その日あたしは、珍しく浮かれていた。
それは例えば。多少なりとも期待していた駄賃の額が、事前の予想よりも一桁多かったり。
助平爺さん供にとは言え、始終格好を褒め殺されたり。
以前から狙っていた風鈴が、格安の値で手に入ったり。
江戸前屋の主さんがたい焼きを奢ってくれたりと言った、諸々の理由からだった。
―――全く。
手が掛かるとは言え。こんな格好も、偶にはしてみるものである。
いつもながらに通りの少ない、進む歩道を踏み外す。僅かとは言え段を降った、微かな浮遊に身を任せ。
伸ばした四肢に一拍遅れ、ひらりと優雅に軌跡を辿る、若草の色の衣を見やる。動き難いのは気に食わないが、これはこれで悪くは無い。鏡に映るその姿は、我ながら大した小町振りだと思えたし。
……うん。これから親戚回りの時は、この姿で行く事にしようかな、と。
心は温かく、懐も暖かく。
熱い餡子を舐めながら、弾む歩みで街を往く。
―――そんな、ご機嫌の時だったからだろうか。
見慣れた街の最中、狼狽する彼女を助けてやろうなどと。らしくない思い付きに、身を任せたのは。
「あー……キャン・ユー・スピーク、」
最も、単なる気紛れと言う訳でも無く。好奇心が勝ったと言っても良い。
だって、珍しいじゃないか。
「……アイ・シング・ヘルプ・ユー……分かる?外人さん」
商店街で右往左往する、綺麗なメイドさんなんて代物は。
『小春の日和、甘苦し』
作:うづきじん
冬木の春は唐突に来る、と。
つい先程に伯母から聞かされた言葉を、ふと思い出した。
公園に注ぐ光は温かく、座るベンチは暖かい。春の訪れを知らせる柔らかい空気の中、内と外から充分に陽の光を浴びて、あたしは大きく身体を伸ばした。身体の内側、軋む骨との擦過感が鈍った身体に心地良い。
「蒔寺……様。本当に、どうも。有難う……ございました」
荒い呼吸に紛れる様な、御礼の言葉に苦笑する。
「良いから。少し休んでってば」
同じベンチに、文字通りへたり込むその姿を見やる。なまじモデルさんの様に綺麗なせいで、余計にその態は哀れを誘った。
紙とビニールの袋の小山―――彼女が抱え、今はあたしとの間に有るそれからは、見慣れないものが多々覗いている。
金属の光沢。プラスチックの、陶器の、硝子の色鮮やかな瓶、瓶、瓶。これも多彩な袋に小分けされた何かの粉。
一番近くに放られた、一際重かった袋に目をやる。詰まっているのは一抱え程もある書籍類。そのタイトルが、薄いビニールに透けている。
『簡単お菓子』『初めてのデザート』『甘いものづくり』……。
―――服装から察するに、ケーキ屋の店員さんか何かだろうか?
最近では、こういった格好の喫茶店もあるって言うし。
もう一山、彼女の傍らにある箱々を見やる。綺麗な飾り文字が描かれたその箱は、この近くにある喫茶店のものだ。由紀香から聞いた事がある―――確か、ケーキが評判の店だとか。
……この人、よっぽど甘いものが好きなんだろうか?それで自分でも作ってみようとした、とか。
良く見てみれば、袋から覗いたものは、以前見た調理用具に良く似ていた。星やハート型の型抜きまである。
「……お菓子、好きなの?」
異文化コミュニケーションを試みる。
「……いえ。あまり」
漸く息が整ったのか、小さいながらも答えが返る。今更だけど、日本語が流暢なのは有難かった。自分から関わった手前、手に負えないからと言って捨てても行けないし。
意思疎通が出来る事は幸運だった。そう思いたい。
思いきり良く羽ばたいた、あたしの財布の中身の為にも。
―――もう一度。
今度は何とか立ち上がり、あたしに向かって首を垂れる。
「―――蒔寺様。重ね重ね、感謝致します」
「良いってば。困ったときはお互い様」
まあ、どうせあぶく銭だし。次の機会に、またふんだくってやろう。
