キスキス大好き! 桜篇

作:しにを

            



 声がする。
 柔らかい、優しい声。
 意味はわからない。だから声と云うより音に近い。
 ぼんやりとした頭を、さらに落ち着かせ、むしろ眠りに誘うような調べ。
 半覚醒の頭は、その心地よい声に耳を傾けたまま。

「…ぱい。朝です。起きてください」

 それでも、だんだんと意識ははっきりとしていく。
 声も少し大きくなっただろうか。
 間近に聞こえる声。
 観念して、目を開ける。
 ぼけた視界が明瞭さを持ち、はっきりと像を結ぶ。
 覗きこむ顔。
 視線がまっすぐにこちらに合っている。
 にこりと微笑み。花のような笑顔。

「桜……、おはよう」
「おはようございます、先輩」
「ん」

 返事をしつつも、小さく欠伸。まだ、起ききれていない。
 いつもなら、もう飛び起きている筈なのに。
 そんなだらしない俺に、桜は冷たい視線を送ったりはしない。少しだけ、仕
方ないですねという表情。
 そして問い掛ける。少し済ました顔で。

「どちらがいいですか?」
「何が?」

 だいたいはわかっているが、あえて訊く。
 こんなやり取りも一部だから。

「お目覚めの……です」
「お目覚めの、何かな?」
「もう。じゃあ、はっきりと言いますよ」

 少しむくれたような声を意図はしているのだろう。でもかえって可愛く感じ
られる。
 でも、言葉を待ち、桜を見つめる。
 その髪を、瞳を、頬をじっと見つめる。
 何より、言葉を発するたびに形の変わる唇を強く見つめる。
 柔らかくて、可愛い、ピンク色の唇を。
 少し恥ずかしそうにしている。けれど俺の目を見て、その唇が言葉を発する
べく動く。それがいつも以上に目を引く。
 次なる言葉を予期して、見つめずにはおれない。

「唇を絡ませ合うキスと、そっと触れ合わせるだけのキス。
 ……お好みはどちらですか?」
「そんなの決まってる」

 言いながら、顔を上げる。
 桜は驚いた様子もなく、それに呼応する。
 ある意味予定調和の流れ。
 覗きこんだ顔がさらに近づく。
 触れ合うほどに、いや触れ合う寸前に。

「両方ともだ」
「はい。先ぱ……ん、んんむ、っふ」

 唇が触れる。
 桜の蕩けるように柔らかい感触。
 どこもかしこも柔らかい桜の体の中でも、特別な部分。
 小さな膨らみを押す感覚。それだけでおかしくなりそうだった。
 それに、桜が下を向いているから、さらさらとした髪が頬を撫でる。くすぐ
ったい感触。
 少し石鹸の匂いの混じった、甘い香り。
 もともとの何もつけていなくても桜自身が放つ、本当に微かな芳香。
 これはもっと汗ばんだり、興奮して体を熱くしたりすると、さらに甘く芳し
く変わる。より濃厚になっていく。
 でも今は、清潔感ある微香を保っている。
 口を塞がれ、もとより呼吸は鼻でしか出来ない。
 だからと言う訳でもないが、いっぱいに桜の香りを吸い込む。
 唇は軽く触れ合わせたまま。

 軽く動いてみる。ほんの少しだけ横にずらす。
 唇同士の擦れあい。僅かな接触が生む摩擦。擦れる感触。
 こんな些細な動きなのに、たまらなく快感が生じる。
 桜が小さく鼻を鳴らす。
 意図したものではないだろう、桜とて口を塞がれているからこその仕草。
 でも、何だか、次はどうですかと促されているように感じられた。
 なら、どう応えようか。
 それなら、桜、優しい接触はこれくらいでいい。
 充分堪能したよ。今度は……、もっと、深く、舌を絡ませあおう。
 
 唾液に塗れた舌を唇から突き出す。桜の唇をぺろりと舐め、その薄い合わせ
に不躾に忍び込む。
 桜は動じずに迎え入れる。いや、嬉しそうに歓迎する。。
 唇の僅かな開きを見逃さずに、そのまま進入。二人の唇が開き、接触面がさ
っきと違う粗い擦れを生み出す。
 舌の通過で濡れたのがまた、別な感触に寄与している。

