Near/Miss

作:秋月 修二

            





 帰路。
 真冬の冷たい空気を裂くように、強い雨が降り出した。
 俺は有彦と二人、だべりながら歩いていた。今までは天気が良かったのだが、
一度崩れてしまえば早いものだ。
 折しも、現在地からは有彦の家が近い。
「有彦、雨宿りさせてくれ!」
 風まで強くなってきたので、近くにいるのについ大声を出してしまう。有彦
も飛沫が顔に当たって辛いらしく、ともかく頷いた。
 傘など無い。だからどうせ濡れてしまうのだし、何も気にせず一気に走り出
す。路面に出来た水溜りを蹴散らして、俺達は息を切らす。正直この季節に雨
が降ると、寒さが厳しくて仕方が無い。
 多分、着いた頃には身を震わせているのだろう。そう考えながら、ただ足を
速めた。
「うおお、寒ぃ!」
「おい、早く開けろっ」
 行き着いた玄関先、有彦は小刻みに揺れる手で鍵を扱う。なかなかスムーズ
には行かなかったが、さておき室内に滑り込む。
「待ってろ、タオル持ってくる」
「おう。なるべく早くな」
 二人とも余裕が無いので、いつものように冗談を交わしたりもしない。取り
敢えず風邪を引かないように、という配慮くらいしか頭に無い。歯が巧く噛み
合わず、固い音が何度も口内で響き渡る。
「ほれ」
 タオルが顔に向かって投げつけられる。普段なら文句の一つも出るのだろう
が、今はとにかくありがたい。何だか温かい気さえする。
「サンキュ」
「部屋の暖房入れるついでに、着替えてくる。適当に拭いて、居間で待ってお
け。ポットにお湯あるから」
「了解」
 アイツの部屋なら濡れた所で構わなさそうなものではある。だがまあ、わざ
わざ濡らした所でどうにもならないし、そんな風にじゃれつく意味も無い。と
にかく今は寒くてどうしようもない訳だし、大人しくしていよう。
 居間に入り、ソファに腰掛けようかどうか、少し逡巡した。
 濡らすのも難がある。立ったままでも何とかなるだろうということにした。
台所からカップを一つ失敬して、ただのお湯を注ぎ込む。一口含むと、ただそ
れだけで芯に温もりが灯った。
 ああ、何か幸せだ。
 溜息をつきながら、タオルで髪の毛を拭う。ずっと切っていないので、水を
吸って重くなってしまっていた。そろそろ切らないといけない、そう浮かべな
がら、眼鏡を外して顔も拭いた。
 と、玄関から物音。そして居間のドアが開く。
「ん? ああ、有間か」
 細い二の腕を抱えるようにして踏み込んできたのは、イチゴさんだった。俺
は眼鏡をかけ直しその姿を見詰める。
「何だ、有間が眼鏡を外してるのは珍しいのに」
 心なしか惜しそうに、イチゴさんは呟く。けれど、俺は親しい人の脆さを目
にしたくはないので、ただ苦笑で応じた。
 追従しても無駄と悟ったか、イチゴさんはお茶を一杯所望する。俺はもう一
つカップを取りに行き、言われた通りお茶を淹れる。
「あの馬鹿は?」
「ん、部屋で着替えてるみたいですけど」
「ふぅん。ああ、有間。濡れるのは気にしないでいい。立ってるのも疲れるだ
ろう」
 俺が立ち尽くしている理由に気付いたのか、イチゴさんはそんなことを言っ
た。否定のしようが無いので、またしても俺は言われるがままにする。ソファ
の向かい側、テーブルを挟んで対角線に腰を下ろした。
 イチゴさんは差し出されたカップを、大切そうに両手の中に収めた。冷えた
