Rain Song

作:heatseeker





「――――ん……」
「――おはようございます、秋葉様」
「……おはよう、琥珀。この音は……」
「はい。残念ながら雨ですね。志貴さんと約束されていた富士山の山歩きは、取りやめた方が良いと思います」
「そうね。兄さんが身体を壊すといけないし。取りやめにしましょう」
「はい。残念ですけど。それで、今日はどうなさいますか?」
「いつもと同じ。午前中に山積みになっている書類を片付けます。後は、お昼のときに考えるわ」
「はい、承知いたしました。お着替えはここに置いときますね。ちょっと肌寒いので、薄物を足しておきました。朝食の用意をしておきますので、お早く食堂においでくださいね」
「わかったわ」
「はい。では失礼しますねー」
「――ふう……」

「今日は一日中雨が降りそうですね」
「そうね。翡翠、悪いけど、カーテンを開けてくれる?」
「はい――」
「わあ、雨に打たれて、若葉の黄緑が綺麗ですねー。あら、秋葉様、紅茶のお代わりをどうぞ」
「ありがとう。そうね、綺麗よね……。本当なら兄さんと一緒に、富士山の裾野を歩いてるはずだったんだけど」
「まあまあ。出来なかったことよりも、これからできることを考えましょう。きっと来週も、志貴さんが気の利いた所に連れて行ってくださいますよー」
「そうだといいんだけど、兄さんはねえ、そんな気の利いたことできるような方では――そうそう、翡翠。兄さんはまだ?」
「はい。特に申し付けられておりませんので、そのままお休みになられているものと思いますが」
「なら、今日は自然に起きるのを待っていいわ。予定が無くなった休日くらい、ゆっくりお休みさせてあげましょう」
「はい――」
「うふふー、秋葉様も意地悪ですねー。翡翠ちゃんの一番のお楽しみを取っちゃうだなんて」
「なっ、姉さん、わたしは別に……」
「ふふっ、もしも兄さんの寝顔が減るものなら、今頃は半分になっちゃってるかしら?」
「申し訳ありません、秋葉様――」
「ふふふ、なにをいってるの。別に減るもんじゃないし。兄さんには起き抜けに誰かに見られてるっていうくらいの緊張感があった方がいいのよ。さもないと、あの人は一日中、腑抜けて暮らすことでしょうからね」
「そうですよねー。今度からはわたしも翡翠ちゃんと並んで、志貴さんのお目覚めタイムを締めて差し上げましょうかねー」
「琥珀はダメよ」
「姉さんはダメです」
「ええーっ、なんでわたしはダメなんですか……」
「兄さんがあなたを警戒しちゃうのよ。さあ、お茶の時間は終わり。書類の山と戦いましょう」

「秋葉様、この書類は保留でよろしいですね」
「ええ、付箋のところをはっきりさせるようコメントを書いて、その銀行の担当者に送り返して」
「畏まりました」
「こっちの箱に入れたものは有間のおばさまに、こっちの箱のものは斗波に回してちょうだい」
「有間様も大変でございますね、これだけの書類に目を通されるのですから……」
「おば様は名義上の親権者なんだから、仕方ないわね。ところで琥珀、あなたがさっきからほいほい決裁している書類、私に寄越しなさい」
「えっ、これは、その、当家の内向きの経費ですので、わたしが適任かと――」
「また少しずつちょろまかして、自分の薬品代とかに充ててるんじゃないでしょうね? いいから寄越しなさい」
「ううっ、秋葉様にそこまで信用されてないなんて、琥珀は悲しいですー」
「嘘泣きはやめて、さっさと寄越しなさい。あなたは企業からのサマリーを処理するのよ」
「ううっ、こっちの方が多いじゃないですかー」
「姉さん、それは自業自得というものです」
「うううーっ、数字が、数字が襲い掛かってくるー」