「んん…ふっ、あぅ……、ふ…………」

 舌で口内を探り、かき回す。
 唇ともまた違う柔らかく濡れたもの、桜の舌を絡め取る。
 そのまましごくような刺激を加えてやる。
 桜の声が、息に混じって洩れる。

 ちぅ…ッッ、ぴちゅ………、ちゅっ、ッッふぅ……。

 唾液が混ざり合う。息が乱れあう。舌が蕩けあう。
 桜の体が、力が抜けたように、少し崩れる。
 上半身だけ起こした俺の上に被さるように。
 大きな膨らみがぎゅっと触れる。
 思わず、背に手を回し、もっと密着させてしまう。
 抱きしめた桜の、何という柔らかさ。
 さっきの匂いが、少しだけ増している気がする。

 その間も、舌は積極的に動いている。
 とろとろと流れ込む甘い唾液を貪るように飲み干す。
 寝起きの喉には、まさに甘露。
 このまま、押し倒して、いや、押し倒されてしまいたいが、さすがにそこま
では出来ない。さすがに少しばかり理性が残る。
 でも、唇は離さない。
 舌は桜を貪るのをやめない。
 それだけは譲れない。

 くちゅくちゅと音が響き、舌の全てを、歯を、口の中全てを嘗め尽くす。
 桜も今では、おずおずとではなく舌を合わせている。
 一方的に貪るのとは違った、お返しの喜び。
 突付くように、撫でるように、互いに舌の動きで想いを伝え合う。
 桜も、もっとと望んでいる。
 舌に、唇に、酔っている。
 それはこちらも同じ、ずっとこうしているだけで幸せではあるけれど。
 でも、あえて……。 
 
「ふぁ、やだ、先輩、もっと…んん、む……」

 強引に離れようとすると、悲鳴を上げるように桜は追いすがる。
 その唇を待ち、こちらからも強く合わせる。
 声も、息も、何も飲み込んでやる。
 ああ、ダメだ。一度離れたら、こちらまで飢餓感が一瞬で満ちた。
 ずっとこうしていたい。
 桜とキスしたままで、このままずっと……。

「桜、士郎……。いい加減になさい」

 それを澄んだ声が遮った。
 二人、唇を合わせたまま、視線を入り口へと向ける。
 まあ、確認するまでもない。
 眼鏡を掛けた女性。
 すらりとした長身、長い髪の絶世の美女。

 ちぅぅ、ちゅっ、くちゅ、ちぅ……、ぴちゃ、くぅ……。

 ライダーに見つめられながら、むしろより熱心に舌で愛撫しあう。
 桜の方がより熱を入れている気がする。
 舌が蠱惑するように俺の口中を這いまわる。
 ぬめぬめと、たまらない快感を後引かせながら。
 でも、さすがに終わり。
 唾液の糸を引きつつ、離れる。

「じゃあ、先輩。朝ご飯ですから、早く起きてくださいね」

 桜は、口を拭うと、晴れやかな笑顔で身を翻す。
 ライダーに何か囁いて台所へ去っていった。

「桜は何て?」
「あまり長くはダメと」

 多少、苦笑気味だろうか。
 ライダーはちらりと姿の見えぬマスターの方へ目をやる。
 俺の方は、桜の言葉に少し笑ってしまった。
 これくらいだと、可愛い牽制であり悋気だと思ったから。

「だったら、やめる?」

 そう言ってライダーを問うように見る。単に質問と言うより、促す調子で。
 それだけでなく、口を開いて、舌を出してみせる。
 まだ、桜の唾液に塗れたまま。雫ががこぼれそうな状態。

