接触拒絶

作:しにを

            



 とにかく暇だった。
 特に何かするでもなく午後の時間は過ぎ、陽が落ちかけ室内にいるとやや暗
く感じる頃合になっていた。
 部屋でごろごろしているのにも飽き、屋敷の中をぶらぶらと歩いてみる。下
に誰かいたら話し相手にでもなってもらおうと思っていたのだが、あいにく誰
の気配もない。

「今時分だと琥珀さんが夕食の支度しててもよさそうなもんだけどなあ」

 琥珀さんはゆっくりと暇人の相手なんか出来ないだろうけど、代わりに野菜
の皮剥きとか莢エンドウの筋取りとかお手伝いするとかできたのに、と残念に
思った。
 今から外に出掛けるのもあまりに中途半端な時間だし。

 宿題でもするかな。
 夜にでもやればいいやと思っていたが、これほど暇ならいい時間潰しになる
かもしれない。
 普段なら考えもしないような選択が頭に浮かんだ。
 じゃあ、部屋に戻るか。

 階段を上がり、部屋のある方の廊下へ行きかけて立ち止まる。
 廊下の進行方向正面に脚立が立てられている。
 そしてその上に翡翠の姿。
 見ると背伸びして手を伸ばし天井に何かしている。
 ?

 ああ、そう言えば明りが少し切れかかって点滅していたっけ。
 まだいいやと、特に気にしていなかったが、翡翠には看過出来ない事だった
のだろう。
 だが、高い天井相手で苦労しているようだった。細長い蛍光燈を片手に何度
も取り付け作業を繰り返している。
 一生懸命なその姿に感心すると共に、妙な微笑ましさを感じる。
 だいたいこの屋敷は天井が高すぎるんだよな。
 手伝ってやろうかな。
 いきなり声を掛けると驚かせてしまうから、脚立を回り込んで翡翠の正面側
に出てからそっと翡翠に声を掛けた。

「翡翠、大変だろ、代わるよ……」

 だが、仕事に没頭していた翡翠にとっては俺の声は唐突のようだった。

「え?」

 驚き顔で下を向き、その拍子に不安定な足場で均衡を保っていた体がぐらり
と傾く。

「危ない」

 落ちかけた処をとっさに手で支え、少し動きを殺してから翡翠を腕の中に抱
き留める。
 小さな軽いからだがぽすんと収まる。
 そして足でぐらつく脚立を止める。

「ああ、よかった。ごめん、翡翠。びっくりさせちゃって……」

 腕の中で数秒翡翠は凍りついていたが、ぱっと飛び退く。
「翡翠……?」 

 翡翠は怯えた顔で、さっきからずっと握り締めていた蛍光灯を何の予備動作
もなく持ちあげ、そのまま横に振った。
 あまりにも思いがけぬ動きに反応が遅れ、避ける事も受ける事も出来ないで……。
 横殴りした蛍光灯が頭に当って破裂して、俺は倒れ伏した。 



              ◇   ◇   ◇



「何とか言ったらどうなの。兄さんにもしもの事があったら……」

 部屋の外からも秋葉の叫び声が聞こえた。
 怒りでびりびりするような声。
 慌てて扉を開けた。
 見た事のないような険しい顔をして、怒髪天を衝くといった雰囲気の秋葉。
 それを涙を湛えながらも下を向く事無く真正面から目を合わせ、黙って叱責
を受け止めている翡翠。
 その二人の姿が目に入る。

「秋葉、それくらいでいいよ。翡翠だって悪気があった訳じゃないんだし」
「悪気があろうとなかろうと、主人の頭を蛍光燈で殴り付ける使用人をほうっ
ておける訳ないでしょう。下手すれば目が潰れたり、大きな傷になったりして
いたかもしれないんですよ」
「志貴さま。秋葉さまを止めないで下さい……。私が悪いのですから」