土下座せんばかりに身を沈める彼女を、慌てて立ち上がらせる。ふらつく身体をベンチに戻し、座らせて。
「……にしても、災難だったよね。セラさん、だっけ?」
想像する。慣れぬ―――かどうか、知らないけど―――異国で、しかも何やら沢山ものを注文した挙句に財布を落とすなんて。あたしだったら、泣いてたかも知れない。
その境遇に比べたら。財布を捜して警察に届け出て、代金を肩代わりして荷物を運んでやるくらいはどうって事は無い。
……そう、自分に言い聞かせて。
「お金はある時に返してくれれば良いよ。うん。全然困らない」
見栄を張る。
「いえ。明日、すぐに御返しに参ります。宜しければ、ご住所をお教え頂きたく―――」
畏まる声に、戸惑いながら答えを返す。良く見れば。彼女の着ているメイド服―――だろうか?簡素なドレスとも見えるそれは、華美ではないが上質の造りで編まれていた。
……しゃべり方とか、物腰にもなんか気品が有るし。
まさかとは思うけど、何処かのお姫様だったりするんだろうか。
どちらにしても、あまり周りには居ないタイプである。―――お屋敷の令嬢なら一人、知り合いがいるけれど。
「月とスッポン、だね」
「はい?」
返す彼女に、笑って手を振る。比べる事が失礼だ。
―――しかし、それにしたって、
「あのさ。余計なお世話かもしれないけど」
これは幾らなんでも。
「一度に買い過ぎだと思う」
あたしと彼女の間、優に二人分の空間を占める荷物の山を、ひょいと指差す。二人で気張って運んで来たほど多くの品々。
そのどれもが調理器具やその材料らしく、ある物は嵩張りまたある物はやたらに重い。これを当初は、
「一人で運ぶつもりだったんでしょ?」
「……その。つい」
万全を期そうと思ったのです、などと俯いて呟くセラさん。
妙に世慣れていない様子が、怜悧な外見とそぐわなくて逆に微笑ましい。……多分、まだこの国に来て日が浅いのだろう。
うん。
大和撫子の端くれとしては、なるだけ力になってあげたい。
……と言っても。あたしに出来る様な事は、荷物運びを手伝うくらい―――
「……あ」
考えて。ふと思いつき、傍らの紙袋を漁る。セラさんの荷物ではない、あたしが持ってた紙袋。
荷物の重さに失念してはいたけれど。懐の内、熱いぐらいにその存在を主張していた、未だほのかに温かい。
袋に泳ぐ群れの中から、特に大物を釣り上げる。
「良かったら、どーぞ」
「え」
目を丸くして、それを見る。……ああ、外人さんは普通知らないか。
「たい焼きって言うの。疲れ、取れるよ」
「―――鯛。これは魚ですか」
おずおずと受け取り、その『皮膚』を撫で擦りながら、セラさん。甘いものは苦手だとか言ってたけど。
「ま、一口食べてみて」
自信が有る。甘党か否かなど関係無く、江戸前屋の味は万国共通だと。
十年に及ぶ買い食い歴は伊達じゃない。
上品そうに、小さな唇を鯛の口へと寄せる。
少し噛み切り、咀嚼して。―――もう一度、目を丸くした。
「……甘い、ですね」
「結構いけるでしょ」
答えず、再度かぶり付き。
味わう様に口を動かし、飲み込んで。唇に付いた餡子を舐め取った。
「―――ええ。美味しい、です」
自分でも驚いた様に、一人ごちる様に。
初めて微かに、彼女は笑みを外に洩らした。
「……甘いもの、嫌いって言ってたけど」
指先に付いた餡子を舐め取る。あれから仲良く二匹づつ、袋の中身を片付けて。
自販機で調達してきた熱く渋い日本茶で、口の中を洗い流しながら。
「気に入ってもらえて、良かった」
にやにやと―――自覚はしてるが、抑えられなかった―――彼女を見やる。熱いお茶缶を握り締め、恥ずかしそうに俯く彼女。
クール・ビューティーな外人さんが、三口で鯛焼きを片付ける姿と言うのも。中々見れない、観物だった。
「……その。美味しかったもので」
「うん。喜んでくれて、嬉しい」
本心から答え。空になった紙袋を、くしゃくしゃと握り潰しながら。
