揺れる乙女心

作:しにを

            




 朝の冷気が心地よかった。
 少し寒いくらいだけど、体が引き締まる感じがする。
 多少残っていた眠気もどこかへと消えていく。
 静かだった。
 庭には私の他には誰もいない。
 琥珀は朝食の支度をしているし、翡翠もいろいろと用事を済ませる為に動き
回っている。
 後は兄さん……。

 そこへと自然に思いが向かい、歩みを止める。
 自分でもどんな表情をしているのか分かる。きっと少し眉を顰めるような顔
に違いない。
 せっかく脳裏から消していたのに。
 兄さんの事なんか。
 ほんの庭先とはいえ屋敷の中から外へと出て、朝の散歩などしているのも、
気分転換の為。
 自然に足誘われてなどではない、少しでも意識を他方向へと向けようという
極めて意図的過ぎる行為。
 確かに朝の空気や明るくなりつつある陽射しは心に作用した。
 しかし、それも僅かな間だけだった。
 ひとたび思い出してしまえば、容易に兄さんは私の頭の中から去ってはくれ
ない。
 当然といえば当然。

 溜息をこぼす。
 無理もなかった。いつも兄さんの事は私の頭の中にあるのだから。その存在
が大きかったり小さかったりは変化しても。
 本物の兄さんは、普段はじっとしていてくれない。かまって欲しい時にふい
と姿を消してしまったりするのに。
 だからこそ、強固に心に住み着いているのだろうか。脳裏から消そうとして
も、まとわりついて離れてくれない。それはそれで嬉しい事でもあるけど、そ
れでもたまには……、と思わなくもない。
 どちらにしても兄さんは私の自由になってくれない。
 平気で私を困らせる。

 いいでしょう、兄さん。
 こうなったらせっかくですから、冷えた頭で考えてみましょう。
 そう、夕べの事を。
 意識を昨晩の出来事へと向ける。

 兄さんとの…………んんッ。

 思い出した途端に、その記憶は体に作用した。記憶の再現が体にも及んだ。
 甘い甘い痺れ。
 微かな体に残る違和感。
 快楽とも苦痛ともつかない、まったく異種の感覚。
 そして、激しい羞恥の念。
 体が熱くなる。

 まったく、あの人は何て……、本当に何て事をするのだろう。

 それはまあ、初めて結ばれてから何度となく体を重ねてはいる。
 兄さんに求められるというだけで私は幸せだ。優しくされるのも、時に荒々
しくされるのも嬉しい。それは喜び以外の何物でもない。
 兄さんから言われたとおりにいろいろとしたり、私からお願いする事もある。
 当然ながら兄さん以外の異性など知らないけれど、私とてまったくの無知と
言う訳でもない。兄さんが正面きって要求したり遠まわしに示唆する事も、そ
れなりに満足して貰えるように応えられたと思う。正直、不慣れで下手だった
とは思うけど、兄さんはそれでも喜んでくれたし。
 少しずつ新しい事を教えて貰ったりして、私が積極的にしてみたら凄く感激
してくれたり。
 キスをしたり、兄さんの逞しいものに手を触れたりするのだって、最初は戸
惑いもあった。とても恥ずかしいし、そうしていると体が熱くなり、自分が何
をしているのかわからなくなってしまったりもした。
 手を動かして兄さんが反応するのに、心臓がどうにかなりそうなほどドキド
キしたり。

 後始末だって、最初は恐かったのだ。
 今だって、終えたばかりでの兄さんのものは直視しにくい。濡れたままでド
ロドロとしていて。ピクンて動いたりもするし。
 真っ赤になって、それを手にとって近づけて、あの変にしか思えなかった匂
いだって、嗅いでいるとまた何だか体がおかしくなってきて。でも、今では兄
さんの濃厚なエキスは私を陶酔させ、体の深奥からむずむずと……、違う。
 そんな事はどうでも良い。
 そうだ、兄さんに抱かれる事自体は何の問題も無い。
 それは毎晩毎晩という訳にはいかないけど、互いの部屋をこっそりと行き来
したりして、逢瀬の時を過ごすのは何よりの至福だと思う。
 兄さんが私だけを見てくれて、言葉なんかよりも雄弁に私への愛を眼で語っ
てくれる。
 それが肉体的に互いを感じ、感じさせ合う行為へ向かう。
 毎回毎回が同じ手順ではなく、いろいろと趣向を凝らして。
 それは良い事だと思う。単調ではなくて変化があるのは。
 でも。

