華 娥 魅(駕)
作:しにを 兄さんをこの家に戻すと決意を固めて。 私は屋敷にいた親類を全て追い出した。 そして、数多い使用人達にも暇を出した。 正直、この広い屋敷を管理するのが琥珀と翡翠だけと言うのはかなりの無理があったと 思うが、古くからこの屋敷にいた者たちをそのまま残したくはなかった。 主人である私の兄、遠野志貴という人間に対してきちんと仕えるだろうとは思う。 それぞれ躾られ、恥かしくない仕事をしていた者ばかりだ。 しかし、それでも私に対する態度とは違ってしまうだろう。 父が息子に対してどんな扱いをしていたか、親類連中が勘当された遠野家の長男にどん な目を向けていたか、そんな積み重なった事実は絶対に、使用人たちの遠野志貴なる未知 の人物に対する態度に悪影響を与えていた。 兄さんが、完璧に遠野家の一員たる振る舞いをすればまだ良いが、有間の家で私からす れば野放しに暮らしていたのであれば、粗がいろいろとあるだろう。 それもまた、使用人達に兄さんを軽視させる事につながるに違いない。 だから、後の事はまた考えようと思って、私と琥珀と翡翠だけで兄さんを迎え入れた。 それが間違いだったとは思わない。 ただ、一人だけ残った使用人がいる。 正確にはこの家で暮らしている訳ではないから、住み込みの者達とは違うのだが。 運転手の鈴木。 かなりの遠方に位置する浅上女学院に日々通う為に、様々な仕事で出掛ける為に、車は 当然ながら必要不可欠である。 遠野グループの大小様々な関連会社や、取引先などの場所を熟知している運転手もまた、 当然ながら簡単に手放せられる存在ではなかった。 だから鈴木にだけは、これまで通り遠野家付の運転手として働いてもらっている。 これを機会に別の運転手にしようとは考えなかった。 お父様の頃から使えていたこの男の運転は非常に上手い。 急発進や急ブレーキなどはほとんどなく、実に滑らかに車を走らせる。 たまにハイヤーや、他の運転する車に乗ると、まるで遊園地の乗り物にでも乗っている ような錯覚すら覚える。 必要なこと以外は喋らない処も良い。 当初は、私を主人としてどう対処していいのか、迷っていたようだが、すぐに何もしな くていいと呑みこんだ。 必要な事にはきちんと答えるし、たまに話を向ければ朴訥ながら含蓄のある事を口にし たりもする。 こんな年端も行かぬ娘に仕えるのは内心どうなのだろうと思わなくもないが、その態度 には文句のつけどころはなかった。 心服などせずとも与えられた仕事をきちんとこなせば良い。 学校でも私はそういう考え方をしている。 ただ、この運転手に対しては、そう裏表はないのではないかと思っていた。 少しだけその誠意ある仕え方が不思議では在ったけれど。 時に、朝や夕にほんとうに微かな振動を背にうとうととしてしまう事もある。 誰であれ眠っている顔を見られるなど恥辱であるが、この車の中でだけは気にならない。 何故だろうと思う。 この実直な運転手故だとある日気がついた。 直接は目を合わさぬが、時にルームミラーを通して、鈴木の顔を見ることがある。 穏やかな顔をしている。 信号待ちの時など、物言わぬ主人をちらと鏡で確認するのと目を合わす事がある。 私にはあまり縁のない表情をしている。 決して不快ではないけれど、どこか落ち着かなくなるような顔。 よくよく考えて悟った。 それは祖父が孫を見る時の顔つきのようだと。 純粋な愛情を含んだ目つき。 少しだけ複雑な気持ちになったが捨て置いた。 別に害意があるわけでなく、そして子供も、当然ながら孫もいない鈴木には、身近な年 若い者にそんな目を向けるのもわかる気がしたから。 兄さんが帰ってきたのを知って、何故か鈴木は喜んでいた。 その理由はわからなかったが、ようございましたね、という声には私は心から頷いた。 鈴木には私が喜ぶ本当の意味はわからないのではあるが。 ただ、兄さんが帰って以来、登校時間にまったく余裕がなくなった事には鈴木は困った 顔をしていた。 一度どうしてでしょうかと訊かれてしまった。 あまりスピードを出すのは危険ですし、お嬢様がぎりぎりで教室に入られるのもよろし くないのではと、控えめに文句を言われてしまった。 兄さんと少しでも過ごしていたいから。 そうは言えず、これでいいのですと言うしかなかった。 納得したようではないが、主人の言葉にそれ以上異を唱えることはなかった。 よくお笑いになるように、なられましたね。 車中で鈴木と予定など確認していると、ふとそう言われた。 一つ行かねばならぬ会合が延期になったから、早く帰れば兄さんと食事が出来る、そん な事を考えていて、気持ちが外に現れていたのだろうか。 他の者にそんなことを言われたら、即座に反発していたかもしれない。 しかし罪のない顔で、そんな事を呟かれると、そうかしらと返すしかなかった。 鈴木は、ええ、ようございましたと頷いて、信号が青になると車を動かした。 意外と、私のこと見ているのだな。 そんな事をふと思った。 気がつくと、時折、鈴木は奇妙な顔をしている事があった。 うとうととして目覚めた時に。 報告書に没頭してふと顔を上げた時に。 一人思案の中で無意識に何かを呟いてしまった時に。 信じがたいものを見る目で。 何かを疑問に思って、しかしそれを否定する目で。 恥じ入るような目で。 何があったのだろう。 不思議に思う。 