「きょの、ひゃくりゃの……」
「士郎は、私には朝の挨拶をさせてくれないのですか?」

 ライダーの表情が少し崩れる。
 あえて言えば渇望にも似た色が浮かぶ。
 俺の舌を求めている。いや、桜と交じり合ったこの舌を。
 それはライダーの好みのものだった。
 返事代わりに、少し口を上に。そして待つ。
 ライダーの顔が近づいて来た。
 躊躇いもせずに、唇を、濡れた俺のそれに重ねた。
 桜の甘い匂いとは違う香り。
 もっと官能を刺激する。もしかすると単体では穏やかな芳香なのかもしれな
いけど、ライダーの香りだと思うと頭をぼうっとさせる力があった。
 桜とは違う柔らかさ。それをぎゅっと押し付けられるのは、とても気持ち良
かった。
 それだけでなく、ライダーは唇を左右に動かした。震える程度の小さな動き。
 なのに、唇にくすぐったさが生じる。ゾクリと来る触感が残る。
 さっき俺自身が桜にした事を、ライダーにされている。
 ずっと技巧的な、ずっと快美な動きで。
 思わず、声が洩れる。その小さな口の開きに、すかさずライダーは濡れた舌
を差し入れた。
 ほんの少しだけ。いきなり奥まで闖入する真似などしない。
 舌先で、唇を震わせている。
 唇の内側の側面を柔らかく探っている。
 それだけで、どうにかなってしまいそう。
 あくまで丁寧に、優雅に、けれどやっているのは舌先の戯れ。
 ライダーがそんな真似を、自分からやっている。
 そう思うと、それだけで高ぶる。
 少し強引に舌が唇の隙間を弄る。
 ねだると言うより、奪うような意思を感じさせる。
 口の中に侵入し、思うが侭に蹂躙されるのを予期して、思わず口をあけてし
まう。
 ライダーが僅かに微笑んだ気がした。
 ねっとりと舌が入り込む。
 悠然と、さっきの俺のように慌てたりはしない。
 ライダーの唾液に塗れた舌が重なる。
 柔らかい。桜ともまた違った感触。同じ柔らかさでもしなやかな柔らかさ。
 こちらの動きを待たずに、舌が這う。表から裏へと。先端から根本までと。
 そして、すっと引っ込んでしまう。
 すると、意識せずに俺の舌は追った。ライダーの舌を。ライダーの口へと。
 最初から、それが狙いだったのか。
 ライダーは俺の舌を迎え入れ、軽く唇で挟んでしまう。

 桜のキスは例えるなら砂糖菓子。
 とろけるように甘くて、たとえ甘い物がダメだったとしても抗えない根源的
な魅力。
 ライダーのはアルコール。
 こちらも口当たりは良いが、度数は高くて触れると酔ってしまう。二口、三
口と進めるうちに数がわからなくなり、もっとと求めてしまう。
 そんな事を思っていられるのも最初だけ。
 ライダーが俺の舌を吸い始めると、思考は消し飛んでしまう。
 全ての感覚がここに集中したように。
 ライダーの唇が舌を挟む感触。吸う度に強さが増す。
 密着した舌がぴくりと動いて、ぬめりが新鮮になる。
 歯が軽く触れる。
 どこもかしこも柔らかいライダーの口中にあって、はっきりと硬さを感じさ
せる場所。
 なのに今は、ここですら柔らかく感じる。
 ああ。また吸われている。
 強く、奥底までも引っ張りこむように。
 舌と、唾と、息と、声と。それだけでなく他のものまで何もかも吸い取られ
ているよう。
 これほど激しくしていたら痛みを感じてもおかしくないのに。せめて息苦し
さくらいあって当然なのに。
 ライダーが加減をしているのだろうか、全然苦痛はない。少し息は乱れてい
るが、それは原因が別。
 快感が強すぎて、脳のどこかが蕩けてしまって、麻痺してしまうのだろうか。

 このままこうしていると、どうなって……。

「って、え?」

 唐突にライダーの姿が消えた。
 いや、消えたように見えた。非実体化した訳ではない。
 突如、離れてしまった。
 今までのキスがまるで夢か幻だったように、平然とした澄まし顔で部屋の隅
に佇んでいる。

「ライ…」
「せんぱい」

 桜が現れた。 
 制服にエプロン、笑顔。なのに、どこか威圧感。
 咎める表情は微塵もないのに、こちらの背筋を正させる。
 無言なのが、何とも、その……。

「起きる、今、起きる」
「はい、朝ご飯頑張っちゃいましたから、早く来てくださいね」






 そんなこんなで起きて朝食。
 手早く着替えて居間へいくと、既に皿は並べられて用意は済んでいた。
 食欲をそそる眺め、そして匂い。
 珍しく今朝は和食じゃない。
 こんがりと焦げ目がをつけて焼けたトーストや、綺麗に盛り付けられていた
サラダなどが目に入る。
 と、食卓を見回す。
 
「あれ、藤ねえは」
「今日は早朝会議で早く出掛けなくちゃいけないって言ってました」
「へえ、起きられたかな」
「それで、その分早く帰るから、夕飯は気合入れるようにと……」
「ん、了解」

