駆けつけて

作:しにを

 




「兄さん……」

 自分でも声がか細く掠れているのがわかる。
 酷い声。
 途切れそうで、震えて。
 ううん、声だけでない。
 きっと顔も酷い有り様だろう。
 蒼白になって、涙の跡が無様で。
 でも、そんな事はどうでもいい。
 そんなつまらない事に関わっている暇はない。
 
 私の全神経は全てひとつの対象に向かっていた。
 全身が痺れるような安堵。
 膝ががくんと崩れそうなふわふわとした感覚。
 体が異常をきたしていたが、構わず見つめる。
 瞬き一つせずにじっと目の前を見つめる。

 ただ、見つめる。
 目の前の人を。
 兄さんを。
 横たわる兄さんを。
 意識を失っている兄さんを。

 兄さんはベッドの上でまったく動かない。

 前に翡翠が言っていた。
 朝起こしに行った時の姿。
 深く眠り目覚めない兄さんの姿。
 まるで彫像のように身じろぎもしないって。
 ただの比喩だと思っていたけど。
 確かに、そう見えなくも無い。
 
 でも、普段は知らず、今はもっと全然違う連想が浮かぶ。
 体のあちこちを覆った包帯。
 その白い布に滲んだ血。
 痛々しい傷痕。
 そう、それらをもって息をしているのも疑わしいほど静止状態を保つ姿は……。

 まるで―――、死体のようだった。

 知らせを受けて、車を飛ばし、靴を履いたままこの部屋まで駆けて、この姿
を見た瞬間、そのまま崩れ落ちそうになった。
 頭が真っ白になって、何も考えられなかった。
 こんな姿。
 生を感じさせない、兄さんの無惨な姿。
 
 ――大丈夫じゃ。
 ――とりあえずは生きておる。
 ――今はただ、意識を失っているだけじゃ。

 宗玄先生の言葉が無ければ、そのまま倒れて意識を失っていたかもしれない。
 思い出してもぞっとする。
 兄さんを見た時のあの喪失感。
 あのぽっかりと開いた地割れの中にどこまでも落ち行くような感覚。
 何を考えたのか。
 あるいは何も考えられなかったのか。
 
 兄さんの顔を見つめる。
 じっと見つめていると僅かに、ほんの僅かに、呼吸の動きが見て取れる。
 生きているのだとわかる。

 そんな事をしなくても落ち着けば兄さんの命の灯火は感じられる。
 他ならぬ、私自身の内に。
 兄さんとの繋がり。

 でも、飽かず、その生命の徴を眺めていた。
 生きている。
 兄さんは生きている。
 僅かな徴。
 それがどれだけ私を喜ばせるか。
 また、頬に伝った涙を拭った。

 よかった。
 本当に良かった。
 でも……、決して安堵できる状態ではない。
 僅かに生と死の均衡を保っているに過ぎない。
 今はその振り子が、こちらに向いている。
 だけど少し風でも吹けば……。
 背筋に冷たいものが走る。

「また、兄さんは自分の事を省みずに……」

 余裕が出来たのだろう。
 そんな事を、ぽつりと呟く。
 兄さんの今の状態。
 無残な事故によるものだった。
 詳しくはまだ訊いていないが、翡翠を庇っての怪我だと言う。
 屋根裏から落ちそうになった翡翠を助け、そのまま自分は転げ落ちたらしい。
 無理な体勢での落下で頭を打ち、屋根の飾りで体のあちこちを無惨に傷つけて。
 
 翡翠は半狂乱になって、それでも何とか外へ連絡を取ったらしい。
 睡眠薬と鎮痛剤を打たれて今は眠っている。
 助かったとは言え、翡翠も兄さんに叩きつけられるように部屋へ放られ、軽い打
ち身になっているらしい。
 意識を失うまで、ずっと兄さんと私に謝りつづけていたのだと先生は言っていた。

 まず兄さんの無事を説明してから、それに至る説明をしてくれたのはありがたか
ったと思う。
 翡翠に対しての恥ずべき負の感情の爆発を自制出来たから。
 恐らくは翡翠が悪いわけではないのだろう。
 その点で翡翠を責めるつもりは無い。

 もしも兄さんの身に何かあったら、その限りではないかもしれないが。
 その時は、多分私は理性を無くしている。
 とりあえずは、そんな事態にはなりそうもない。幸いにも。

