再逢瀬

作:10=8 01(と〜や れいいち)

            




「秋葉様。少しは落ち着いたらどうですか?」
 溜息にもにた琥珀の呟きに、秋葉は歩を止めた。
 腕を組み、伏せた瞳の片方を開いて彼女を一瞥する。
「私のどこが落ち着いていないと、琥珀?」
「それはもう多すぎて私には言い切ることが出来ません、秋葉様」
 余裕を持った笑みでしれっと言う琥珀。
 秋葉は何かを言い返そうとするが、結局それは叶わず、途中で言葉を飲み込
んでしまう。
 自分が落ち着いていないのは図星だった。そんなことは言われずとも解って
いる。一つの場所に留まることが出来ず、常に何処かへ足を運び、またそこへ
辿り着いても落ち着くわけでなく、その場で右往左往。傍目から見て落ち着い
ているとは言えない。
「秋葉様……そんなに気になさるのでしたら、駅まで迎えに行ってはいかがで
すか?」
「べ、別にそこまで気を回すことはありません。どうせ向こうについても待つ
のだったら、駅でも屋敷でも何ら変わりはない、そうでしょう?」
「時刻はシエルさんから聞いているのですから、そうでもないですよ。今なら
まだ間に合いま―――」
「結構ですっ!」
 腹の底から叫ぶ。
 心配という図星を指摘されたこともそうだったが、あまり聞きたくない名前
を聞いてしまったことが苛立ちを刺激する。いくら彼女が大事な人の恩人とは
いえ、あまりいい気分はしない。
「……はぁ」
 こんな自分を見たら、兄はどんな顔をするだろう。想像できるが、想像した
くなかった。
 秋葉は吐息を零して、再び瞳を伏せる。
「紅茶をご用意いたしましたから……一息つきましょう、秋葉様。今日は葉っ
ぱにこだわってみたんですよ……」
「そうね、頂くわ」
 琥珀の差し出した紅茶を飲むが、今日ばかりは味を楽しむ余裕も無かった。
 ……こんな状態じゃあ、琥珀に悪いわね。
 味の感想を言えないことに、思わず吐息がまた落ちる。そういえば朝食、昼
食の味もよく解らなかった。別に、毎日味の感想を言っているわけではないが、
それでも申し訳ない気持ちになる。
 琥珀は落ち着かない自分を気遣ってくれているというのに、自分ときたら―――
「ごめんなさいね、琥珀。心配かけさせて」
「いえいえ……仕方が無いですよ。だって、志貴さんが帰ってくるんですから」
「…………そうね」
「秋葉様、ちゃんと志貴さんと逢うんですよ」
 まるで幼子に言い聞かせる母親みたいに、琥珀。
「何よ、その釘の指し方」
「いえ。一応、念のために……」
 彼女の言いたい事は秋葉にも解る。
 確かに自分のために兄が取った選択を思えば、再会を躊躇う気持ちが生まれ
るのも事実だった。
 このまま兄と再会せずどこかに篭ってしまおうか、なんて考えたことは決し
て少なくはない。
 だが、逢いたくないという感情よりも、やはり逢いたいという感情の方が秋
葉には大きかった。一連の落ち着きの無い動作は秋葉自信みっともないと思っ
ているが、それでも逃げようとしなかったのは上出来だと思う。
「でも、だとしたら……琥珀の言うように、駅へ迎えに行けばいいのに……ね
え、琥珀?」
「秋葉様……」
 視線をやると琥珀は何とも言えない表情を浮かべていた。
「安心して、琥珀。大丈夫だから、私は」
 しかし、琥珀の疑いの眼はまだ消えない。むぅ、と唸りながらこちらを覗き
込み、もう一度問う。
「本当ですね?」
「ええ………本当よ」
 半目になって呟く秋葉。その表情は微笑みではない。
 結局のところ自分を悩ませている原因は、やはり兄にあるのだ。古くは幼少
時に遊びに連れ出された時、また最近では有間から遠野へと戻る時、忌まわし
い事件、その結末、そして今この瞬間。その様々な出来事を思い出し、秋葉は
何となくだが納得する。
 自分は遠野志貴のことになると、どうしても余裕が無くなってしまうらしい。
「兄さんのことになると、駄目ね……私は」
「ふふ。秋葉様、子供みたいですね」
 苦笑で返事をする。
 確かに、兄を待つ今の自分は、子供の頃からなんら進歩していないのではな
いかと思う。あの頃も習い事をする端で兄が遊びに誘うのを待ち望んだものだ。
 懐かしさに、思わず秋葉の口元が歪む。
 八年前の自分は、まだ少女だった。頭首としての教育を受けてはいたが、そ
んな自覚などあるはずもなく、ただ兄の背を追うだけの少女にすぎなかった。
いつからだっただろう、そんな少女としての自分から、遠野家頭首としての遠
野秋葉として振舞うようになったのは。
 思えば、兄の前でも大分無理をしていた。本当の自分を彼に出せるようにな
ったのは、彼が帰ってきて随分としてからのことだ。
「………な、何よ、琥珀」
 気付けば、琥珀が声も立てずに笑みを浮かべている。
「いえいえー、秋葉様に見とれていただけですからー」
 余裕が無いとはいえど、少し無防備すぎたかもしれない。
 秋葉は小さく咳払いをすると、彼女の視線から逃れるように踵を返した。外
を回ってきます、とだけ言って部屋を後にする。
 と、その背中に琥珀が一言。
「秋葉様―――志貴さん、もう帰って来きますよ?」
「ええ……解ってるわ。ちょっと、外を歩くだけだから。消えていなくなるわ
けじゃないから安心なさい」
「………ちゃんと、戻って来て下さらないと、嫌ですよ」
 やっぱり琥珀には自分の考えは筒抜けになっている。それは琥珀だからとい
う理由もあったが、それとは別に考えていることが筒抜けになるくらいに、自
分が解りやすい様子であるのかもしれない。
 おそらく後者の方なのだろう、と何となくだけれど秋葉は理解した。
「……はぁ」
 今からこんな調子でどうなるのだろう。
 兄と会いたい気持ちは勿論ある。だからこそ、こうして待っているのだ。だ
が、早く逢いたいのであれば、それこそ琥珀の言うように駅に迎えに行けばい
い。そうしないのは余裕の表れではなく、久方ぶりの再開に緊張しているのだ
ろう。
 もっとはっきり言ってしまえば、それは怯えに近い。
 別離が特別であった為に、兄との再会に二の足を踏んでいる自分がいるのは
確かな事実だった。
 自分の為に命を擲った、兄。そういう意味では、自分は彼の命を奪いかけた
ことになるだろう。だが、兄が自らの命を秋葉に差し出さなかったら、彼女は
反転し、そのまま兄の命すら奪っていたに違いない。
 思い返し、気分が重くなる。
 どんな顔をして、どんな風にして、どんな言葉で兄に向かい合えばいいのだ
ろうか。いざ兄と再開したら、自分はどうするべきなのか。
 それを思うと、兄と逢うことが少しだけ恐くなった。
「―――本当、難儀ね」
 呟きながら屋敷を出た秋葉は、頭上を仰ぎ見る。
 夕の橙を見るにはまだ早い空は蒼い。だが、その清々しさを眸に収めても、
秋葉の気持ちの昂ぶりが収まることは無かった。