改めて、荷物の小山を見やる。
……やっぱり、一人じゃ無理だよなあ。これ運ぶの。
「家、どこ?明るい内にこれ、片付けちゃお」
気を取り直し、彼女に告げる。
暗くなったら面倒だし。特にここら辺は、以前から何かと物騒な事件が頻発していた。
ぴたりとそれが治まったのは、まだ一月位の最近である。きっと彼女はそんな事は知りもしないんだろうし、ここは地元民が気を遣ってあげないと。
「え―――あ、いえ」
慌てて、こちらに向き直り。「先程、家の者に連絡致しましたので。ここで待っていれば―――」
返る言葉に、拍子が抜ける。この重い荷物を、もう運ばなくても良いと言うのは有り難くはあったけど。
……どうせ手伝うなら、最後まで付き合っても良かったのに。
まあ、それならせめて。
「―――じゃ、時間潰しの相手くらいはしよっかな」
「はい?」
「第一問!」
身を乗り出して、仰け反る彼女に付きつける。「セラさん、何処出身?」
「え?え?」
泡食うセラさんに、マイクに見立てた棒状の調味入れを差し出す。彼女、こちらから振らないと会話を弾ませるタイプじゃ無さそうだし。
それに。
「いや。外国の友達って、初めてだからさ。色々聞きたいなー、って」
一旦『マイク』を引っ込め、告げる。あたしの周りは、一介の学生としては結構バリエーションに富んだ面子が揃ってるけど。
「セラさんみたく、綺麗で大人な人って周りにゃ居ないからさ」
だから色々聞いてみたい。何食べてればそんなに華奢な体付きになれるのか、とか。
……少なくともたい焼きじゃ無さそうだな。
―――と。
妙な様子に、慌てて近寄る。変な物でも食べたかの様に、三度。目を丸くして、こちらを見つめる。
「……友達。……綺麗で、大人……」
訥々と。
呟く彼女の、目前で手を振り揺らす。
「あの。どうしたの、セラさん」
「あ。―――いえ。何でもありません」
何故だか妙に姿勢を正し、畏まる。それを訝しく思いながらも、再びマイクを付きつけた。
「そお?……んじゃ、教えてよ。色々と」
「はい。―――そうですね。私が生まれたのは―――」
―――ドイツの一地方。年中雪で覆われる極寒の地で生まれ、幼い時から彼女は仕えた。
「あの頃からイリヤスフィール様はとても可憐でした。その肌は絹の様で、声は本当に鈴が鳴るかの様で―――」
一人の妹と共に、雇い主―――『お館様』の一人娘と過ごす日々。
「……お館様は、多忙でしたので。僭越ながら、私達はその代わりと言っても良いくらいでした」
やがて彼女等三人は海を渡り、あたし達の国へ。
「……思えば。それがそもそもの間違いだったのです。この様な国になど、訪れなければ」
そして少女は、『そいつ』に出会う。
「―――失礼しました。兎も角、その男がイリヤ様を誑かした為に、私達は妙な境遇に」
何やら一悶着の末、彼女達は『実家』から縁を切られ、路頭に迷い。
「そこに男が付け込んだのです」
『誑かされた』少女は強く、『そいつ』との同居を主張して。
居候の従者として、肩身が狭い彼女等は。
「憎きその男に菓子など作って差し上げる、その為に」
少女の我侭の為に、奔走しているのだと。
……長く続いた経緯の終わり、今へと至る話を聞き終え。
「苦労、してるんだね。セラさん」
思わず本音が口を突く。見たとこ、あたしよりも少し上くらいの年なのに。
こういう世界、ほんとに有るんだなあ。
「……それにしても」
聞いてただけで憤る。長い間。妹と共に、本当の娘の様に尽くし、接して来た少女。
話に依れば彼女を騙し。セラさん姉妹に苦行を強いる、その男。
「―――あたしが話、付けてあげようか?」
握る拳を握り締め。
強い視線を、彼女に投げる。……自慢じゃないが、あたしは結構喧嘩は強い。部活で鍛えた身体能力は伊達では無いし、それに何より。
「ロリコン野郎の一人や二人、敵じゃない」
