……彼女がそこを訪れたのは、気まぐれ以外の何でもなかった。

 大きなトランクケースを引きずりながら、街の賑わいから逃れるように歩く。
 口に咥えたタバコを噛む表情は、傍から見れば不機嫌そのもの。
 しかし、彼女自身の機嫌は実はそう悪いものではなく、どちらかといえば良
い方でもあった。

 今日は久々に、良い出物を手に入れた。
 それも信じられないくらいの格安で、だ。
 衝動的に買ってしまったので、また従業員に支払う給料分が足りなくなって
しまったが、それは我慢してもらう事にする。
 文句をつけてくる従業員の顔を思い浮かべながら、彼女はそうほくそ笑んだ。

 上機嫌の時というのは、何かと余計な事をしたくなるものだ。
 普段から冷徹なまでに理性的な彼女とて、時にはそういう気分の時もある。
 感情を否定するのは愚かなことだ――などと、どこかの誰かが考えたのと同
じことを思ったかどうかはわからないが、
 ともかく彼女はその時珍しく、あるいはいつも通り、ちょっとした思い付き
で行動しようとしていた。


 街の路地裏に入っていく。
 空はこんなにも青く澄み、日はあんなにも照り付けているというのに、そこ
は別世界のようだった。
 まるで誰かに画策されたように光の届かない薄暗い場所。
 こびりつく血の匂いと、肌で感じる残された妄念。
 空気は澱み、穢れ、吐き気がするような霊気すら感じる。
 彼女は何かに導かれるように、何かを探すようにそこに足を踏み入れた。

 やがて、ヒビの入った壁の前に立つと、そこから上を見上げてみる。

「――ほう、何がいるのかと思ってきてみれば、季節柄にも相応しい亡霊か」

 やけにはっきりとした声で呟く独り言。
 その瞳は確かに、何もない空間で何かを捉えている。

「……惜しいな。肉体が滅してなお魂を留めるほどの資質。
 祖にすら至る可能性もあっただろうに」

 心底残念そうに、彼女は言う。
 その言葉は一般の人間には、きっと理解不能な独り言だっただろう。

「ふむ……これだけ情報が収束しているなら、身体さえあれば蘇生するか。
 ああ――お前は運が良い。丁度手持ちにピッタリの肉体(にんぎょう)があ
る。
 魂が原型を保っているなら、移ることもできるだろう」

 そう言って、彼女はトランクを開いた。
 そこから出てきたのは顔のない一体の人形。
 大きさは人間と変わりないほどの――どうかすれば、人間そのものに見える
ほどの。
 それをその場に放り出すと、なにやら人形に血で刻印を刻んだ。
 そして、幾つかの文字を地面に描くと、準備は終えたとばかりに踵を返す。

「魂は形を持っている。
 定着すれば、夜までには以前と同じ身体に変化する事だろう。
 使い勝手は保障する。それは、新作なんだ」
 
 そう言って笑う。
 その顔は、悪戯を仕掛けた子供のそれ、というヤツだろうか。

「報酬は――そうだな。使ってみた具合を教えてくれ。
 使用者のレスポンスというのは、これで結構重要なんだ」

 彼女はそう言い残すと、振り返りもせず去って行った。
 路地裏に残されたのは、一体の人形。
 いや、それはすでに、人形ではなかったのかもしれない。






             “MELTY BLOOD -A START OF DREAM-”
                        作:荒田 影






 ある程度以上の都市で繁華街というと、そこに昼夜の別はないものだ。
 無論、昼と夜とで顔は違うが、人が溢れるという点では少なくとも違いは見
受けられなかった。

 かつては夜は静かな時間だった。
 大昔の話――というほど時間が経っているわけでもないが、それはもはや遠
い過去の事なのだろう。
 人工的な光の中、人々は夜の闇を克服し、その営みを続けている。
 ……いや、克服した、というのは言い過ぎか。
 いまだ夜の闇は深く、人々はそれを意識的に無意識的に、忘れているに過ぎ
ないのだから。

 忘れたようでいて、闇への恐怖は人の内に息づく。
 ちょっとした事でそれは顕在化し、夜という時間は人を拒絶し始めるものだ。

 ここ、三咲町では少し前まで、殺人鬼の噂が蔓延していた。
 夏に入り、うだるような暑さの中、人々の耳に聞こえた一年前の殺人事件。
 その犯人がまた現れたという噂は、人々の足を夜の街から遠ざけていた。

 実際には、その殺人鬼はもはや現れることはない。
 再来したと言われるそれも、すでに事件は解決した後。
 噂は噂のままで終わり、街にはなんの被害もなく、ただ静かに夏は過ぎ去っ
ていくはずだった。

 ――ところが、だ。
 
 それは、ほんの数日前の話。
 地方局のマスコミが、小さな事件を報道した。
 路地裏で倒れていた女性が、病院に運ばれたという、ただ、それだけの事件
だ。
 本来なら、ニュースにもならないような本当に小さな事件。
 しかし一点だけ、この町においては報じるべき奇妙な点があった。

 それは、彼女の首筋。
 そこにはまるで、何かに噛まれたかのような痕があったという。
 そして検査の結果、体内の血液が大量に抜かれていたことがわかったのだ。

 “吸血鬼の仕業”。
 マスコミは以前の事件を持ち上げ、そう報道した。
 これにより、人々の噂は再燃。
 一年前にも噂されたそれは、人々の間に浸透するのも早く。
 その噂が遠野志貴の耳に入るのも、それほど時間を要しなかったのである。



「――また、吸血鬼、か」

 夜の街を闊歩する、少なくなったとはいえ、まだまだ多い人ごみの中。
 行き交う人波にその身を漂わせていた志貴は、思わずそう呟いていた。

 思えば去年の秋頃から、こうした事件が多すぎる。
 それまでの、表向きだけとはいえ穏やかな生活が嘘のようで。
 夜の街を出歩く事だとか、時には命を掛けた殺し合いをしていること。
 そしてなにより事件に首を突っ込む度、繰り返される妹のお小言を思い返し
て、志貴は深々とため息をついた。

「よくよく、吸血鬼には縁があるんだな」

 愚痴ってみても始まらない。
 それでも、愚痴らずにはいられない。
 億劫になっていく思考の中、すれ違う人々に目を向ける。

 志貴は今、眼鏡を掛けていない。
 魔眼殺しの眼鏡はポケットの中。
 彼の直死の魔眼は、映るモノの死を見続けている。
 彼は人ごみの中に、“人ではないもの”を見つけようとしていた。

「…………」

 気分が悪くなる。
 無数に走る黒い線が、脳の一部に負担をかける。
 どこにでも、何にでもある死の紋様は、しかし、通常のそれしか目に入らな
い。
 人にはありえない――“すでに死んでいる”ようなモノはどこにもいない。
 ここ二晩、求めるような吸血鬼の姿、その末端である死者でさえ、見かけた
事はなかった。

 ――杞憂かもしれない、と思う。
 なにしろ、被害者はまだ、件の女性一人。
 それも死亡したわけでもなく、血は抜かれていたものの、命に別状はないそ
うだ。

 吸血鬼なら――少なくとも志貴の知る“一般的な吸血鬼”なら、そんな中途
半端な事はしない。
 その女性が死者として蘇ったというのならともかく、襲った相手を生かして
おくような甘い連中ではないのだ。

 だから、何かの間違いなのではないのかとも思う。
 女性の首筋にあったという噛み跡も、吸血鬼の仕業などではないかもしれな
い、と。
 つい先日、“ワラキアの夜”なんていう吸血鬼が現れたせいで、自分が過敏
になっているだけなのだ……。

 ……志貴は、頭の中の冷静な部分で、そのことを常に考えていた。
 こうして見回っていること自体、徒労に終る可能性は高い。
 骨折り損のくたびれ儲け、そんな結果になるかもしれない。
 いや、そうなるのなら、それでいいと思う。
 むしろ、是非そうなって欲しい。
 犠牲者が出ず、自分一人の徒労で終るのなら、これほど平和な話はないじゃ
ないか。

「……っ……」

 ずきり、と頭が痛んだ。
 歩き始めてから結構な時間が経っている。
 死を視続けているというのは、あまり良い状態じゃない。
 もとより、居るかどうかもわからない吸血鬼を探しているのだ。
 無理は禁物、ここは一端、休んだほうが良いだろう。
 