 仰いでも青空は見えず、ただただ鬱蒼とした緑が秋葉の頭上を覆っていた。
 屋敷の裏手にある雑木林が敷地内のどれくらいを占めているのか、実際のと
ころよく解っていない。屋敷も広ければ、その裏手にある雑木林も相当の広さ
である、知っているところでその程度だった。
 そんな、知ってるのか知らないのかよく解らない雑木林を、秋葉は歩く。
 木陰と呼ぶには少し薄暗く、少し油断していると木の根の出っ張りに脚を囚
われてしまいそうになる。
 進む歩には広大な雑木林を進むことへの迷いは無く、むしろ目的地を定めた
しっかりとしたものだった。
 草叢を掻き分けた先に、その目的の場所が広がった。そこは一見しただけで
は何の変哲も無い広場。目を凝らしたところで特に変わったところも無い、た
雑木林の中にある開けた場所であった。
 しかし、そこは遠野秋葉にとって大きな意味を持つ場所である。
 一歩一歩の踏み締めが重くなる脚に引き摺られ、遅くなってゆく。此処に来
ようと思ったのは自分なのに、身体がこの場所を拒否しているのだ。
 八年。それだけの歳月を経ても、この場所は変わっていなかった。木の位置
は勿論のこと、草の生え方、長さ、流れる風の雰囲気、薄暗さ。どれもこれも、
八年前の焼き回しみたい。
 きっとそれは、焼きついた記憶による錯覚に過ぎないだろう。
 だけど、秋葉が思い足取りを一歩、また一歩と踏み出す度に、周囲の空気は
段々と八年前の様相を取り戻していった。
 記憶の映し出す錯覚。そう頭では理解していても、耳障りな蝉の鳴き声や蒸
し暑い空気はひどく現実めいた感覚となって秋葉を取り囲む。
 そして、歩が止まる。
 息苦しさすら覚えるほどの記憶の遡りに、ゆっくりと静かに喘ぐ。
 吸い込んだ空気は、生暖かく、湿っていた。そして、それでいて鮮烈な鉄の
味を口腔に満たすものだった。
 伏せた瞳で、秋葉は一つの光景を見る。