 あれは……、あの行為はどうなのだろう。

 恥ずかしい事を言わされるのは良い。
 恥ずかしい格好をさせられるのも良い。
 手や唇を言われるままに這わせるのも良い。
 自分でもどうなっているかわからない体勢で結ばれるのも良い。
 兄さんが望むように腰を動かし、いやらしい音を立てるのも良い。
 言われた衣服を纏ったり、どういう意図かわからぬ指示に従うのも良い。

 これは少々アブノーマルではないだろうかと首を傾げる逸脱行為もあるけれ
ど、納得したのであればそれはそれで良い。
 兄さんの「秋葉の全てが知りたい」というずるい言葉にだって、しぶしぶと
ではあっても頷いてしまった時、不服な気持ちなんて残していない。
 でも、それでも限界はある。
 兄さんとしては、そう私に対して悪い事をしているという意識はないのかも
しれない。
 私が泣いて嫌がれば決して無理強いはしないだろうし。
 きちんと断われなかったのは、私にも否は無くはないだろうけど。

 けれど、あんな事をする、仮にも愛する妹を相手にしてしまう。それは信じ
られない。

 本当に、思い出すだけで頭を抱えてうずくまってしまいたくなる。大声で叫
びたくなってしまう。
 目覚めた時には、何て恥ずかしい夢を見たんだろうと思って真っ赤になって
しまった。
 夢の中とはいえとんでもない事をしてしまったと体が震えだした。
 でもそれは夢幻ではなく現実で、ベッドにはまだ眠っている兄さんがいて。
 二人とも裸のままで。
 私の体には、体には…………、兄さんの馬鹿。馬鹿、馬鹿。
 そして、私の馬鹿。

 何であんな事にOKを出してしまったのだろう。
 言葉だけでなく本気とは、実際にされる寸前まで思わなかったけど。
 幾らなんでも途中で止めるだろうと思っていたけど。
 甘かった。
 兄さんの性癖を甘く見すぎていた。

 でも、何よりもおぞましいのが、それが決して嫌なだけではなかったという
事実。
 そこには眼をつぶれない。
 思い出すと、嫌悪に近い感情はある。
 けれどもそれは、行為やあの時の情景に対してだけでなく、あの時に感じて
いた私に、嬌声めいた声を洩らした私に、そう受け入れた私に向けられたもの
でもある。
 何で、何で、何で……。

 兄さんは好きだけど、だからといって何もかもを無分別に受け入れる訳には
いかない。
 それは駄目だ。
 駄目だ。
 ……。

 駄目だと思う。
 兄さんが喜んでくれるなら何でも等と考えるのは間違い。
 それが瓦解の始まり。

 兄さんは放っておくとどこに飛んでいってしまうかわかない人だし。
 遠野家のルールというものを捻じ曲げてしまう人なんだから。
 だいたいあんな事をほいほいと聞いていたらどうなってしまうだろう。
 しまいには兄さんの衝動の赴くままに、もっとエスカレートして歯止めなく
好きなように…………もっと? あれより?
 夜だけでなくて、日が出ているうちから。
 のべつ幕無しに。
 ……。
 ……。
 ……。
 駄目、駄目、駄目です、兄さん。
 そんなのは駄目です……よね?
 違う、迷ってはいけない。
 ええ。
 遠野家の当主として。
 兄さんの唯一人の妹として。
 正しい道へ導く尊い使命が私にはある。
 もしも兄さんがまたあんな情欲だけの獣のような欲求をぶつけてきたら。
 そうしたら拒絶。
 毅然とした態度で。
 節度は何にでも不可欠。
 あそこまでしなくても深く互いの交歓には到る事が出来るのだから。
 だから、兄さんがまた甘い声を出したとしても…。

「秋葉」
「ひゃうッッ」

 飛び上がった。
 体がびくんとなって。
 びっくりして心臓をばくばくと言わせながら振り向いた。
 あまりに思いがけぬ不意打ち。

「に、兄さん。脅かさないで下さい」
「脅かすつもりはなかったんだけど、ごめん」
「まあ、いいです。私もぼんやりとしていました。どうしたんです、いったい」
「うん、目を覚ましたら秋葉がいなかったから」
「……探しに来てくれたんですか、珍しい」

 皮肉ではなく、軽い驚き。
 兄さんらしからぬ行為。

「昨日の事があったろ?」

 息を呑む。
 何を言い出すのだろう。
 いや、何をするのだろう。
 兄さんは、問いかけの言葉を口にしたものの、次に至らない。
 言い辛そうに、何か考えるようにしている。
 それは、どこか私を落ち着かなくさせる。