手を温めているのだろう。湯気の先に、緑色の水面に息を吹きつけるイチゴさ
んの唇が映る。薄紅の引かれたそれは行為故に僅か尖っていて、扇情的な雰囲
気を持っている。 酷く、柔らかそうに見える。押すとどうなるだろうか、そ
んな妄想に取り憑かれそうになって、はっと現実に舞い戻る。指先に生々しい
幻が残っている。あの、いつぞや感じた女の柔らかさが、意識の底から泡のよ
うに浮き上がってくる。
 泡が理性を割りそうになっている。それは甘美だが本意ではない。だから押
し込める。
 席を立ち、素知らぬフリでお湯を飲み下した。胃の中を熱くして、昂ぶった
感情との採算を合わせたい。釣り合いが取れれば、まだ御しやすくなるだろう
から。
 一息に体に入れてしまうと、それなりに体も温まってくる。俺はもう一杯お
湯を注いで、矢継ぎ早に体の中に叩き込んだ。肺や胃が焼けそうで、眉を顰め
る。あまりおかしな態度だからだろう、背中にイチゴさんの注目を感じた。
「寒いのかもしれないが、あまり急いで飲むと火傷するぞ」
「ええ、ですね」
 簡単だが確かな気遣い。しかし正直な話、もう火傷はしている。早くも舌先
は痺れに似たものを感じ始めている。でも刺激としては充分なので、大した問
題ではない。我ながら乱暴な自制だとは思った。
 リセットするように、深呼吸を一つ。落ち着けと、そう自分に言い聞かせる。
こんなに必死になっているのは、こういう発想が女性に対して不快感を与える
からだ。そして、そういう感情に女性が敏感だからだ。
 ありきたりなものを頭の中に並べて、自分を整理する。何かがどこかで乱れ
ていた。
「ああ、有間」
「はい?」
 緊張が悟られたかもしれない。自覚しつつ振り向いた。何時の間にやら、イ
チゴさんは火の点いていない煙草を咥えていた。鬱陶しそうに前髪を上げると、
「悪い、奥の方にタオルあるから持ってきてくれないか? 濡れっ放しだと風
邪引きそうだ」
「あ、解りました」
 告げたイチゴさんは、いつもと変わらず平静を保っていた。気付かれてなか
ったのだろうか。いずれにせよ、またこうして呆けている訳にもいかない。な
ので俺はタオルを取りに行く。奥の部屋の物干しに、タオルが三枚ほど引っか
かっていた。
「まあ二枚もあれば足りる、よな」
 髪の毛が長いと乾かすのがどれだけ大変かなんて、俺が知ろうはずも無い。
適当に引っ掴むと、俺はイチゴさんのいる居間まで戻った。お茶ではまだ温ま
らないのか、寒そうに時折身震いをしている。
「はい、どうぞ。風邪引きますよ、着替えてきたらどうです?」
「今朝洗濯したばっかりだ。まだ乾いてない」
 それは流石にどうしようもない。俺は黙ってタオルを手渡した。そうして席
に着こうとしたのだが、イチゴさんはそれを軽い調子で止めた。
「んー、そうだな、ついでだ。有間、髪の毛も拭いてくれないか。あたしは黙
って、お茶で温まってるから」
 多分今の一瞬、俺の動きはかなりぎこちないものになっていたろう。こうい
う邪な感情に繋がらないように、自分では慎重に選んできたつもりなのに、ど
うしてか違う方向に転んでしまった。
 躊躇いが生じる。俺は男でイチゴさんは女だけれど、だからって厭らしい視
点から関係を捉えたくはない。それは何かしっくり来ないのだ。
 けれど、断る理由があるのか?
 不自然で自分を塗り込める必要は?
