六道遊化

作:しにを

            




 夜空をじっと見上げている。
 漆黒を。
 微かに瞬く星を。
 雲に隠れては姿を現す月を。
 そして目には映らぬなにものかを。

 男であった。
 着物、陣羽織姿。
 優雅なる姿だった。だが決して弱さは感じさせない。
 ただ立っていてもなお纏う、強靭ですらある気。
 さながら一振りの刀の如し。
 外観は優美で見る目を惹こうとも、その実質は戦いの為の存在。
 斬り、人を殺める為の道具。
 男はそうした存在であった。
 自らそうあろうとした存在であった。

 迷い無く、ただひたすらに強さを求め、
 生涯の全てを、「斬る」事に特化させ、
 天授の才を、修練にて開花させんとし、
 しかし同時に、その一心の追求こそが、男を別な存在へと転じさせていた。
 剣禅一如。
 そんな境地を、求めていた訳ではない。
 だが、今のこの状態。
 焦燥の念に駈られてもおかしくはない時に、男は悠然と心身を律していた。
 僅かに瞳に憂愁を滲ませるのみで。

「我が事終わるか……」

 呟く声は静かであった。
 諦観の色を含み、それでもなお澄んでいた。
 空を眺めていた視線を下げる。
 己が腕を手を見つめる。
 体を、足を見つめる。
 佐々木小次郎という名を与えられた体を見つめる。

 外観はほんの数刻までと、何ら変わりはしない。
 傍らに誰かがいたとしても、いささかも変化を見て取れはすまい。
 されど、本人にはわかっていた。
 その体は、ゆっくりと朽ちようとしていた。
 少しずつ確実に終わろうとしていた。
 
 どこまで策を張り巡らせていたのか。
 どこまで先を読み計っていたのか。
 主たる魔女の事は、従属すべき身にはうかがう術も無い。
 もとより、終わった後の成果を誇らしげに語る事はあっても、先の計画を、
外れた読みを、他人に話す女ではない。
 それに不満はない。
 聖杯にも、それにまつわる権謀にも、小次郎は興味を有してはいない。
 山門を守る為に命を与えられた存在。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 ならばその役目を果たすだけ。
 その気持ち自体に何ら嘘は無い。
 この地にいる事で、生前ついに巡り会うことの無かった強き者と存分に剣を
交えられる。
 それだけでも、今の境遇に感謝する気持ちはあった。

 ただ、完全に守りを固めていた主が自ら敵陣へと乗り込んだ事には、かすか
に眉を顰めていた。
 何か考えのあっての事ではあろう。
 しかし、陰に潜むのが女魔術師の基本姿勢だった筈。
 それを破る時が来たのか。
 あるいは破らざるを得なくなったのか。
 自分を失った者が敗れる。
 大小を問わず、争いの本質。

 ともあれ、外での戦いとなれば、佐々木小次郎にはするべき事は何もない。
 山門とその周りに縛られた体。
 見送るより他に、なすべき事はなかった。
 我が身が自由であれば。
 守りとしてだけではなく、攻めとしての役割を与えられていれば。
 どんな相手であろうとも敵ならず。
 未練がましく思うは、詮無き事であるだろう。
 小次郎はそう考える。

 そして数刻。
 目ならず、耳ならず、小次郎は主の死を知った。
 
 まだ数日分の魔力は残っている筈だった。
 しかし供給元との断絶は、由々しき事態を引き起こしていた。 
 明らかな変化。
 己の力が失せていく感覚。
 生命であれ、魔力であれ。
 減耗していき、やがては全てが消失する。
 
 死。
 二度目なれば、恐怖は無い。
 いや、初めて人たる身で死した時も、あったのは恐れではなかった。
 ただ、無念。
 己が魂を打ち込んだものを、ついに具現化せずに死んでいく事への嘆き。

