Smoking

作 のち





「あーあ、またこんなにためちゃって」

 そう呟きながら志貴は吸い殻を流しの三角に捨てた。
 有彦も一子も、この家の人間はあまりに身の回りに気を遣わなすぎる。
 この灰皿は、その一端を示しているだろう。
 丸い硝子製の器に煙草が剣山のように入っていた。

 灰皿のついでに、たまっていた食器類を全て洗い、机の上を台ふきんで拭い
ていると、灰皿からこぼれたのか一本の吸い殻があった。

 それを取ると、茶色の吸い口に、紅い、口紅がついていた。



 思わず手にとって眺める志貴。

 その吸い殻は火を付けてからすぐに消したのだろう、ほとんど残っていた。
 それも無理矢理に消したのだろう、半ばで折れ茶色い葉が顔を出していた。
 それでも消えなかったのだろう、ところどころに焦げた跡が付いていた。

 そして、吸い口には、紅い、紅い、口紅が、ついていた。

 一子はジッポー愛用者だ。かすかにオイルの匂いがした。
 一子はくわえ煙草だ。歯形が残っていた。
 一子は歯並びがきれいだ。歯形はそれを証明していた。

 吸い口には、紅い、紅い、紅い、口、紅が、ついて、いた。


 口紅は、べっとりと付いているのではなく、むしろ穏やかについていた。
 口紅は、きつい赤色ではなく、むしろ桃色と言っていい色だった。
 口紅は、そんな色にもかかわらず、鮮やかに紅いことを主張していた。
 口紅は、一子の、唇の、形を、あら、わして、い、た。



「なにしてるんだい?」

 背後からかけられた声。聞き覚えのある声。きついけど柔らかい声。厳しい
けど優しい声。それは、今、一番、聞きたくない、声。


 志貴はぎこちなく後ろを振り向くと、当たり前のように一子がいた。その顔
はいつもどおりの顔で、少々素っ気ない感じがする顔だった。
 今起きたのか、髪は乱れ、服もよれよれ。普段着のTシャツとジーパン。顔
にかかってくる髪をうざったそうにかき上げて、トレードマークの煙草をくわ
えていた。

 その煙草には、火は、ついていなかった。


「……ふん、有間もこんなものに興味を持つようになったか」

 つかつかと近寄りながら、ジッポーを取り出す。そのジッポーは、マークの
ない、味も素っ気もない、そんなものだった。

 ―――――――――――チン

 一瞬、顔をてらして、音を立てて煙草に火を付けた。

「……吸ってみるかい?」

 さらに近寄っていく一子。志貴はただ茫然とその顔を眺めていた。


「興味あるから、持っているんじゃないのか?」

「え、はい」

「じゃ、くわえな……」

 言われるがままにくわえてみる志貴。その志貴の煙草に、一子の、煙草を押
しつけた。



「―――――そのまま、吸って――――――」



 目の前には一子のうつむいた顔が見える。前髪が落ちているから、目のあた
りはほとんど見えない。見えるのは、形の良い鼻、ちょっととがり気味の耳、
そして、紅い、唇だった。

 その唇からは白い棒が伸び、それは、よれよれの薄汚れた白い棒につながり、
志貴の唇につながっていた。

 その唐突さに、志貴は息を止めていた。息が止まっていた。息ができなかっ
た。視線は一子の顔の、下の、紅い、唇で、とどまっていた。

 鼓動は大きく、ガソリンを入れたかのように早く、志貴の胸を動かしていた。



 ――――スッ――――――――――――――――――――――――ウ――――――



 気がつくと、一子の顔は離れ、志貴のくわえた、棒には、火がついていた。

「なあ、有間」

 志貴は自分の体が震えているのを自覚していた。それは、今までに経験した
ことのない震えだった。胸も、背中も、腹も、足も、肩も、腕も、頬も。そし
てその震えは、体の中央から伝染していることも分かっていた。

「こういうのはな、自分の背丈にあったものを選べ」

 志貴の震えは体の先にまで伝わっていた。指先、つま先、かかと、まぶた、
耳。
 そして、―――――唇―――――。

「今はまだ、物珍しく感じるだけさ」

 先ほどは、石のように固まっていた目が宙をさまよっていた。見えるものと
いえば、居間にある机、椅子、棚、テレビ、扉、壁、天井、床。
 そして、―――――一子―――――――。

「あたしの場合は17だった」

 いつもは感じない匂いすらも感じるようになっていた。煙草の匂い、オイル
の匂い、洗剤の匂い、水の匂い、よどんだ部屋の匂い。
 そして、――――――大人の――――――。

「背伸びしすぎてたのさ、あの時はな」

 音もよく聞こえていた。蛇口から少し漏れる音、冷蔵庫のうなり声、風が窓
を叩くかすかな音、蛍光灯の振動。
 そして、――――――鼓動―――――――。

「だからな、自分で探しな」

 皮膚の感覚も鋭くなっていた。手が汗ばんでいる感覚、服が汗を吸い体に吸
い付く感覚、スリッパが床にくっついている感覚、メガネの重さ。
 そして、――――――くわえて、いる、―――――――。

「おまえに、合ったものを、な」





 気がつくと、部屋は暗かった。窓から差し込んでいた日はなくなっていて、
蛍光灯の明かりは暗さをさらに暗くしていた。一子が入ってきた、扉は閉じら
れ、なんの音も漏れては来なかった。

 煙草は、フィルターしか残ってなく、足下に灰が落ちていた。
 ただ、ただ、焦げ臭い匂いがした。
 さっき感じていた、感覚は、全て無かった。

 見えるものも、かいだものも、音も、感覚も。

 志貴はくわえていた煙草を灰皿に置き、足下の灰をふきんで拭き取った。
 そのふきんを洗い終えて、椅子に座り、灰皿を見た。

 そこには、くわえていた、フィルターがあった。

 しかし、なぜか、あの、紅い、口紅は、ついていなかった。



 暗い部屋でそれを眺めていた志貴は、顔を振り、立ち上がり、灰皿を持って、



 吸い殻を、流しに、捨てた。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

後書き

 と、いうわけで、一子SS。
 なにがというわけなんだか分からないけど。

 志貴の初体験が朱鷺恵っていうのは知っていたんですが、一子とは関係あっ
たんですかね?
 青本持ってないんで、分からないんですが。

 なんとなく、一子は「姉」だから、大人としてしか対応できなかったんじゃ
ないか、と思って書いてみました。

 好きなんですけどね。ああ、でも、瑞香さんのや、しにをさんのが念頭にあ
って、とってもやりにくかった。ああいうイメージでって感じにしてみたんで
すが、うまくいったかなあ?

 一子ファンの人ごめんなさい。もー少し勉強してみます。

 それでは、また。

 2003年1月21日


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