したさき
作:しにを
「藤乃ちゃん、舌を伸ばしてみて」
幹也さんの言葉。
唐突と言えば唐突。
いつもなら、何かを言われようと、幹也さんの言葉にならすぐに反応する。
けれど、今はちょっと戸惑ってしまった。
どうして?
きっとそんな顔をしていただろうわたしを、優しい笑顔が見つめている。
それを見て戸惑いは消えた。
おずおずと口を小さく開く。
舌を少しだけ前へと伸ばす。
唇の間の僅かな隙間から、舌先が出る。
幹也さんはじっとこちらを注視している。
動いた唇を。伸びる舌を。
「ひょれふぇ…」
言いかけて、動きが止まる。
顔が赤くなっているだろうか。
ううん、なっている。きっと、なっている。
恥ずかしい。
舌を出したままで言おうとした言葉。「それで、何を」
当然ながら、酷く間抜けに発音された。
恐る恐る視線を向ける。
ああ。
幹也さん、笑っている。
そうだろう。こんな馬鹿みたいな―――、
「可愛いなあ、藤乃ちゃん」
え?
思いもかけない言葉に、吃驚してしまう。
舌を出した姿のまま固まっていると、幹也さんは、もう一度、可愛いよと言
ってくれた。
わたしをまっすぐに見て、そんな言葉を言ってくれた。
まただ、また頬が赤くなっている。
さっきよりずっと。
自分ではわからないけれど。
「そのまま、じっとしていてね」
動転しているわたしに、幹也さんは別の言葉を。
言われた通りにしていると、顔が近づいてきた。
眼鏡を掛けた細い顔。
幹也さんの顔。
触れ合うほどに近く見える。
何をするのだろう。わたしをどうするのだろう。
わたしの頬に触れて、首筋に顔を埋めるのだろうか。
耳に軽く息を吹きかけて、わたしの反応を見るのだろうか。
それとも、よくするように、優しく唇を奪ってくれるのだろうか。
最後のが一番ありそう。
舌を出させたまま。
ちょっと順序は違うけど、それならばわかる。
いつもなら、軽く触れるだけのキス。
何度となく小さく離れては、また接触する。
それならば嬉しい。
幹也さんに触れられるのは、何処であっても、何であっても、好きだ。
肩を抱いてくれたり、手を繋いだり、そんな事と同じように、わたしに触れ
てくれる。
髪を撫でられたり、頬に触れられたり。いろんな事をしてくれる。
でも、唇での接触は、特にわたしは好きだった。
眼で触れた事がわかるから。
幹也さんの暖かさと、匂いが感じられるから。
実際には感じてなどいないのかもしれない、唇の感触。それがその一瞬には、
確かにある。
幻だとしても、ほんの僅かな神経の揺らぎだけだとしても、間違いなく幹也
さんの唇に触れているのだとわかる。
それを知っているから、幹也さんはよくわたしにくちづけしてくれる。
驚くほど多彩、そして喜びに満ちているくちづけ。
触れるだけのキスから始まって、それから、もっと長く唇を触れ合わせる。
じっとただ、熱の混ざり合うのを待つように、動かないでいる事もある。
少しずつ唇を動かされ、軽く擦り合わせるようにする事もある。
それも、わたしは好きだった。
触れられているという、事実。
幹也さんが、わたしの唇を喜んでくれているという喜び。
唇の表面を探り満足すると、幹也さんはわたしの別の部分に興味を示す。
触れたまま、頬のほうへと動いてみたり。
いったん離れて、髪や首筋に唇を触れさせたり。
急に耳に唇を押し付けたりもする。
わたしをびっくりさせようとするのか、耳たぶを噛んだりもする。優しく、
軽くだけれど。
だけど、いちばん多いのはそのどれでもない。唇を触れ合わせただけでは物
足りない、そう言いたそうな振る舞いをする。
他の部分ではなく、わたしの唇や舌、口の中に執着する。
そんな時、例えば幹也さんの舌が唇から現れ出る。
唇同士がくっついていて見えない時もあるし、見える時もある。
軽く触れられても、わたしにはほとんどわからない。
幹也さんの口の動きで、察する事がほとんど。
唇を舌でなぞる。
舌先でそっとわたしに触れる。
弱く、そして少しだけ強く。
