猫影

作:しにを

            




 読み進めていた本の頁が数枚揺れた。
 頁を捲る手を止めて顔を上げると、頬を軽くぬるい空気の波が撫ぜた。
 薄く引いたカーテンで日差しを遮ってはいるが、窓は開けている。
 そこから時折今のように風が入ってくるのだ。

 秋葉の好意でこの屋敷に滞在させてもらう事になってから、昼間はこうして
室内にいる事がほとんどだった。よほどの事がなければ外へ出る事は無い。
 書庫の存在を知ってからはそちらに篭って過ごすか、何冊か選んで私室とし
て貰った部屋で読み耽る事が多い。
 いつ誰が収集したものかはわからないが、遠野の血筋について体系立てて研
究をしたと思しき跡が見える。
 直接は私の体の事に繋がらないまでも、非常に近しい事象についての記録や
考察は熟読するに足る価値があった。

 秋葉に許可を求めると、好きにして構わないわと快諾してくれた。
 言葉は上手だけど読み書きも出来るのね、と少し驚いたような顔。
 我々にとっては当然の事なのだが。
 伝説と化しているゴドーワード、かの統一言語師の如き真似は無理でも、世
界中の「言語」の「体系」については幾つもの「律」は解明されている。
 たとえ未知の言語が掘り起こされても、材料さえ揃えば操る事が出来る様に
なるのは時間の問題に過ぎない。

 何より、エルトナム家の者にはエーテライトがある。
 言葉の通じぬ母国語を話す相手とも、イメージや他の外国語の言語を仲立ち
にして意志の疎通を一方的に行う事が出来る。そして何昼夜会話をするより深
いやり取り短期間で成立させ、どんな言葉であれ獲得できるのだ。
 私が日本に来た時もそうだった。
 まったくの無ではなかったにせよ特に前準備もなく、この地に降り立って後
に語学研修を開始し、数時間後には卒業した。

 そんな訳で、ここで会話はもちろん読み書きにも不自由はしていない。
 そういう事だ。

 また微風。
 心地よい。
 まだまだ暑いが、だいぶ空気の色が変わっているように思う。
 もう夕刻も近いという事もあるが、真昼でも変化が現れている。

 この国の季節については文献で知る以上の肌触りは不明だが、秋葉などに訊
ねると、もう夏の盛りは過ぎたわねと教えてくれた。
 彼女も揺ぎ無く身を律しているが、暑い事は暑いらしい。
 秋にはまだ早いですけど、日もだんだんと短くなってきましたしね、と琥珀
なども頷いていた。
 私などから見ると、暑かったり寒かったりとめぐるましく季節が変わるのは
いろいろ不具合がありそうに思えるが、日本人一般としてはそこに情緒を感じ
るものだそうだ。

 故郷とは質の違う湿度の高い暑さが和らぐのは、私としても歓迎するが……。

 ……?
 おや?
 視界の隅にで何かが動いた。
 窓の端に視線を向ける。
 
「猫?」

 あるいは何か小動物のようなもの。
 なんだろう、不思議な違和感。

 数秒、何も無くなった窓を眺め、そして椅子から立ち上がった。
 理知的な行動でなく、反射の動き。
 窓辺から、太陽の光を避けつつ外を見る。

 ……いない。
 もとから気のせいだったのか。
 それともとっくにどこかへ消えてしまったのか。

 妙な安堵感。
 安堵感?
 それが何に起因するものか自問自答するが、答えは出ない。
 答えとなるべき材料が乏しいのか。
 問い自体が間違っているのか。

 気のせいと片付けても支障なしと判断する。
 窓はそのままに、また読書の続きをしようとして……。

 小さな塊が目についた。
 猫。
 部屋の中に猫がいた。
 黒い小さな猫。
 いつの間に。

 黙って私を見ている。
 視線が合う。

 否。
 こちらを見てはいるが、私を見てはいない。
 私がいないかのように、しかし私の方へ目を向けている。

 戸惑って動きが止まる。
 束の間、そうして猫の顔を見つめていた。
 馬鹿馬鹿しい沈黙の対峙。
 
 すぐに己を取り戻し、身を屈めて手をそろそろと伸ばす。
 反応は無い。
 手がゆっくりと黒猫に近づく。
 身じろぎしない猫に触れるか触れないかというところまで近づき……。
 やや、躊躇う。
 最後の数ミリが壁となっている。