 志貴は愛用の眼鏡を掛けると、建ち並ぶビルの壁によりかかった。
 そして深く息を吐く。
 緊張させていた気を緩めると、街中の汚れた空気さえ、新鮮なそれに感じら
れた。

「――はぁ……気にし過ぎなのかもな……」

 言いながら、けれどどこか、そうではないと感じる自分が居る。
 頭の片隅で嫌な予感が消えない。
 根拠の薄い予感ではあったが、何かが起こっているという確信が志貴にはあ
った。

 予感の根拠になっているのはアルクェイド。
 ワラキアの夜を倒し、シオンと別れてから僅か二日後、彼女は再び姿を隠し
ていた。
 例の報道があったのがその後で、そこに何か因果関係を感じずにはいられな
い。

 そして、シエルもまた、いない。
 本人はワラキアの夜に関しての報告があるからしばらく会えない、などと言
っていたが、果たしてそれは真実であったのか。
 真祖の王族がこの地にいるというのに、それを監視しうる人材が、そうやす
やすとその場を離れるだろうか。

「…………」

 自分の知らない所で、何かが起きている。
 志貴は今一度その感覚を確かなものにすると、再び夜を徘徊すべく、背を預
けていた壁から離れていった。






 その後姿が目に入ったのは、志貴が深夜の探索を始めて、数時間後のことだ
った。

「――――っ!」

 人ごみの向こう、一瞬視界の隅によぎった人影。
 死の線を消して確認すべく、志貴は慌てて眼鏡をかける。
 しかし、その姿はすでに道を曲がって行った後。
 気付けば、志貴はその後を追って駆け出していた。

(今のは――そんなまさか!)

 その後姿は、あまりにも知り合いのそれに似過ぎていた。
 だが、彼女がここにいるはずもない。
 それは、ありえないことなのだ。

 幾度か路地を曲がる。
 暗がりの中、その姿は何度も視界の隅をよぎった。

 ――間違いない。

 志貴は確信する。
 この道の先は行き止まりになっているはずだった。
 そこでの彼女との再会を前に、志貴は心を落ち着けるべく、駆けていた足を
止める。
 意を決するように、一つ息を吐くと、ゆっくりとその角を曲がった。

「――――」

 そこに、彼女はいた。
 何処かで見たような、何処にでもあるような路地裏に立ち、辺りを油断なく
見渡している。
 そのわりにこちらに気付いた様子が無いのは、捜しているものが全く別のも
のなのか。
 志貴は確実に声の届く位置まで近づくと、彼女の後ろから声をかける。

「……何してるんだ、こんなところで」

「――――っ!」

 彼女が振り向く。
 予想外のことに、驚愕の表情で。
 その顔は、あまりにも見知った顔過ぎて、志貴は逆に落ち着いてしまった。

「驚いた……偽者、じゃあないよな」

 自分でもそれはないだろうと思いながら、彼女にそう確かめる。

「もし、その姿を真似ているだけなら、一応警告しとく。
 ――この町でそれは、自殺行為だ」

 言って、志貴は剣呑な光を宿した瞳で彼女を見た。
 彼女の驚愕は一瞬の事。
 志貴の言葉が終る頃には、すっかり落ち着きを取り戻したようだ。
 志貴の視線を真っ向から受け止めると、ゆっくりとかぶりを振る。

「いいえ、この身は偽者ではありえない。
 貴方の前にいる私は、紛れもなく貴方の知っている私です、志貴」

 諦めたように苦笑を浮かべる彼女。
 志貴もそれを聞いて嘆息すると、困ったような笑みを返した。

「――久しぶり、シオン。数日振りだ」

「――ええ、お久しぶりです、志貴。
 できれば再会は、もう少し時間を置いてしたかった」


 シオン・エルトナム・アトラシア。
 アトラスの名を冠する錬金術師――魔術師である彼女は、ほんの数日前まで
志貴と共闘関係にあった。
 目的は共通の敵である“ワラキアの夜”という吸血鬼を倒す事。
 その戦いの中で、友人か、あるいはそれ以上の関係を築いた間柄でもある。

 そのシオンは、ワラキアとの戦いの後、すぐにアトラスの協会へと戻ったは
ずであった。
 吸血鬼化の治療方法を研究すると言い、志貴と別れ、日本を離れていったの
である。
 ――しかし、今この場に彼女はいる。
 舞い戻ったにしても、それはあまりにも早すぎるものだった。

「なんでここにいるんだ?」

 志貴が問う。
 その疑問は当然の事だっただろう。

「何故、ですか。
 では、逆に訊きますが、私がここにいてはいけない理由でもあるのですか?
 私が何処にいようと、それは私の自由のはずです」

 しかし、その問いにシオンはまともには答えない。
 いつでも明朗な答えを用意する彼女にしては、それは珍しい。

「あのな、シオン。いちゃいけないとか、そういう問題じゃない。
 なんでこの町にまだ残っているのか、その理由が知りたいんだ」

「……志貴は、私がここにいるのは気に喰わない、というのですね。
 残念です。貴方には、そんな風に言われたくなかった」

「だから違うって。別にシオンがここにいることに文句なんかない。
 むしろ、もう一度会えて嬉しいぐらいだ」

「はい。……私も、志貴と会えた事は嬉しい」

 シオンの口元が微笑む。
 その頬が若干赤らんでいるのは、気のせいではないだろう。
 志貴も志貴で、その言葉に頬を赤らめていた。
 その様、まるで初々しいカップルのようで――

「――って、だからそうじゃない!
 シオン、いい加減はぐらかさないでくれ」

 志貴が辺りに漂いかけた微妙な空気を吹き飛ばす。
 シオンは少し残念そうな顔をすると、志貴からそっと視線をそらした。

「言い難いことなのですが――」

 そして、バツの悪そうな顔をして、ここにいる理由を語り始める。

「――私は、日本を離れていなかったのです」



「……あの事件の後、私はアトラス院に連絡を取りました。
 ここ数年の事についての報告をし、帰還の許可を得るためです」

 シオンの話した内容はこうだった。
 アトラス院は、もともと排他的な組織になっている。
 外界と自分達とを区別し、そこから出ることも入り込むことも容易には許さ
ない。
 それは一度出奔した者についても同様だった。
 一度外界と接したものは、どんな相手と結びついてるか知れない。
 それゆえ、戻るためにも審査が必要なのだという。

 シオンもまた、例外ではなかった。
 いや、むしろこれまで進んで自分から外と結びついてきたのだから、疑われ
て当然だったのだろう。
 アトラスの学長とはいえ、場合によっては危険分子と判断され、“処分”さ
れる可能性すらあった。
 故に、直接アトラスに向かう事を危険と判断したシオンは、まず相手の様子
を窺うことにしたという。
 日本に残ったまま向こうと連絡をとり、相手の出方を見ようとしたわけだが――

「――結果が、芳しくなかったのか」

「はい。正確に言えば、戻るための交換条件が破格でした。
 全研究資料の破棄など、到底飲める条件ではありません」

 無茶を言ってきたアトラス院の言い分はこうだ。
 “外界に漏れた成果はもはやアトラスに存在してはならない”。
 アトラスの戒律をわざと曲解している辺り、悪意を感じずにはいられなかっ
た。

「早い話が嫌がらせです。……もともと、エルトナムはアトラス内でも異端で
したから」

 悔しそうな素振りも哀しそうな素振りもなく、さも当然だという風にシオン
は言う。
 彼女にとっては、こういう扱いを受ける事自体、珍しい事ではないのだろう。

「どうやら私が戻る事を望まない人間が多いようです。
 今戻れば、それこそ本当に処刑されかねません」

「戻れないって事か」

「ええ。とはいえ、院にしてもアトラスの魔術師がいつまでも外にいる状況は
看過できないでしょう。
 上層部が反対派の連中を抑えるまで、様子見ということです」

 もっとも、その逆の結果で、シオンの処分命令が出されることもありうる。
 “監視下に置けないのなら殺してしまえ”。
 安直ながら、そういう考えが在るのも事実だった。

 ……しかしその一言を、シオンは志貴には伝えなかった。
 伝えればこの御人好しの事、匿うなどと言いかねなかったからだ。 
 シオンはこの自らの判断を、別の思考で肯定する。