それから、わたしの唇の隙間から入ってこようとする。
いきなりだとびっくりするから、そうして心の準備をさせてくれているのか
もしれない。
わたしの歯に舌が触れる。
そっと押される。
歓迎するように扉を開けると、喜んでわたしの中に入って来てくれる。
わたしが閉じたままにしていると、ノックをするように歯を舌で突付かれる。
それは、おかしな感触。
そのまま感覚がある訳ではないけど、そんな幹也さんの行動に反応してしま
うのだろうか。
くすぐったさに似た感覚が生まれる。
幹也さんに降参して、迎え入れる。
とても優しくて、わたしをまるで壊れやすい宝物のように扱ったりもする幹
也さん。けれど時には、少しだけいつもと変わる事もある。
荒々しいと言うのは違うのだろう。でもいつもと比べるとそう思うほど。強
引に、そう強引にわたしの唇だけでなく、口の中までを自由にしてしまう。
唇を強く吸われ、そのまま僅かな隙間から舌をねじ入れてしまう。
無理矢理ではない、あくまでいつもよりちょっと強引なだけ。
わたしは抗わない。
上を向かされ、唇を吸われ、舌を受け入れる。
舌を絡ませ、幹也さんの分と一緒に、こぼれそうになった唾液を飲み下す。
それは決して嫌な事ではない。
むしろ、好ましい。
優しい幹也さんが大好きだけど、いつもより少しだけ強くわたしを求める幹
也さんも好き。
長いこと、全身の感覚を閉ざされてきた。
今は、少しだけ神経の働きを戻されてはいる。本当にごくごく僅か。
段階を追い、長い日数をかけて正常にするのだという。
最初はどうしようかと思った。
他人にとっての正常は、私にとっての異常。
ずっと無かった物を戻されると言われても戸惑いがあった。
でも、結局その治療を受け入れた。
それがいちばん良いのだと言われたら、強固に反対するべき理由はない。
痛みは怖いけれど、眼を背けてはいけないと教えられたから。
もしも痛みを感じた時には、傍にいてくれる人がいる。
泣いたわたしをきっと宥めてくれる人がいる。
何より、わたしは感じたかった。
幹也さんの手を。
わたしに触れ、わたしが触れる。それを触れ合った部分で感じたかった。
今日は……、今日はどうするのだろう。
もう、あと少しで接触する。
わたしの伸ばした舌は、少し頭を前に傾ければ、幹也さんの口や頬に触れて
しまう。
猫のように、ぺろりと幹也さんの唇を、鼻を舐めたら。
そしたらどうするだろう。
びっくりした顔をするだろうか。
動転した幹也さんの顔、また見てみたいけど、どうしようか。
そんな悪戯を考えているのがわかってしまったのだろうか。
幹也さんが、動きを止めた。
「そのままでね、藤乃ちゃん」
そんな言葉に、ちょっとドキリとしてしまう。
牽制されたのだろうか。そう思えるタイミングだったから。
幹也さんの息が、軽い空気の動きとなって舌に触れた。
その事実にも、過剰に反応してしまいそう。
声に出して返事をしたら、また、おかしな事になってしまう。
きっとまた妙な発声。
可愛いと言って貰えるのは嬉しいかもしれないけど、それ以上に恥ずかしく
て堪らない。
かといって、頷くのは……、動く事にならないだろうか。
一瞬迷って、わたしはそのままでいた。
ただ、眼で答える。わかりました、と声にならない返事を返した。
無言の返答を、ちゃんと察してくれたのだろう。
少し、幹也さんの表情が変わる。
殆ど目に見えての変化は無いけれど、感じられる。
柔らかい視線。
口元の笑み。
それはいつもと同じで、でも確かに違う。
何をするのだろう。
どきどきとする。
怖いような気もする。
でも、期待している気持ちもある。
どちらにしても、わたしが幹也さんを受け入れる事に違いはない。
幹也さんの顔が動く。
わたしの怯えを、そして相反する期待を、知っているだろうか。
知っていて、こんなにゆっくりと近づいているのだろうか。
それとも、わたしを焦らしている事なんて、まったく頭にないのだろうか。
ああ、幹也さんの唇が触れる……。
舌が……、え?
