろう。面倒は少ないだけマシだ。
 思い遣りなんかではなく、単にリスクの比較。こういう所くらい冷静でない
と、思わぬ痛手を被りそうだ。
 しかし。
 私にとっての最善を選べば苦労は少ないだろうが、事態は改善に向かうのか。
というより、負担を減ずれば有彦が前向きになるのか。前向きになってくれれ
ば、私にとってもそれが一番いい。問題は、私にはアイツをどうこう出来るだ
けの器量が無い、という点なのだが。
 だから結局、私は私なりに好きにやるしかない。
 精々身勝手に、傲慢に。
「……っくしょっ」
 拙い。これは、本格的に来たかな?
 気付けば鼻が詰まっている。頭が心なしかふらふらしている気もする。体の
震えが強い。
 あの馬鹿を急がせようかと一瞬よぎるが、考えてみれば、先程風呂場に行っ
た時といい今といい、アイツが風呂に入れる状況になってから、ろくに時間は
経っていないのだ。風呂にお湯を張っていなかったのは私のミスだし、いずれ
にせよ温まってもらわなければ本末転倒なのだ。だから心底から急かそうなん
て思えない。
 まあ、そんな意地張って私が風邪引いたら、そっちの方が本末転倒なのだが。
 込み上げるくしゃみを堪える。みっともない音を立てて、口から空気が漏れ
た。しかも変に堪えた所為で、鼻に空気が抜ける感覚がおかしく、鼻腔が痛み
を訴えた。どうしようもない馬鹿をしでかした気がする。

 これはもう、明日は絶望的か。








                 