「…………」
「――――」
「――――……」
「……ええっと、69億かける1.05引くことの14億4700万円は――――あっ、志貴さん、おはようございますー」
「あー、おはよう、秋葉、翡翠、琥珀さん。それにしても相変わらず書類の山か。ほとんどは家の買い物に関するものなんだろう? ちゃっちゃっとサインしちゃえばいいんじゃないかな」
「はあ、兄さんおはようございます。朝から寝ぼけたことをおっしゃいますね。お金の絡む話なんですよ? そんないい加減に処理できるわけが無いじゃないですか」
「でも、家くらい裕福なら、少しくらいの誤差なんて問題じゃないだろう?」
「その『少しくらいの誤差』が積もり積もって、大変な額になることもあるんです。単純な間違いならまだしも、犯罪行為だったらどうするんです。遠野ほどの資産規模だと、最終的には大規模な犯罪に繋がる事だって考えられるんです。見逃せるわけが無いじゃありませんか――特に我が家には要注意人物がいますしね」
「あ、あはー、なんだか悪意を感じますねー」
「あー、わかったわかった。秋葉の気の済むようにすればいいさ」
「もう、兄さんは……。この遠野家の一員だという自覚を持ってください」
「あはー、秋葉様、志貴さんはきっと、秋葉様のことが心配でいらっしゃるんですよー」
「えっ、うん、まあね。こんな数字の海にいたんじゃ、気も鬱々としてきちゃうよ。それで琥珀さん、悪いんだけど、昼までもちそうにないから、お茶菓子もらえるかな?」
「そうですねえ。ずーっと書類と睨めっこでは、気疲れしますからねえ。さあ、お茶にしましょう。今日処理しなければならないものは、それで全部ですから」
「そうね。そろそろ疲れてきたわ。翡翠、これは“保留”でお願い」
「はい」
「――それにしても大変だな。今度から俺も手伝うよ」
「お気持ちは嬉しいですけど、兄さんにお任せすると、なんでもほいほい決裁してしまいそうで怖いですね。琥珀の思う壺というところでしょうか」
「ずいぶんな言われようだな」
「志貴さん、秋葉様はとても喜んでらっしゃるんですけど、愛情表現が複雑なだけなんですよー」
「なっ――琥珀、なにが愛情表現なものですか!」
「はいはい、お茶にしましょうねー」
「ふん、まあいいでしょう――ああ、ありがとう。そこに置いてちょうだい」
「紅茶の香りは落ち着きます」
「ああ、まったくだ。翡翠も紅茶好きなんだね」
「はい。あ、わたしに淹れさせてください。書類の仕事ではお役に立てませんから、せめてお茶の世話など……」
「なにをいってるの、翡翠は本当に役立ってくれます。翡翠は数字に強いしね。それに、琥珀の挙動不審をチェックするのは、まず翡翠の役目ね」
「はい、その点は、及ばずながらもお力になれればと」
「あ、あはー、翡翠ちゃんもなにげにきついですねー――でもまあ、志貴さんもそれなりの大学に入られて、それなりに学習されたら、きっと秋葉様を助けてくださるようになります。それまでの辛抱ですよー、秋葉様」
「兄さんが、そんな私たちの思惑通りに動いてくださる人ならいいんですけどね」
「はは、は」

「ふう、ごちそうさま」
「ごちそうさま、琥珀」
「ごちそうさまです、姉さん」
「はい、お粗末さまでしたー」
「琥珀はパスタ類の腕も上げてきたわね」
「はい、たゆまぬ努力の賜物ですよー」
「本当だ。プロ並だもんな」
「それはプロの人に失礼ですよー。わたしはあくまでも家庭料理の世界で勝負してますからねー」
「それでも凄いよ、なんだって作れちゃうんだから。――そうだ、パスタなら翡翠だってなんとかなるんじゃないか?」
「えっ、そ、そうでしょうか――」
「翡翠の場合、麺よりソースの方が鬼門ね」
「あははー、梅のソースというのもおつなんですよー。ねー、志貴さん」
「ええっ、ちょ、ちょっと、それはカンベン――」
「じゃあ翡翠ちゃん、今日は雨でお庭のお掃除も無いですから、お料理の勉強をしましょうねー」
「琥珀さん嬉しそうだな」
「そりゃあ翡翠ちゃんのお料理を毒見――いえ味見してぶっ倒れ――ええっと美味しさに身悶えする志貴さんは――」
「やめてくれっ」
「はあ、それにしても、予定が急に空いちゃうなんて」
「秋葉様、たまには息抜きされて、ごろごろなさるのもいかがでしょう」
「そうね。この雨だと、外に出かけても行くところが無いし」
「じゃあ、俺は出かけてくるよ」
「あら、兄さんはどちらに? 買い物ですか?」
「買い物っていうかさ、ただ歩き回ってるだけでも楽しいんだぞ。十分に時間をつぶせるさ」
「そうですか――では私もそうします」
「えっ、ついてくるの?」
「あの、お嫌ですか?」
「い、いや、もちろん嫌じゃないさ。でも、大したところを回るわけじゃないぞ?」
「構いません、兄さんと一緒なら」
「秋葉様、ナイスな恥じらい顔です」
「琥珀っ、茶化さないのっ!」