 俺は二人の言葉を制するように両手を開いて前に突き出した。
 とりあえず二人とも頭に包帯をした怪我人に従い口を閉じる。

「幸い何とも無かったんだから。それに秋葉、翡翠もよくわかっているよ」

 翡翠が俯く事無く正面から秋葉の叱責を受けているのもその現れだった。
 痛々しいまでに悔恨の表情を浮かべている。
 秋葉は不満そうにしながらも、口を閉じる。


 あの時、翡翠の一撃を受け昏倒したものの、物理的に大ダメージを負った訳
でもなく、俺はすぐに起き上がった。
 だが、普段の翡翠からは考えられない悲鳴と姉を半狂乱になりながら呼ぶ声
に、琥珀さんばかりか秋葉も駆け寄って来て大騒動となった。
 側頭部から血を流した俺と、砕けた蛍光灯の片割れを握ったまま、ぼろぼろ
と涙をこぼしている翡翠という光景に、秋葉も琥珀さんも共に冷静に状況を判
断する事は出来なかった。
 何とか説明を受けると、比較的まともな判断能力が残っていた琥珀さんがそ
の場を仕切ってくれた。片づけを命じられた翡翠を残して取りあえず下に降り
て、ガラスの破片を水で流してから傷の治療、そんな指示でやっと混乱の場が
収拾に向った。

  こめかみの辺りがざっくりと切れたのと、ガラスの破片による幾つもの細か
い裂傷、それぐらいで見た目のインパクトほどの重傷はなかった。
 ほっとしたように琥珀さんは包帯を巻きながら、俺とさっきの出来事につい
て言葉を交わした。

「そうですか。志貴さんの体に触れて……、ごめんなさい、志貴さん。でも翡
翠ちゃんは……」
「ああ、分かってるよ。それより、あんまり秋葉と翡翠を二人にしておきたく
ないから、早く居間に行ってみるよ」
「はい、もういいですよ」
「ありがとう、琥珀さん」

 それで二人の処へ向かうと、思ったと通り秋葉が翡翠を責める声が聞こえて
来たのだった。
 

「すみません、すみません、志貴さま。ごめんなさい……」
 俺の顔を見て、翡翠の瞳からまたぼろぼろと涙が頬を伝う。
「いいって。仕方なかったんだから」
 翡翠をなだめながら顔を横に向けて秋葉の方を見た。

「秋葉も知っているだろう。翡翠は男性に触れられるのを極度に嫌がるのを。
 事故とはいっても俺が腕の中に抱きしめる様な真似をしたんだから、反射的
に頬っぺたを叩かれるくらいは仕方ないだろう。たまたま手に持ってたものが
まずかったけど」

 それに男性恐怖症になったのも遠野の家が……、そこまでは口に出さなかっ
たが、秋葉は感じ取ったようだった。

「……兄さんがそうおっしゃるのなら」
「うん。怪我ったって大した事はないから。秋葉も翡翠もそんなに深刻になっ
たりしないでくれ。怪我人に気を遣わせてる様じゃ駄目だぞ……」

 冗談めかして言葉をまとめたが、秋葉も翡翠も真顔で頷くだけだった。

「夕食はパスして部屋で寝てくるよ。ちょっとだけ疲れたから」

 翡翠が黙って俺の後に付き従う。



              ◇   ◇   ◇



 俺がベッドに横になると、そっと翡翠は毛布をかけてくれた。
「あ、ありがとう」
 じっとこちらを見つめたまま翡翠は動かない。
「ごめんなさい……」
 何度目になるか分からない謝罪の言葉。
 やっと落ち着いてきたようだが、まだ痛々しいほど消沈している。
 一眠りしようかと思っていたのだが、こんな状態の翡翠をそのまま放ってお
く事はできなかった。
 何か話でもして落ち着かせようか。
 
「でも、大変だなあ」
「……」
「翡翠だって、いつか好きな男性ぐらいできるだろう?」

 まあ、いちじるしく出会いの機会に乏しい環境だけれども。

「…………はい」

 微妙な間。唐突な俺の言葉に戸惑ったのか、別の理由か。

「その時、好きな人の手も握れないんじゃ困るよね。それにその後も……」

 何かまずい方向に話が行きそうだと思った。何とはなく琥珀さんの「駄目で
すよう」というポーズと声が脳裏に浮かぶ。翡翠も少し動きが固まっている。

「ええと。あ、でも不特定の男じゃ駄目だけど、好きな人に触れられるのなら、
大丈夫かもしれないね」
「そんな事は無いです」

 ほぼ即答。
 おまけに微塵も迷いが無い。

「そう? やっぱり特別な人だったら翡翠の反応も違うと思うよ」

 翡翠は心外な事を言われているといった顔をして黙ってしまう。

「……?」

 随分とはっきりとした……。
 なんでそう確信出来るんだろう。

「せめて普段顔を合わせている俺とだけでも慣れてくれると、そのうち大丈夫
になるかもしれないね。というか慣れて欲しいなあ」
「はい……」

 ちょっとはにかんだような僅かな微笑み。

 可愛い。
 もったいないなあ、こんな表情も出来るのに。
 無意識のうちに手が伸びて翡翠の頭に触れていた。
 猫でも可愛がるように軽くぽんぽんと叩いて撫でてやる。
 ……って、何とんでもない事やってるんだ、俺は。

