試験期間を迎えて

作:しにを

            




 カリカリカリ………………、カリ。
 カリ……、カリ…………ゴシゴシ、ぐしゃあ、のばしのばし。
 カリ、カチカチ、カリ……。

 無言の部屋にただ、シャーペンが走る音だけが起こる。
 軽快さには乏しいものの、問題集の解答欄は取りあえず埋められていく。
 あと一問。
 えーと関係代名詞がこう掛かるから、動詞を過去形にすると意味が……。
 変化させるんだよなあ、これ。
 それとも引っ掛けで、素直にそのままでいいのだったかな。
 何度も似たので引っ掛かっているから、却ってわからなくなっている。
 ああ、もう……。 
 前の小テストの時には秋葉のやつ、嫌味を言うの通り越して心配そうな顔していたん
だよなあ。真剣な顔して手直ししたりして。
 こういう部分で兄の地位の失墜と言うものが……。
 まあ、数学ならまだこちらにアドバンテージがあるけど。
 でも秋葉のやつ敗北を認めたがらないから。                        
 次の時にはきちんとモノにしている辺りは、我が妹ながら感心、感心……。 

 ……って脱線してるよ。
 あれほど教えて差し上げたのにって言われないようにしないと。
 確か……、ああそうだ。
 そのままで合っているんだったな、うん、現在形で。
 よしよし。
 取りあえず終わりっと。 
「あーあ」
 伸びをすると、声が自然に洩れた。
 少し肩がこっている。
「あ、終わったの?」
 弾んだ声。
 うーんと首を回しつつ、体を声の方に向ける。               
 ベッドの上にはアルクェイド。
 今まで俯けに寝転がっていたのだろう。
 四つん這いで起き上がりかけといった格好でこちらを見ている。
 声に負けぬくらい期待に満ちた顔。
 にこにこと笑って嬉しそうな。
 もしもこいつが犬だったら、ぱたぱたと千切れんばかりに尻尾を振っていそう。
「まあ、とりあえず英語は」
「じゃあ、もういいの?」
「あともう一つ」
 みるみるしょぼんとするアルクェイド。
「明日が今回のテストの最大の激戦区なんだよ。
 それ終われば、後は一日残すのみだし」
「あと二日もあるの?」                                             
 暗雲とした顔になるアルクェイド。
 まるで俺じゃなくて自分が試験を受けるみたいだ。
 ぺたんとまたベッドに伸びてしまった。
「休憩するから、ちょっと話するくらいならいいぞ」
「本当?」
 また、ぱあっと顔を輝かせて、ぴょんと起き上がるアルクェイド。
 そういうところ、子供っぽいと言うか、可愛いと言うか。 
「ああ、どこか遊びに行こうってのはお断りだけど」
「いくら何でもそんな事、言わないよ」
「そうか? 前は違ったろう」
 ちょっと前迄のアルクェイドなら、こちらが押し潰されそうになりつつ宿題をやって
いようが、試験前夜であろうが能天気に「遊ぼうよ、志貴」を連発していたものだが。
 そんな事を思いながら、アルクェイドの顔を見た。
 俺の考えている事がわかったのだろう、アルクェイドはちょっとふくれ顔になる。               
「志貴の大事なテストなんでしょう?
 それならわたし、勉強の邪魔なんかしないよ」
「よくわかっているな」
「うん。本当はね、そんな事いいからって言いたいけど、志貴に嫌われちゃうし。
 それにもしテストの結果が悪かったら、もっと遊べなくなっちゃうんでしょう?
 だったらちょっとの間くらい我慢する」
「そうか。アルクェイドからそんな真っ当な言葉が出るとは驚くな」
「酷い、志貴」
「冗談だって。
 でも、これ以上、成績下げる訳にはいかないんだ」
 冗談口調でなくなった俺に、アルクェイドはうんと頷く。
「いろいろあってしばらく不調だったから、その分は取り戻さないと。
 遠野の家に戻ったから成績が下がった、なんて事になったらまずい。
 アルクェイドとの事もあるしな」
「わたしと付き合っているから成績下がったって、妹に責められるの?」
「そうだな。しばらく外出禁止で厳重に家庭教師とか付けられるかもしれない。
