キュウリを千切りにして、ハムも千切りにする。
 トマトはちょっと切りにくいので、めんどくさいから輪切りのまんま。
 切るのに手間取っていると、隣の鍋が噴き出してしまっていて、慌てて火を
止めて鍋を持つ。

 ……

 ………………

 ………………………………

「あちーーーーーーーーーーーーーっ!!!」






「独り身」

作:のち







 はあ、まったく溜息が出るぜ。
 慌てて鍋を持ったら、熱かった。
 そりゃ当たり前で、鍋掴みを使うのをすっかり忘れてた。
 お陰で、床一面にクリーム色の麺が広がっている。
 いつもだったら、それぐらい気にせずに水で洗って喰っちまうんだが、さす
がにあの後じゃなあ。
 ふうーーー。

 そんな溜息をついている俺の後ろで、一匹の子猫が、にゃん、と鳴いた。

 そいつの鼻先を指で突っついて、もう一度溜息をつく。
 コイツが床から麺を拾えない原因だ。
 昨夜、俺の寝ている間に、コイツ台所の床で小便しやがった。
 まだほんの子どもだし、躾もされてないんだから当然だったが、さすがにこ
うなると、思わずぼやきたくもなる。
 まったく、どうしてこんなふうになっちまったんだか。

 昨日、珍しく定時であがれると、俺はまっすぐ橙子さんの事務所へと向かっ
た。
 刑事って言うものは時間がいつ開けられるかわからないものだから、ちょっ
とでも暇があれば、俺は必ず彼女の元へと行くことにしている。
 幹也のやつなんかは、「元気だね」などとほざいているが、こういうのは一
にも二にもまず根気なのだ。
 アイツだって、それは一番わかっているだろうに、そういうとぼけたことを
言う。
 あの呑気な顔をして、美人の彼女を攻め落としたって言うのに。

 ま、それはともかく、事務所の前に車を止めると、ミラーで髪を整えて自分
の顔をチェックした。
 気色悪いなどと言う無かれ、恋する男はいつだって彼女の前では格好よくし
ておきたいものなのさ。
 そうやって、自分が万全だと言うことを確認した後、事務所の入り口へ向か
おうとしたら、コイツが道路を飛び出しやがった。
 ブンブンとトラックが行き交う中を突っ込もうとするもんだから、思わず俺
は首根っこをひっつかまえて、止めたのさ。

 そうしたら、ちょうど橙子さんと幹也のやつが事務所から出てきて、「秋巳
刑事の猫ですか? 可愛いですね」と言ったもんだ。
 そりゃ、そんなことを言われたら、男だったら見栄をはっちまうもんだろう。
 もちろん、俺も「ええ、コイツ手間かかるんですけどね」なんて言っちまっ
たんだ。
 その瞬間から、コイツは俺の飼い猫になったわけだ。

 一度飼うと言ったからには、俺は最後まできちんと飼い抜く。
 橙子さんにだらしない男などと見られたくないしな。
 だからちゃんとメシもやるし、トイレだって買ってきた。
 そのお陰で、俺の財布は随分と軽くなっちまたけど、先行投資と思えば安い
もの。
 今年こそ、橙子さんを落としてみせるぜ。

 そうやって拳を握っていると、子猫は落ちている麺を食べていた。
 ああ、そうか、もう冷やし中華は食えないものな、コイツのエサにしてもい
いか。
 けど、うまそうに食ってるよなあ。
 俺のハラの方は悲鳴を上げているというのに、いい気なもんだ。

 コイツは体のわりには結構な量を食って、満足したのか、また一声鳴いて、
俺の足下にすり寄ってくる。
 それを抱え上げて、目の前に顔を向けさせて、俺はにやりと笑う。

「オイ、満足したか?」

 そう言うと、にゃんと鳴いて、ゲップをしやがる。
 お、髭に麺がぶら下がってるぜ、きたねえなあ。
 どうやら、随分と冷やし中華が気に入ったみたいだな。

「よし、お前の名前は冷やし中華だ。いいな?」

 それには答えずに、子猫はただあくびをして地面に飛び降りた。
 そして、俺の座布団にくるまって、眠り始めた。
 ふん、まったくいい身分だぜ、と俺は苦笑しながら、台所へ向かい直す。
 床には食い散らかした麺が散らばっている。

 ああ、ハラ減ったなあ。

 
  了








 2003年8月8日

 のち


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