小学生に手を出す様な外道一匹、それ程強敵とも思えないし。
いざとなれば。冬木には自警団染みた存在も居るし、幸いあたしにはその伝手が有る。あまり話した事は無いけど、あの先生は有名だ。生徒が真面目に頼み込むなら―――どころか、事情を話したならば。
頼まなくても、きっと助けに来てくれる。
「あ―――いえ」
何故か慌てて、セラさん。暗く沈んだ半眼に、蒼い理性の光が戻る。
「私は―――イリヤスフィール様が、お幸せならば」
それで良いのです、と俯く。少女も、彼女の妹も。『そいつ』の事は嫌っていない。
「……彼も。イリヤスフィール様や、私達には良くして下さいますし……」
呟く声は、本心に聞こえた。
―――ああ。
脳裏に彼女の姿が浮かぶ。話題に上がればこき下ろし、話題を出せば批判に悪口。その癖大層仲が良く、自分以外の人間からの、彼に対する陰口には真正面から反論し―――
否定をすればする程に。その本心が透かして見える、その態度。
……何となく、分ってしまった。
「セラさんも、そいつの事が好きなんだ」
素直な感想を洩らす。自慢じゃないが、この手の事にあたしは疎い。セラさんが、それ以上に分かり易いだけだ。
妹と、娘の様な主を取られ。
それでも嫌いになれないと、伏せた瞳が語ってる。
盛大にお茶を噴き出して、咳き込む彼女の背を擦る。涙目でこちらを見やるその様相は、真白の頬に映える紅。
―――にんまりと。
彼女を語る由紀香に、彼を語る遠坂にする様に。
肘で小突いて、視線を覗く。
「乙女だねー、セラさん。うりうり」
「な……」
憤然として、顔を起こす。慌てず騒がず、薄く微笑って細めた視線で彼女を見つめ。
―――もう一度。赤く没する彼女の頭に、そっと左の手を乗せた。
「間違ってたら御免ね。でもあたしにゃさ」
彼女の傍ら、ベンチの背中に裏からもたれ。
「―――ドイツに居た頃の話より。今の話してるセラさんの方が、楽しそうに見えるよ」
感じたままに、言葉を告げる。
イリヤという娘や、妹さんの事を話す時は僅かに和らいで見えるけど。こっちに来る前の話をするセラさんの瞳は、冷たく沈んだ硬い雪の色で。
「今は赤くなったり、青くなったり。色々我慢も、苦労もしてるんだろうけどさ」
それはそれで、楽しそうに見えたのだと。
「―――か」
告げた言葉に、答えが返る。面を上げて、口元に手を遣り。至極真面目な表情で、
「そう、見えますか」
「うん」
もう一度。
呟く言葉に、即座に応える。故郷を思って呟くよりも、『家』を想って憤る姿の方が絶対に。
「何て言うかな。……『幸せそう』?」
視線を逸らし。乏しい語彙から、受けた印象に近い答えを拾い上げる。
……失礼だったろうか?子供の癖に、大人の彼女を印象だけで評価するなんて。
ただ、『そう見えた』と。それだけの理由で。
「あー。―――御免、セラさん。生意気言っちゃって」
頭を掻いて。視線は戻さないままに、彼女に謝罪する。……調子に乗り易いのは自分の悪い癖だって、氷室に言われたばっかりなのに。
上げた視線を、地面に落とす。
……落とした視線のその先に、ふわりと広がる白い華。
「セラ」
何時の間にか。
「……リーゼリット」
目前に立つ、一人の女性に呼吸が止まる。
白黒二色の簡素なドレス。殆どセラさんそっくりだけど、こちらの彼女はやや眼が大きい。その為にセラさんよりもやや幼く見える。
……落ち込むので、胸元には言及しない。
「えっと。……妹、さん?」
セラさんに視線を投げて、確認を取る。まあ、こんな恰好の美人がそうは居る訳も無いんだけど。
聞くまでも無い問いに、見るまでも無い頷きが返る。彼女も驚いたのか、やや後退っているのが見て取れた。
……真昼の公園。ベンチには山積みの荷物。
そこで美人メイドに挟まれる、和服姿の女の子。
我ながら、シュールな光景だ。
「セラ」