 まさか、とは思っていたが、姉ちゃんが風邪を引いた。昨日風呂から上がっ
た時も何か変だとは思っていたが、わざわざ隠し通そうとしていたらしい。
 原因が誰にあるかと言われれば……半分以上、俺の所為だろう。そりゃあ風
呂云々だとかは、間違い無く姉ちゃんの所為だけど、雨の中突っ立ってた俺を
連れ戻しに来て、二人ともかなり濡れていたのは違いない。
 学校に連絡を入れようか……とは思ったが、面倒なので止めた。学校に電話
するというのも違和感があったし、第一姉ちゃんの学校に俺が電話するという
のもおかしな話だ。今はもう八時を過ぎていて、学校にいないのは不自然な時
間だってのもあった。まあ、必要なら学校から掛かってくるだろうし、こっち
から動くこともない。
 俺は取り敢えず冷やしたタオルと洗面器を持って、姉ちゃんの部屋へ行った。
「どんな感じ?」
「気持ち悪い」
 解り易過ぎる答えが返ってきた。実際姉ちゃんは顔を赤くして、枕の周りに
鼻をかんだティッシュを撒き散らかしていた。
「ゴミ箱近いんだから、きちんと捨てればいいのに」
「面倒くさい」
 話すのが辛いのだろう。息が荒いし、あまり何かを喋らせない方が良い気が
したので、俺は腰を下ろしてタオルを額に当てた。
「あー……気持ち良いー……」
「今日は寝てろよ」
 釘を刺す。言わなくてもそうするつもりだろうが、たまに変な気紛れを起こ
すのが姉ちゃんの悪い癖だ。だから先に言うべきことは言っておくに限る。
「気持ち良いけど気持ち悪い……」
「そりゃそうだ……」
 風邪引いて寝込んでるんだから、当たり前の話だ。完全にダメだな、これは。
喋り方はいつも通りに近いのに、話していることが何だかぼんやりしている。
 自分の所為だという気持ちがあるので、結構居心地が悪い。
「有彦」
「何だよ」
「桃が食いたい」
 いきなり何を言い出すかと思えば、これか。
「いや、無理だって。金無いし、学校に連絡も入れてないし」
「使えねえー……」
 酷いことを言われた気がする。でも反論出来ないのは、風邪を引いているい
ないにあまり関係が無かったりもする。年齢云々以前に、こんな時でも立場弱
いな、俺。
 溜息が出た。
「あーそうだ。桃は無いけど、お茶漬けならある」
「お粥じゃないのか……」
「作ったことないから、無理はしないことにした。で、どうする?」
「………それでいいや」
 俺は頷いて、台所に向かった。火にかけていた薬缶も程よく熱くなっている。
昨日のご飯に梅と刻み海苔を乗せて、簡単なお茶漬けを作った。俺もまだ朝飯
を食ってないし、自分の分も便乗させる。お盆にそれらを載せて戻ると、姉ち
ゃんはまた鼻をかんだティッシュをそこらに放り投げている所だった。まあ、
仕方ないのだが。
 定位置について、姉ちゃんに一つを渡した。しかし、さて俺も、と残りを手
に取った所でストップがかかる。
「……疲れるから、オマエが食わせてくれ」
「……マジで?」
「マジで」
 かなりこう、腰が引けるものがあったが、とにもかくにも俺は姉ちゃんの体
を起こした。触れた体はかなり熱い。後で体温計で計った方が良さそうだ。
 レンゲを手に取って、適量を口の中に入れてやる。無感動に、というか反応
するだけの余裕が無いのだろうが、姉ちゃんは口をもごつかせてお茶漬けを咀
嚼していた。体を支えながら食べさせているので、俺は自分のを食う暇が無い。
 つまりは自業自得ということか。
 結構な時間をかけて食事を終わらせ、俺は姉ちゃんをまた元通りに寝かせる。
そうしてからようやく自分の食事に移った。だいぶ冷めていて、かなり微妙な
代物が出来上がっていたが、食わないよりはマシだということで全部食った。
「あー……」
 姉ちゃんは取り敢えず唸っている。鼻が使えないし、横に誰かがいるのなら、
そうなるのも頷けはする。俺は体温計を渡して、熱を計るように言った。
「なあ」
 体温計を扱う片手間に、姉ちゃんはぼんやりと俺に声をかけた。妙に澱み無
く話しかけられたので、今度はどうしたのかと視線を合わせた。
「何だ?」
「……何か、オマエ、凹んでないか?」
 体を横に倒して、視線を俺の顔の辺りでうろつかせつつ、そう呟く。どうで
も良さそうな雰囲気の科白だったのに、思っていることを見透かされた所為で、
心臓が跳ねた。
 実際こうして看病しているのは、心配もあるがそれ以上に、自分の責任だと
いう後ろ暗さが隠れていた。そんなことを考えながら動いていれば不自然には
見えるだろうが、気にするだけ頭が動いていないだろうな、なんて狡い発想の
元、ただ看病を続けていた。
 でもどれだけ重い風邪だろうが、高熱だろうが、どこまでも姉ちゃんは姉ち
ゃんだったらしい。
 図星を突かれた為に、声が微妙に上ずった。
「別に、そんなことない」
 更に墓穴を掘った気がする。少なくとも、『そんなことない』言い方ではな
い。慌てた。でも取り繕える程、頭が働かない。結局、俺は馬鹿だと後悔して
終わった。
 姉ちゃんは苦しそうに息を吐く。
「……なあ、有彦。女と男どっちが偉いと思う」
 いきなり変な質問が来た。何を訊かれたのか一瞬解らなくて、間抜けな顔を
してしまう。意図はともかく質問は理解出来たので答える。
「解らん。金出して養うのは男だから、男?」
 思いついたものをそのままに。しかし姉ちゃんは、辛いクセに、いつものよ
うに悪戯っぽく笑った。
「外れ。答えは女だよ……」
「何で?」
「子供産めるから。自分の体使って、別の生き物、産めるんだ……。
 ……だから男より、女の体の方が、大切だ」
 ……つまりそれは、俺よりも自分の体の方を大事にしているんだから、俺の
所為じゃないとでも言いたいのだろうか。
 それは何か、出来の悪い言い訳みたいで、どうもしっくり来ない。そういう
ものだろうか? いや、違うのではないか。
「……納得出来ないぞ」
「じゃあ、言い換えて、やる。男って馬鹿だから、女の方が偉い」
 ………俺は今度こそ、何も言えなくなった。
 そんなの、理由にもなってない。
 学校ではどうだったっけか。大抵は男より女の方が出来がよくて、先生が男
子がどうこうと小言を漏らす。まあ、よくある感じだな。確かに姉ちゃんの言
う通りではあるんだが、それも根本的に違うような。
 悩む。
「女は頭がいいってのは、認める」
 多分、人間的な意味でも、頭が良いだろうとは思う。しかし俺の中に引っ掛
かるものがあるのは、多分些細な理由なんだろう。
 つまり。