 いただきますと声を揃え、食事開始。
 厚手のパンを齧りつつ、インゲンを突付く。
 少し胡椒を利かせているのが、アクセントになっている。
 オムレツは……、具は無しのプレーンオムレツ。
 外側はしっかりと焼けているのに、中はとろとろとしている。見るからに絶
妙な焼き加減。
 昨日の蒸し鳥の残りを使ったサラダも、新鮮な野菜のパリパリ感が心地よい。
 ふと顔を上げる。トーストにマーマレードを塗っている桜と目が合った。ち
なみに、これも市販でなくて桜の自家製だ。
 桜の目がどうでしょうと訊ねていたので、無言で頷く。
 それだけで会話が成立し、桜は顔を輝かせた。

 嘘偽りなく、桜はまた腕を上げたのではないかと思う。それはそれで喜ばし
い事だけど、まだまだこちらも負けられない。
 今夜は藤ねえの為だけでなく、少しばかり気合入れて腕を振るって見せない
とな。
 そう決意して、もう一枚パンに手を伸ばした。
 桜もしっかりと朝ご飯を食べている。 
 そしてもう一人の住人、ライダーはお茶をすすっている。それだけで充分と
意思表示していたのだろう、後はサラダの小皿だけ。
 本来必要ないので、お付き合いと言った処か。
 でも、特に用がなければ、ライダーも必ず食卓に同席する。量は少なくとも、
桜や俺の料理をきちんと食べてくれる。
 それにしても……。
 静かに、そして穏やかにしている様からは、とてもさっきの妖艶な舌使いな
ど想像もできない。
 と、こっちを見た。
 微かに笑っているのか、気のせいか。いや、何気なく舌先を覗かせたのは意
識しての行為だろう。
 まあ、普段との差と言えば、桜もそうだな。
 とてもこんな姿から、さっきや夜の……。
 視線が合い、慌てて思考を中断する。

「じゃあ、先に行ってきます、先輩」
「うん、朝練頑張れよ」

 片付けをしてから出掛けるのだと言って、桜は聞かなかった。
 けっこう危ない時間である事はわかっていたので、こっちはそれを認めない。
 押し問答を続け、結局時間切れ。
 すまなそうな顔をする桜を、押し出すようにして玄関へと向かう。
 ついでなので、玄関まで桜を送る。
 また、学校で顔を合わせるのだけど、とりあえずは見送り見送られの関係に
なる。
 急いでいた筈、なのに出掛けの言葉を交わしつつも、桜は動かない。
 そわそわとして、でも待っている。
 もう少し時間の余裕があれば、気付かない振りして桜からのおねだりを待つ
のだけど、そうしていると桜を遅刻させてしまう。
 それに、こちらから声をかけた時の何とも言えない桜の表情が、同じくらい
俺は好きだった。

「桜……」

 名前を呼んで顔を近づける。
 桜は意図を察して、とたんに嬉しそうな顔になる。期待の色を浮かべる。
 わずかに顔を上向きにして待っている。
 何とも可愛い仕草。
 でもあまりにそのままだとつまらないから……。

「ん……」
「っあ、え……?」

 くちづけする。
 でも、桜からは当惑の声。
 ああ、すべすべで柔らかい。
 俺が唇をつけたのは、桜の頬だった。
 戸惑いと、失望の声が間近の耳に聞こえる。
 思ったとおりの反応。ああ、大丈夫だよ、桜。

 ちゅっ、……ちぅぅ。

 頬から離れ、すっと動く。桜の唇にくちづける。
 出来るだけ優しく。
 桜が身を固くする。
 朝の唾液を交換し合うような激しさには、平気な顔をしているのに。
 出掛けであり、制服を着ている。そんな事で学校での意識が生じているのだ
ろうか。
 積極的な桜、唇も舌も平気で受け入れる桜。それとは違う桜もまた、俺の好
きな桜だった。
 こちらだって、今なお桜とこうしているのを、時々信じられなくなるのだし。

 もっとと望みたくなる。
 桜の唇を吸い、舌を吸い、喘ぐ声も、息も、何もかも吸い尽くしたくなる。
 舌の感覚がなくなるまで絡ませあい、戯れあいたい。
 でも、そうしない。
 時間だけの問題じゃない。
 この、触れただけの、ほんの小さな接触を損ないたくないから。
 こんな子供みたいな触れ合うだけのキスも、桜と俺にとって何にも替えがた
いものだから。
 僅かな接触を、少しだけ触れ合う息を、その感覚より互いに触れているのだ
とという意識を、味わって。
 どちらともなく離れる。