「また、無理をした兄さんが悪いのよ」

 兄さんを責めるように呟く。
 呟き、兄さんに近寄る。
 そっと、兄さんの着ている服の前を開けた。
 肩の辺りに包帯が巻かれている。
 内出血になった紫がかった痣も見える。
 
 そして胸の大きな、ぞっとするような傷痕。
 これは今回のものではない。
 幼き日の、兄さんが同じように自己を犠牲にして女の子を守った証。
 私と兄さんの絆。

 そうだ、兄さんはそういう人なんだ。

 手で、その聖痕に触れる。
 大丈夫だ。
 温もりを感じる。
 生きている。
 我慢しきれず、そこに唇を当てた。
 くちづけし、胸に耳を当てる。
 か細い鼓動。
 不安になるほどの微弱な刻み、体内の律動。 

 ――嬢ちゃん、すまないが……。

 宗玄先生の言葉が脳裏に浮かぶ。
 先生は、兄さんと私の繋がりを知っている。
 私の力も。
 そしてその力を振るう事が私に与える副作用も。
 
 遠野寄り。
 それを示唆することは、本来、遠野家の主治医としては許されない事だろう。 
 特に、私は遠野の当主なのだから。

 でも、わざわざ言われるまでもない。
 兄さんの乏しい生命力に私の中の力を注ぎ込む。
 あたりまえの事。
 考えるまでもない行為。 
 例え誰に禁じられようと、他ならぬ兄さんが止めたとしても、私はそれを行う。
 
 兄さんに……。
 なんという高揚感。
 そう思うだけで、美酒で喉を潤したが如き酔いと高ぶりを覚える。
 再び、兄さんの為に私が役に立つ。
 その喜び。
 喜び。
 そうだ、喜びですらある。
 久しく、兄さんとの繋がりは微弱なものになっていたから。
 もう……、兄さんは私を必要としていない。

 琥珀。
 兄さんが選んだのは、私ではなく琥珀だったから。
 他の誰かであれば、感応者としての力を持たない相手であれば……。
 兄さんが私を選ばなかったとしても、私と兄さんとの繋がりは揺るぐ事は無く、そこに
慰めを覚えていただろう。

 しかし、それは半ば断たれてしまった。
 兄さんには琥珀がいれば良く、私はもはや不要だった。
 琥珀を抱けば、私の力がなくとも生きていける。
 そしてその事実がよりいっそう兄さんと琥珀の結びつきを強くしている。 
 少なくとも私にはそう思える。

 だが、今は……。
 ここに琥珀はいない。
 連絡はしたから、恐らくはこちらに向かっているのだろう。
 でもあと数時間、いや普通にすれば明日までは琥珀が兄さんの許に戻る事はない。
 今だけは、兄さんは私のものだ。
 例え今ここにいたとしても、琥珀の力は私の持つものとは性質を異ならせている。
 私でなければ今の兄さんを救えないのかもしれない。
 つまり……。

「私が兄さんの命を握っているのですよ」

 口に出して呟いてみる。
 驚くほど甘美な想いが胸をときめかせる。
 こんな時なのに。
 いや、こんな時だからこそ。

 そう、兄さんを助けるのは私。
 兄さんと繋がり、回復させるのは私。
 兄さんを……。
 
 ……。
 でも、もし……。
 それをしなかったら。
 それどころか積極的に兄さんの生命力の残滓を略奪したら。

 兄さんの命を保つ最後の炎を。
 それはどんなに快美であろう。
 
 兄さんは抗う術を持たない。
 なす術も無く命を失う。
 私の腕の中で。
 ゆっくりと兄さんは失われていく。

 そうすれば、もう……。
 苦しまなくても良い。
 兄さんと琥珀が密かに一夜を過ごしているのを、見て見ぬ振りをする事もない。
 兄さんと琥珀が話しているのを、遠くから見つめる事も無い。
 私には見せない顔に、切り裂かれるような痛みを覚える必要もない。
 無理に妹であり続けなくともよい。

 兄さんが……。
 私だけのものとはならないけど、誰のものでもなくなってしまう。
 それは、酷く、甘美さを覚える事だった。

 あの熱夢に浮かされたような夜。
 月に照らされた学校で、兄さんと殺しあった夜。

 時折、あの時を夢に見ることがある。
 なんであんな事を……。
 兄さんを殺そうとし、その事に高ぶりと喜びを。
 心からの憎悪を。

 否定する。
 自分自身を止めようとする。
 勝手に動く自分の体を必死で食い止めようとする。
 他人のように外から眺めている自分を大声で引きとめようとする。
 でも、それは無駄で、私は兄さんを……。