 そもそも元の成績だって決して秋葉は満足していなかったから。                 
 なんで妹にあれこれ世話焼かれないといけないのか疑問だけど、遠野家の当主として
と言われると反論できない」
 ふうん、とアルクェイドは頷く。
「とりあえず努力の結果を見せれば、秋葉も口うるさく文句は無いだろう。
 アルクェイドとの事をとやかく言われたくないしな、頑張らないと」
 ちょっと嬉しそうな顔をするアルクェイド。
「じゃあ志貴って、わたしの為に頑張ってくれているの?」
「……理由の一つ」
「あ、照れてる」
「照れてない」
 ふふふ、とアルクェイドが笑って、それから少し考えるような顔。
「でも志貴、妹の事をうるさいとか言うけど、妹の為にも勉強しているんだよね」
「うん?」                                      
「妹に心配させないようにしているんでしょう?」
「……」
「本当に嫌ならそんなに頑張らないと思うよ。妹の事放っておくよね?」
「うーん、そうだな」
 アルクェイドにしては鋭い意見。
 もしかして琥珀さん辺りの言葉なのだろうか。 
 ――遠野の家に戻ってから、遠野志貴の成績が下がった。
 実はこの事実によってダメージを受けるのは、秋葉だったりする。
 今となっては、ここでの生活が俺にとっての当り前になっていて、選択が可能だとし
ても有間の家に戻るという事は無いとは思う。
 でも、秋葉はそうは考えていない。
 俺の意志や都合に関係なく、遠野の家に引き取られ、追い出され、また戻された。
 そんな俺の流転の人生に何らかの負い目を感じているらしい。
 少なくとも有間の家から連れ戻したのは、秋葉の意志に他ならなかったから。
 だから、口では兄である俺が遠野の家にいるのは当り前であり、遠野の家に相応しい
振る舞いをしろとやたらと口うるさいが、その反面で怖れてもいるようだ。                
 俺が遠野の家にいる事に不満を感じる事を、此処にいる事で不都合がある事を。
 だから、環境の変化で成績が下がったりしたら秋葉は、俺が考えている以上に気に病
みもするし、自分のせいだと思ったりもするのだろう。
 実際には秋葉のせいだなんて事は無いのだけど、本人がそう思う事を打ち消す事は出
来ない。
 それならば俺は俺が出来る事で、兄として妹を安心させてやらなければならない。
 帰って早々から、秋葉には心配を掛け通しているのだから……。
「志貴」
「ん?」
 気がつくとアルクェイドがむぅという可愛いむくれ顔をしていた。
「自分の世界に入らないでよ。
 妹の事になると時々そうなるんだから……」
「悪い。でも話振ったのはおまえだろう」
「それは、そうだけど」
「あ、でも時々逆もあるな。                               
 秋葉にアルクェイドの事で文句つけられたりしている時に、おまえの事を考えて秋葉
の言葉が耳に入らなくて、もっと怒らせたりする事もある」
「そうなの?」
「ああ」
 ふうん、と変に感心してアルクェイドは何故か機嫌を直した。
「今やってたのって英語だったよね」
「ああ」
「ちょっと見せて」
「いいけど……」
 わかるのかと言いかけてふと思い直す。
「アルクェイドって日本語以外も使えるよな」
「うん」
「他には何語話せるんだ?」
「そうね、ヨーロッパのは大方。ドイツ語もフランス語もハンガリー語とか、もちろん
英語も話せるよ。他にもいっぱい。                                  
 私の日本語ってどうかな、変じゃない?」
「いや、流暢に話していると思う。内容はともかく」
「何よ、それ。じゃね、今言ったような言葉もね、同じくらいのレベルで全部話せるよ。
 その地方の細かい風習とか、流行物とかは別に知識を吸収しないといけないけど、別
に日常会話で困らない位には対応出来るみたいね。
 読み書きもラテン語から始まっていろいろ頭の中にはある筈。
 使おうと思えば引っ張り出せると思うけど」
「そうか、たいしたものだな。感心した」