「でも、『姉貴』は馬鹿だ」

 姉ちゃんは軽く目を見開いて、意外そうに俺を見る。それから熱っぽい、荒
い息を盛大に吐き出して、言い放つ。
「生意気言うなこの馬鹿」
「黙って寝てろ、風邪引き。自業自得だよ」
 簡単な話で、姉ちゃんには理屈なんかありっこないのだ。だから結局の所、
俺はどうしたって姉ちゃんには勝てない。悔しいけれど、そう解ってしまった。
本人も考えていることがあるんだろうが、滅茶苦茶だ。
 ああ、もう色々どうでもいいか。全部姉ちゃんの自業自得ってことで良しと
しよう。
 自分で自分の方が大切だって言っていることだし、俺は俺で看病するだけだ。
溜息交じりで腰を上げる。
「薬取ってくる」
「早く行け」
「解ってるから寝てろって」
 随分と態度が大きいが、そこら辺もやっぱり姉ちゃんなんだろう。
「俺がいないからって、寂しがるなよ、姉貴」
 憎まれ口一つ。文句は言われる前に逃げるべし。
 声すら解らなくする為に、素早くドアを閉めて退散した。いやまあ、すぐに
戻ってくる訳なんだが。

 はあ……。何か、気楽になったもんだなあ。






                 

 晴れやかに澄み渡った空に、間の抜けたはぐれ雲が一つ浮かんでいる。周囲
の木々からは、鳥の鳴き声が涼やかに聞こえる。
 動物は災害の前に姿を消すらしい。つまり、土砂崩れの心配は無いのだろう。
 そこには人影が一人分。
 彼は気の無さそうな表情で、ぼんやりと佇んでいる。
 真上から降り注ぐ直射日光も気にならないのか、幾分暑いこの気温の中で、
身じろぎもせずにただ立ち尽くしている。
 別に、何かに絶望しているだとか、そうした風情ではない。単にここまで来
たから、何となくこうしている、といった感じである。
 時折緩やかな風が吹いて、衣服がはためくが、やはり彼はそうしてぼんやり
していた。かつてここで佇んでいた頃の、澱んだ気配は抜けている。
 不意に彼は足元の石を拾い上げ、投げた。小さな風切り音と共に、石は遠く
に飛んで行く。
「……何してる」
 振り向けば、ありふれた鞄を手に、女が一人立っている。彼は彼女の姿を一
瞥すると、裏山に背を向ける。
「別に何も」
「なら買い物に付き合え。私一人だと重い」
「はいはい」
 彼女がそうした言葉を吐くと知っていたのか、彼は素直にそれに従った。大
きく伸びをして筋肉をほぐし、先を行く女に続く。
「待てよ、姉貴」
「三秒な」
 短え、などとぼやきつつ、彼は歩き始める。
 急ぐような真似はしない。そんなことをせずともいいと、お互いが知ってい
たから。
 ただ吐息。
 姉は三秒も待たずに。弟は足を早めずに。

 ―――そんな安穏。


                (了)










 あとがき

 初めまして、あるいはお久し振りです。秋月 修二です。
 しにをさんのリクエストで、一子さんものです。
 ……乾家SSになってしまいましたが(汗。まあ、多面的に見た一子さんっ
てことにすれば、セーフになる……でしょうか?
 お楽しみいただければ幸いです。
 それでは。



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