幹也さんは触れなかった。
触れる、と思った時に止まった。
戸惑うわたしを前にして、口が開く。
舌先が覗く。
まっすぐに伸びて、触れた。
わたしの伸ばしたままの舌に、幹也さんの舌が触れている。
本当に触れるだけ。
少し動かしたら離れてしまう。
だからじっとしていた。
幹也さんとの接触を保とうとする。
僅かな、本当に僅かな感触。
触れていると直接伝わってくるものよりも、目で見る事実で感じる。
近すぎて、視界の端で、はっきりとは見えない。
でも、見える。
幹也さんがわたしに触れている。
視覚が触覚にも作用していく。
はっきりと、触れていると感じられる。
痛みや、触れるという感覚。そんなものに乏しいわたしの体にあって、数少
ない外を感じられた部分。
それでも他の人よりも鈍いのだろう。でも、触れたと感じる。熱さを冷たさ
を感じられる。味わう事ができる。
それだから、わたしの中では相対的に鋭敏な感覚器。
そこでなら、幹也さんを直接に感じられる。
幹也さんの舌が動いた。
触れて止まっていた舌が意志を持って動いた。
舌を擦り合わせるように。
擽るように。
弄ぶように。
僅かな動きなのに、まだ舌先だけなのに、こんなにもどきどきとしている。
急に息がつまる。
苦しさは少しもないのに。
こんな事で、息を乱してしまうと、幹也さんはどう思うだろう。
はしたないと思われるだろうか。
こんな事に興奮するような女の子だと思われるだろうか。
でも、幹也さんの息が触れると、もっとおかしくなる。
こらえる。平静を保とうとする。
そっと息を吸い、そっと吐く。
普段意識もしない事が、急に難しくなる。
それでも、ただ舌を伸ばしているだけなら、なんとか出来たかもしれない。
けれど、ダメ。
幹也さんは、そんなわたしの苦慮に気づかないで、舌を動かした。
わたしの舌の表面を、幹也さんの舌先がそっと撫でる。
先端からほんの僅かまで。行き来する。滑り、戻り、また舌を舐められる。
そんな事をされて、おとなしく呼吸などできない。
声をこらえようとして、変な声を出さないようにして、かえって息を乱して
しまう。
幹也さんは感じている。幹也さんの舌はわたしの喘いだ息を感じている。
少し笑っただろうか、幹也さんの顔が。
そんな私の行動を察したのか。それとも、息を堪えたり声を抑えたりしてい
て、変な顔をしているだろうか。
恥ずかしい。
ちょっと舌の動きを止めてくれれば、少しは落ち着けるのに。
そう恨めしく思うけど、幹也さんは飽かず、わたしの舌を味わうように舐め
ている。
それでは、ドキドキするのはおさまってくれない。
でも……、幹也さんは、そんな事で嬉しいんだろうか。
ふと、そんな事を考える。
腕や、胸や、いろんなところに手で触れたり唇で触れるのはわかる。
幹也さんの体も心も喜んでくれているのがわかる。
男の人はそういうものだと知っていて、幹也さんも男の人だから。時に、幹
也さんを男の人だと考える事が不思議に思えるけれど。
初めての時からずっと、幹也さんはわたしの体を変わらず好いてくれていた。
それは、わたしにとっても幸せを感じさせてくれる事。だから、幹也さんが
望むのなら何をされてもいい。
でも、こうして舌で触れ合うだけの行為で、物足りなくはないだろうか。
間近な幹也さんの顔からはわからない。
でも、こんな少しだけの接触が、幹也さんにも嬉しいのだと思いたい。
だって、わたしはさっきからずっとドキドキしている。凄く嬉しい。
幹也さんに可愛がって貰っているのが、とても嬉しい。
「ひゅあ、あッ」
ああ、また変な声。
幹也さんが、くすりと笑う。
わたしは今、どんな顔をしているだろう。
でも、急に幹也さんが動いてしまうのが、いけないんです。
わたしの舌を擽っていた舌が、今は離れている。
ほんの僅かの隙間、でも幹也さんに触れられていない。
幹也さんを見る。幹也さんもわたしを見ている。
互いに舌を伸ばしあって、でも届かずにいて。視線だけを絡めている。
傍から見れば、すこし間抜けな光景かもしれない。
でも、わたしはどうしてという気持ちを込めて、幹也さんを見つめるだけ。
幹也さんは……。
ああ、わかった。目で語っている。
与えて、取り去ってしまって、そして問う。そのままでいいの、と。
自分で動かないといけないんだよ、と。
触れた。
再び、わたしの舌先が、幹也さんの舌先に触れている。
さっきよりも少しだけ重なりを大きくして。