「自動的に習得できるものだから、そんなに驚くほどの事じゃないよ」
 平然と言うが、こちらにしたら羨ましい限り。
 なら見て貰うかと、机の問題集を手渡す。
 ちょっと首を捻りながらも、小声で何か呟きつつぺらぺらとページを捲るアルクェイ
ドの姿を黙って見守る。
 う、時々顔を顰める辺りがどうも……。
「志貴……」
 顔を上げた時、アルクェイドは絶望的といった表情を浮かべていた。          
 まずい。
 そんなに出来ていないのか。
 自分ではけっこう快調だった気がしていたのに。
「点数、酷いのか……、そんなに」
「うん」
「そうか」
「言い難いけど……」
「いいよ。そうだな、短期集中でやったってダメだよな。
 で、どれくらいだった。
 自分で自分がどれだけ出来なかったのかわからないなんて、恥かしいな」
 はぁと溜息。
 アルクェイドもフォロー不可という顔でこっちを見ている。
 可哀想な奴を見ている目。
「ええとね、書く物貸してくれる?」
 黙って今まで使っていたシャーペンを手渡す。                      
 沈痛な面持ちのままアルクェイドはそれを手に取り、次々と俺の間違いに対して×を 
付けてい……かない?
 ちょんちょんと幾つかチェックしているだけ。
 え? 
「ええと、点数配分がこれとこれだから……、二百点満点で、百…八十点かな」
「おい」
「ん? 何?」
「めちゃくちゃ高得点じゃないか」
 問題の形式とか難易度はともかく、単純に学校のテストにすれば九十点だ。
 それだけ取れれば何の文句も無い。
 しかし、アルクェイドは不可解という顔でこちらを見ている。
「だって、志貴は問題の解答、こんなに間違えているよ。一つ二つでなくて」
「それは……そうだけど」
「テストって満点じゃないと意味ないんじゃないの?
 それ以外は要は失敗なんだから」                               
「……」
 真顔でそう言われると反論がしにくい。
 確かに正論かもしれないが……、それだと生まれてからほとんど失格という事に。
「あー、つまりだな、学校のテストというのは理解度とかを見るものだから、もちろん
満点であるにこした事は無いけど、出来るだけそれに近ければ……」
「……」
 納得がいかないご様子。
「合格のラインが全問正解でなくて、それより低い点数に設定してあるんだ。
 後はそれよりどれだけ上回るかという部分で評価。
 百点満点で、六十点が赤点…最低合格ラインだから、そう考えると今のはけっこう良
い点数になる」
「ほとんど半分間違えても合格なの?」
「まあ……」
「ふうん」                                                  
 納得はいかないが、理解はしたという顔に変わっている。
「じゃあ、良く出来たね、志貴。偉い」
 全然嬉しくない。
 と言うか頭撫でるな。
 でもにこにこと笑い顔になっているこいつに逆らえない。
「ちなみにどの辺が間違っていた?」
「ええとね、ここ」
「長文の読み違えと、ああ、けっこう発音・アクセントがダメか」
「そうみたいね。……そうだ」
 ひょいとまた問題集を手に取ると、アルクェイドはちらと目を走らせてから俺の方を
真っ直ぐに見た。
 うん? と思っているとアルクェイドの口から、英単語がこぼれ出た。
 あ、今の問題か。
 ああ、なるほど。
 これは後ろにアクセント。                                  
 こっちは……、Hの発音が、ああ。
 しかし、流暢だな。
 これはさすがの俺にも滑らかな発音だとわかる。
 綺麗な声で問題集片手に英語を話している姿は、妙に似合うな。
「わかった、志貴?」
「ああ、やっぱりペラペラだな」
「そう?」
「うん。日本語より似合っている」
「それ、誉められているの?」
「どうだろう。まあ、おかげで助かった。間違いは早めに頭の中で修正した方がいいか
らな」
 同じ問題が出る確率は低いだろうけど。
 その言葉は、アルクェイドの嬉しそうな顔を見て、言わずに呑み込んだ。