「じゃあ、行って来ます」
「行って来るわ。留守をお願いね」
「はい、ご心配なく。行ってらっしゃいませ」
「ふう、それにしても切れ目無く降るもんだな。明日も雨が残ると、登校の時に嫌だな――って、秋葉は車で浅上に戻るんだよな」
「はい、今夜のうちに戻りますよ」
「正直、平日に秋葉が寮に居るのは、俺にしてみれば寂しいけどな」
「でも四六時中兄さんと一緒にいて、その、色事に溺れたくは無いですからね」
「はっきりいうね。それにしても今日は、秋葉と富士山に行けなくて残念だったな」
「残念ですね。でも兄さんが、また来週に埋め合わせしてくださると思ってますよ」
「うはっ、なにか気の利いたこと考えておくよ」
「ふふっ、期待してますね」
「また富士山じゃダメかな……」
「ところで兄さん、今日はどちらに?」
「そうだなあ。まず本屋に行って、繁華街をうろついて、それからスーパーにでも寄ろうと思ってる」
「今日は、兄さんの日常を垣間見られますね」

「……ナイフの雑誌ですね。兄さんは、そういうものがお好きなんですか」
「うん、別に使いたいわけじゃないんだが、見てるのは好きでね」
「ふうん……」
「成人向け雑誌――おっと、秋葉付きじゃまずいな……」
「どうなさいました?」
「いや、なんでも」

「……うーん」
「この小説、買われないのですか?」
「うーん、正直、すぐに欲しいとまでは思わないから。他に買いたい物もあるしね」
「ふうん……兄さんは、本はいつも買って帰られるのですか?」
「はあ? そりゃ欲しかったら買うしかないけどさ」
「いいえ、なんで私や琥珀たちに言ってくださらないのかと。そういうことでしたら、よほどの物でもない限り、無条件に買って差し上げるのに」
「あー、うん、なるほど。そういう手があったか」
「別に遠慮なさることは無いんですよ。どうせ毎週、それなりに購入しているんですから」
「うーむ、そうか。考えておくよ」
「はあ、あまり乗り気ではないようですね」
「はは、やっぱり人に買ってもらうってのは気が退けてね。そういえば、秋葉は毎週そんなに本買ってるの?」
「はい。これでも本は読んでいる方です。毎週の学校への行き帰り、車の中で退屈しますから」
「そうなんだ。浅上の寮にいるときにも読むだろうしな。じゃあ、車で本屋に寄るの? それとも学校から外出できるのかい?」
「いいえ、本屋から届けてもらいます」
「ん? どうやって本を選んでいるの?」
「それは、なじみの本屋の店主が、私の好みに合わせて選んでくれます。もう十年来の付き合いですから、私の好みは良く分かってくれます。雑誌や文芸書、理系書の選択で、私の好みから外したものを送ってくるのは、もう稀ですね」
「本屋の方で選ばせてるのかよ」
「はい。その代わり、私の好みを理解するまでは、好みでない本に関してはいちいち文句をつけてました。それも含めて、送ってきたものは、必ず購入していたんですけど。その代わりにということです」
「ははっ、金持ちは発想が違うんだな」
「情報を選別する知性こそ、一番高価なものですからね」