空白を埋めようとするように、舌をしっかりと触れさせている。
私の方から。
さっきとは逆に、じっとしている幹也さんにわたしが触れた。
何だか恥ずかしくて仕方ない。
普通に唇を合わせる方がずっと抵抗がない。
それだって、幹也さんにせがまれて、何度となく経験して平気になったのだ
けど。
でも、欲しかったのだ。
幹也さんとの触れ合いが。
幹也さんはまた、微かな笑みを浮かべている。
それでいいんだよと言ってくれているよう。きっと思い違いではない。だっ
て、わたしが舌先を動かして、幹也さんを求めたら、幹也さんも応えてくれた
から。
また、舌先だけが動いて舐めている。幹也さんからだけでなく、わたしから
も。互いに舐めあっている。
同じ方向に動いてしまったり、互いに回り込もうとするようにも。
飽く事無く、戯れあう。
そうしているうちに、ひとつ困った事が発生した。
舌を突き出していると、どうしても幾分下向きになってしまう。
そして、だんだんと口に溜まってきた唾液が、舌を伝って落ちてくるように。
それ自体は別に構わない。珍しい事ではない。
とろりと幹也さんの口から唾液が流し込まれる事がある。
混ざり合って。どちらのものとも区別できない。
口に広がるそれを、わたしは迷わず飲み込む。
何の抵抗もないのが不思議なくらいだけど、幹也さんのものだからという答
えはちゃんとある。
それにわたしが飲み込むと、幹也さんは嬉しそうな顔をしてくれるから。
反対に、わたしの口に溜まったものを飲ませてと言われる事もよくある。
言葉にして、そして互いに口を塞いだ状態で、舌で促されて。
そんな時には逆にためらってしまうけど、言われるままに舌からすこし生ぬ
るいであろう液体を送る。
幹也さんも、そのまま飲んでしまう。
平気な顔。それどころか、もっと欲しいと言われたりもする。
溜まっていたものを出すのはまだ良いけど、新たにと言われると、わたしは
凄く恥ずかしくなってしまう。
当然だろう、幹也さんに飲ませるために、唾液を分泌するのだ。
自分の意志で、能動的に。
こんな事は普通じゃないのではないかと思う。
でも、お願いに従う。
幹也さんが喜んでくれる事と、わたしが恥ずかしい事と、優先順位は明らか
だから。
でも今の状態だと、そうはいかない。
飲むのでも、飲ませるのでもない。
舌先だけを合わせているから、こぼれた涎が伝い合わさって下へと落ちてし
まいそう。
どうしますかと目で訊ねても、幹也さんはやめようとしない。
それだけ夢中になっているのか、それともそんな事はどうでもよいのか。
幹也さんがやめないのなら、このままで。
もとよりわたしも、その舌の戯れを一瞬でも止めたくない。
舌を幹也さんの上に擦るように動かす。
幹也さんは私の舌先を受け止め、裏側を舐めようとする。
それで、均衡は破られた。
ぽたり、ぽたり。
糸引くようにして、二人の唾液が舌から垂れ落ちた。
ああ、と視線でその落下を追う。
幹也さんも同じみたい。
でも、それだけ。別に行為を止めたりはしない。
むしろいちどそうなれば、もはや何の問題も感じず。
ただただ二人で、舌先遊戯に耽った。
戯れ続けた。
舌先だけで。
ほんの少し、互いに触れ合うだけで。
そんな状態のまま、おかしくなりそうなるまで。
どれだけでも続けられる。
ささやかで、けれど体中が満たされる。
そんな幸せを感じながら。
了
―――あとがき
ふじのんです。
何というか「空の境界」である前に、ふじのんなお話。
しかも変な嗜好によって書かれています。
もとより痛みを感じさせるシリアスなお話とか書けませんし。
かといって、甘々なお話というには、アレですね。
なによりこのお話、幹×藤でございます。
背景も何も語らず、当たり前のように幹也と藤乃がそういう関係です。
少なくともこのお話では、理由には触れませんでした。
舌の接触が書きたかっただけなので。
もちろん「空の境界」が式と幹也の物語だと承知しています。二人の関係も
お話も好きです。それを捻じ曲げるつもりはありません。
式だって好きなんですよ?
空代表という意味合いはあれ、公式人気投票の折には一票投じましたし……。
でも、それはそれとして、あえて書いております。
受け入れられなかった方、申し訳ありません。
まあ読めたよという方、ありがとうございました。
by しにを(2004/6/29)
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