「ですから、日本を離れるのはもう少し先の事になるでしょう。
 ――これが私がここにいる理由ですが、納得いきましたか?」

 だから、シオンはそうそうに話を切り上げた。
 余計なことを聞かれる前に、話を終えてしまおう、と。
 その試みはあるいは成功だったのか。
 志貴はシオンの言葉に頷こうとして――

「ああ――って、ちょっと待った」

 ――見逃せない事実に待ったをかける。

「……まだ何か?」

「日本を離れてなかったって言ったよな」

「はい、ですから、私はずっとこの町にいました」

「――――」

 くらり、と志貴の頭が揺れた。
 余程その一言が衝撃的だったらしい。
 シオンは志貴が何に対して動揺しているのかがわからなかった。

「志貴……?」

 訝しげに彼の反応を待つ。
 やがて、志貴は顔をあげた。

「…………宿は?」

 ポツリ、と志貴が呟く。

「志貴、質問ははっきりと言って貰わなければ困る。
 言葉から推測は成り立ちますが、正確な答えになりにくい」

「だから! 町に残っていた間、シオンは何処に泊まってたんだ?」

 低い声で、何かを抑えるように志貴は問うた。
 シオンはその問いにあっさりと答えた。

「宿を取るほど金銭的な余裕はありませんでした。
 ですから、主に日の当たりにくい路地裏で――」

「――なんで早く言わなかったんだっ!!」

「――」

 言葉を遮って怒鳴った志貴に、シオンは珍しく、びっくりした表情になる。

「言ってくれれば秋葉の説得くらい――いや、説得なんかするまでもない。
 屋敷の部屋を用意してやれたのに!」

 志貴は怒っていた。
 シオンも特異な技能を身につけているとはいえ、まだ若い女の子である。
 それが路地裏に寝泊りしている状態が、良い状況のはずはない。
 だから志貴は怒っていたのだ。
 なんだって、そう自分を労われない人間ばかりなのかと。
 志貴か、秋葉にでも言えば、遠野家に泊まる事はできただろう。
 志貴の妹である秋葉は、シオンとは妙に気が合っていた。
 余程の事でもない限り、頼めば否とは言わなかっただろうに、と。

 しかし、シオンは志貴の言葉に首を振る。

「志貴。友人というのは甘えるものではありません」

 はっきりとした口調でそんな事を言った。

「気持ちは有り難い。
 けれど、返せるものが無いというのに、世話になるわけにはいかないでしょ
う」

 それは、等価交換。
 魔術師の間では、当然の価値観。
 一方的に与えられるものがあってはならない。
 一方的に与えるものもあってはならない。
 生粋の魔術師たるシオンにとっては、当たり前のことだった。

 ――魔術師に、とっては。

「このバカッ!!」

「なっ――」

「友人だからこそ、こんな時に言ってくれなきゃいけないんじゃないのか!」

 遠野志貴は魔術師ではない。
 そして彼は御人好しでもあった。
 当然そんな理屈を聞けば怒る。
 シオンにそう怒鳴った後、志貴は彼女の目を見つめて言った。

「シオン、約束しただろ? シオンが困ってる時には力になるって。
 それともあの時の約束は、嘘だったのか?」

「――――」

 反論をしようとしたシオンは、その瞳の前に、出そうとした言葉を飲み込ん
だ。
 確かに、志貴とシオンの間にその契約は結ばれている。
 その期限に果ては無く、尽くす力にも果てはない。
 互いが互いを支えあうという、大きな流れの中での等価交換。
 その中で、小さな交換に拘る事は、意味のない事のように思えた。

「――そう、ですね。ええ、志貴との契約は覚えています。
 確かに……今回は私が間違っていたようです」

 シオンがそう言うと、志貴はようやく、にっこりと笑みを浮かべた。
 人懐っこいその笑顔は、シオンの心を穏やかにさせる。

 ――と、気付いた。

「っ」

「よかった。じゃあシオン、今日から家に――」

「――いえ、それはまた、今度という事になりそうです」

「……シオン?」

 いぶかしむ志貴を余所に、シオンはビルの上を見上げた。
 志貴もそれに釣られて、シオンの視線を追う。

 それには欠けた月が浮かび、夜の闇を和らげていた。
 まるで色を持っているかのような光は、闇の中に一つの姿を浮かび上がらせ
ている。
 ビルの屋上、こちらを見下ろし、たたずむ人影――。

「――今は、片付けるべき問題がありますから」

 シオンの声が、硬く響いた。





 ……ビルの上から人が降ってくる。
 ロープも無し、仕掛けもなし。
 通常ならば、飛び降り自殺かと思う所。
 しかし、この場ではそれはなかった。

 不自然なほど衝撃を感じさせず、地面に降り立ったその姿。
 見慣れたカソック姿に鋭い瞳。
 鋭利な刃の様な殺気を纏ったその人物。

「――先輩」

「どうやら話は済んだようですね」

 そう言って志貴とシオンの前に現れたのは聖職者。
 埋葬機関第七位、“弓”のシエルだった。

「話が済むまで待っていた、とでも言うつもりですか、代行者」

「ええ、途中で割り込むと怒られちゃいますから」

 どこか芝居じみた穏やかさでシエルは言う。
 志貴の一歩前に立つ、シオンを冷ややかな目で見つめながら。

「もっとも、いつ割り込んでも、そう変わりないかも知れませんが」

 笑顔を伴わない軽い口調。
 無表情で言われたのでなければ、それなりに場を和ませる声だっただろう。
 しかし、その声に篭った調子から、志貴は確信する。
 今目の前に立つ彼女は自分の先輩たる人物ではなく、教会の代行者である、
と。

「目的は私、ですか。
 捕縛命令を遂行しに来た、というわけでもなさそうですが」

「ええ、捕縛、なんて事はもうしません」

 冷たく、あくまでも冷たく。
 その右手の黒鍵でシオンを指し、シエルは告げる。

「シオン・エルトナム・アトラシア。
 主の命により、殲滅します」

「ちょ――」

 その言葉に、慌てたのは志貴だった。

「ちょっと待ってくれ!」

「遠野君、邪魔をしないで下さい。
 これは貴方には関わりのない話です」

「先輩!!」

 呼びかける志貴を、シエルは無視する。
 シオンは向けられる殺意を真っ向から受け止めていた。

「――私が異端だから、ですか」

「もちろんです。
 今まで見逃していたのは、優先度が低かったからに過ぎません。
 貴女はいずれ、消し去らなくてはいけない存在ですから」

 異端。
 教会は、教会の教えに無い存在を許さない。
 例えばそれは、他の教義を信奉する異教徒であったり、あるいは教義にない
生物である。
 吸血鬼、それもまた、教会の殲滅するべき対象。
 現在の世において、代行者の使命は専らそれであるといっても良かった。
 そして、シオン。
 彼女は吸血衝動に悩まされる事は無くなったとはいえ、その存在の何割かは、
吸血鬼のそれであった。

「以前は、協会からの捕縛命令でしか動いていなかったようですが?」

「優先すべき事柄が他にあるのなら、そちらを優先させるのは当然でしょう。
 吸血鬼になりきれない半端モノを狩るよりも、あの時は命令書の方が優先度
が高かった。
 それだけの事です」

「つまり、優先度に変動が起きた、と」

「はい。人を襲う事を許容した吸血種を、これ以上見逃す事はできません」

「――――」

 その言葉に、シオンは沈黙した。
 シエルの眼が獲物を狙うそれに変じていく。
 志貴はシエルのその一言に、僅かに動揺していた。

「人を襲う事を許容した――? 先輩、それって」

「一週間ほど前、病院に若い女性が運びこまれました。 原因は、大量の失血。
 しかしその身体に大きな怪我は無く、ただ首筋に噛まれたような痕があった
と言います」

「私がやった、と?」

「可能性の問題です。
 調べた結果、その女性の傷痕から吸血鬼の血が検出されました。
 死者にするほどの量ではありませんでしたが、明らかにあれは吸血鬼による
もの。
 ――おそらく、まだあまり吸血行為に慣れていないせいでしょうね。
 本人は意図せず、僅かに自分の血を送り込んでしまったのでしょう」