 そして結局、手を戻した。
 臆したのではない。
 実行が不可能となったのだ。
 猫はいない。
 最初かいなかったように跡形もなく消えていた。
 
 幻?
 しかし、その問いを否定する。
 明らかにわたしの目は黒猫を認識していた。
 
 既に読書に戻る気分ではなくなっていた。
 本を閉じ部屋を出た。
 思考の糧を求めて。
 
 部屋から出ると、翡翠が窓を拭いていた。
 淡々と機械的に動いているように見えて、細かい部分まで強弱を変えて作業
しているのが見て取れる。

 些事で邪魔をするのも気が引けたが、幸いにもこちらを振り向いてくれたの
で近寄って声を掛けた。

「猫……ですか」

 考えている。
 この時点で私の用件は終わったも同じだが、彼女の思考行為の解除をしばし
待った。

「飼ってはおりませんし、中まで入ってくる事もありません。
 もし見かけたら外にお出し頂ければと思います」
「そうですか。邪魔をしました」

 猫が消えたとか、おかしな雰囲気と言っても多分翡翠を惑わすだけと判断し
話からは除去して、家の中で猫を見掛ける可能性のみを訊ねてみたのだが。
 やはり既知の情報に加わるものはない。

 台所へ向かう。
 今この屋敷内にいるのはあと一人だけ。
 時間から類推すれば、台所へ行くのが確率的にもっとも無駄足とならない筈。

 はたして、目的の人物の姿が視界に入った。

「あら、シオンさん。お茶でもご所望でしょうか?」
「いいえ。でも、ありがとう」

 にこにこと笑みを浮かべる秋葉のメイドは、何か下拵えをしていた手を止め
て私の相手をしてくれた。
 手短にさっきの事を話し、屋敷内で黒猫を見た事はあるかと訊ねる。
 
「お庭にはよく野良猫やお散歩の飼い猫が来ますけど、中までは入りませんよ。
 せいぜい屋根に登るくらいですね」
「そうですか」
「わたしは犬とか猫を飼うのも楽しいかなと思いますけど、秋葉さまはそうお
考えにならないようですし」
「秋葉は小動物の類いが嫌いなのですか?」
「どうでしょうねえ、好きだけど飼おうと思われないだけかもしれませんけど。
 まあ、手を焼くのは志貴さんだけで充分なんでしょう」

 にこりと笑みを浮かべる琥珀に、私も頷き返す。
 機械的に同意しただけでなく、もっともだと思ったから。
 それにしても付き合いは短いが、琥珀の志貴との関係について時折、興味深
いと思う事がある。
 小さい頃から仕えていた秋葉とは事情が違うのだろうが、志貴も遠野家の主
人の一人である事は違いない。
 決して軽んじている訳ではないし、志貴に対しての気遣いなど傍から見てい
ても感心する事があるのだが、それでも琥珀の態度には志貴へのどこか微妙な
距離の近さ、あるいは遠さを感じさせる。
 そんな事を考えていると琥珀が、何か思いついた顔をした。

「もしかして化け猫ですかね」
「化け猫?」

 なるほど。
 言われてみれば、物の怪と考えた方が似つかわしい。
 日本各地には化け猫の伝承は無数にあるし、この家には似つかわしいかもし
れない。

「この家には何か猫に恨まれる謂れでもあるのですか?」

 私が訊ねると、琥珀は手をぱたぱたと左右に振る。

「いえいえ冗談なんですけど、シオンさん。
 それとも時々お台所の食材が消えて、朝になると焦げた塊が捨ててあるのは、
化け猫の仕業かしら」

 それこそ冗談めかして言って、それから琥珀はちょっと考える。

「シオンさんご自身はいかがですか?
 お部屋の方に現れたのなら、シオンさんに用があったのじゃないですか?」
「猫には知り合いも恨まれる憶えもありません」

 とりあえず琥珀からも得られる情報は無しと判断し、夕食の準備の邪魔はそ
れくらいにした。
 ムスカを作りますから楽しみにして下さいね、という声に頷き部屋へ戻る。
 



                 ◇
 



「それにしても、このお屋敷に新たな逗留者の方をお迎えするとは思いません
でしたね」

 夕食後の一時。
 紅茶と、これは私の好みだが、苦味の強いコーヒーのカップをテーブルに並
べつつ、琥珀が誰にとも無く話す。

「別に泊まりの客人が皆無という訳ではないでしょう?」

 秋葉の言葉にいえいえと琥珀は首を振る。

「それは、アルクェイドさんやシエルさんはもちろん、秋葉さまと志貴さんの
御学友の方々はお見えになります。
 けれど、こちらに住まう方が増えるのは正直、驚きました」
「そうだなあ、俺もそう思うよ」