再び、彼女がセラさんを呼ぶ。―――リーゼリットさん、って言ったっけ。
彼女はどこか険を含んだ視線で、
「イリヤが待ってる。早く行こう」
セラさんと、あたしとを一瞥し。
二人で何とか運んだ荷物。その大半を、持ち上げる。
「リーゼリット……大丈夫ですか?」
「……へいき」
答えに反し。腕と脚とが震えてる。
セラさんも気付いたのか、慌てて駆けより荷物を奪う。
―――と。
「蒔寺様」
こちらを振り向き、深々と。
「本当に、感謝致します。―――有難うございました」
頭を下げる彼女の姿に、
「良いってば。大したことした訳じゃ無し」
苦笑を浮かべ、掌を振る。実際、ここまで感謝される事では。
「―――いえ」
小さく、かぶりを振って。
「有難う、ございます。言われなければ、きっと気付きませんでした」
―――満面に。
浮かべたそれは、それこそあたしが男だったら一発ものの、笑みだった。
「……今度、うちに来る時はさ」
頬の火照りを降り切る様に、こちらも笑って言い返す。
生真面目なセラさんの事だ。遠からず、貸したお金と菓子折りでも持ってあたしの家に来るだろう。
―――恭しく、お辞儀するかの様にして。
裾を摘まんで、彼女に示す。
「昔着てた奴、あげるから」
お姫様に着せてやってよ、と。
何しろこの二人が仕えて慕う女の子だ。
それはもう。天使みたいに綺麗な少女に、決まってる。
「きっと、似合うよ」
セラさんは。驚いた様に、両の瞳を見開いて。
「―――はい。……有難うございます」
三度呟き、頭を下げた。「また、いずれ。近い内に」
ひらひらと、右手の平を漂わせ。
昔やってたテレビゲーム。そんな代物を連想させる、色が僅かに異なるだけの左右に並んだ後ろ姿を、遠くなるまで見送った。
……暫く、ぼおっと立ち尽くし。
「何を呆けている。蒔」
怪訝な声に、我に返った。振り向くベンチに、座った知人。
薄茶の見慣れた袋を抱えた、見慣れた姿。
「……氷室。あんたいつから居た」
「つい先刻だ。見慣れた奴が見慣れぬ格好で呆けていたんでな」
思わずつぶさに観察してしまった、と真顔で答える彼女を見やる。
……あたしが言えた義理でもないが、こいつも大概暇だよな。
「そら。見物料だ」
放る袋を受け止める。薄いビニールに包まれた、円盤型の柔らかな物体。
無言で歩み、隣に座る。―――たい焼きでなくて良かった。
いくら美味とは言えど。流石に一日四個は辛い。
どちらにしても体重計を敵に回すなら、心行くまで舌を満足させたいし。
奢り主に倣い、どら焼きに貼り付いたビニールを剥がし。
一口齧る。
「……うあ」
呻きが漏れた。
「どうした?蒔の字」
「……なんで苦い」
普通、どら焼きってのは中も外も甘いものだと思う。
味噌一色の断面から、挽き肉と葱が覗いていると言うのは。
本日二度目。
「シュールな光景だ……」
味もシュールだった。
「私は甘いものは好かん」
眉一つ動かさないままに、黙々と片付ける。「蒔も知ってるだろうに」
「……忘れてた」
手に持った、どら焼きもどきと睨み合う。……それにしても、江戸前屋。甘味屋の癖に斬新過ぎる新製品だ。
「苦さも過ぎれば甘くなる、だそうだ」
二個目を取り出しながら、氷室。
「試作品と言う事で、主から頂いた。個人的には気に入ってるんだが。多分、出ても程無く消えるだろうな」
……道理で沢山有ると思った。後悔しない様、今の内に食べておこうとしたな、こいつ。
「あたしを巻き込むな」
「……悪くないと思うんだがな」
眉根を寄せて、真剣な顔で呟く。
反論する気力を無くし、黙々とそれを齧った。
―――その間、ふと。
「……なー氷室」
「ん?」
浮かんだ思い付きを、深い考えも無く舌下に乗せる。
「妹とか、姉とかさ」
今まで、考えた事も無かったけれど。
「―――兄弟姉妹ってさ。欲しいと思った事あるか?」
「ふむ」