 足りない。
 でも満たされている。
 矛盾した気持ち。
 俺と同じ気持ちであろう桜は微笑んでいる。

「行ってきます、先輩」
「ああ、気をつけてな」

 ほんのりと熱っぽい表情で桜は出掛けていった。
 足取りはしっかりしているから、ぼんやりしているようでも平気だとは思う
けど。
 振り向きかけに、もう一度声を掛けた。

「桜」
「はい?」
「後でまた、いっぱいしような」
「はい」

 力いっぱい頷いて、そして恥ずかしくなったのだろう。
 顔を真っ赤にして、ぱっと背を向けると、桜は駆けていってしまう。
 
「ふう」

 少し空虚感。
 でも、ぼうっとしてはいられない。
 俺だって学校に行かないといけないし、その前に朝の片付けしないとな。
 と、振り向き、動きが止まる。

「うわ、ライダー」
「……」

 ライダーが立っていた。
 全然気付かなかった。

「びっくりさせるなよ」
「別に気配を消していたつもりはありませんよ、士郎。
 桜はちゃんと気付いていました」
「そりゃ、桜はそっちを向いて……って、桜は見られているの知ってたのか?」
「はい」

 そうか、桜……、なんだか負けた気がするよ。
 軽い敗北感を消化していると、ライダーがじっと眼鏡越しに俺を見つめてい
るのに気付いた。
 何だか珍しい表情。
 
「どうしたのさ」
「いえ、羨ましいと、何故かそんな感情が芽生えました」
「羨ましい?」
「はい」

 ライダーは明瞭に返事をした。
 しかし、顔は何か迷っているよう。
 そんな顔でも、魅力的に見えるんだな。愁眉なんて言葉が頭に浮かんだ。

「士郎と桜が、軽く唇を合わせているのを見て、羨ましく思ったのです」
「そうか」
「でも、何に対してなのか。桜にか、士郎にか、あるいは二人に対してか……、
 わかりません」

 考え込む表情。
 こちらもライダーの気持ちはよくはわからない。

「なら、俺が出掛ける時にライダーとしようか」
「わたしと、ですか?」
「ああ。それで気が済むかもしれないだろ。まあ、今の桜と俺の立場は逆にな
るけど」

 どうと問う目でライダーの返事を待つ。
 ライダーは小さく頷く。
 
「お願いします、士郎」
「OK、と、急がないと時間がなくなるな」

 台所に取って返し、手早く皿を洗う。
 鍋などは料理できた時点であらかた桜が始末してしまっていたので、そんな
にはない。
 次は身支度。
 と、カバンを持ち、玄関へ。
 ずっと待っていたのだろうか、ライダーが立っていた。

「じゃあ、行ってくる。留守番頼むな」
「任せて下さい。当家に仇なすものは、全て……」

 全てなんだろう。
 まあ、追求している時間はない。それなりにご近所ともうまくやってくれて
いるようだし。

「それじゃ……」

 言いつつ、ライダーに近づく。
 僅かに背を丸め顔を落すライダー。
 はらりと乱れる髪が何とも艶かしい。

「士郎?」
「あ、ごめん。改まってライダーと面と向かうと緊張しちゃうな」

 いつもは、ライダーからしてくれる事が多いからな。
 一度唇を合わせてしまえば、こちらも枷が取れたように思うように振舞える
のだけど。
 ライダーは待っている。
 待っている。
 ……。
 困った。あまりに綺麗な顔が俺がキスするの待っているのだと思うと、変な
気後れが。
 桜だって息を呑むほど綺麗に見える事はあるけど、こんな風にはならない。

「士郎……、わたしではダメですか?」

 非難であればまだしも、気落ちした声。
 これはダメだ。何とかしてやらないと。
 どうする。何ができる。

「そうだ、ライダー、ちょっと目をつぶっていて。そう、それでそのまま動か
ないで」

 ライダーの顔に手を伸ばす。
 すんなりと伸びた鼻梁の絶妙なライン。
 そしてその上にのる繊細な作りの魔術の結晶。
 魔眼封じをひょいと取り上げてしまう。

「し、士郎、何をするのです」
「ライダー、目は開けないで」

 叱責するように鋭く叫ぶ。
 さすがに危険をはらんでいた為に、ひとりでにそんな声に。
 ライダーはびくんと、体を硬直させ、開けかけた目を閉じる。
 別段危険を感じている訳ではないだろう。
 目を閉じたとて、ライダーは俺の動きなど感じ取っているだろうし。
 ただ、何をするつもりかという戸惑いが、ライダーを妙にか弱く見せていた。
 頬に手をやる。
 撫でるというより、そっと触れる手つき。
 そして、ライダーにくちづけする。
 さっき桜にしたように、唇ではなく別な部分。
 ライダーに対しては、しっかりと閉じたままの瞼に唇を当てた。