 そんなものは多分無い。いつも通りを望むなら、申し出を引き受けて、事を
済ませてしまえばいいのだ。わざわざ自分から澱むこともないだろう。
 唾を飲み込む。これは緊張だ。だから胃の中に溶かしてしまえば、それで終
わる。
 息を抜いて、何事も無かったかのようにタオルを受け取った。俺のと違って、
まだちゃんと乾いている。
「んじゃ、頼む」
「解りました」
 イチゴさんの後ろに回る。束ねた髪の毛はいつもと違い、水気で力無く垂れ
下がっている。そっと手で掴むと、人差し指に生え際の柔らかい産毛が触れる。
その感触は余りにも微かなのに、妙に自己主張が強くて参ってしまう。興味に
駆られて、手で握っているそれを少し脇にどけると、湿り気を帯びたうなじが
目に飛び込んできた。心臓の鼓動が早まったのが、自分でもはっきりと解った。
 イチゴさんが自分で髪の毛を解く気配は無い。なので俺は、髪を留めている
細紐に手をかけた。予想よりも抵抗無く紐が外れる。水分でまとまった髪が、
手の中で散らばった。
 髪の毛を転がす掌が汗をかいている。喉が渇いている。
 お湯を飲んでいた。
 体はまだ震えている。
 イチゴさんの髪は冷えている。
 だから俺には、汗も渇きも理由が解らない。解らないから放って置いた。
 タオルで髪の毛の根元を包み込んだ。しなやかで、どことなく強さがある。
タオルを毛先に向かって滑らせていくと、布の隙間からシャンプーと雨の匂い
が一瞬だけ零れた。
 それは優しくて、儚い。
「やけに、丁寧なんだな」
 お茶を啜ってから、イチゴさんは仄白い溜息を漏らした。呟きは淡々として
いたが、滲み出す倦怠までは隠し切れていない。
「丁寧と言われても。イチゴさんの髪を、いつも俺がやってるみたいにしたら、
痛んじゃいますよ。それは嫌でしょ?」
「あたしは気にしないけどな。まあ任せるけど、そんな気を使わないでもいい」
 見えないとは知りつつ頷く。口にしたことは確かな本音だ。でも実際は髪の
毛、いや、イチゴさんに酔わされているからこその丁寧さであるのかもしれな
い。線引きは、もう俺自身にも見えていなかった。
 浮かされたように、根元を挟み、毛先までを緩やかに拭っていく。表面を撫
でるだけではろくに意味が無い。それくらい承知しているのに、何度もそれを
繰り返す。それしか出来なくなる。
 お互いに言葉は無い。イチゴさんはお茶を舐めている。俺が髪の毛を黙って
拭いているから、飲み干さないようにしているのだろう。一旦身を離し、ポッ
トと急須を取りに行った。
 呼吸を忘れていたことに今更思い至る。何度目かの往復運動は、多少の冷静
さをくれた。
逆言うと、そうでもなければあのままだった、ということなのだろう。
 全く、どうかしている。
「イチゴさん、もう一杯いります?」
「ああ、頼む。こういうのに気付く辺り、やっぱりあの馬鹿とは違うな」
「俺も自分の家じゃ、多分やらないと思いますけどね」
 流石にここに慣れているとはいえ、唐突にお邪魔して大きな顔が出来るはず
もない。ある意味で当然のことをしているだけだ。でも、イチゴさんにはそれ
が珍しく映っているのかもしれない。
 イチゴさんのカップに緑茶を注ぐ。自分のにもお茶を注いだ。二人同時に一
口味わって、溜息を吐き出す。
 さて、続きに取り掛かろうか。
 髪の毛の房を手に取り、掌で解き解す。紐を糸に変えているような気分。
 赤い髪の毛は、乾いている時は眩しさすら持っている。なのに今は、少し落
ち着いた感がある。髪の毛にも色々な表情があるのだと知る。
「楽しいか?」
 意識の間隙を突くように切り出された。一瞬何のことだか解らなかった。
「はい?」
「髪の毛、こだわってるような気がしたから。どうなのかと思ってな」
「ああ。濡れてるだけで、だいぶ変わるんだなあと思いまして。ちょっと興味
が」
 どうにも、自分の表面をなぞっている気がしてならない。それは確かに俺な