「さてと、一休み終わり。
 また勉強再開」
「うん」                          
 ごねる事無く、アルクェイドはまたぽんとベッドに飛び乗った。
 さっきまでもそうやっていのだろうか。
 肘を立てて手に顔を乗っけるようにしてこちらを見ている。
「どうしたの? わたしは気にしないでよ」
「ああ。しかしそうしていて楽しいのか、おまえは?」
「うん」
「そうかなあ」
「それとも邪魔?
 前みたいに勉強中は話し掛けてないし、志貴の気に障るような事はしていないつもり
だけど……」
 上目遣いでアルクェイドはこっちを見ている。
「いや、気になると言えば気になるけど、アルクェイドは確かに全然うるさくはしてい
ない。それは認める」
「そう、よかった」
「でもさ、黙って俺が勉強している姿を後ろから眺めてても仕様が無いだろう?         
 それだったら下で、秋葉はともかく琥珀さんとでも話しているとかさ……」
「ううん、わたし別に退屈じゃないよ」
 違うな、退屈なのかな。でも早く志貴がこっち見てくれないかなあって待っているの
は決して嫌じゃないな。
自分の部屋で待っているよりずっといいよ。
 だって、目の前に志貴がいるんだもの」
 そんな事を嬉しそうに語るアルクェイド。
 頬が自然と熱を持ってくる。 
「でも、志貴が気にして勉強に影響があるなら、出て行くよ。
 今だって無理言ってこの部屋にいさせて貰っているんだから」
「いいよ。いるくらいなら構わない。おとなしくしているなら」
「なら、ここにいるね」
「試験ももう少しで終わるから、そしたらどっか遊びに行こうな」
「うん」
 そして背を向けようとしたら、アルクェイドが声を掛けた。   
「ねえ、志貴、ひとつだけ訊いてもいい?」
「ああ」
「志貴は、今の生活を保つ為に学校行って勉強しているんだよね」
「まあな。留年はごめんだし」
「妹たちを心配させないで、そしてわたしとも一緒にいられるように頑張っているって
言ったよね」
「うん、そうだ」
「じゃあね……」
 身を乗り出して言葉を口にして、そしてちょっと口ごもる。
 どうしようかなという顔。
「なんだよ、途中で」
「もしもね、わたしが突然この町からいなくなったらどうする?」
「……」
 冗談のような口調。
 でも、その目には真剣さが混じっている。 
「もしもの話だよな」
「もしもの話だよ」
「だったらその時になったら、どう行動するかはわからない。
 でも、どういう手段とっても探すよ」
「……」
「いなくなったアルクェイドを探す」
 気負わない声が出た。
 考えるまでも無く、答えを返していた。
 本当に、自然に。
「何処にいるかわからなくても?」
「ああ、世界中探してでも」
「志貴の今の生活は捨てなくちゃいけないよ」
「そうだな。でもアルクェイドと天秤にかけたら仕方ないだろうな」
「……本当?」
「今言っただろう、その時にならないとわからないって。
 もしかしたら尻込みして、泣きながらアルクェイドが戻ってくるの待ってるだけかも
しれないぞ」                                       
「それはそれで、嬉しいかな」
 アルクェイドの問い掛けの意図はわからないが、俺の中に答えはあった。
 最後はちょっと冗談めかし、アルクェイドも軽く応えた。 
 見つめ合っていると急に恥ずかしくなってきた。
 アルクェイドの方はまったく平気な顔をしているのに。
 慌てて後ろを向いて、机に向かった。
「別にいなくなってからに限らないぞ。
 もしもアルクェイドが望むのなら、今すぐにだって何処かに行ったって…」
「わたしは、志貴がこの家にいて、普通の生活を送っていて、そしてわたしの相手もし
てくれるのが望みだよ。
 志貴がいちばん志貴でいられるのがいいな」
「じゃあ、とりあえず勉強しないとな」
「そうだね、頑張ってね」
 逃げるように数学の問題集に取り組んだ。
 いつになく真剣に。                                         
 じっとこっちを見ている、あいつの視線を感じながら。