 それは一人の少女だった。
 まだ歳が十にも満たないような幼い少女が、広場の隅で一人うずくまってい
た。腰の辺りまで伸びた長い黒髪は、樹冠の薄暗さの下でも艶やかな色合いを
見せており、微かに差し込む日差しを反射する。
 小さな身体をさらに小さくし、小さな肩を小さく震えさせていた。
 風も無い、押し潰すような空気の中で、微かな響きが聞こえる。
 嗚咽だ。
 少女が泣いている。悲しみを堪えるでもなく、ただ為されるがままに涙を目
じりに浮かべ、一つの単語を呟いている。秋葉は彼女が誰で、何故に此処で泣
いていて、そして何と呟いているのか―――知っていた。
 少女は背を向けているにも関わらず。少女の泣き顔を覗いてもいないのに。
 秋葉には、それが幼き頃の自分だと解っていた。
 あの思い出すも忌々しい八年前の惨劇の日。それをきっかけに兄は妹の前か
ら姿を消した。彼女の周りの誰もが、兄と会うことを許してくれなかった。
 だから時折、あの惨劇があったこの場所に来て、少女は兄を探す。此処にい
るはずはないと頭では理解していても、探さずにはいられなかった。
 そして、兄の姿が見えないことに一人泣くのだ。
「……うっ、ひぐ、ううっ、うえぇぇ……」
 そう。
 この少女はあの頃の自分の幻影。
 八年前の自分自身の姿そのもの。
 秋葉という少女は、ここに涙を零しに来るのだ。遠野の頭首となる彼女が泣
くことは許されない。だから、せめて誰にも気付かれないように、この場所で
泣くのだ。
「ぇぐ……ぅぅ、ぇぇぇぇ……ひっ、ぅ、ぅ……」
 だとしたら、やはり自分はあの頃と、この少女となんら変わりない。いくら
遠野の頭首としての教育を受けようと、それに見合った振る舞いをしようとも、
こうして八年を経た今でもあの頃と同じ行動を取っているのだから。
 いないと知りながら。
 いない兄の姿を探す。
 だとしたら、自分は此処に何をしに来たのだろうか。
 ふと、漠然とした思いを秋葉は浮かべる。兄は今日、もうすぐ帰って来る。
それならば、もう此処で泣く必要は無いではないか。
 探さずとも、兄は戻ってくるのだから。
 なら、それならば。
 何故、此処に自分は足を運んだのだろう。
「……ひぁっ、う、ううう……う、にいさん、にいさん……どこにいるの、に
いさん……ひっ、あ、にいさん……」
 嗚咽をもらす少女を、秋葉は静かに見つめる。
 それが一瞬の幻視だと解っていても、視界から振り解くことはできなかった。
泣き声が幻聴だとしても、耳を塞ぐことはできなかった。
 ただ、幼き自分を見て、立ち竦む。
 樹冠から差し込む陽射しが、太陽の傾きによって薄暗い闇に飲み込まれてゆ
く。風が流れ、木々が揺れ、葉の擦りあう音色がこちらを囲むように響き渡る。
 そして、そんな音色に乗せられ、響く一つの声が秋葉の意識に滑り込んだ。