「あ……」

 小さな吐息が洩れる。
 じっとしてはいるのだろう。でも、ぴくりと目の辺りが震えた。異種の感触
に反応したのだろうか。
 細い睫毛が唇に触れていた。こちらとしても不思議な感触だった。
 それから本来の場所へ、ライダーの滑らかな唇に触れた。
 少し開きかけた唇に、触れるか触れないかの接触を行い、それから軽く前へ。
 ほんの少しだけ接する部分が増える。
 さっき散々唇を重ねたのに、あれほど貪るように求めたのに、今のこの触れ
合うだけのキスは新鮮な喜びがあった。
 桜とは啄ばみあうような軽いキスを飽きる事無くし合うけれど、ライダーと
はほとんどない。
 それはこのキスをする理由からすれば当然だけど、何だかおかしみを感じさ
せた。
 互いの舌の感触を隅から隅まで知っている。唾液を交換し合い舌吸いをする
真似は数え切れぬほどなのに、こんな触れるだけのキスにときめくなんて。

 名残惜しさを感じつつ離れる。
 ライダーはじっとしている。
 無言のまま、目は当然ながら閉じたままなので、その考えている事はわかり
にくい。
 手にした眼鏡を掛けてあげた。
 ゆっくりと瞼が開く。
 夢見るような表情。
 軽い吐息を洩らし、俺を見つめる。

「なるほど、こんな……」

 言葉は途切れる。
 とりあえず、満足してくれたようだった。そう思うと何だか嬉しさと誇らし
さが心に生じる。

「それじゃ、行ってくる」
「はい、士郎。お気をつけて」

 輝くような笑顔でライダーは送り出してくれた。
 その顔は少し気恥ずかしくて、俺は走って家を出た。
 さっきの桜のように。
 
 走りつつ、思う。
 体が軽いなと。いつもの事ではあるけれど、意識すると軽い驚きを感じさせ
る。それと、幾分の申し訳なさを。
 そして、慌てて打ち消す。負担だと思ってはいけない。決して二人はそんな
事を思っていない。感謝はいい、けれどマイナスに考えてはいけない。
 意識を外に向ける。自然と考えるのは、ある意味同じ事だったけど。
 今日は目覚めてから何度、桜とライダーと唇を重ねただろうかと。
 正確には、舌を絡ませあい、体液の交換をしただろうかと。

 こんな朝から唇を合わせあうのは、決して今日だけの特別な事ではなかった。
 どう考えてもおかしい非日常は、今の衛宮家の日常だったから。
 そう、この体になってからの日常の姿。

 柳洞寺地下の大空洞で意識を失ってから、この体になるまでの長い日々。
 どれだけ皆に苦労を掛け、心配をさせ、尽力を得ただろうか。
 ある意味、壊れかけた体よりずっとまともな体になれたのだけど、万全とは
いかなかった。
 突然、眩暈がしたり、体の感覚が薄くなったり。水道の蛇口を急に絞ったよ
うに、生命力がか細くなったり。いろんな不具合が起こりはした。いや、今で
もしている筈。
 馴染み、違和感がなくなるまでは、長い時間が掛かるだろう、そう遠坂は説
明してくれた。極めて微妙な表情で。

 それでも生きていられただけで、俺としては満足だったが、周りはそうは思
わなかった。特に桜の心配振りは尋常でなかった。
 俺をいつも心配し、夜中でも何か俺が音を立てれば駆けつけ、少しも離れず
傍にいようとした。ろくに眠る事もしていなかったのだろう。やつれた姿で、
それでも平気でいると装う姿。
 大丈夫だからと説得し、時には叱るようにしても、決して桜は首を縦に振ら
なかった。
 もう、先輩だけがいなくなるのは耐えられません。
 涙を浮かべて、そんな言葉を返されると、もう何も言えなかった。
 やっと元に戻ったという安堵があっただけに、反動で過剰に心配性になって
いたとは思う。でも、立場を置き換えればわかる。一縷の望みを抱いて、それ
が叶わなかった時の落胆は良く理解できる。
 でも、桜に負荷をかける事が、桜を犠牲にするような事が、桜にいちばんの
安らぎを与えている。そんな酷い事はなかった。
 桜を心から安心させ、曇った表情を明るくしたかった。