 それは今も変わらぬか。
 小次郎薄く笑う。
 もっと即座に消え去るものと思っていた。
 緩やかに消えるのは、アサシンたる身の特質なのか。あるいは柳洞寺の地脈
ゆえか。
 小次郎にはわからない。
 すぐにではない、ではいつ消えるのか。
 半日はもとうか。
 次の夜まではもとうか。
 それはわからない。
 ただ、そうは長くは無いと判断する。冷静に推し量る。 
 もとより、生に僅かでも執着する心があるとすれば、それは己の存在ではな
く、己の剣技への想いの為。
 戦いたい。
 己の剣を振るいたい。
 強い敵と戦う機会を持ちたい。
 その一念。

 外へと向かおうとも考える。
 主を倒したは、当然ながら他のサーヴァントであろう。
 槍を用いる者であるか。異国の剣を振るう者であるか。
 あるいは他の武芸者なるか。
 想像するだけで、静かなる相貌に夢見るような表情が浮かぶ。
 ほんの一瞬のみ。それで己が境遇を思いやる。 
 山門という依り代に縛られた身。
 一定以上離れれば、存在自体が無くなろう。
 そもそも決められた範囲を越えられるのかどうか。
 
 ならば来訪者を待つしかない。
 これまでのように。
 しかし、今となってはここを誰が訪れるのか。
 そしてよしんば来たとして―――

 佐々木小次郎は長刀を抜いた。
 流れるような流麗さ。
 右に左にと振るう。
 剣舞の如き動きなれど、その速さは尋常ならず。
 もとより剣鬼と化さんと誓えし身に、その腕を戯れとする事など無い。
 全てが本気の動き、速さ。
 音無き動き。
 音すら後からついて来る速さ。
 そしてついには、刃が同時に複数現れるに到る。
 人を超えたる剣技の極み。
 ただ、殺気は込められていない。
 カチリと鍔が音を立てた。
 抜刀と同じく、鞘に収めるも動きに淀みは微塵もない。

 まだ同じであると小次郎は判断する。
 自ら認識している動きと、実際の刀の動き。
 されど、これもまたズレを生じていく。衰えていく。
 魔力を喪失していけば、己は己でなくなっていく。
 あとどれだけ、己の剣を振るえるのか。
 いつまで佐々木小次郎でいられるのか。
 緩慢なる死は、救いではなく呪いであるとも思えた。

 雲より月が現れた。
 じっと見つめる。
 そして、ただ一度、小次郎は願った。
 神にか。仏にか。あるいは天にか。
 それはわからない。いずれでもあって、いずれでもないのであろう。
 人ならぬ身に御仏の慈悲が与えられるのかどうか。
 ただ、強く祈る。
 邪念なき透き通った願い。
 異端の願い。
 今一度、ただの一度でも、戦わせてくれと。
 人としてではなく、修羅としての切なる願い。

 それが何処かへと届いたのか。
 なにものかが、哀切さに目を向けたのか。

 小次郎は顔を上げた。

 来いと呼ぶ声。
 誘う声。
 そちらを睨む。
 幻覚であろうか。
 弱き心の見せる、浅ましいまやかしであろうか。

 しかし……。
 迷い無く小次郎は動いた。 
 その足がつと石段を外れた。
 そのまま向かう。
 木々の間を。
 草の上を。

 越えた。
 出てはならぬと思っていた境界を越えた。
 気負いも無く。
 さしたる恐れも無く。
 ああ、と呟く。
 ここまでは来れるのだと。
 あるいは、今なればこそ、ここまで到れるのかと。
 主の存在が消えた故か。
 あるいはここまでも結界として機能しているのか。
 階段を往復するだけであった身には、土踏む感触は新鮮ではあった。

 黒い森を進む。
 視界は悪い。
 けれど迷わない。
 木々の間を縫うのではなく、あらかじめしつらえた道を歩むように。
 悠然と小次郎は足を動かした。

 しかし、それでもこの地からは離れられぬのか。
 小さく呟く。
 思ったよりも遠くへと歩んでいる。
 だが、それも限りがあるようだった。
 己が希薄になっていくのがわかる。
 魔力とは別の次元で、佐々木小次郎という存在が失せつつある。
 つまりは、剣を取り勇んで外へは飛び出す事は不可能。
 微かに心に湧いた希望は、形となる前に霧散した。 
 そのまま足は止めない。
 そのまま消えるを気にしないかの如く、鬱蒼とした木々の中を歩む。