 悪夢。
 悲鳴を上げて飛び起きることがある。
 ぐっしょりと寝汗をかいて。
 ぼろぼろと涙をこぼして。

 でも、時に、同じ夢が悪夢とはならない事がある。
 兄さんを追い詰め、傷つけ、ぼろぼろに奪い尽くし。
 動かなくなった兄さんを高く掲げ、それを月光が照らす。
 ゆっくりと最後の命の炎を消し去る。

 兄さんの死。
 起こりえなかった結末。

 それを愉悦をもって味わっている事がある。
 夢の中で夢と悟る事もある。
 夢と気づかぬ、一時の仮初めの現実の中にいる事もある。
 しかし、どちらの時も私は悦んでいる。
 兄さんを傷つけ、汚し、葬る事を心より楽しんでいる。
 目覚めた時も、しばらくその余韻に浸っている……。

 熱が冷め、我に返った時には、悪夢を見た時以上の嫌悪と絶望に浸る。
 でも、それでも、否応無しに気づかされる。

 私は今なお、この世の誰よりも兄さんを愛している。
 そう、愛しているのだ。

 強く。
 深く。
 固く。

 愛するあまり、殺してしまいたいほどに……。

 その昏き想いが浮上する。
 
 琥珀が来る前に、兄さんを。
 私のものにならない兄さんを……。
 
 誰も、私を、止める、者は、いない。
 誰も、誰も、誰も、誰も。

 誰一人……。


 今、兄サンノ命ヲ左右スルノハ私。
 私ダケ……。




 




 笑みが浮かぶ。
 自嘲。
 
 出来ない。
 出来る訳がない。

 兄さんを殺せる筈がない。
 今の私には、そんな事は出来ない。
 兄さんには生きていて欲しい。
 いや、死なせない。
 兄さんを死なせはしない。
 誰にも。
 世界中の誰にも。
 遠野秋葉にも、そんな真似はさせない。

 させるものですか。
 


 さあ、兄さん。
 お待たせしましたね。
 楽にさせてあげます。
 ふふ、それでは逆みたい。

 さあ、兄さん。
 今……。
 うん……。

 力の行使。

 感じる。
 兄さんを感じる。
 体の生命が抜けていく感覚。
 その分が兄さんという器に注ぎ込まれる。

 兄さんと繋がっている。
 目が眩み、ふっと力が抜けそうになる。
 よろける体を兄さんの眠る横に投げ出した。
 ずるずると這い、兄さんに身を寄せて横たわる。

 これくらいはいいですよね?
 本当に倒れてしまいそうなんですから。
 隣りに寝るだけ。
 兄さんが琥珀に顔向けできない真似はしませんから。

 兄さんの顔を間近に眺める。
 かすかに血の気が戻ったように見えるのは、気のせいじゃないと思う。

 兄さん……。
 兄さんと交わり一つなったような喜びと共に、さらに生命の力を与えた。
 止めどなく。
 微かに感じる危険への禁忌すら超えて。
 あまりの激しさに体が空っぽになるような衰弱を感じる。
 構わない。
 兄さんを満たすまで、このまま……。

 目を閉じる。
 意識が薄れるのを感じる。
 至福。
 何て至福。
 このまま死んでしまってもいいほどの快美感。

 ずっとこうしていたい。
 誰にも邪魔されずずっと。

 いえ、ダメ。
 兄さんには起きて頂かないと。

 秋葉の命を使って下さい。
 いくらでも、いくらでも。
 元々は兄さんに頂いたものなのですから。

 だから、早く……。 
 早く、その目を開けて下さい、兄さん。
 私が目覚めた時には…どうか……元気な姿を……。

 ああ、感じる。
 目も耳も何も弱っているのに。
 それなのに。
 兄さんを感じる。

 嬉しい。
 兄さんを感じながら、このまま意識を失うなんて。

 ああ、兄さん。
 に…い、さん……。
 ……。 

 至福。


  了











―――あとがき

 元々、これは本家での人気投票の支援SSとして投稿したものです。
 読み返して、ちょこちょこと手を入れてしまいましたが。
 すぐに自サイトにUPしようとしてすっかり忘れていたり。
 秋葉4位だったしなあ……。
 よく考えると、琥珀シナリオのお話ですね、これ。
 嗚呼。

 お読み頂きありがとうございました。

  by しにを(2003/8/23)


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