 もしや。
 もしかして。
 まさか、兄さんは……。
 この場でとか。どうせなら琥珀や翡翠の前でとか。

 思わず後ずさる。
 背筋が凍える感触。

「秋葉?」

 兄さんが私を見ている。
 手が伸ばされる。
 体にもう少しで触れる。

 そうだ。
 これは優位に立つ為の鉄則。
 一度屈服させたら、その状態が続いているうちに、さらに力を加えるのだ。
 抵抗できないうちに牙まで折ってしまう。
 そうすれば、敵は従順な下僕に変わる。
 
 朝っぱらから、こんな外で。
 ここでまた昨日の再現を。
 いや、もっと凄い事を。
 部屋の中でなく、琥珀たちが来るかも知れない野外で。
 こんな処で狂わされてしまったら。
 あられもない姿で、最後には兄さんを自分から求めて。
 一度とはいえ、あれを体験した身には。まだあの甘い疼きを体が覚えている
うちに再びされたら。
 麻薬じみた快楽に、頭のどこかが焼け焦げてしまう。
 ああ、足が竦んでいる。
 逃げられない。

「兄さん」

 ああ、何て弱々しい声。
 こんな状態で兄さんに強く命令されたら否応なく従ってしまいそう。
 
「ごめん、秋葉」
「え?」

 しかし、兄さんの手は、私に触れかけて止まった。
 そして頭が下げられた。
 え?
 ええっ?
 何が起こっているの?

「昨日はやり過ぎた。
 幾らなんでも、アレはなかった。
 兄としてというか、人としてダメ過ぎた」
「兄さん」
「反省している。本当だ、本当に悪いと思っているんだ。秋葉が怒っているの
は当然だ。
 でも、許してくれ」

 さらに頭が下がって止まる。
 呼吸を深く二回するくらいの時間が経つ。
 さぞ私は間抜けな顔をしていたと思う。
 兄さんの視線が向けられていなかったのは幸いだった。
 何だか頭が混乱して、よく事態が理解できなかった。

「あ、顔を上げて下さい、兄さん」

 それだけをどうにか口にした。
 兄さんは私の言葉に従う。
 兄さんの顔を見つめた。
 その顔は、不安そうだった。心配そうだった。

「朝目が覚めて、秋葉の部屋だなって気がついてさ、何で一人なんだろうって
不思議に思ったんだ」

 ああ、いつもなら兄さんが目覚めるまで抱かれたままでいるか、キスして起
こしたりしますものね。
 今日に限っては、兄さんに触れられていると変な気持ちになりそうで、外へ
出たのだけど。
 
「それでぼんやりした頭で、夜の事を思い出して。
 秋葉に何をしたのか、させたのかを思い出して。
 あの最中は興奮してたし夢中だったけど我に返ったら……、凄い自己嫌悪と、
何より秋葉がどう思っただろうって。
 それで秋葉がいないのが凄く恐くなったんだ。
 外にいるって気がしたから庭に出て、秋葉の姿を見てどれだけ安心したか。
 でも、なかなか声かけられなくてさ」

 呆然と聞いていた。
 朝になってから頭を抱えたくなったのは私だけではなかったんだ。
 良かった。
 本当に良かった。
 ああ、馬鹿だ。
 私は馬鹿だ。
 こんな兄さんに、何で不安の念を抱いたのだろう。
 恥ずかしい。
 謝るのは私の方だ。
 兄さんに失礼な事を考えて。勝手に悩んで。
 さあ、言おう。

 平気ですって。
 秋葉は少しも気にしていませんって。
 少しばかり驚いたけど、兄さんのなさる事を嫌がったりしませんって。
 兄さんになら何をされたって嬉しいんですって。
 兄さんが望むのなら、アレ以上の事だって秋葉は……。
 ストップ。
 待った。
 そこまで針の向きを替える必要はない。

 よくよく見てみよう。
 兄さんは珍しいほど恭順の姿勢。
 罪悪感。
 許しを乞う雰囲気。
 ……。
 ああ、それなら。
 それを、自分から変えてあげる必要なんてない。
 むしろ。
 そう、むしろ。

「怒るなというのですね、兄さん。
 全て水に流せと、あれほどの事をしておいて忘れてくれと。
 許せと仰りたいのですね?」

 自分でも嫌になるほど、冷静な声。
 内心とは別に、こんな事が出来るほどには経験と研鑚の日々がある。
 兄さんには、どれだけ冷たく聞こえただろうか。
 多分演技めいた響きは感じ取れないに違いない。