「結局買われたのは、クロスワードパズルの雑誌ですか。兄さんらしく、ずいぶん長く楽しめそうですね」
「いいじゃないか。頭を使って、しかも時間を潰せるんだぞ」
「悪いとはいってません。兄さんらしく、実直で堅実な選択だなと思って」
「それ、褒められてるのかなあ――そうだ、ちょっと小腹空いたから、入ってみない?」
「ここは、いわゆるファストフード店というものですね」
「社会勉強だよ」
「うーん、人が多いですね」
「さあ、奢ってやるから、注文しなよ」
「え、ええ。あ、あの――」
「はいいらっしゃいませただいまトリプルチーズバーガーセットがお得になっておりますが」
「えっ、ええっと、それはどういう商品ですか?」
「期間限定の特別メニューでダブルチーズバーガーのお値段と同じと大変お得になっておりますが」
「じゃ、じゃあそれをお願い――」
「かしこまりましたお飲み物は何にいたしましょう」
「紅茶を――」
「アイスティーでございますねかしこまりました」
「じゃあ、俺のと一緒にしてください」

「じゃあ、ここで食べよう。ちょっと混んでるけどさ、いつもこんな感じだよ」
「物凄く慌しいんですね。びっくりしました」
「そりゃ秋葉が行きつけてるような店に較べれば、こういう業種は回転が勝負だからね」
「それにしても、店員さんが物凄く早口なのが驚きです。句読点が無さそう」
「きっとマニュアルがそうなってるんだよ」
「ふんふん、これがファストフードにおけるアイスティというものなのですね――」
「――どうした、甘すぎる?」
「いえ、単に香りが無いだけです。紅茶と思わなければいいだけです」
「はは、そんなことで怒るなよ」
「お待たせしました、こちらがチーズバーガー、こちらがトリプルチーズバーガーになります」
「おっ、きたきた。ふふっ」
「――――なんですか、これは……」
「なんだって、トリプルチーズバーガーだよ。自分で頼んだんだろう? ほら、奢ってやったんだから、ちゃんと食えよ」
「そんなことおっしゃいますけど、食べられるわけ無いじゃありませんか。顎が外れちゃいます――」
「あー、わかったわかった。泣くなよ、ほら。じゃあ俺のチーズバーガーと交換しよう。これならいいだろう?」
「はい。ごめんなさい、兄さん」
「い、いや、気にするなよ――さすがにやりすぎたかな……」

「兄さん、分かっててやったんでしょう」
「ごめんごめん、ちょっとした可愛いいたずらじゃないか」
「もう、知りません――」
「ごめん。機嫌直してくれよ――あっ、ちょっと待てよ」
「――兄さん、これはなんですか?」
「いわゆるクレーンゲームって奴だけど」
「へえ……――。えっ、兄さんお上手なんですね。ぬいぐるみを簡単に吊り上げちゃって」
「そりゃ上に乗ってる奴だから。ほら、これやるから、機嫌直せよ」
「はい、兄さん。ありがとうございます。兄さんからプレゼントをいただいたのは初めてです」
「あっ――――そうか。……じゃあ、今度ゲーセンに寄ったら、また取って来てやるからな」
「はい。期待してます。――? なんだか急に優しいんですね?」
「歩き疲れたろう、このベンチにおいで」
「ふう。繁華街のアーケードは、雨に濡れないので助かりますね」
「こういう場所、あまり歩かないの?」
「そういうわけでもありませんけど……。大体は目的があって街に出ますので、こんな風にあてどなく歩くことなんて無かったです。それに、だいたい琥珀と一緒でしたから、私が困るようなことも無かったし」
「じゃあ、さっきのハンバーガーの件も、社会勉強だよ」
「ふふふ、そういうことにしておいて差し上げます」