 シエルは淡々と語る。

「……さて、吸血鬼に襲われた被害者がいます。
 そして、ここには吸血鬼がいます。
 私が取るべき行動は――もはや言うまでもありません」

「――そうですか」

 もはや言うべき事はない。
 まるでそう言うかのように、シエルは戦闘の構えをとった。
 シオンもまたいつでも動き出せるよう、腰をおとし、両脚に力を溜める。
 一触即発。
 空気は張り詰め、息苦しささえ覚える。
 そして、一番先に動いたのは。

「だから、二人とも待てって!!」

 志貴だった。
 志貴は素早くシオンの前に出ると、シエルから彼女を庇う様に背後に隠した。

「どきなさい、遠野君。邪魔をすれば怪我をしますよ」

「どいてください、志貴。目の前に立たれると狙いがつけにくい」

 ほとんど同時に、二人から警告の言葉が発せられる。
 志貴は頭を抱えたくなる衝動を必死に堪えた。
 今、一瞬でも注意を逸らすと、その瞬間に戦いが始まってしまうからだ。

「先輩、今の話はおかしい。シオンが犯人なわけがないじゃないか」

「――どきなさい、遠野君。もうこれ以上の警告はしませんよ」

「どかない。誤解で知ってる人間が戦うのなんてゴメンだ」

 志貴は強硬な態度を崩さなかった。
 シエルの様子を油断無く見ながら、言葉を続ける。

「先輩は、シオンが血を吸ったって言ってた。でも、そんなはずない。
 シオンは人の血を吸うことはしないし、その必要もないんだ」

「――彼女は、吸血種です」

「それでもだ。シオンの吸血衝動はワラキアの影響によるものだった。
 ワラキアがいるから死徒に近づいていって、だからシオンは吸血衝動に悩ま
されてた。
 けど、もうワラキアはいない。だから、シオンはもう血を吸うことはないん
だ」

「それは根拠にはならないでしょう。彼女の様な例は稀です。
 その中に例外がないとは言いきれません」

「ワラキアとの戦いの時、シオンは一度は衝動に飲まれかけた。
 けど、最後には自分の力でそれに打ち勝ったんだ。もうシオンはそれを克服
してる」

「一度ばかり衝動を退けたからとて、それが恒久的に続くとは限らない。
 いえ、むしろ年を経るごとに衝動は強くなっていく傾向にあります。
 いつまでも耐えていけるものではない――アルクェイドのことを、忘れまし
たか遠野君」

 シエルは、アルクェイドの例を挙げた。
 真祖の姫君たる彼女は、実は一年ほど前に一度衝動に飲まれかけた事がある。
 彼女は志貴やシエルに襲い掛かり、その時の恐怖の記憶は未だ志貴の中に色
濃く残っていた。

「違う。アルクェイドだって、今は衝動を抑えきれてるじゃないか」

 それでも、志貴は首を横にふる。
 どうあっても肯定しないと示すように。

「……シオンも、やってもいないことで喧嘩するな。
 やってないならやってないって言えばいいだろ」

「ですが、志貴」

「ああ、シオンがやったって言っても信じないからな。
 シオンは血なんか吸わない。自分に負ける事もない。
 だから、そんな嘘は信じてなんかやらない」

「――――」

 反論を許さない断定的な口調で言われ、シオンは思わずため息をついた。
 どうして、この人はこう、理屈の伴わないことで強固なのだろうか、と。
 その事にわずかな疲れと嬉しさを感じながら、シオンは志貴の前に出た。

「剣を引いて下さい、代行者」

 シオンは、馬鹿な事をしていると思いながら、シエルに呼びかけた。
 本来なら代行者に言葉などが通じることはない。
 彼ら、彼女らは、冷酷非情の殺人機械といっても過言ではないのだから。

「このままでは志貴が戦闘に首を突っ込んできかねない。
 彼と戦う事は、あなたにとっても本意ではないでしょう」

「…………」

「私は人の血を吸っていない。過去も、現在も、そして未来においても。
 私が人の血を口にする事は、決してないと断言します」

 シオンは毅然とした態度でそう言った。
 シエルは黒鍵を構えた体勢のまましばし黙考する。
 ややあって。

「…………いいでしょう」

 長い沈黙の後、シエルは黒鍵を下ろした。

「ですが、これで最後です。
 次はありませんので、そのつもりで」

 言って、シエルは二人に背を向けていた。

「――ありがとう、先輩」

 シエルは志貴のその声に振り返ると、複雑な表情で応える。

「礼には及びません。
 他にやる事があるからこそ、私はこの場を去るのですから」

「やることって……?」

「遠野君」

 その瞳に冷酷な光を宿して、シエルは言う。

「“彼女”の方は、こうはいきませんから」

「――っ!!」

 その言葉に反応したのは、志貴ではなくシオンだった。

「え、どういう意味――先輩?」

 志貴がそのシオンの様子に気を取られた一瞬の間に、シエルはすでに姿を消
していた。

「……シオン?」

「――いけない」

 そう呟く。
 その顔には彼女にしては珍しく、焦りの色が浮かんでいた。

「志貴! 時間がありません!」

「――ど、どうしたんだ、シオン。突然……」

「驚いてる時間はありません、今から言う事を落ち着いて聞いて下さい」

 まるで睨みつけるかのような鋭い視線を向けられ、志貴は驚きながらも頷い
た。

「いいですか、志貴。
 先ほど代行者が言っていた、人を襲う事を許容した、というのは事実です」

「シオン、それは――」

「黙って!」

「――――」

 その剣幕は、通常の彼女からはありえない。
 志貴の顔も自然と真剣身を帯びる。

「もちろん、志貴の言う通り、“私は”血を吸っていません。
 血を吸ったのは私ではなく、もう一人の方です」

「もう、一人?」

「志貴」

 そして、シオンは告げた。
 遠野志貴にとって、最大の禁忌たる、その名前を。

「――弓塚さつきが、生きています」













 ずる、ずるり。
 人を引きずる音がする。
 ずる、ずるり。
 路地の裏手へ、裏手へと。
 ずる、ずるり……。
 やがて、人の気配のしない場所に辿り着くと、彼女は引きずっていた人間を、
優しく壁にもたれさせた。

「…………」

 壁にもたれた人間の、髪をかきあげ、その首筋を露出させる。
 どくんどくんと脈打つ頚動脈。
 食い破れば、大量の血が吹き出る事だろう。

「……ごくり」

 思わず、喉を鳴らした。
 嚥下される唾液が、それさえも人のそれではないように、ねっとりと胃に絡
みつく。
 じっと惹きつけられる視線。
 そのまま彼女は犬歯を剥き出し、首筋へと顔を近づけ――

「――っダメッ」

 唐突に首筋から口を離した。

「はぁ、はぁ、はぁ……あ、あ、危なかったぁ。
 頚動脈なんか傷つけたら、この人死んじゃう……」

 呟いて、今度はその太い血管を意識しないように気をつける。
 できるだけ、たくさんの血が吸える場所を。
 でも、相手を殺してしまわない場所を。
 まだいまいち場所がわからないけれど、とりあえず目星をつけた肩口にかぶ
りつく。

 ごくり、ごくり……。
 喉を鳴らして、その血を吸いだす。
 ごくり、ごくり、と。
 その味に、思わず溺れてしまいそうになりながら、必死に理性を保ち続けた。

「……っはぁ」

 ある程度血を吸い上げた後、口を離し、相手の傷痕をぺロリとなめた。
 別にそれで相手の傷を治せるわけではないけれど、それは気分というヤツだ。

「ごちそうさま。……それと、ごめんなさい。
 引き摺ってきちゃったから、服、汚れちゃったね」

 血を飲んでいた少女は、いまだ気を失い続けている相手に向かって、そんな
言葉をかけた。
 その顔色を窺うと、ちょっと安心したように息を吐く。

「うん、今回は大丈夫そう。気をつけないとね。
 前の人は、ついつい飲みすぎちゃって、結構危険だったみたいだし」

 前のとき、あの女性の時は自制がきかず、危うく失血死させるところだった
のだ。

「シオンが止めてくれなきゃ、また人を殺しちゃうところだった……。
 もう、あんな事がないようにしなきゃ……」

 人を殺す。
 そう言った途端、気持ちが沈んだ。
 それは、一年前の記憶。
 あの時は、もう何人の人を死なせてしまったのかもわからない。

「……誰かのせいにできないよね……。
 みんな、わたしが殺しちゃったんだ……」

 俯いた彼女の表情は、果たしてどんなものだったのか。
 ぽたり、とその手に雫が落ちた。

「ぅ……だめだめっ! 落ち込んでばっかりじゃ!」

 ぶんぶんと頭を振る。
 少女は無理矢理笑顔を作ると、胸の前で両拳を握った。

「うん、元気、元気! 弓塚さつきは、前向きですっ」

 まるで何かの呪文のように。
 それを言った後の彼女は、それまでの沈んだ様子はもう消え去っていた。

 彼女の名前は、弓塚さつき。
 一年前から、世間的には死亡扱いになっている少女だ。
 確かに、弓塚さつきは死んでいた。
 “人間”弓塚さつきとしても、“吸血鬼”弓塚さつきとしても。
 前者は吸血鬼ロアの手によって、後者はクラスメイトの遠野志貴の手によっ
て。