「あ、翡翠、ごめん」

 すぐさま身を離されるかまた叩かれるかと思ったが、翡翠はじっとしている。
 また、固まっちゃったかな。
 でも、ちょっと様子が違う。
 翡翠は何か不思議なものを見ているかのように、俺の顔を見つめている。
 手を引っ込めようとすると口を開く。

「志貴さま、もう少し今のをしていただけないでしょうか?」
「え、ああ、いいけど。大丈夫なの」
 コクリと頷く。

 少し浮かせた手をまた翡翠の頭に乗せる。
 恐る恐るなでなでしてみる。

「大丈夫なんだ……」
「なんだか懐かしいです」
 呟くようにぽつりと翡翠が言う。

「ずっとずっと前に誰かに、こうしてもらった事があるような気がします。大
きな暖かい手で……」

 翡翠の目から涙の雫がつっと流れ落ちた。

「あれ、わたし、どうしたんだろう」
 頭から手を離してその雫を指先で拭う。
 その俺の手を、翡翠の両手がそっと包むように触れた。
 柔らかい小さい手の感触。

「志貴さまの手……」

 な、何だか凄くドキドキする。
 ほんの二、三秒の事だったろう。
 翡翠もはっとしたように、手を引っ込めて慌てて離れてしまう。
 幾分、怯えが見える。

「申し訳ございません」
「いや、いいよ」

 それを機会に、翡翠は一礼して「おやすみなさい」との声を残して退室した。
 俺は、ドキドキしたまま毛布を被った。



              ◇   ◇   ◇



「それはわたし達のお父さんかもしれませんね」

 翌日早朝、早く寝たので早起きしすぎた俺は、下に降りて既に朝食の支度を
始めていた琥珀さんと言葉を交わした。
 何とはなく昨日の翡翠の事をぽつりぽつりと話してみる。
 琥珀さんは小首を傾げて俺の言葉を聞いてちょっと考えてから答えた。

「わたしも翡翠ちゃんも、ほとんど記憶に残っていないんですけどね」

 そうか、二人のお父さんか。
 そう錯覚したのであれば、俺の手を嫌がらなかったのが分かるなあ。

「あの、志貴さん」
「はい、何でしょう」
「その、わたしにも翡翠ちゃんと同じ事してくれませんか……?」

 琥珀さんが少し恥ずかしそうに言う。

「うん、いいけど」

 なんだ、俺も声が少し上ずっている。
 何という事もない筈なのに……。

 変に恥ずかしがっていても仕方ないので、むしろ無造作に手を伸ばす。
 琥珀さんの髪に触れ、そっとぽんぽんとして、なるべく優しく撫ぜてやる。

「……」

 琥珀さんは目をつぶって何かを想いだそうとしている。

「どう……?」
「あ、もういいですよ。変なお願いしてすみませんでした。ええと、残念です
けどわたしには昔の感触は無いみたいですね」
「そうか」

 手を離そうとすると、琥珀さんが両の手で包んでしまう。
 昨日の翡翠みたいだな。

「志貴さんの手……」

 呟くように言う琥珀さん。
 なんで手を握られているだけでこんなにドキドキするのだろう。翡翠だけで
なく琥珀さんにも。なんか節操無しだな、俺は。

「でも、優しい感触ですね、志貴さんの手は」

 顔が紅くなってるのが自分でも分かる。

「っと、ごめんなさい。私……、ええと」
 戸惑ったように琥珀さんが言い、俺も何かむにゃむにゃと答えて何とはなく
逃げるように俺はその場を離れた。



              ◇   ◇   ◇



 その日の夕方、お茶でも飲みたいなあと思って部屋から出ると、廊下の中央
に脚立が、そしてその上で作業している翡翠が……。
 そうか、昨日は結局作業中断だったし、明りを点けようとして翡翠も思い出
したんだろう。
 ああ、また苦労している。
 手助けしたいんだけど、どうしたものかな。
 また昨日の二の舞になるのも何だし。

 でも、ああ、もどかしい。
 お、上手く嵌め込んだ。よし。
 外した方の蛍光灯を拾おうと身を屈め……、
 って、危ない。
 屈もうとする動きで体が不安定に揺らぎ、反り返る様に重心を移して逆に後
ろに倒れそうになっている。
 後ろ手に支えを探すが何も無い。

  落ちる!