「えと……その、うん、それは……」

 蛇を前にした蛙のような。
 私は蛇なんて嫌ですけど。
 少しばかり可愛く感じる。
 ほんの少し嗜虐の喜びが。
 
 もっと嬲ってみようか。ほんのちょっぴり。昨日の意趣返しになる程度に。
 それとも早く安堵させてあげようか。
 兄さんを束の間掌に乗せている感覚。
 少し手を動かせば、どちらにでも揺らして転ばせる事が出来る。
 なんて、楽し……、いえいえ。

 でも、ちょっぴりやきもきする気持ちも起こってくる。
 兄さん、簡単なんですよ。
 有無を言わさず、抱きしめてしまえば。
 唇を奪って、脱力させて。
 そのうえで耳元で囁いたりすれば。
 怒り狂っていたとしても、あなたの妹は軟化してしまいます。
 そんな状態で平然としてられません。
 兄さんに対しては、本当は圧倒的に私は弱いんですよ。
 どんな理不尽や無理をも通してしまうほど。
 どれだけの道理も引っ込ませてしまうほど。

 だけど、さらに。
 そんな真似は出来ない兄さんを、私は好きなのも確かだった。
 少しばかり愚鈍だったり、気が利かな過ぎる人でもあるけれど。
 世慣れて、色男めいたところのない、不器用でもあるところが、とても愛ら
しかった。
 妹に、恋人に、こんな顔を向けてしまう兄さんが、とても好き。
 いいかげん救いの手を差し伸べて……、え?

「秋葉。本当に、ごめん。
 あんな事をして秋葉を傷つけたのなら、何をしてでも償う。
 すぐに許してくれないのは仕方ないけど。
 お願いだから嫌いにならないでくれ。
 秋葉に嫌われたらどうしていいかわからない。
 許してくれるなら、何でもする」

 今度は頭を下げなかった。
 まっすぐに私を見つめての、しっかりとした言葉。
 本心からの、命をかけるような言葉。

 何という眼で兄さんは私を見つめるのだろう。
 あの表情。
 この声。
 心配そうで、それでいて逃げない決意。

 本当に私が何を言っても、兄さんは即座に従うだろう。
 どんな危険な事でも。
 屈辱的な事でも。
 私がそんな事をしないと信じてもいるだろう。
 でも、同時に私の許しという対価にどれだけのものでも捧げる気だ。

 充分です。
 幾万の甘い言葉よりも、それだけでもっと胸を貫かれました。
 何て幸せな気分。
 やっぱり、私、どうしようもなく兄さんの事が好きなんだ。

 当たり前の事実をしみじみと心の中で呟いてみる。
 本当に幸せだった。
 これでつまらない面子で意地を張ったり、面白半分な気持ちで兄さんを玩ん
だら、きっと罰が当たる。
 
「返事を……、秋葉」

 姫君の言葉を、膝を屈して待つ騎士。
 そんな情景にも似た、瞬間。

 視線がまったくずれない。

 大丈夫です、兄さん。 
 もちろん、許します。
 そもそも咎など兄さんにはありません。
 兄さんを嫌いに?
 それこそがそもそも不可能です。
 でも。
 でも……、それで簡単に折れてしまうのは、兄さんの好きな遠野秋葉ではあ
りませんね。
 私としてはすぐ許したいのですけど。
 はやく兄さんに安堵の表情を浮かべて頂きたいのですけど。
 
 たまには兄さんに胃の痛い思いをして頂きましょう。
 ちょっとだけこの痺れるような素敵な状態を堪能して。

 それから少しだけ微笑むか、迷う表情をして。
 言葉を口にして許しましょう。

 なんだかさっきと言ってる事が違う気がしますけど。
 きっと兄さんが惑わせているのが悪いんです。
 そう、兄さんが悪いんです。
 それで、何でもしてくださるのですよね。
 何をして頂きましょうか。

 ねえ、兄さん?

  了










―――あとがき

 秋葉の誕生日という事で、秋葉と志貴の何気ない日常物を。
 諍いと和解というありがちの一幕。
 でも秋葉書いているだけで幸せです。
 お誕生日おめでとう。

 で、志貴は何をしたんだ?
 という疑問はもっともですが、それは読み手の方依存でお願い致します。
 あの秋葉を慄かせるほどのプレイなんて、私のエロ妄想力ではとても……。

 お読み頂きありがとうございました。

  by しにを(2005/09/21)


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