 二度も生を終えてしまった彼女はしかし、今こうして生きている。
 何がどうなったのかは彼女自身わからない。
 ただ気がつけば、彼女は志貴に殺されたあの路地裏で、ポツンと独り、目覚
めていた。

「はぁ――シオンに会えてよかったなぁ。
 あのままじゃ私、どうしていいのかわからなかったもんね」

 さつきがシオンと出会ったのは、さつきが目覚めた翌日の事だった。
 路地裏で震えながら隠れていたさつきを見て、シオンはひどく驚いていたも
のだ。
 そうして、やがて彼女が本物の弓塚さつきとわかると、シオンは幾つかの助
言をし始めた。

 吸血行為はできるだけ抑えること。
 吸血衝動に飲み込まれないようにすること。
 代行者には、見つからないようにすること。

 その他細かく物事を教えてくれるシオンに、さつきは心から感謝している。
 今彼女が着ている学校の制服も、シオンが持ってきてくれたものだった。

「でも、シオン、大丈夫かな……。
 代行者って人の注意を引き付けるって言ってたけど」

 さつきが吸血行為に及んでいる間、そうしようと言ってきたのもシオンだ。
 話で聞く限り、その代行者と争う事はとても危険なことらしい。
 
 なんで彼女が自分にそこまでしてくれるのかはわからない。
 わからないけれど、わからない中で、さつきはシオンを信用していた。
 彼女がそう言ったなら、その通りに行動するべきなのだ。

「さ、この人、病院の前まで連れて行こう」

 早くコトを済ませれば、その分シオンの負担は軽くなる。
 そう考えてさつきは、思考と独り言を中断させた。
 後は、この人が無事に手当てを受けられるように、病院の近くに連れて行く
だけ。
 よいしょ、と今週分の血を提供してくれた相手を背負おうとする。

 ――そして、空気が凍った気がした。

「――っ!?」

 飛びずさる。
 吸血鬼になったさつきの身体能力は、人間のそれじゃあない。
 元いた場所から、十メートルは後ずさっていた。

「こんばんわ、いい月夜ね」

 誰かが路地の向こうに立っている。
 見知らぬその女性は、笑顔をこちらにむけて、まるでなんでもないように挨
拶した。

(見られた――? ……ううん、それより……)

 何か変だ。
 直感で、さつきは悟る。

「あの、誰……ですか?」

「わたし? わたしは――」

 にこにこと、笑っている女性。
 月の光が、金色の髪を美しく魅せている。
 風に揺れるそれは、長ければもっと綺麗だっただろうな、などと、場違いな
感想をさつきに持たせた。
 その瞳は真紅。
 それが常にこちらの様子を捉えて離さない。
 背筋に走る悪寒はきっと、その視線のせいなのだろう。

「――アルクェイド・ブリュンスタッド。
 あなたの“親”の、知り合いよ」

 アルクェイド――そう名乗った彼女は、さつきから随分離れた場所に立って
いる。
 なのに、何故だろう。
 今、さつきには、その距離が限りなくゼロに近いように思えた。

「ほーんと、捜しちゃった。
 いきなりロアみたいな気配が現れるんだから。
 ……ロアみたいに、ねっとりした気配はしないけど」

「…………」

 汗が頬を伝う。
 ああ、吸血鬼でも汗が出るんだ、なんてことを無意識に考えつつ、さつきは
静かに恐怖していた。

 “このヒトには敵わない”。

 突きつけられたその感覚は、逆らうことなど許されない絶対的なもの。
 恐怖が少しづつ、絶望へと移り変わっていく。

「ね、その身体、人形? もともとの身体じゃないでしょ?
 どこの人形師に創って貰ったの?」

「ぁ……う……わ、わかりま、せん」

 どうにか声を絞り出す。
 ここから逃げ出したい。
 ここから離れたい。
 押し潰されそうなほどの見えない重圧が、さつきの精神と肉体を襲っていた。

「……へぇ、この状態で喋れるんだ。
 さすが、一年と経たずに吸血鬼化しただけの事はあるわね」

 アルクェイドの目に殺気がこもる。
 もはや、さつきは生きた心地がしていなかった。
 蛇ににらまれた蛙、蜘蛛の巣に捕らわれた羽虫。
 ほんの一瞬後の自分の終わりを、明確に想像できてしまう。

「……ど、どうし、て」

 このヒトは、どうして自分を追い詰めているのか。
 ひょっとして、人を襲ったからだろうか。
 もしかしなくても、自分が吸血鬼だからだろうか。

 そんなことを訊こうとして、けれど声はそれしか出なかった。
 しかし、それでもアルクェイドには伝わったようだ。

「それはね」

 アルクェイドは無邪気な――本当に、惨酷で、無邪気な笑顔を浮かべて言っ
た。

「――ロアの系譜は、残しておけないから」

「ひっ――――」

 直後、悲鳴は出なかった。
 喉の機能さえ、麻痺してしまったかのように。
 訪れる死が、実感として感じられる。
 それは、一度経験した、あの時のものとは違うもの。
 あの時は、寒くて、寒くて、でも、ほんのちょっとだけ、暖かかった。
 だから、終る瞬間も、ずっと笑顔を浮かべていられた。
 でも、今度は違う。
 ここは本当に暖かみのない、極寒の地獄――。

 あれだけ離れていた距離が一瞬で詰められる。
 その手、その爪が自分を引き裂く予感――確信がさつきを襲った。

「――ィ」

「っ!?」

 何かを察してアルクェイドか飛び退く。

「イヤァアアアアアアアアアッッ!!」

 喉を凍らせていた見えない氷が壊れて消えた。
 身体の中から、無理矢理引き出した何かが、辺りの様子を変えていく。
 それはまるで油絵の様。
 キャンバスに描かれた絵の上から、もう一度新しい色を塗っていく。

「――うそっ。固有結界?」

 固有結界。
 自身の心象世界を世界の上に展開する、己に絶対的に有利な結界だった。
 何故なら、そこは自身の世界。
 自分のルールで存在する世界で、自分が絶対者でないはずがない。

 やがて、さつきの描いた絵画は現れる。
 辺りは一面の肥沃な大地。
 緑なす草原と、見事な葉をつける巨木が聳え立つ。

 だが、それは一瞬の幻想。
 草木は枯れ、まるでその生命を吸い取られたかの様に大地もすぐに罅割れて
いく。

「くっ、はっぁ……」

 枯渇していく庭園。
 さつきは、バラバラになりそうな感覚に身悶えた。

(いや……体が……弾けて――)

 必死に、自分の身体を押さえ込む。
 そうしなければ、内側からの力で千の肉片にもなってしまいそうだった。

 内側から押し上げる力は徐々に、徐々に強くなっていく。
 それは、周囲から吸い上げているマナ。
 世界に存在する全ての力たる力を、弓塚さつきはその結界で吸い上げている
のだ。

 だが、さつきの身体はその力に耐えられない。
 このまま吸い上げ続ければ、待っているのは紛れもなく――破滅。
 しかし、さつきは意識してこの世界を作っているのではなかった。
 自分で止める事も、そう努力することさえできはしない。