 志貴もコーヒーカップを手に琥珀に同意する。
 やや、居心地が悪いような気がする。
 それを察したのか、秋葉の眉が僅かに吊り上がった。

「二人とも、お客様に対して失礼な態度ではなくて?」
「うん?」

 志貴がちょっと考えて、あっという顔をする。

「そんなつもりじゃないんだ、シオン、ごめん」
「ご不快にさせたのなら、申し訳ありません」

 琥珀も軽く頭を下げる。
 別に不快というほどの事もないが、微妙に頷いてみせる。

「でも、シオンにどうこうじゃなくて、秋葉に対しての想いなんだけどな」
「あ、志貴さんもですか。わたしも秋葉さまに驚いたんです」

 ?
 秋葉も話の向きが変わった事にちょっと戸惑った顔をしている。

「私が何ですか、兄さん?」
「親戚連中追い出したりしたし、秋葉が同居を認めるというか、自分から言い
出すなんて珍しいなと思って」
「それは……」
「あ、文句じゃないぞ。シオンにとってもここにいるのは良い事だと思うし、
それに秋葉が対等に付き合える同年配の女の子がいるのは嬉しいな」
「えっ?」
「よく、寮にいた頃に同室だった友達の事話すじゃないか。
 月姫さんと、羽居さんだったかな。今も学校では会えるだろうけど、こんな
遠くから通ってるとなかなかそれ以外の時間もとれないだろうから」
「……兄さん」

 二人のやりとりを黙って見守る。
 独特の関係。
 不思議な関係の兄妹。

 ふと見ると琥珀も二人を穏かな顔で眺めていた。
 
 急にある種の感覚が生じた。
 さっき感じたものだ。
 猫。
 そうだ、猫だ。

 まただ。
 猫がいる。
 妙な確信すら感じている。

 どこだろう?
 
 そう思った時、
 とん、と秋葉と志貴の間から猫が出てきた。
 思わず目でその動きを追う。
 
 秋葉と志貴は……、気づいていない。

 互いに視線を絡めるようにして話に没頭していて気づかない?
 座った二人の隙間からひょいと出たから目に入らない?
 いや、ありえない。

「秋葉……」

 呼びかけた。
 こちらを見れば、確実に視野に入る位置。
 私の声に秋葉、そしてつられるように顔を向けた志貴は、しかし黒猫に目を
留めない。
 黒猫も、二人に反応しない。

「どうしたの、シオン?」

 怪訝そうな声。
 機械的に言葉を返す。
 ふと周りを見れば、兄妹だけでなく、双子の姉妹も気づいていない。
 私だけがこの目の前にいる猫を認識している。

 私がおかしいのか?
 いや、この目の前の黒猫が見間違いや妄想な筈は無い。
 どう客観的に判断しても、私の状態は正常である。
 従って、ここには猫がいるのだ。
 そして同時に他の人間には見えていない。
 それも間違いない。

 先に琥珀が冗談として言った可能性を検討し、即座に排除する。
 物の怪の類いではないのだろう。 
 実在するのであれば少なくとも、志貴か秋葉であれば見ないまでも感じそう
なものだから。
 
 幻。
 私だけに見える幻。
 でも何故、こんな縁もゆかりも無いものを見るのだろう。
 どう演算しても答えは導き出せない。
 データがあまりに乏しい。

 秋葉達に違和感を持たせない程度に話に参加しつつ、手を伸ばせば届く位置
に丸まった猫に視線を向ける。
 触れるのは躊躇われた。
 今更ではあるが、何かのとどめを刺されるような感覚故に。

 そうこうしているうちに、猫の側で事態を解決してくれた。
 現れた時と同じように黒猫は何処かへと消えてしまった。
 ふいに立ち上がり、ふわっとした動きで下へ降りる。
 今度はテーブルの下に潜ってしまう。
 消えた。
 単に陰に消えたのではなく、部屋から消え失せた。
 目に拠らず、そう感じた。




                 ◇
 



 深夜。
 吸血鬼と化している私には、月の出ないこの夜も部屋の様子が見て取れる。
 暗闇を暗闇と感じ、同時にその明晰を感じる。
 昼間少しばかりうとうとと微睡んでいたからか、まったく眠気は無い。
 目を開けて心地良い夜に、闇に、影に身を横たえていた。
 
 その静寂な空間に異物が現れた。

 黒猫。
 よく暗闇で光る瞳などというお話があるが、これほど真っ暗だとさすがに光
を反射させる事は無い。
 闇が形を作ったような漆黒の毛並み。

 こちらに来る。
 私は黙ってそれを見守った。
 ベッドから降りて、腰を屈めて。
 
 手を伸ばせば届く近距離。
 顔が上を向く。
 目が合った。

 初めて目が合った、と感じた。
 それ故だろうか。
 自然と手が動いた。
 こちらを見上げてじっとしている猫の頭を撫でる。
 
 いや、撫でようとした。
 私の手は、猫の額を突き抜け、空を動いた。
 やはり、幻だった。
 実体を持っていないと言っても良い。
 猫は己の体を突き抜けた手にさしたる感慨の様子を見せない。
 つまらなそうにも見える顔。

 この猫は何なのだろう?
 