「あーあ」

 長々と計算式を連ねた証明問題の矛盾に気付いて、愕然とした。
 どっと疲れが出る。
 さっきの英語と比べると掛かる時間と密度が段違いだ。
 強張った体を伸びをしてほぐしながら、溜息。
 けっこう時間食っているなあ。
 時計を見るとかなり集中していたのに気付いた。
 ふと、物音一つ立てない背後の存在が気になった。
「アルクェイド…」
 振り向き、ベッドに目をやる。
 と……。
「あれ、静かだと思ったら」
 目に入ったのは、ぺたんと脱力して目を閉じているお姫様の姿。
 明らかに眠っている。
 僅かにすーっという寝息が聞こえる。 
 思わず見入ってしまった。
 無防備な姿に。
 子供っぽく見えるアルクェイドの寝顔に。
 気がつくと、数学の世界は頭から消え去り、俺はベッドの傍に佇んでいた。
 ゆっくりと膝を折る。
 近づくアルクェイドの顔。
 綺麗だった。
 そして可愛らしい。
 普段の見慣れた顔とも違う、アルクェイドの素顔。
 頬に僅かに乱れた金色の細髪がかかっている。
 形の良い眉。
 繊細な睫毛。
 普段は活き活きとした瞳に目を取られているが、柔らかく丸みを帯びた瞼のおかげで
普段はしげしげと見ないその造形美が、よくわかる。
 本当に、信じられないほどの人形めいた美しさ。
 普段の吸血鬼らしからぬ生気に溢れた姿も良いが、何が楽しいのかうっすらと笑みを
浮かべて動かない寝姿も、何とも魅惑的だった。
 小さな、ほんのりと紅を宿した唇が何かを語るように動いた。
 吸い込まれるように、その唇にそっと自分の唇を重ねた。
 普段のキスとは違う、柔らかくも硬い唇の甘美な感触。
 これ以上ないほど近づいたアルクェイドの貌。
 キスした時とは逆に、その美貌を眺めながらゆっくりと唇を離した。
 起きるかなと思ったが、わずかにもぞりとしただけで反応は無い。
 眠り姫のお話は、人間界だけにしか通用しないらしい。
「さてと……」
「志貴さん」
 小さな声。
 しかしその予期せぬ声に、文字通り飛び上がった。
 心臓が止まりそうな驚きに声も出ず、バランスを崩して倒れそうになりながら、声の
主の方へ顔を向けた。
 琥珀さんだった。
 扉のすぐ前に、湯気の立った茶碗を乗せたお盆を手にして、琥珀さんが佇んでいた。
「な、な、な……」 
 何故、どうしてといった言葉が体の震えに邪魔されて出てこない。
「ずっと頑張っておられるようですから、様子見を兼ねてお茶などおもちしたのですけ
どね……」 
 俺の様子に、簡潔に平易な声で琥珀さんは説明してくれた。
 ただただ頷く俺。
「でも、志貴さん。
 眠っている女の子に悪戯なんて、良い趣味ではありませんね」
「ち、違う」
「あら、それは失礼しました。
 わたしはてっきり眠っているアルクェイドさんの唇を奪っているように見えたのです
が、まったくの誤解だったんですね。
 じゃあ、何をなさっていたんですか?」
 無邪気な顔。
 いや、無邪気さを装った顔。
 面白がっている。絶対に面白がっている。
 言い逃れるか?
 でもどう言い訳すればいいんだ。
 俺が今日の勉強のどれよりも難易度が高い問題を、脳が焼け付くような勢いで思案し
ていると、琥珀さんは何をしに来たのか思い出したという風情で、机まで近寄る。
 湯呑み茶碗がそっと置かれる。
 かすかな芳香。
 きっと最高のタイミングで淹れたのだろう。
 琥珀さんの心遣いが嬉しい。
 嬉しいが何でよりによって今、やって来るんだ。
 絶対に一部始終を観察していたに違いない。
 ああ、いつの間に……。
 迂闊。
 どの辺りから見られていたんだろう?
「志貴さんがしばらくアルクェイドさんの寝姿を眺めていた辺りですかね」
 まるで心を読んだように琥珀さんが呟く。
 でもそうなると……、そうですか、全部見ていましたか。
「眠ってるアルクェイドの唇を奪っていました」
「あら」
「驚いた顔をしないでください。
 そんな前からいたのなら、なんでもっと早く声を掛けてくれなかったんです?」
 非難するような顔で琥珀さんを見るも、平然としている。
 役者が違う感じ。
「とても声を掛けられる雰囲気ではありませんでしたもの」
「と言うと?」
「アルクェイドさんを見つめていた時の志貴さんの、うっとりとした顔。
 もう、ラブラブな感じで、恥かしくてこちらが居たたまれなくなるくらい位でした。
 戻るに戻れずに、仕方なく、志貴さんが唇を寄せるのを……」
 どっと汗が出る。
 顔が真っ赤になっているのがわかる。
 その俺の顔を、じいーっと見つめて琥珀さんは何やら考えている。
 何を言われるかなと思ったが、出たのは意外な言葉だった。
「アルクェイドさん、健気ですよね」
「えっ?」
「志貴さんの事、待ってて寝てしまったのでしょう?」
「そうだね」
「構ってもらえなくてもいいから、傍にいたいっていじらしいじゃないですか」
「……うん」
「ふふ。じゃあ、わたしが邪魔して志貴さんの勉強時間を削っちゃいけませんね。
 もう戻ります。心配なさらなくても秋葉さまには内緒にしておきますから」
「うん、頼むよ。それとお茶ありがとう」
「いえいえ。それでは頑張ってくださいね」
「ああ」
 ぺこりと琥珀さんは一礼して回れ右、そしてそのまま扉から出て行く。
 と、顔だけがこちらを見た。
「勉強を、ですよ」
「え?」
 何を言われたかわからない一瞬の後、アルクェイドとの事を揶揄されたと気付く。
 顔を紅潮させ、琥珀さんの名を叫ぼうとした時にはもうばたりと扉は閉ざされていた。
 でも、扉の向こうでくすくす笑っている琥珀さんが見えるようだった。
 ……。
 勉強しよう、勉強。
 ちらとベッドに目をやると何事も無かった様にアルクェイドは眠っている。
 ずっと見ているとまた何かしてしまいそうで、机で待ち受けている問題に向かった。
 琥珀さんの淹れたお茶は、すこしぬるくなっていたけど、美味しかった。