「ここがスーパーマーケットですか」
「秋葉には一番縁が遠そうな場所だな」
「一度だけ、琥珀について入ってみましたけど、人込みにうんざりして外で待つ羽目になりました」
「そりゃ、秋葉ほどのお嬢様ともなれば、こういう場所は辛いだろうな。あ、ありがとう――ほら、秋葉も」
「試食品ですね? ふん、ふん、このハムのようなもの、ずいぶんつなぎが多いんですね」
「そりゃ、秋葉が口にしているものに較べればな。俺みたいな庶民には、これでも十分に高級品だよ」
「おかしいですね。兄さんだって同じものを食べてるはずなのに……?」
「お茶のボトルはともかく、インスタントラーメンまでは買う気は無かったんだがな」
「でも、あれだけ試食したんですもの。なにか買わなければ申し訳なくて」
「秋葉にものを売りつけるのは簡単だな」
「それにしても、兄さん、いつもインスタントラーメンを買われてるんですか?」
「うん、たまーに夜中に腹が空くことがあってね。琥珀さんに頼んで、台所の棚に置いてもらって――」
「まあ兄さん、そんなはしたないことをしてらしたんですか。夜中に部屋を出てうろつきまわるのは控えてくださいと申し上げたじゃありませんか。琥珀も琥珀です、そんな風に兄さんを甘やかせるから――」
「うわっ、そりゃ薮蛇だ――」

「どうだい、楽しかった?」
「兄さんの日常を垣間見るのは、ちょっと楽しかったですよ」
「そうかい。俺はちょっと疲れたけど、秋葉が喜んでくれたのならいいさ」
「私も歩き疲れました。さあ、この雨ですから、屋敷への坂道は、滑りやすくなっているかもしれませんよ」
「――――」
「――兄さん」
「――――」
「兄さん?」
「えっ、あっ、すまん。ちょっとボーっとしていた」
「――ねえ兄さん」
「ん?」
「弓塚さんの家は、この近くなんですね」
「――――ああ」
「………」
「あれから半年が過ぎたんだな」
「はい」
「もう、そんなに経ったのか……」
「――ねえ兄さん。兄さんは、弓塚さんのこと、どう思われていらしたんですか?」
「そうだな……」
「――――」
「わからないよ。好きだったのか、気にしていたのか、どうでもよかったのか、今になってもわからないよ。俺が弓塚さんを気にしたのは、あの時が、屋敷に戻ってきた時が初めてだったからな」
「そう、ですか」
「――俺は薄情な奴だ。弓塚さんはずっと俺のことを気にかけていたってのに、俺は全然気づいてなかった。弓塚さんがあんなに思ってくれていたのに、俺はちっとも思ってあげられなかった」
「――――」
「秋葉、お前にだってそうさ。俺は八年前、お前に命を分けてもらって、なんとか命を繋いできた。お前は俺のためにずっと苦しんできたのに、俺はのほほんと過ごして、気にしたことも無かった。俺はお前から奪うばかりで、お前に与えてやることが出来なかった。さっきのぬいぐるみくらいでさ。弓塚さんにだってそうさ。俺はきっと、そういう冷たい心に生まれついたんだ」
「まだそんなことをおっしゃるんですか?」
「えっ――」
「兄さんは、まだそんな馬鹿なことをおっしゃるんですか。それでは本当に、弓塚さんは浮かばれませんよ。そんな、ご自分がなにも与えてなかったなんて」
「でもな、秋葉――」
「いいえ、聞きたくありません」
「――――」
「私が今まで生きてこられたのは、兄さんのおかげです。兄さんがいたから、私は生きてこられたんです。兄さんがいなかったら、私は生きてなんか行けなかった。ねえ兄さん、人間にとって一番幸せなのは、好きな人を想うことなんですよ。私、兄さんを想うときが一番幸せでした。その時間がなければ、あの屋敷での退屈な時間に耐えることなんて出来なかった。兄さんは、私に生きる意味を与えてくれたんです。きっと、弓塚さんだって同じことです。それに――」
「――」
「それに、兄さんは弓塚さんのことを想い続けている。確かに生前の弓塚さんと兄さんは縁が希薄だったかもしれない。でも弓塚さんを失ってから、兄さんはちゃんと想い続けてあげている。だから、弓塚さんだってちゃんと報われているはずです。吸血鬼にされて、苦しんで死んでいった弓塚さんだって、兄さんが想い続けてあげていることで救われているんです。本当に、兄さんは、そんなこともわからないくらい鈍感なんだから――」
「――そうか」
「そうですよ。だから兄さん、そんな辛そうな顔をしないでください。そんな顔をされたら、弓塚さんだっておちおち天国で和んでいられませんから」