「――やっあ……!」

「へぇ、すっごーい。
 どんどん吸い取られていってる、私の力」

 必死の形相で、思考も出来ずに痛みに耐えるさつき。
 その目の前でアルクェイドはさして堪えた様子も無く感心してみせる。

「でも、ちょっと荒いみたいね」

 そう言うと、アルクェイドはその瞳を金色に染めた。

「ひっ――やぁああああ!!」

 さつきの悲鳴が一段と高くなる。
 流れ込む力が段違いに上がったのだ。
 アルクェイドはそれを気にした様子も無く、塗り替えられた世界の一点を凝
視する。

「――壊れなさい」

 呟き。
 たった、それだけ。

 ただ、崩れ落ちる世界をアルクェイドは空想した。
 固有結界は世界に対する嘘の塊。
 それ以上の嘘により、たやすく塗り替えられるもの。
 かくして空想は具現化し。
 さつきの世界は、渇いた音と共に崩れ去った。

「――ぁ、ぅ……」

 どさり、とさつきがその場に倒れこむ。
 内側から、ずたずたにされた身体。
 それは、別にアルクェイドの仕業ではない。
 いや、間接的にはそうなのだろうが、これはさつき自身の固有結界のせいで
ある。
 取り込むモノに対して、さつきという器は充分な強度を持っていなかった。
 あるいは、より吸血鬼と化していたのなら、もう少しは耐えれたのかもしれ
ない。

 アルクェイドは倒れこむさつきの喉を掴むと、片手でそれを持ち上げた。
 ギリギリとその手が首に食い込んでいく。

「ちょっと面白かったわ、貴女。でも、これでおしまい」

「か――くぅ……」

 苦しむさつきを前に、アルクェイドは優しげな笑みを浮かべ、その手に力を
こめた。
 吸血鬼に、窒息など期待しない。
 喉を握りつぶし、引きちぎって、胴体と頭部を分断させるつもりだった。

 そして、それは現実になる――あと、ほんの少し、その声が遅れていたなら
ば。

「待てアルクェイドッ!!」

「――――志貴!?」

 手に込められようとしていた力が抜ける。
 振り返ったアルクェイドの目に、見慣れた学生服の少年が映っていた。





 遠野志貴がその場に駆けつけたとき、志貴は現実を直視できなかった。
 その白い服、紺色のスカート。
 金色の髪の女性が、学校の制服を着た女の子を片手で持ち上げている。

(――アルクェイドに…………)

 その名前が、でてこない。
 いや、出てこないのではなく、それを思い浮かべるのを躊躇した。
 なぜなら、その名前は遠野志貴の罪とともにある名前であり、いままで意識
的に避けてきた名前であったからだ。
 しかしそれでも、ほんの一瞬の躊躇の後、志貴は彼女の名前を呟く。

「弓塚さん……」

 弓塚さつき、元クラスメイト。
 彼女とはそう親しい仲ではなかったけれど、彼女の笑顔は今でも思い出せる。
 あれはたった一度だけ、学校から一緒に帰った時のこと。
 夕陽に染まる坂、朱に染まる横顔。
 懐かしそうに、遠く思い出話をする彼女の姿が、用意に思い起こせた。

『ピンチの時は、守ってね……』

 そしてそんな約束を交わし、けれど守れなかった少女。
 最期は自らこの手にかけ、この世から消し去ってしまった、その少女。

 その彼女が今目の前で、よく知る相手に吊り上げられている。
 これが現実だと認識するのに若干の時間がかかったとして、誰が彼を責めら
れるだろう。

「――志貴!」

「っ、待てアルクェイドッ!!」

 後ろからかかったシオンの声に、我に返った志貴はアルクェイドを止めに入
った。
 見ればその指は深くさつきの首に食い込んでいる。
 さつきがすでに吸血鬼であることを考えても、あれはやばいレベルだった。

「――――志貴!?」

 アルクェイドが振り返る。
 その手の力が目に見えて弛むのがわかった。

(――よかった……)

 ひとまずは安心する。
 そのまま志貴はアルクェイドの近くまで駆け寄ると、そこで乱れた息を整え
た。
 その後ろにシオンも少し遅れて到着する。

「っぁ、はぁ、はぁ……」

「どうしたの、志貴? そんなに慌てて」

「……あのさ、アルクェイド。
 その娘、離してやってくれないか?」

「えっ――」

 突然の志貴の申し出に、アルクェイドは驚いた顔で手にした少女と志貴を見
比べた。

「あれ? 志貴の知り合い?」

「ああ――そう……友達なんだ、彼女とは」

「ふぅん……」

 言われて、アルクェイドは少女を改めて観察する。
 今まで、志貴の近くでは見なかった顔だ。
 ただ、その服は志貴の学校でたくさん見た気がする。
 ――というか、そういえばシエルも同じ服を着ていた。
 なら、同じ学校に通っていたこともあったのだろう。
 志貴の知り合いというのも、なんとなく納得できた。

「……そう、志貴の知り合いって事はわかったわ。それで?」

 アルクェイドは問い返す。
 今度は志貴が、その言葉に驚く番だった。

「それでって、アルクェイド、お前――」

「だって、この娘吸血鬼よ、もうどうしようもないくらい」

「――――」

 はっきりと言われて、志貴は言葉につまった。

 弓塚さつきは吸血鬼だ。
 それは、わかっていた事である。
 生きていれば人の血を飲まねばならず、そして、もう何人も人を殺してしま
っていた。
 あの、真っ赤に染まった手の向こうで、狂気の笑みを浮かべた彼女を思い出
す。
 果たしてそれは、許されるべきことであるのだろうか――

「志貴、さつきは未だ人です」

「シオン……」

「少なくとも、私の知るさつきはそうだった」

 シオンがさつきを弁護する。
 彼女がここ数日、さつきを匿っていた事は道すがらに聞いていた。
 聞いたときはそれでも信じられなかったが、今そこに本人がいる。

「ふぅん、そうなんだ。
 珍しいわよね、人の血を飲んでるのに。まだ人で居続けてるなんて」

 アルクェイドはシオンの言葉を聞いて、興味深そうにさつきの顔を眺めた。
 けれどすぐに興味をなくして、もう一度志貴に向き直る。

「でも、それだけ。いつかは吸血衝動に飲まれるわ。
 吸血鬼になって、人を殺し続ける――それでも助けるの? 志貴」

 まるで、試すような口調。
 いや、実際そうだったのかもしれない。
 アルクェイドの興味は、志貴にあった。
 彼がどんな答えを出すのか、その事にだけ興味を傾けていた。

 そんなアルクェイドの意図も関せず、志貴はただ、考えていた。
 もしも、さつきが“あのまま”であったのなら。
 あるいは、さつきが“ああなる”のであったなら。
 ここで助ける事は、正しいことなのだろうか?
 ここで彼女を助ける事は、彼女のためになるのだろうか――。

 そこまで考えて、そして自嘲する。
 一瞬でも、そんなことを考えた自分を。
 志貴は眼鏡のフレームを手で押し上げると、決意を込めて口を開いた。

「――それでもだ、アルクェイド。その手を、離してやってくれ」

 正しいかどうかなんて、関係が無かった。
 今、彼女を助けたい。
 それが、その気持ちが、志貴自身の正しさだった。

「…………そう、志貴がそう言うなら、いいわ」

 言ってアルクェイドは、気絶しているさつきを静かに横たえる。
 その顔は、わずかに不満そうではあったが、納得しているようでもあった。
 その様子を見て、志貴はほっと胸を撫で下ろす――


 と、その時。


 ――ヒュオゥッ!

「――――っ!!」

 突如、風を切り裂く音。
 反応したのはアルクェイド。
 尋常でない早さで左腕を振るう。
 
 ジギィンッ!!