 そして、辿り着いた。
 朽木。
 いつ頃に倒れたのであろうか。
 巨木と言ってもよい。
 それを前に、小次郎は佇む。
 
 ここだと何者かが告げる。
 この下だと声が聞こえる。

 しばし、剣士は闇の中の木を眺める。
 さすがに一人二人の手ではどけられまい。
 なれば、どうする。
 夜目ゆえにはっきりと見えぬ樹木を、それでも見つめる。
 見つめ、全てを見極める。
 音もなく、物干し竿と称される長刀が抜き身となった。
 先程とは異なる、振るう為の動き。
 
 構えるともなく構え、そして小次郎は刃を走らせた。
 裂帛の気合はない。無造作にすら見える動き。
 ただ、その速さは風を超える。
 さすがに太い幹の両断は成らぬ。
 されど刃を当てる。
 刃が滑る。
 木々に走る線に沿って。
 ひび割れを、なぞるように。
 外皮を剥ぎ取るように。

 止まらぬ。
 あらゆる太刀筋を試すかのように、小次郎は木を相手に刃を振るい続けた。
 削れる。
 割ける。
 切れる。
 長き時を不動で過ごしたであろう巨木が、身悶えするように形を変えていく。

 そして、唐突に止まる。
 風切る音が止んだ。 
 刃先が下に向けられた。
 いつ頃から土に伏し、一体と化していたのかもわからぬ巨木。
 それが、幾つにも割れ、砕けた。

 小次郎は刀を鞘に収めた。
 ばらばらの断塊となった幹に、枝に手をかける。
 持ち上げ、そこから放る。
 外観からは意外なほどの膂力。
 しかし、これは当然。
 苦もなく長刀を操り、神速の動きを当たり前とする。
 優美であると同時に、鋼のような体を小次郎は有していた。 
 瞬く間に、木々は除けられ、その下が明らかになされた。

「石?」

 何かが土から顔を出していた。
 しばし、それを見つめ、小次郎はしゃがみ込んだ。
 剣を振るった手でもって土を掘る。

「これは……」
 
 黙々と作業にいそしむ。
 丹念に穴を掘り、土を脇へとどけていく。
 さらに一刻程が過ぎた。
 
「ふむ」

 満足そうに頷く。 
 袂にある手拭いで、それについている土を拭う。
 石柱とも見えたそれは、意外なものであった。
 いや、ここが寺である事を鑑みれば、別段異とするにはあたらないのかもし
れない。
 
 それは―――、地蔵であった。
 石を彫った素朴な作り。
 いかほどの古さであろうか。
 この寺に住まう僧でも彫ったのであろうか。

「何故にこんな処に眠っていたのかは知らぬが……」

 さほどの信心はない。
 しかし、寺に縁ある者として、この暗き処に置いておく気にはなれなかった。
 
「せめて、寺へ運ぶか」

 置いておけば、誰ぞ処置を講じるであろうと判断する。
 持ち上げる。
 その刹那。
 この男ですら、驚愕の表情を浮かべうるのか。
 雷に撃たれたが如く体が硬直し、目が大きく開かれた。
 手にした地蔵をまじまじと見つめる。

「何故に?」

 呟きに、はっきりとした驚きの響き。
 取り落としそうになった地蔵をよりいっそう強く抱え上げ、小次郎は足を動
かす。 
 それは、森に入る前の小次郎と同じ姿でありながら、別な小次郎であった。
 何故ならば……。
 今の小次郎には確かな存在感があった。
 門を離れるほどに希薄になった何物かが、漲っている。
 主を失った事による魔力の減少はそのまま。
 何ゆえか。