 改めてその疑問が生じる。
 解が見つからぬ疑問。
 ……。
 いや、正確には一つの答えが用意されている。
 ただ、私としてはそれを認めたくない。
 何故なら、唐突に頭に浮かんだものだったから。
 理によらぬ推論とも言えぬ仮定。
 余りに補強するデータに乏しい仮説。
 思考の果てに浮かび上がったものならばともかく、そんな思いつきで納得す
るのは自分でも嫌だった。
 しかし、癪に障る事に、それは不思議な説得力があった。


 私は実際には起こり得なかった何事かを見ているのではないか?


 それが私の頭に去来した推論であった。
 もしもこの家で猫を飼っていたら、こうして日々部屋のあちこちに出没して
いたのではないか。
 それを私は何故か見ているのではないか。
 もちろん根拠の無い妄想だ。
 あまりにも蒙昧に思える戯言。

 ただ、それでも。
 その考えは私に妙な説得力をもって迫った。
 この黒猫がここに棲まう事は決してあり得ない話ではない。
 それどころか、本来はそうあるべきだったのかもしれない。
 少なくとも、私がここに今いる事の方がよほどあり得ない。

 それでだろうか。
 だからこそ、本来の埒外の者たる私だからこそ、同じ揺らぎを持った別の遠
野家の滞在者の姿を見ているのだろうか。
 異端者であるが故に。

 無理やり理由づけする事は出来る。
 起こり得る未来を算出する錬金術師であれば、今に到る事が出来なかった別
の光景を、蓋然性の高い別の可能性を垣間見られるのではないだろうか?

 今の代わりに。
 あり得た今を。
 目に見える程の現実感をもって。

 馬鹿馬鹿しい。
 考えるに値しない事だ。
 有る意味、あり得る未来の選択肢からただ一つの解を見出す習性を持つ者に
は、別の未来・別の可能性などと言うものは、害悪ですらある。

 でも……、と思う。
 もしかしたら、
 私がここにいなければ、
 私ではなくこの黒猫が、
 ここで当たり前のように暮らす事もあったのかもしれない。
 黒猫は答えないだろうが、気がつくと黒猫に問い掛ける目を向けていた。
 
 もう一度撫でてみようか?
 そう思った時、猫はくるりと踵を返した。
 そしてそのまますたすたと足歩き出した。
 振り返らずに行ってしまう。
 壁にすっと消えそうになった時、少し立ち止まった気がした。

 でもそれすら一瞬で、すっと猫は消えてしまった。  

 何故か、これが最後だという気がした。
 あの猫に会うのは。
 いや、そうに違いないという強い確信が胸にあった。
 ……。
 何故だろう。
 その事に心が揺られた。
 私とは無関係な存在だった筈なのに。
 別に何があった訳でもないのに。
 でも、なんだか、妙に後引くような感覚だけが残った。
 黒猫の代わりに私がここにいるのだと言う変なもやもや。 

 理で割り切れないその妙な感じを持て余しつつ、私は壁をしばらく眺めていた。
 壁の何処にも、もはや猫の影すら無いと分かっていたのに。
 それでもなお、じっと……。
 
  《了》












―――あとがき

 いちおうシオンSSなのですが……。
 首を傾げているのが見えるようです、読まれた方の。
 
 これは『同人ゲームマニアックス2』という本の座談会で、
  
  武内:基本的には『歌月十夜』と同じ時間軸というか。
  奈須:自分的には『月姫』が終わった1年後でレンをとるか、シオンをと
     るか、ということなんです。レンと付き合う夏が『歌月十夜』には
     あって、シオンに関わる話が『MB』にあると。

 という設定をお二方が語られていまして、じゃあシオンが登場する時は、レ
ンは志貴と契約する事は無く……といったあたりから考えたんですけど、難し
いですね。

 とりあえずシオン初書きでして、練習のつもりで書きました。
 まだまだシオン造形がつかめないので、違和感があります。書いている方が
そうなのですから、読まれる方はもっとでしょう。
 まあ、その程度のものと思っていただければありがたいです。
 この成果は何とか裏紫苑祭で出るといいなあ(笑
 
 お読みいただき、ありがとうございました。

  by しにを(2003/3/6)

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