「―――泣いてるの?」


 ハッとして俯きかけた顔を上げると、先程まで泣いていた少女がこちらを見
上げるように覗いていた。
「え? 泣いて……」
「なんで泣いてるの?」
 言われ、ようやく頬に湿った感触を覚える。
 弾かれたように眸に指をやると、果たして涙は流れていた。零れる滴は拭っ
た目元を再び濡らす。
 涙が、止まらなかった。
「ねえ、なんで……泣いているの?」
 また、同じ問い。
 そこでようやく秋葉は理解する。
 やはり、自分は眼前の少女と同じように、此処に泣きに来たのだ、と。
 だけど、眼前の少女とは異なった理由で、自分は此処で涙を流すのだ、と。
「……恐いの、恐いから泣いていたの」
「恐いの? おばけ?」
 ああ、それは言い得て妙だ。
 確かに、死んだと思っていた人物と再開することは、幽霊に出くわすような
ものかもしれない。それに捉え所が無い兄の姿を思い浮かべ、秋葉は苦笑を零
した。
「……確かに、お化けみたいなものかしらね」
「………?」
 秋葉の言うことが理解できず、小首を傾げる幻影の少女。
 身を屈め、彼女と目線を合わせると、秋葉は言い聞かせるように呟いた。
「あのね、私………兄さんと逢うことが恐かった。でも、もっと恐かったこと
があったの。兄さんを失ってしまったかもしれないと思った―――あの時……」
 声は震えを帯びたもので、今にも崩れてしまいそう。
 それでも、秋葉はそれを喉の奥から搾り出す。
「失いたくなかった。だから、必死にそれを守ろうとした。私には、何よりも
兄さんを失うことが一番、一番恐かったから」
 堰を切ったように溢れ出る言葉は止まらなかった。止めるつもりもなかった。
「―――――っ」
 あの人に初めて出会ったとき、私はまだ物心が付いたばかりの少女だった。
 本物の兄以上に、本物の兄らしかったあの人を私は愛していた。
 あの頃、感じていたぬくもりを失いたくなかった。あの人が与えてくれたも
のを失いたくなかった。
 半ば、追い出されるように家を出て行ってしまったあの人を、私は八年ぶり
に呼び戻して。ようやく、元の兄と妹の関係に戻ることができた。そして、そ
れ以上の関係を気付くことが出来た。
 出来すぎな話だった。
「兄さんは、私の為を想ってくれたけど……私はっ、ただ……ただっ、そこに
いてくれるだけでよかった! それだけだったのに、兄さんは、私を好きにな
ってしまって、真実を知ってしまって!」
 命を還して。
「―――そんなこと、本当は望んでもいなかったのに。一緒にいれるだけでよ
かったのに!!」
 悔しかった。
 ただの幻だと解っていながら、こんなことを言っている自分が。
 本当に言いたい相手に言えないことが。
 一緒にいれるだけでいい、と言っておきながら、それ以上の幸せを得ること
が出来て、安寧していたことが。
 でも、その幸せがあたたかくて、あの頃よりもずっとずっとあたたかくて、
もっともっと失いたくないという気持ちが強くなってしまって―――
「……嬉しかった。兄さんが私を愛してくれて、望んでいた以上のものを手に
入れることが出来て、兄さんが生きててくれて、帰ってきてくれて……だから、
だから……」
 もう、ここで泣くのは最後にしたい。
 もう二度と、大切なものを失いたくない。
 だから、ここに来た。
「だから泣きに来たの。悲しいからじゃなくて、嬉しいから、悲しいのはこれ
っきりにしたいから泣きに来たの……それだけ、本当にそれだけなのよ」
 その言葉に、秋葉の見る幻の少女は腑に落ちない眸で問うた。
「嬉しいのに、泣くの?」
「ええ、そうよ。嬉しいと涙が出てくるの……」
 そっと、少女の手を取って、秋葉はその涙を溜め込んだ眸を見据える。
 過去の自分を。大切なものを失いかけてしまった自分を。
「貴女にも、いつかそれが解るときが来る。大切な人が帰ってきて、大切な人
が貴女を好きと言ってくれて、大切な人が貴女と結ばれて―――それは、すぐ
じゃないけど、きっと、すごくすごく長い時間、あの人を待ち望むかもしれな
いけれど―――それでも、それでも……」
 きっと、貴女は逢えるから。
 大切なお兄さんに逢えるから。


「だから、頑張れ―――秋葉」


 微笑みを浮かべながらそう告げると、少女の背中を優しく一押しする。
 その少女は、過去の自分という幻にも関わらず、不思議と手に柔らかい感触
を残した。
 霧散するように消えてゆくそれを最後まで見送り、秋葉は一つ息を零す。
 この場所を訪れることはもう無いだろう。少なくとも涙を流しにやって来る
ことは決して無い。それだけは断言できる。
 あの、少女の自分も、出来ることならばもう二度と此処を訪れないでほしい。
幻を相手に秋葉はそんなことを思う。
 そして、こういう自分はらしくないなと、また思う。
 そろそろ自分も屋敷に戻らないと。
 きっと兄は自分が屋敷にいないと知ったら心配するだろう。いや、しないの
かもしれない、あの人のことだから自分が待ってくれていると信じているに違
いない―――こちらの方が考えられそうなことだった。
 だとすれば、なおのこと早く戻らなければ。
 秋葉は慌てて踵を返す―――が。
「―――――」
 そこで秋葉は思いとどまり、歩を緩める。
 焦ることは無いのかもしれない。今まで、散々自分が兄を待ち続けたのだか
ら。
「兄さんにも、待つ者の辛さを味わってもらってもいいかもしれませんね」
 二度と振り向くことなく、秋葉はゆっくりと来た道を戻ってゆく。駅につく
時間などを考えても、のんびり帰れば兄が待っている頃合だろう。
 陽光は傾き夕日へ転じ、やがてそれも薄暗い夕闇に変わる。

 誰もいなくなった広場には、風の音も無く、泣き声も無く、ひっそりと宵の
翳りに飲み込まれていった。


  了







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