「本山縁のものであるか、それとも地蔵尊のご利益か」

 わからない。
 どのような由来の地蔵であり、何故にこんな外れに埋もれていたのか。
 わかるのはひとつ。
 地蔵を抱いている時には、山門にあるが如き状態だという一事のみ。
 ふっと天啓のように脳裏に浮かぶ一筋の光。
 もはや時間の限られた身。
 山門によって保たれた身。
 されと、これならば……。

「外へと行けるのではないか」

 口から出る言葉。
 それは常ならぬ切望が溢れていた。
 階段へと戻った。
 このまままた門にて、来訪者を待つか。
 それとも、門に背を向け……。

 問う真似をする事すら無意味。
 答えは既に我が心にあり。
 小次郎は静かに呟いた。
 
「いざ、参ろう」

 一度だけ。
 ただの一度だけでも、この一刀を。
 この身につけた手練の全てを。
 
 初めてであった。
 待つのではなく、こちらから求める。
 己が剣を振るう為に、自ら向かう。

 小次郎は、ひとたび抱えた地蔵を恭しく下ろした。
 手が離れる。
 完全に密着していないと、多少効力が乏しくなった。
 ふむと頷く。
 身からは離せぬ。
 多少なり離れても、これならば動けはする。
 だが、置いた地蔵から遠ざからねばならぬ時は如何にする。
 置いた地蔵が戦い巻き込まれ、壊されたらばどうとなる。
 地蔵と離れる訳にはいかない。
 
 少し考え、小次郎は長刀の鞘を外した。
 体に結わえた縛り紐を外し、地蔵に巻きつける。
 そして朽ちたる地蔵を背負う。
 赤子を背負うようにして、自分の体に縛り付ける。
 離れえぬように。
 しかと地蔵と結ばれる。
 なんと珍妙であろうか。
 自分の姿を省みて小次郎は小さく笑う。
 されど、これで良い。
 そもそも、我は時を超え、己を失ってなお、勇武を振るうを望む修羅。
 現世にあっては、衆世を救う地蔵の重石のひとつもあるが相応しい。
 これは修羅界を巡られる持地地蔵の行脚であったのやもしれぬ。
 されば神仏の帰依はなくとも、この地この時にあって出会うは定め。

 これより佐々木小次郎と地蔵は一心一体である。
 地蔵あっての佐々木小次郎である。

 地に置かれた鞘をちらりと見やる。
 拾おうとはしない。
 佐々木小次郎の最後の決闘と伝えられる逸話を承知している。
 ならば、と思う。
 あえて捨てると。
 もはや不要。
 もはやこの剣を収める事は無い。

 負ける事はない。
 我が剣に敗北の文字は刻ませぬ。
 されど、この身は時至り、朽ち、霧散しよう。
 それは避けえぬ定め。
 だから、鞘はいらぬ。
 敗れるからではなく、不要ゆえに、鞘を捨て行くのだ。 
 子供じみたこだわりなれど、我が佐々木小次郎であるのならば。
 あえて、その伝承に倣い、そしてそれを覆す。
 誰に分からぬとも、自分の為に。
 ささやかなる佐々木小次郎たる意地にかけて。

 莞爾と笑みを浮かべる。
 呟くように口から洩れる。
 幼き頃に意味もわからぬままに唱えた事のある御真言。

 オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ……。

 朗々と夜の中に流れていく。
 最後に山門を見上げる。
 柳洞寺に一礼し別れを告げる。

 それでもはや思い残しはなく。
 小次郎と地蔵は疾走した。
 心のままに、飛ぶが如く。 
  
   了
 











―――あとがき

 某地蔵企画への参加作品でした。
(小次郎応援SSを書く。小次郎に地蔵を背負わせる)
 諸事情により、緊急避難として、こちらに掲載。
 
 一応真面目に小次郎のお話にしたつもりではありますが。
 どうせなら、まっとうに書いた方が、地蔵を背負う姿が間抜けでよかろうと。
 崩れずに見られたなら、それはそれで良いし。

 でも、悪ふざけが過ぎたかなあ……。

 お読み頂きありがとうございました。

  by しにを(2004/3/12)


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