 気がついたら翡翠めがけて走っていた。
 数メートルの距離が一息で詰まる。
 翡翠の体が背中から落ちる。
 走りながらも、妙に冷静にその姿と自分自身の動きとを測っている。
 駄目だ、このままだと僅かに足らない。
 最後は大きく跳ねて翡翠の体を抱くようにして受け止めた。
 強引に体を捻って俺が下敷きになるようにして、精一杯の受け身を取りつつ
床に叩きつけられる。

 ぐっ……。
 一瞬息が止まり、胸の空気を全部吐き出してうめく。

 それでも片手でしっかり抱きかかえた翡翠の体は護りきれた。
 小柄な柔らかい体が俺の上に乗っている。
 胸あたりに翡翠の頭が押し当てられている。
 ぽんぽんと背中を軽く叩いて翡翠に呼びかける。

「だ、大丈夫か、翡翠?」
「志貴さま……」

 翡翠が顔を上げ、至近距離で目と目が合う。

 や、まだ状況がつかめていないかな。

 ぼうっと俺を見る目が急に見開かれ、慌てた様子で上半身を起こしてしまう。
 って、何でまた蛍光灯なんて持ってるんだ。
 昨夜の事がフラッシュバックするが、翡翠はそれを……、そっと下に置いた。
 思わず安堵の溜息が洩れる。

「また、殴られるかと思った」
「志貴さまなら平気です。もう……」

 あ、翡翠の顔が真赤になった。

「それより、志貴さま、ありがとうございます。昨日に続いてまた助けて頂い
て……」
「いいよ。でもあんなに無理しちゃ駄目だぞ。ああいう時くらい、俺を呼んで
くれ」
「はい」

 何か良い雰囲気。 

 と、突然二人の世界をぶち壊しにする闖入者の声。

「あーーー、翡翠ちゃん、志貴さんにイタズラしているーーー!!!」

 ちょっと待てい。
 顔を横に向けるとどう見ても嘘動揺な顔をした琥珀さんが立っている。 

「何を言い出すんです」

 と、今の翡翠と俺……。
 廊下で仰向けに寝っ転がっている遠野志貴……。
 そのお腹というか腰というか、の辺りに馬乗りになった姿勢の翡翠……。
 何か二人して顔を赤らめて見詰め合っている……。

 見ようによっては何やら危なげな姿にも思えなくも無い。
 慌てて翡翠は立ち上がり、俺も身を起こした。 

「二人してこんな、何をなさっているんです」
「まだ言うか。見ての通り何もしてませんよ」
「姉さん……」

 俺と翡翠とで非難の目を琥珀さんに向ける。

「だって、本当にびっくりしたんですよう。わたし……」

 だから、目が笑ってますってば。

  ん……?
 何だ、この音は。階下……?
 何か遠くから近づいてくる……、足音……。
 あ、紅の髪の死神の姿が目に浮かんだ。
 まずい。まずいぞ。
 別になんのやましい事も無いのに、本能が逃げろと叫んでいる。

 「翡翠、秋葉だ。逃げるぞ」

 え? と戸惑う翡翠の手を取る。
 引っ張るようにして走り出す。

「琥珀さん、少しでも悪いと思っているなら、秋葉を言いくるめて下さい、い
いですね」

 走りながら、思わず翡翠の手を取ってしまったけど、まずかったかなあと気
がつく。
 咄嗟だったから……。
 横目でちらと翡翠を見ると、目が合う。
 少しだけ微笑んだ気がした。
 そして本当に僅かだけ、ほんの少しだけ、繋いでいた翡翠の手がぎゅっと強
く握りかえしたのを感じた。
 そして俺もお返しのように握る手をちょっとだけ強めた……。

  そうしてちょっと幸せテイストの二人の逃避行は続いた。
 何処をどう来たのか、いつのまにか先回りしていた秋葉の姿を目にして終わ
りを遂げるまで。

  

 FIN

 

 

 

後書き―――

 向かないの分かっててもたまにこういうの書きたくなるんです。ええ。
 プロットだけはちょっと前、そう裏シエル祭用のシエル先輩SSに苦しんで
いた時に作ってたんですが……、よく考えると嫌なタイミングで思いついてい
るなあ。
 何か自分の中で翡翠は聖域扱いなんで、あまり酷い目には会わせていないし、
恐らくは今後も……。

 とりあえずHP開設後、初めて載っけられた完成品SSになります。 

    by しにを(01/10/18)


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