早々と三個目を片付け、腕を組み。
「弟ならば今でも欲しいな。切実に」
「弟。何で」
袋を漁り、新たな敵に取り掛かる。手馴れた様子でビニールを剥き、口へと運ぶ。
咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。
袋を漁る。
「いや、答えろよ」
「秘密だ」
何するつもりだ氷室鐘。
……うーん。我が親友ながら、底の知れない奴。
「何だと言うのだ。藪から棒に」
「ん、別に大した意味は無いんだけどさ」
ふと、思ったのだ。さっきまで居た、彼女の事を。
会話らしい会話もしなかったけど。―――ちょっと、あの妹さんを羨ましく思ったりして。
「……あたしにお姉さんが居たら、それはそれで面白かったかもなー、とか」
そう、思っただけの話。
苦笑を浮かべ、最後の欠片を口の中へと放り込む。
―――苦みばしったその味は。言われて見れば、ほのかに微かに、甘い様にも感じられた。
「……私はお断りだからな」
「何が」
「はいシロウ。あーん」
背後で聞こえる睦声に、敢えて視線は振り向かず。
ボウルに取った、クリーム色の生地の中。日向の色のシロップを、混ぜ込みながら落とし込む。
「美味しいじゃない。流石セラね」
「美味しいですね。流石セラさん」
「美味しいねー。流石セラさん」
聞くだに和やかな会話の最中、滲む殺気が余計に目立つ。埃が飛んで来ない様、そっと襖を閉め切った。
『……わたしの手作りだって言ってるでしょーがぁ!』
『イリヤ。九割方人任せの物に、手作りの名は冠せられないわ』
『イリヤちゃん。―――他人の力を実力みたいに自慢してると、いつか酷い目に遭うんだよ?』
『イリヤちゃん。教育者の端くれとして、不正行為は見逃せないの』
手早く生地を撹拌する。
背後の居間、五人が一見和やかに過ごす部屋の空気が撹拌される。
……それにしても。障子を越えぬ様、小さく嘆息する。イリヤスフィール様があんなに気が短いとは、今まで気が付かなかった。
料理に関しては一通り、無難にこなせる様なのに。失礼ながら見かけに拠らず、細かい作業がお嫌いなのか。
―――単に。食べさせるその瞬間が待ち切れず、気が逸っていたのかもしれないけれど。
台所の片隅、心なしか膨れ上がったバケツを見遣る。苦甘い炭で一杯になった中身は早く、なるだけ家人に気付かれぬ様始末しないと。遠坂凛などにとってすれば、格好のからかいの種だろうから。
―――雫を落とす様に。
熱く焼けた鉄の上に、生地を落とす。黒い鉄の板をクリーム色の水玉模様で彩り終えて、静かにオーブンの中へと差し入れた。
息を吐く。
後は衛宮士郎に頼んで、なるだけ見栄えの良い紙箱を用意して。後はクッキングペーパーと包装紙、リボンで飾って持っていく。
―――思い出す。少女が着ていた若草色の、華美ではないが可憐なドレス。一枚布を巻き付ける様にして纏う、この国独特の『キモノ』とか言う。
想像する。蒔寺様とはまるで違うのだろうけど。イリヤスフィール様にもあのドレスは、さぞかし綺麗に映えるだろうと。
「……蒔寺、様」
その名を言の葉に乗せる。昼間の公園。鮮やかな甘味、交わした会話。残滓が残る唇に、微かに指を触れさせる。
初めて出会ったタイプの少女。徹頭徹尾向こう側の世界の住人。不躾だけど人が良く、見返りも無しに私の身の上を案じてくれた。
……楽しそうだと。幸せそうだと、今の私を評してくれた。
私には家族は居るし、妹も居る。それでも初めて、私を『友達』だと呼んでくれた。
……喜んで、くれるだろうか。
鯛焼き、と言ったか。あれは美味しかった。皮のほのかな甘味と、中の豆餡の力強い甘味。
イリヤスフィール様の為に買ってきた甘味料、その余りを使って作ってみたクッキーは、我ながら良い色合いに焼けたと思う。菓子の類が好きならば、きっと喜んでくれるだろう。