のだ。だが、決して深くはない。
 半ば以上自覚している齟齬、その正体は、単にこれのことではないのか。
 迷路に迷い込んでしまった。出口が見えているのに、それを忌避しているの
は当の本人と来ている。ならばそんな出口に意味は無い。
「興味、だけか?」
 次手は鋭い。俺は答えられない。固い唾を飲み込む。
「本気で言ってるか?」
 嘘ではない。イチゴさん相手に嘘をつく気は無い。
「何でそんなにこだわるんです?」
 声は震えていた、かもしれない。イチゴさんは唐突にこちらを振り向いた。
「いいか有間。あたしは女でオマエは男だ。解らない訳ないだろう?」
 答えはいっそ簡潔に、平坦に。
 その科白は、俺にとっては理解の容易いものだった。女の人が鋭いってこと
くらい、過去に学んでいたはずなのに、同じ落とし穴に落ちてしまっている。
間の抜けた自分を悟るには、些か遅すぎた。
 声色に責めるものが含まれていなかったのが、逆に不安にさせる。
「有間、別に怒ってる訳じゃない。だから落ち着け」
 雨で張り付いた衣服を引っ張って、イチゴさんは身なりを整えた。はっきり
と描かれていたボディラインが、一瞬でぼやける。覗いた胸元が挑発的で、目
を逸らせない。そんな自分に一層の自己嫌悪を覚えた。
 これはもう条件反射だ。ともなれば、尚更性質が悪い。
「まあ、お茶でも飲め」
「はい」
「何で自分から追い詰められるかねぇ」
 酸素の塊を肺に押し込む。そう言うのなら、何故イチゴさんはそんなに平然
としているのか。どう考えたって気持ちの良いものではないはずだ。解ってい
たから避けていたのに、受け入れられてしまったら、俺は何も解らなくなって
しまう。
 お茶を含む。温さは心地良い反面、感覚としてはっきりしていない。甘やか
されているようだ。
「あのさ、男だったら、結構仕方が無いものなんじゃないのか? あたしはそ
う思ってたんだけど」
「そうかもしれませんが、でも、」
「本人が気にしてないのに、有間が気にするだけ損だと思うが?」
 返す刀は、俺を甘やかに斬りつける。でもそれは、詭弁ではないのか。
 歯噛みする。眉根を寄せる。だが、悩んでも解決にはならない。
 行き場が、どこにも無い。
「気難しく考えすぎなんじゃないのか? もう少し、気楽に生きればいいだろ
う」
 しかし、でも、だけど、けれど。反論を出してもキリが無いことは解りきっ
ている。ならば、俺が出すべき手札は無いということになる。完璧なまでの手
詰まり。
「どうして、気にしないんですか?」
 ようやくそれだけを搾り出すと、イチゴさんは意味ありげに唇を歪めた。咥
えた煙草が上を向く。
「解らないか」
「解りません」
 遣り取りは短い。二の句は互いに出さない。
 場が止まる。
 沈黙はこんなに耳に痛かっただろうか。雨は止んでいないのに、ここはこん
なにも静かで、流れが澱んでいる。呼吸がやけに尖っていて、鼓膜に刺さる。
 解らない? そう、解らない。
 俺にはイチゴさんが掴めない。
 ふとイチゴさんは大きく息を吐き出すと、指を立てた。
「じゃあ、質問してみよう。有間から見て、あたしはどんな立場だ?」
「どんな、ですか。有彦のお姉さんで、俺にとってもそうだと思います」
「で、だったらどうしてそんなに迷う?」
 重ねた言葉に、俺はイチゴさんの鋭さを垣間見る。
 そうだ。俺が迷うのは、迷っているのは、
「姉みたいではあります。でも、でもイチゴさんは女でもあるです」
 ただ、これだけなんだ。
 俺は今になってこのことに気付いてしまったのだ。気付かなければまだしも
幸いであったのに、俺は当たり前の事実に触れてしまった。だから足踏みして
いるのだ。
 それは取りも直さず、俺がそれだけイチゴさんに近づいてしまったというこ
とと、同義だからなのだ。
 イチゴさんは薄く笑みを浮かべて、もう一度口を開いた。
「もう一つだけ。あたしは有間をどう捉えていると思う?」