 もちろん、何もせずにいた訳ではない。
 様々に調べ、手を尽くし、ようやく行き着いたのが、『感応』という特殊能
力、それに起源を持つ術法だったう。
 魔力供与とは似て非なる性質を持っていた。
 純魔法的な存在であるライダーのようなサーヴァントと違い、単なる人間で
ある俺では、魔力供給それだけでは足りない。ふんだんにある魔力を用いて自
身の生命活動を何とかする方法もあるが、俺ではそんな器用な真似は出来ない。
 直接に生命力を強化したり、わけて貰わなければ、俺の体の足りない要素を
補えなかった。
 それが『感応』の力、そしてその応用技術であれば可能だった。術者が被術
者と感応、共感し、被術者の力を増幅させたり、術者の力を分け与える事こそ
がその能力だったから。
 もともとはある血筋に伝わる固有の力だったのを、魔術的に解析し再現した
技術体形。それを、尋常でない伝手を使って桜は習得した。代償として、間桐
の家の蓄積した遺産を放出して。
 丸一日、何事もなく快調に過ごした俺を見て、桜は泣いてしまった。
 幾分やつれた桜を抱きしめ、これからは俺が桜を守ろうと改めて誓った。

 ただし、本来の能力者に比べれば、効果や持続時間は遥かに乏しいらしい。
 頻繁に、その発動の儀式を繰り返さねばならなかった。

 その手段――−、体液の交換を。より率直に言えば性行為を。

 こちらの分泌する液体を桜に送り、桜からのものを俺が摂取する、それを一
日に何度も何度も。
 本来は体を重ね、交わる行為がいちばん良いのだそうだが、事実、最初はそ
うしていたのだが……、ひっきりなしにそんな真似は出来ず、断念。
 それよりも、少しは時間を掛けて唾液を混ぜあい、飲ませあう行為の方が効
果的だと判明した。
 どれだけすればいいのか、どれだけ効果があるのか。
 そんな解析じみた事をしつつも、一日に何度も桜を抱きしめ、キスをした。
 甘美と言えば、この上ない甘美な治療、カンフル剤、補強。
 俺の部屋で、台所で、寝室で、風呂で、庭で。いたる所で俺はキスをした。
 いや、家の中だけではなく さすがに学校ではためらいを覚えなくもないが、
それでも、と逢引じみた真似をする事はあった。
 




「あ、先輩」

 放課後だった。
 その時に俺は、桜に会いたいな、と廊下を歩いていた。
 軽い、自分を相手としてのゲーム。まっすぐに桜が弓道場へ向かっていれば
負け。そのまま帰宅。会えればご褒美。
 ローリスクハイリターンすぎるお遊び。もちろん、弓道場に行って、いなく
とも待っていれば、必ず会える。でも部活動を邪魔する気は毛頭ない。
 あくまで、偶然、もしくは目に見えぬ絆によって会えたなら……というお遊
びに過ぎない。

 そして、俺は桜に出会ったのだった。それも実にちょうど良いタイミングで。
 桜からの呼びかけに、答えない。
 表情は笑みだろうけど、口は利かない。
 穏やかに微笑んでいた桜は、無言の俺に、表情を変える。
 それを見て、初めて口を開いた。ゆっくりと桜に告げる。

「……学校では、先輩は言わない約束だったよな」
「あっ」

 しまったと言う顔。
 一年の休学を経て、今は桜と同学年。残念ながら同じクラスでこそないが。
 それで、学校の中だけは先輩と呼ぶのを禁じて、衛宮さんとか、衛宮くんと
か呼ぶようにと厳命していた。
 桜が上目遣いで俺を見る。神妙な表情。

「罰が必要だな」
「は、はい。……何でも言ってください」
「じゃあ、こっち来て」

 空き教室に誘う。
 あらかじめ調べてある。ちょうど良いというのは、さして移動する事なく潜
り込める出会いの場所。
 桜の肩を軽く抱いて、教室に入り、扉を閉める。
 桜は怯えてこそいないが、少し不安そうな顔。