 刃が甲高い音をたてて弾かれた。
 地面に突き立ったそれは、一瞬後に炎を上げて燃え盛る。

「火葬式典――なんて、確認するまでもないわね」

 アルクェイドの呟き。
 志貴は、その刃――黒鍵の飛んできた方を見た。

「先輩……」

「代行者――」

 志貴とシオンの声が重なる。
 そこにいたのは先ほど別れたばかりのシエル。
 その瞳の青は、夜の中で漆黒に見えていた。

「……どういうつもり、シエル。
 いきなり喧嘩売るなんて――っていつもの事か」

「確かに、貴女の存在を許した事は一度としてありません。
 ですが、今のは貴女を狙ったわけではありませんよアルクェイド」

 一歩一歩、シエルが歩み寄ってくる。
 それに合わせて、志貴とシオンはすでに戦闘態勢に入っていた。

 ……わかっていたのだ。
 今のシエルに、説得が無意味であるということが。

「尾行されていた、という事ですか」

「ええ、もちろんです。
 こうまで見事に引っ掛かってくれるとは思っていませんでしたが」

「先輩……」

 志貴達と、そうは離れていない距離。
 その間、10メートルといったところか。
 その位置でシエルは一度歩みを止めた。

「狙いは、最初から弓塚さんだったんだな」

「私は代行者です。吸血種を見逃すわけにはいきません」

 じゃっ、という音と共に、その手に黒鍵が数本握られた。

「アルクェイド、手出し無用です。
 貴女もロアの系譜は見逃せない存在でしょう?」

「……そうね、できるなら始末したいわ、この場で」

「っアルクェイド!」

「でも、志貴が怒るからや〜らない」

 アルクェイドはそのまま、路地の壁にもたれかかった。
 どうやら、この戦いに加わるつもりはないらしい。
 それが彼女の譲歩点なのだろう。

「……さて、そこを退く気はありませんか、遠野君」

「悪いけど、それはできない」

 志貴は即答する。

「彼女はすでに人を殺めています。
 何人も、何人も。時には、愉悦にすら浸りながら」

「…………」

「それでも、彼女を庇うと言うのですか?」

「俺は――」

 正直なところ、志貴はまだ混乱の最中にあった。
 突然告げられた弓塚さつきの生存。
 その理由さえわからないまま、気がつけばこの状況になっている。
 ぐるぐると目まぐるしく変わる現状に、頭がついてきていなかった。

 グチャグチャになった頭の中、思い浮かぶのは昔の記憶。

「――今の弓塚さんを知らない」

「志貴?」

 シオンが志貴が何を言おうとしているかわからず、怪訝な表情になる。
 志貴はそんなシオンの声には応えず言の葉を紡ぐ。

「あの時――この手で彼女の線を引いたとき。
 その時の彼女は、人だった」

 ――嘘つきっ――

「どうしようもなくて、助かりたくて、救われたくて。
 それで泣いてる、女の子だった」

 ――ピンチの時は助けてくれるって……――

「でも、彼女が吸血鬼だった時のことも覚えてる。
 手を真っ赤に染めて、哂っていた顔も覚えてる。
 だから、今の彼女がどっちなのかなんてわからない」

「…………」

「何が正しいのかなんて俺にはわからないし、
 ひょっとしたら先輩の選択が正しいのかもしれない。
 それでも――」
 
 ――バイバイ、遠野君――

「――俺は、こうしてナイフを握ってる。
 だから、そこに意味があるんだと、信じたい」

 志貴は眼鏡を外した。
 その眼が青く光を灯し、直死の魔眼が発動する。
 それは、彼の本気の証。
 本気で抵抗するのだと、その決意を伝える行為だった。

「……いいでしょう」

 志貴の言葉の後、シエルはそれだけを呟く。

「――」

 そして――動いた。
 もはや彼女に、言葉は無い。

「―――フッ!」

 その手から、黒鍵が放たれる。
 数は三本、狙いはさつき。
 同時にシエルが突進してくる。
 志貴はそのシエルを迎え打ちにいった。

「そこっ」

 シオンがエーテライトを繰る。
 投合された黒鍵は絡めとることこそ出来なかったものの、方向を変えられ、
逸れていった。

 志貴の蹴りが繰り出された。
 シエルの頭を狙って。
 それはたやすく潜られ、懐に入られてしまう。

「っ!」

 バランスを崩しながらも右手に持ったナイフを振るう。
 しかし、シエルはそれさえかわすと、拳を志貴の腹部に押し付けた。

「――飛びなさい」

 ゴガッッ!

「ぐぶっ――!!」

 志貴の身体が跳ねる。
 いや、跳躍というよりも、もはやそれは飛行。
 滑るように弾かれた志貴は、そのまま壁に激突した。

「チェック!!」

 シエルに、エーテライトが迫る。
 見えないはずのその糸。
 だが、シエルはそれをかわして見せた。
 アスファルトが抉れるほどの勢いで地を蹴ると、シオンに向かって肉薄する。

「――予測済みです」

 再び襲うエーテライト。
 四方から、シエルの身体に巻きついていく。

「無駄ですっ」

「なっ――!?」

 これでシエルは動けない。
 そう思って銃を構えたシオンに対し、シエルの勢いは衰えなかった。
 エーテライトは流石に切れない。
 だが拘束しきれずに、シエルの蹴りがシオンに入る。

「ぐっ――!!」

 かろうじてガードはするものの、その衝撃は殺せなかった。
 立ったままの状態で、地面を擦りながら後ろに吹き飛ばされてしまう。

「予測は出来ても、それに対抗する手段がなければ意味はありません」

「――――」

 言いながら、シエルは身体に巻きついたエーテライトを引き剥がした。
 見えない糸とて、身体に触れているのなら別である。

「相変わらず、化け物ですね」

 額に汗を浮かばせながら、シオンはシエルを睨みつけた。
 シエルはまるで無人の野を行くが如く、シオンとの間を詰めていく。

(距離を詰められれば不利――っ)

 シオンは銃を構えた。
 威嚇射撃、なんてものではない。
 殺すつもりで撃たなければ、シエルは決して止まらない。

 ――ダン、ダン、ダンッッ……!!

 十数発の銃声。
 マガジンの中を空にするまで、シオンの射撃は続いた。
 シエルはそれを難なくかわすと、唐突にスピードを上げ、その場から跳ねる。
 シオンは一瞬シエルを見失いかけるが、その動体視力でぎりぎりその姿を追
えていた。
 だが、それだけだ。
 壁に取り付いたシエルが壁を蹴り、勢いを増して突っ込んでくると、それに
対応することが出来なかった。

「くぁっ――!!」

 体当たりを食らったシオンはそのまま弾かれ、倒れ伏す。
 戦闘不能には程遠いが、だがその隙は致命的だった。

 ――今、さつきを守る人間はいない。

「終わりです」

「させないっ!!」

 志貴だ。
 さつきの傍に立つシエルに、いつのまにか近づいていた。
 シエルは慌てた様子もなく、向かってくる志貴に注意を払う。

 その、一瞬。

 ――ガシッ!!

「――ッ!!」

 シエルの足首を掴んだ手。
 何事か、と視線を落す。

 ――それは、寝ていたはずの、さつきのものだった。





 ……声、声がする。
 剣戟、銃声、ぶつかる音――。
 
 弓塚さつきは、ゆっくりと意識を取り戻した。

(えっと、どうなったんだっけ――?)

 戻ったのはまだ意識だけ。
 身体は、まだまだ動かない。
 何も出来なかったので、さつきは頭の中を整理し始めた。

(確か、一週間ぶりに血を飲んで……それで)

 金色の髪を思い出す。
 赤色の瞳を思い出す。
 そして迫りくる爪を思い出した。

(――あ、襲われ、たんだ――)

 誰に?
 わからない。
 なんで?
 よくわからない。
 何もかもがわからないまま、視力が戻る。

「――終わりです」

 冷たい声と冷たい瞳。

 ――ぞっとした。

 動き始めたばかりで、身体はまた固まってしまう。
 それは、恐怖で。

「させないっ!!」

(遠野君――!?)