「ただいまー、って門からじゃ聞こえないか」
「琥珀たちはまだ二人きりで和んでるでしょうから、もう少しそっとしておきましょう。兄さん、裏庭に行ってみません?」
「そうだな。新しく作った池にも、そろそろ水が溜まり切っているだろうな」
「えっ、兄さん、そんなこともご存じなかったのですか? とっくの昔に工事が終わって、水を張り終えてますよ。『水はけ悪いし、いっそのこと池を作れば?』なんておしゃったの、兄さんご自身なのに」
「あー、いやその、なかなか裏庭に出る時間が無くて……。ごめん」
「謝らなくても結構です。あまりにのん気なので呆れただけです」
「ずいぶんないわれようだなあ」
「ほらほら、兄さん見て。ちゃんとお魚だって泳いでるでしょう?」
「ほんとだ。いつの間に?」
「琥珀が業者に頼んで放してもらったものです。そんなに大きな池ではないので、小魚ですけどね」
「東屋まで作っちまったのか」
「兄さんくらい、ご自分の発言の結果に頓着なさらない方は、そうはいませんね」
「あ、あはは、まあそういうなよ。おっ、この東屋、ちゃんとベンチがあるね」
「ここでお茶だって楽しめますよ」
「庭に池があるってのはいいもんだろう?」
「落ち着きますね。私、よく一人で池を眺めてます」
「なんだ。結局、秋葉の方がはまってるじゃないか」
「だって、この池は私の部屋の真正面なんですもの。ボーっと見てるだけで、落ち着きます」
「そうだ。あのさ、今日は山に行けなかったけど、来週はどこかの湖に遊びに行かないか? ボート浮かべてさ」
「なんだか、『ボート転覆で兄妹水死』なんて新聞の見出しが思い浮かびますね」
「相変わらずきついな、秋葉は。まあ、そこが可愛いんだけど」
「なっ――もう、別に本当に嫌なわけじゃないですよ。兄さんが連れて行ってくれるのなら、私が嫌がるわけ、ないでしょう――」
「お前は、二人っきりだと素直なんだなあ。でもさ、そろそろ、屋敷に戻らない? さすがに雨の中だし」
「東屋なら平気ではありませんか。むしろ私は、琥珀にお茶を持ってきてもらいたい気分ですね」
「そうかい。日は長いしな」
「そうですよ。もう少し、こうしていてはいけませんか?」
「いや、もちろん、秋葉がそうしたいなら」

「日が暮れてきたね――夕食の用意できてるかな」
「今日は結局、雨に降られた一日でしたね」
「うん、そうなっちまったな。ごめんな、この埋め合わせはするからさ」
「雨が降ったのは、兄さんのせいではありません。それに、私は十分楽しかったですよ、兄さんと居られて」
「そうかい。それぐらいなら、いつでもお申しつけくださいませ、お嬢様」
「ふふっ。それに、兄さんは私に日常を与えてくれる人ですよ。こうして、ただ雨に降られているだけで、楽しかったなんて、今までの私では考えられませんよ。兄さんは私になにも与えなかったなんておっしゃったけど、本当は毎日を生きて行くのが楽しいって思わせてくれてる人なんですよ。後は、お釣でぬいぐるみでも下されば十分です」
「はあ。なんだろう。かえって責任が重い気がするな。ま、どうせこの先、秋葉と二人で生きて行くんだしな。今日みたいに毎日を無事に過ごせれば、それでいいじゃないか。たとえ雨に降られてもな」
「雨が降っても傘があれば十分だし、きっと楽しい事だって見つかりますしね」
「そういうことさ。それにしても、今日の雨は――」
「止みませんね」
「止まないね」

  <了>

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