 そして俺は、追い討ちに絶句する。
 ああ、逆、視点。
「考えてみたことがあるか? 他人が自分をどう見ているのか、ってこと」
 ある、と答えたかった。ただその程度が、イチゴさんのいう水位に達してい
るのかと問われれば、十全ではないというのは明らかだ。自分の中で確かなこ
とならば、俺はすぐさ
ま返せるはずなのだから。
 無言になった俺を見て、イチゴさんは僅かに目を細める。もしかしたら、煙
草の煙が目に染みただけのことなのかもしれない。ただ、俺には憐れみのよう
に映った。
「神経質なんだな。それは初めて知ったかも」
「割と、そうだったのかもしれません」
 俺は頭を使わなさすぎる。視野が狭い以上に、盲目なのだろう。イチゴさん
はそこを見抜いた。
 イチゴさんはしばし俺を面白そうに眺めていたが、あまり俺が硬直している
ので、次第に顔を引き締めていった。それにつられて、俺も緊張を増す。
 辛くなってくる。ダメかもしれない。
 何かに折れつつあった。
 見詰め合うということがこんなにも負担になるなんて、俺は知りもしなかっ
た。俺は呆れるくらい何も知らない。
「俺からも、一ついいですか?」
「ん、何だ?」
「イチゴさんは、俺のことをどう思ってるんですか」
 行き詰った俺は、イチゴさんの行く先を求める。こっちの方は白状した。正
確を期すならば、たまたま白状に至った。
 ならば、イチゴさんの方ではどうなのか? 割と素朴な疑問ではある。けれ
ど意外なことに、イチゴさんの反応は芳しいものではなかった。
 俺はいつも通りのさばけた答えが返ってくるものだと、信じて疑わなかった。
しかしイチゴさんは曖昧な表情を覗かせて、煙草を短くするだけだ。明確な言
葉を避けているように見えた。
「どうなんですか」
 平らに問う。イチゴさんに起伏が生まれる。波と言って差し支えなかっただ
ろう。
 俺はイチゴさんの表情に、期待を抱いていた。具体的に何を、というのは解
らない。イチゴさんの表情と同様に曖昧なものだ。ただ、俺にとって何か望ま
しいことがあるのではないかと、何の裏もなく思った。
 俺は佇んでいる。
 イチゴさんは倦んでいる。
 距離は縮まらず、時間に引き摺られて平行線が伸びていく。
 沈黙を幾重にも折り畳んで、高さを増していく。
 イチゴさんの煙草を咥えた唇が綻ぶのを、俺は心待ちにしていた。固い蕾が
花開いた時、その色がどれだけ毒々しいものであるかという畏れは、ついに俺
には芽生えなかった。
 しかし、待ち望んだ俺への声は、予想していない方向からやって来る。
「遠野、部屋暖まったぞ」
 見れば、言った通りに着替えを終えた有彦が、気の抜けた面持ちで俺を窺っ
ている。イチゴさんが紫煙を吐き出す音が聞こえた。
 終わった。
 気勢を削がれた俺は、一度目を閉じて意識をリセットした。もう一度目を開
いた時、花が開く気配は既に消えている。
「ああ、解った」
 俺は何事も無かったかのように、有彦に告げる。そうして入り口へと向かっ
た。
「雨はまだ止まないだろうから、ゆっくりしていけ」
「はい」
 居間を出る直前、イチゴさんは答えの代わりにそんなことを言ってくれた。
振り向くと、寄越せとばかりに手を開いている。タオルのことだと気付き、俺
はイチゴさんにタオルを手渡す。
 手が触れることはない。
 俺はイチゴさんに一礼して、先を行ってしまった有彦の後を追う。部屋に入
ると、有彦はストーブの前で手を炙っていた。
 有彦はすっかり落ち着いたつもりでいるようだ。反面、俺はまだ時折身を震
わせている。
 ここは暖かい。けれど俺は寒い。
 それで解ってしまった。
 多分、イチゴさんの本音を得られる機会は、もう二度と無い。



                             (了)



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