―――気付いて、もらえるだろうか。ささやかな偶然、気紛れな趣向。ぼんやり輝くオーブンの内、静かに焼かれるクッキーの。
その、生地に落とし込んだ。彼女の名前を冠したシロップの甘さに。
……苦笑が漏れる。イリヤスフィール様程では無いにしろ。
私も。随分と、無駄と言うか。『人間』くさい事をする様になった、と。
「―――ふふ」
笑みを零して。念の為、幾度かに分けて余分に作っておいたクッキーの山。それが盛られた笊の方へと、視線も向けずに手を伸ばす。
……行儀も悪く伸びた指先は、空しく笊を引っ掻いた。
さくさくさくさく。さくさくさくさく。さくさくさくさく。
物凄い勢いで、硬い何かを削る音。
……振り向いて。
無言で頭を引っぱたく。
「セラ。痛い」
「……何をやっているんですか。リーゼリット」
口の端には欠片を付けたそのままに、抗議して来る『妹』を睨み付ける。
リスか何かの様にして。両頬を膨らませているその様は、はっきり言って見苦しい。
嚥下して。
再び伸びる指先を、再び頭を叩いて止める。
「セラ。痛い」
「だから何をやっているんです」
「味見」
抜け抜けと断言する。……気力を削がれ、頭を抱えた。
「良いから、向こうへ行ってなさい。クッキーだったら居間にも有ります」
念の為とはいえ、大分多目に作っておいて助かった。これ以上食べられる前に、この子を追い出してしまわないと。
拍子抜けな程、あっさりと。リーゼリットは席を立つ。
襖を開けて。―――何故か、最近のこの子には珍しい程殺した表情で、こちらを見遣り。
「そのクッキー」
ほのかに輝くオーブンに、指先を向けて。「さっきの子への、贈り物?」
「……ええ、そうですけど」
戸惑いながらも、素直に答える。……道中、蒔寺様に何かお返しする事は伝えておいた筈なのに。
なんで今更、そんな事を確認するのだろう。
「……そう」
呟いて。
何故か肩を落とし、居間へと消える。その後ろ姿を見送って。
笊の方へと手を伸ばす。網目に引っ掛かっていた、小さな欠片の生き残り。それを抓んで、視線を反す。
開け放たれた襖から、明るい居間の風景が覗いている。
「美味しいでしょ?もっと食べなさい、シロウ」
少年の背後からおぶさり、自信に溢れて言い放つ『娘』。
「……イリヤ。行儀悪い」
自分の事を棚に上げ、凪の呟きを投げる『妹』。
「?どうしたの、桜。もっと食べなさいよ」
「あ―――いえ、私は、その……夜にお菓子は、ちょっと」
「ひゃやく食べないとひゃくひゃっちゃうよー」
食卓を囲む。湯呑みを手にし、視線を落とし、口一杯に菓子を頬張る『家族達』。
彼に目を遣る。少女を背負い、クッキー片手に穏やかに笑う赤毛の少年。
―――向かう視線に勘付いたのか、彼との視線が交差する。
苦笑し、僅かに頭を下げる。困ったような嬉しいような、そんな苦甘いその笑みで。
ありがとうございます、と。
口許だけの礼の言葉に、初めて見せる笑顔を返す。
―――はい、蒔寺様。
欠片を口に放り込み。
昼間の少女に、答えを返す。
貴女が私に見たものは、恐らくきっと正解だ。
私は毎日楽しくて。
毎日、とても幸せです。
舌に広がるその味は、苦いくらいに甘かった。
しかし、その翌日。
「イリヤ。セラが浮気してる」
これまで始終べったりだった妹と。
「―――セラ。あなたにはわたしの命令よりも、その娘に会う方が大事って訳?」
朝の頼みを断られ、二重に拗ねる愛娘の。
「―――い、いや!浮気なんて、あたしはそんな」
抱えた嫉妬が恩人の様子を見て膨れ上がった末に。
苦く、甘い。
衛宮の家の、彼の日常の。
甘くない方の味を、身を以て体感する事になろうとは。
夢にも思っていなかった。
「誤解です二人とも―――!」
終
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