 よし、あらかた終わり。
 これだけ関連問題やっておけば、ちょっとやちょっと出題傾向を外されても応用が利
くから対処出来るだろう。
 と、もぞりと背後で音がした。
 今始めて音がしたのか、没頭していて認識していなかったのか。
 振り向くと、アルクェイドが伸びをしていた。
 お姫様のお目覚めか。
「おはよう、アルクェイド」
「あ、おはよう、志貴。
 ……え? あれ?」
「俺の部屋だよ」
「ええと、そうか、志貴のこと見てていつの間にか眠っちゃったんだ」
「アルクェイドでも寝ぼけたりするのか?」
「本当はしないけど、意識して感覚とか人間レベルにしているから。ええと省電力モー
ドとか言うのに近いかな」
「家電製品か、おまえは。まあ、そうでなければそもそもうたた寝なんかしないかもな」
「うん。……志貴に寝顔見られちゃった」
 ぽそりとした声と、恥かしそうな顔。
 唐突なそんな顔は、反則気味に可愛らしい。
「な、そんなの何度も見ているだろ」
「うん。でも一緒に寝ている時とかとは違うもの。
 変な顔してなかった、わたし?」
「ああ」
「本当?」
「可愛かったよ」
「え、ええっ……」
 ぽろりと本音を洩らすと、こちらが驚くほどアルクェイドは狼狽した。
 でも、まあ、可愛かったよな、本当に。
「う、うん。なら、いいかな……」
 ちょっと考えてにぱっと笑う。
 でもちょっと頬は赤味が残っている。
「もう勉強は終わったの」
「ん、もうちょっと。大物は終わったからもう時間は掛からないよ。
 今日はこれで終わりにする」
「じゃあもう少し寝てても良かったのかな。
 あれ、そのお茶どうしたの?」
「これか? 琥珀さんが持って来てくれた。
 おまえがいるとは知らなかったから、一人分だけど……」
「そうか、お茶淹れてあげるとかあったんだよね。わたしもしたかったなあ」
「突然おまえが下に降りていって『志貴にお茶』とか言い出したら一悶着ありそうだか
ら、それはどうかな。
 あ、でも、そうしてもらっていたら琥珀さんが……」
 さっきのアクシデントを思い出す。
 途中で口ごもった俺をアルクェイドは怪訝な顔で見ていた。
「琥珀がどうしたの?」
「どうもしない」
 きっぱりと、もうこの話はしないという意志を濃厚に込めて、答える。
 アルクェイドはその勢いに反射的に頷いてしまう。
 でも、何だろう。
 俺の顔というか、そのまた向こうを見るような目で固まって、一瞬目を見開いた。
 ?
 どうしたんだ、こいつ。
 何をしているのか訊ねたくなったが、それよりも話の方向を変えたかった。
「なあ、アルクェイド」
「うん、なになに?」
「それだったら、終わったら下に行くからさ、琥珀さんでもいたらお茶の……、いやさ
っき緑茶だったから、コーヒーか何か飲み物の仕度をお願いして来てくれるか。
 夕食もそこそこで部屋に閉じこもっていたから、秋葉とかもいたら顔見たいし」
「うん、じゃあわたしも居間で待ってるね」
「ああ、すぐに終わらせるから、先に行っててくれ」
 嬉しそうにアルクェイドは頷く。
 とん、としなやかな猫みたいな動きでベッドから下りた。
 よし、もうひと頑張り。
 そう思って体の向きを変えかけた時だった。
 ふわりとした風。
 そして、柔らかい感触。
 芳香。
 唇の甘い感触。
 かすかに濡れ、たとえようもなく柔らかく。
 そしてそれは、一瞬で消え去った。
「あ……」
 皮膚感覚の消化だけで精いっぱいで頭が働かない。
 ただ、唇に残った感覚の残滓に、その酔いそうな甘やかさに、呆然となる。
 指で唇を押さえ、目の前で笑う簒奪者を見る。
 得意げな顔の、そしてちょっぴり恥かしそうな、アルクェイド。