学校の行き帰り。 仕事の関係での外出。 何も後ろめたい事はない。 鈴木の関心を引く何があったと言うのだろう。 あるとすれば、家の中での事になる。 対外的には実の兄である人に懸想している事。 そしてその兄の想い人である使用人と淫猥なる行為に耽っている事。 どちらも誰にも明かせない秘密。 でも、私はもちろん、琥珀もそんな事を他の者に語る筈がない。 兄さんにも、翡翠にも。 ましてや……。 でも。 一度考えると、その疑念は大きくなった。 知らず、他ならぬ私自身が、洩らしているのではないか? もちろんはっきりとではないだろう。 何か疑いを持たせるような事を。 ぼんやりと兄さんの事を考えていた時に、知らず独り言を呟いてはいないか。 琥珀との行為の残滓が、どこかで見て取れるのではないか。 まさかとは思う。 でも……? 別に構わない。 決定的にまずい事を言わなければいい。 どうとでもごまかしようもある。 そう思って、決着させた。 させた、つもりだった。 しかし、その秘密を弄ぶ行為は、私に奇妙な悦びをもたらした。 鈴木はどうわたしを見ているのだろうか。 血のつながりのある兄さんとの事を。 同じ女である使用人の琥珀との事を。 袖を捲れば、不自然な縄の痕が見える。 太股には琥珀の口づけの跡が消えずにある。 うとうとと眠ってしまえば、兄さんを想う声を洩らすかもしれない。 琥珀の責めを夢に見て、せがみ、悲鳴を上げるかもしれない。 破廉恥な言葉を口にするかもしれない。 いやらしい雌の顔をしていないだろうか。 そんな事をふと考えてしまったりもする。 きっと淫らな顔をしているに違いない。 そして、そんな顔もきっと……。 気のせいだ。 そんな主人の事をあれこれ考えたりはしないだろう。 そう思いつつも、妄想に近い想像をして、鈴木の顔に疑念の色を見つけて私は愉しんで いたのだと思う。 そして、ある日のこと。 登校中に鈴木は訊ねた。 秋葉お嬢様と、はっきりとした声。 「兄君についてでございますが」 「兄さん? 何か……」 ドキリとした。 しかし平静を装って言葉を促す。 「えぇ志貴様のことです」 緊張している。 何を言うのだろう。 何を言われるのだろう。 私もキリキリと締め付けられるような緊張感を味わった。 「あのぅお嬢様……」 「どうしたの、鈴木。はっきりおっしゃいなさい」 「……はい」 意を決してという調子だったのに、躊躇っている。 その数秒が長く感じられる。 そして、鈴木は思いもかけぬ言葉を口にした。 「……志貴様を愛しておりますか」 瞬間、頭が真っ白になった。 あるべき血液がどこかへ消えたように動きを止める。 そして次の瞬間にどっと倍以上の紅い血が集まってきた。 「えぇ――」 何の考えもなく、技巧もなく、自然に答えていた。 そっと大切な事を告げるように。 いえ、私にとって何よりも大切で、何よりも神聖な事だった。 「……もちろんですとも――兄さん」 きっと時間をかけるのが許されていても、同じように答えただろう。 あまりに直截的な質問ゆえに、答えもまた同じ形をとる。 誰であれ、兄さんに対する想いに嘘をつく事なんて出来ない。 「志貴様とは兄妹なのですよ!」 驚愕の表情。 叫ぶような声。 ああ、と冷静な私が判断する。 やはり鈴木は私と兄さんとの事を疑っていたのだと。 何をどうなのかはわからない。 私が道ならぬ恋に身を焦がしていると考えているだけなのか。 兄さんと男と女の関係になっているとまで思っているのか。 でも、今の会話で。 肉親として、兄として、兄さんを愛しているとは取らず、異性としての遠野志貴を愛し ていると正しく判断されているのがわかった。 ならば、致命的な事をついに私は言葉にしてしまったのだろうか。 いつの間にか車は走り出していた。 車中には緊張感あふれた沈黙に包まれている。 「鈴木」 鏡越しに鈴木と目を合わせる。 「……知っています、そんなこと」 何を言っているのだろう。 駄目押しをしなくてもいいのに。 ああ、兄さんに告白した時だってこんなに……。 目を逸らした。 頬が熱い。 きっと顔中、耳まで真っ赤になっているに違いない。 恥かしい。 そう思いながらも、まるで出来の悪い少女小説のような台詞を呟く。 「でも、仕方ないじゃないの『愛している』のですから」 言ってしまった。 もう取り返しはつかない。 鈴木はどう思っただろう。 血の繋がった兄への想いをこんな処で語っている妹を。 こんな……? 不思議なことに、先程までと雰囲気が変わっていた。 鈴木は何も言わず、私もそれからは口を閉ざした。 でも、その沈黙は決してさっきのような息の詰まるものではなく、 柔らかかった。 浅上女学院の前で、車のドアを開けた鈴木と目があった。 それは人の道を外れた主人を見る目ではなくて、 孫の姿を見ている祖父のような、あたたかい目だった。 結局のところ、私の言葉をどう捉えたのかはわからない。 禁断の恋などを容認するとは思えないから、 もしかすると私の思いを純粋な実ることのない思慕と思ったのかもしれない。 あるいは、最初から私の思い過ごしだったのだろうか。 わからない。 でも、わからないままでいい。 私は澄ました顔をして立ち上がると、僅かな安堵をもって校舎へと向かった。
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