「何を……ん、んん……」

 桜の唇を奪う。
 少し驚いた顔、でも抗いはしない。

 んふっ、ちぅぅうう、ちゅっ…………れろ。くちゅ、れろろ……。

 あまり長引かせる訳にはいかない。
 桜が遅れて弓道場に向かうのは、後輩達に示しがつかないだろう。
 そう考えて、最初からとばした。
 舌をいきなりねじ入れる。
 ある意味乱暴だけど、それを受ける側はそう感じていない。
 小さく開いた唇に、歯に、擦れる舌を拒まず受け入れる。
 それどころか、自分でも舌でもって迎えて入れている。
 絡めあった。桜の舌の奥を探る。表面の軽いざらざらを越えて奥へ。
 薄く筋張った舌の裏側の根本まで。
 同じ舌なのに様々な感触を持っている舌中を味わう。
 桜は俺に蹂躙されつつ、舌を吸った。
 じゅるじゅると音がする。まじりあった唾液が吸われていく。
 引っ張られる感覚は、瞬時にぞくぞくとした快感を生み出す。

 吸われながら、今度は強引に舌を引っ込める。
 え、と怪訝そうな表情を浮かべ、桜は意図を察したのだろう。受けから攻め
に転じる。
 桜の舌が俺の口に這い寄って来る。
 唇にあたる時の感触のなんていう素晴らしさ。
 迎え入れ、今度はこちらが舌吸いをする。唾液に塗れた桜の舌をこそぎ、喉
に送る。
 桜が声を出す。いや、声とはいえないくぐもった音にしかならず、それも飲
み込まれてしまう。
 互いに舌を潜らせあい、吸いあい、それで離れた。
 二人とも息が乱れている。
 とろんとした桜の顔が、何とも艶かしい。

 少しそうして二人で息を整えていると、我に返った桜が、ハンカチを取り出
した。手を伸ばして俺の口を優しく拭い、それから自分の口元を拭いた。
 二人とも、口元をどちらのとも知れぬ涎で濡らしていた。
 少し子供になったみたいで恥ずかしいが、桜にされるのはなんだか嬉しい。
 母親めいた行為をして、しかし悪戯っぽい表情で桜は訊ねた。
 
「罰なんですか?」
「そうだよ」
「だったら、わたし、また罰を貰ってしまいますよ?」

 それもいいなあ、とこっちでも思ってしまう。
 罰として、こうしてキスするのもなかなか良かったから。
 でも、あえて表情を消した顔で桜に告げる。

「そうしたら、桜がちゃんと俺のこと衛宮さんとか、衛宮君とか呼んだご褒美
が貰えないぞ?」
「ご褒美……ですか?」
「ああ。よくやったって、桜が気が済むまでキスしてあげる」
「うう、それは魅惑的な。わかりました、頑張ります」

 真面目に頷く桜に、思わず笑ってしまう。
 桜も次の瞬間に、にこりと笑う。
 どちらともなく、再び唇を合わせあう。

 ちゅっ、ちゅ…っふ、くんんッッ、れろ…………。

 肉体的な快感。
 好きな女の子と触れ合っている喜び。
 そして、体のどこかが温かくなる感触。
 今度は激しくはないが、唇を感じあうキスをした。舌も触れ合うだけ。

 こうしていると自動的に、俺は桜から生命力を幾ばくか与えられる。
 けれど、その為に桜を探していた訳ではない。
 今日は一日調子が良かったし、学校から家までも何ら問題はない。
 ただ、桜とこうしてキスしたかっただけ。
 唇を合わせ、舌を絡ませたかっただけ。

 家でも、こうして学校でも、はたまた外でも、桜と人目をはばかりつつもキ
スを何度もするのは、感応力の行使の為だけにキスをするのが嫌だったからだ
った。我が侭かもしれないけど、桜にキスしたいからキスをする。それを曲げ
たくなかった。
 だから、必要がなくても桜とキスをした。ライダーに対しても同じ。
 少なくとも最初は。
 今はさらに、違う理由が生じている。
 あるいはいちばんの原動力たる原因。

 単純に、俺はいかれてしまったのだ。
 唇を合わせるという行為に。
 舌を絡ませあい吸い合うという行為に。
 口中を舐めまわし、唾液をすすり合うという行為に。
 いや、それは俺だけでなく……。
 だから、狂ったように、暇があればキスをするのだ。
 どこでも、いつでも。

「そろそろ部活に出ないと」
「そうだな。頑張れよ、桜」
「はい、いっぱい元気を貰いましたから」

 にこりと微笑んで桜は頷く。
 教室を出て、俺は買い物をしに商店街へ、桜は後輩の指導へと弓道場へ。
 とりあえず別れたのだった。

              
                      つづく(2004/6/17)



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