 そう。
 突然の来襲で俺の唇を奪ったのは、アルクェイドの柔らかい唇だった。
「な、何を……」
 言葉がまだ動揺を露わにしている。
「お返し」
 俺が理解しないのを見て、アルクェイドはもう一回言葉少なに言う。
「さっきのお返し」
「お返しって、何の……、あ、まさか……」
 唐突に気付く。
 そして、驚愕に目が見開く。
 アルクェイドはその通りとばかりに、嬉しそうに頷く。
「だって、おまえ、さっき……、う、嘘だろう?」
 眠っていたよな、確かに。
「寝たふりじゃないよ。
 ただね、わたしのずっと起きている部分が全部見てたの。
 わたしが意識無い時とかに何かあったら勝手にわたしが動くようにってね、そういう
機能があってね。
 琥珀の話をした時に志貴が変だったから、何があったのかなあって確認したの。
 そしたら、眠っているわたしに志貴が…」
「悪い、悪かった。でも変な気持ちじゃなくて……」
 真っ青になって弁明する。
 よく考えてみると何ら悪い事ではないような気もするのだけど、何と言うか後ろめた
さみたいのが……。
「あ、別に怒ってないよ。むしろ嬉しい……。
 でも、わたしは憶えてないからずるいなって思って、だから志貴にお返ししちゃった」
「そうか……」
 なんだか理屈に合っていないが、何となく理解できる。
「じゃあこれでおあいこだな」
「うん」
 あおいこなんだから、もう何も無い筈なんだけど。
 アルクェイドは当り前のように、顔を近づけた。
 俺も当然の如く顔を寄せる。
 顎が上げられ、少し突き出されるアルクェイドの唇。
 閉じて、でも薄く隙間が開いている。
 その無言の要求に、ためらい無く応え、唇を重ねる。
 とろけるように柔らかい感触。
 さっきとは違う開いた瞳がこちらを見ている。
 吐息を絡ませあい、そしてお互いにゆっくりと離れる。
 ずっと呼吸をしていなかったように、長い息を吐く。
「勉強の邪魔しない筈だったんだけどなあ」
「そうだな」
 照れ隠しのようにそんな会話を交わす。
「でも、もう一頑張りできる元気が出たと思うぞ」
「……うん」
 ぱっとアルクェイドは弾む様に扉へ向かう。
「待ってるから、早く来てね」
「わかった」
 ……。
 さっきまでも黙っていたり、眠っていたりと別段煩くはしていなかったけど、いざ完
全にアルクェイドが姿を消してしまうと何だか妙に静かだった。
 静寂感を強く覚え、そこにそこはかとない寂寥感なども混じってくる。
 けっこう勝手なもんだなと自分でも呆れてしまう。
 でもまあ。
 その寂しさを埋めるためにも、早くやる事をやらないとな。
 そう思い、またシャーペンを手に取った。
 やや背中を丸めて、問題集へと神経を向ける。
 カリカリという音が紙の上で起こる。
  
 そんなどうって事も無い、何も起こらない試験期間中の一幕。


                                     了








―――あとがき

 こちらは風原 誠さんの同人誌にお招き頂いて書いたものです。
 ご承諾を貰ってサイトの方に掲載しました。感謝です。
 基本的には手を入れませんでした。
 
 なんだかんだで前のものなのですが(2003/2/3)、読み返すと
「今よりも良く書けてる」と感じてしまい、非常にマズい気がします。
 それはともかく、アルクェイドは書いていると楽しいので、いずれまた
書きたいものです。
 
 
 by しにを(2004/12/15)




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