 間髪いれずに聞こえた声に、身体の自由を取り戻す。
 目の前に、足。
 それが誰なのかはわからなかった。
 ただ、この人が自分を殺そうとしていることだけはわかった。

 だから、掴む。
 その足を。

「――ッ!!」

「――ぁああああっ!!」

 掴んだまま、さつきは飛び起きた。
 吸血鬼の膂力は並じゃない。
 人ひとりを片手で持ち上げたまま、それを振り回す。
 そして勢いをつけて放り投げ、壁に叩きつけようとした。

「――」

 だが、宙に放り出された相手は、そのまま空中で体勢を帰ると、両足で壁に
着地する。
 そして何事も無かったかのように、そのまま地面に舞い降りた。

「……うそ」

 それを見て、思わずさつきは呟いていた。
 それは、二つの意味で。
 超人的な動きに驚いたことが一つ。
 そして、その顔に見覚えが会った事が、もう一つの理由。

「シエル先輩?」

 その誰かは、以前学校で会った事があった。
 いや、正確には見かけたことがあった。
 その人が、なんでこんなところにいるのか。
 なんであんな物騒なものを持って――あんなにも、殺気立っているのか。

 そういえば、とさつきは思う。
 外国からの留学生なんか、うちの学校には居なかったな、と。

 さつきは混乱していた。
 いないはずの人のことが、記憶の中に存在している。
 加えて、現状が飲み込めないでいる。

「下がるんだ、弓塚」

「――遠野、君……」

 遠野志貴がさつきの前に立った。
 シエルから、さつきを庇うように。
 その背中がすぐ目の前に存在している。

「え、ええ? あの――ええ!?」

 さつきは面白いくらいにうろたえた。
 これはどういう状況なのだろう。
 キョロキョロと周りを見渡してみる。
 
「あ――シオン!?」

 近くに、よく知った彼女の姿がある。
 さつきはシオンに、説明して欲しい、と言いたげな目を向けた。

「さつき、説明は後で。今は下がってください。
 代行者の狙いは貴女です」

 シオンが言ったその言葉に、さつきは改めてシエルを見た。

 代行者。
 吸血鬼の様な、“ありえない”生き物を狩る、冷酷な狩人。
 シエルから向けられている殺気を感じながら、ああ、なるほど、とさつきは
理解した。

(あの人が、そうなんだ)

 思いながら、一歩下がる。
 さつきは、自分が戦えるとは思っていなかった。
 一般の人間相手なら、躊躇うことは無かったかもしれない。
 けれど、そこにいるのは“違う”のだ。

「……っ!!」

 下がって――下がろうとして、そして気付く。

 ――壁際に、さっきのヒトがいる。
 
 アルクェイドを見たさつきは、更に恐怖から後ずさった。

「………ん?」

 その様子を見て、アルクェイドは不思議そうな顔で首をかしげ、

「ハァイ♪」

 一瞬後には、笑顔で手なんか振って見せた。

「……どうなってるの? わかんないよぉ……」

 泣きそうになりながら、さつきは更に混乱するのだった。





「…………っ」

 シエルは、小さく舌打ちをした。
 弓塚さつきに掴まれた足首、そこがひどく痛んでいる。
 尋常でない握力で握られたのだ。
 あるいは、引き千切られなかっただけ、運が良かったのかもしれない。

(――完治するまで、約五分……まずいですね)

 シエルは自身に治癒の術をかけている。
 ロアの知識の中にあったそれは非常に優れたものではあったが、かつての不
死性には遠く及ばない。
 この戦闘の間、機動力が減衰するのは否めなかった。

(殲滅対象1、障害2……不確定要素1)

 彼我の戦力を考える。
 生まれたばかりの死徒と半吸血鬼。
 もう一人はその目に特異な能力のある一般人。
 最も厄介な真祖は今は見物を決め込んでいる。

(その括りで言えば、苦労する相手ではありませんが――)

 しかし、単純にそうとも言えなかった。
 なにしろ戦力の測りにくい相手ばかりだ。
 その気になれば攻撃に致死性を持たせられる人間と、ポテンシャルが未知数
の吸血種。
 そして半吸血鬼は“あの”アトラスの錬金術師。
 切り札となる兵器を隠している可能性は高かった。

(しかし、この身は埋葬機関の弓。ここで退くわけにはいきません)

 そう、退くわけにはいかない。
 異端を前に逃げ出すことなど、許されることではなかった。
 “代行者であるシエル”は退くわけにはいかないのだ。

 ――代行者である、シエルは。

「…………」

 ……ここで一つ、誤解を解いておこう。

 シエルは、弓塚さつきに同情していないわけではなかった。
 唐突に理不尽な状況に叩き落され、衝動に駆られるまま人を殺める。
 そして自分は心のどこかに人の部分を残したまま。
 その心情は、わかりすぎるほどわかっていた。
 
 だからこそ、シエルはさつきを滅ぼす。
 かつて自分にとって、“死”こそが希望であった様に。
 絶望の生の中に落とされた彼女にとって、“死”こそが救いになると信じて。

 ――けれど。

 今、弓塚さつきの傍には彼がいた。
 死ぬことだけを目的にして、他の全てを捨てていた自分を、救い上げてくれ
た彼がいた。
 もしも彼が本気で弓塚さつきを助けたいと思っているのなら、あるいは――。

(駄目ですね……どうにも、最近の私は甘すぎる)

 助けになりたい、そう思わないでもない。
 さつきが人として生きたいというのであれば、その方法を探してみたいとも。

 だが、しかし。

(……やめましょう。この身は埋葬機関の第七位。
 代行者である私は、それ以外のものにはなれない)

 シエルは、黒鍵を構える。
 両手に掴めるだけの刃を。

(上手く行くかどうかは賭けですか……主よ、加護を)





「――本気でいきます」

 シエルが、黒鍵を構えた。
 志貴達が身構えると同時、それは投擲される。

「――くっ!!」

「これは……!!」

「やだっ!」

 左手に握られた三本が放たれたかと思うと、右手にあった三本が。
 そしてそれが手から離れる前に、左手には新たに三本の黒鍵が握られている。
 何十という数の黒鍵。
 それが息もつかせぬほどの間隔で志貴達に迫った。

 黒鍵による弾幕。
 回避しきることなどできない。
 最初の内は弾き、かわし、何とか凌いでいたそれも、限界はすぐにやってき
た。

「ぐ――ぁ!」

 一番最初に崩れたのは志貴だった。
 身体能力的にいって、ただの人間である彼がこの中では一番不利だ。
 かわしきれなかった黒鍵が、志貴の左肩を切り裂いていった。

「志貴ッ!!」

「遠野くん――ッッ!!」

 シオンとさつきが悲鳴をあげる。
 転げた志貴に降り注ぐ刃――。

(――かわせない!!)

 志貴はそう悟り、せめて急所は外そうと足掻く。
 しかしそれも焼け石に水。
 ついにその刃は志貴を捉え――

 ――がっしゃぁぁん!!

 けれど、傷つける事はできなかった。

「……え?」

 間の抜けた声を、志貴があげる。
 彼は今、襟元を掴まれ、持ち上げられていた。

「アル、クェイド――?」

 自分を掴みあげている彼女の名を呼ぶ。
 アルクェイドはそれには応えず、厳しい目でシエルを睨んだ。

「……どういうつもりです、アルクェイド。
 手出しをしないのではなかったのですか」

 シエルが静かに、アルクェイドに問う。
 見れば、もう黒鍵の雨は止んでいた。
 どうやら、アルクェイドが振るった一撃の風圧で、全てあらぬ方向に弾かれ
たらしい。

「……本気で言ってるの、シエル?」

 アルクェイドは怒りを込めた声で問い返した。

「ええ、私はその娘がどうなろうと知らないとは言ったわ。
 けど、志貴が傷つくんなら話は別。
 ――あなたなら、そんな事はしないと思ってたんだけど」

「買いかぶりですね、真祖。
 私は使命のためなら、多少の犠牲は厭いません」

「――シエル、あなた」

 明らかにアルクェイドの雰囲気が変わる。 
 どうやら本気で頭にきているようだ。

「そう、そういうことなら、遠慮しない。
 ここからは私も参戦する――文句ないわよね」

「…………」

 シエルは無言でアルクェイドとにらみ合う。
 アルクェイドはシエルを睨みつけたまま、志貴をその場に下ろした。

「――待て、アルクェイド!」

「待たない。いくら志貴の言う事でも、それは聞けないわ」

「く――っ、先輩!」

 こうなった時のアルクェイドの説得は無理。
 そう判断した志貴は、説得の対象をシエルに移した。

「ここは退いてくれ。先輩だって、本気のアルクェイドとやりあうつもりはな
いはずだ」

「埋葬機関第七位、その名を冠する以上、異端の消去は最優先事項です」

「先輩!!」

「ですが――そうですね」

 言って、シエルは無表情のままに場を見渡す。

「戦力差がありすぎます。確かに、ここは退くのが得策でしょう」

 シエルはそういうと、手にしていた黒鍵を収めた。

「……弓塚さん」

「え――は、はいっ」

 さつきは突然シエルに名を呼ばれ、律儀に返事を返す。
 そこに驚きが混じっていたのは、相手が自分の名前を知っているとは思って
なかったからだろう。

「今回は見逃しますが、次はありません。
 ……この世でやりたい事があるのなら、それまでにやっておくことです」

 シエルはそう言い残すと、掻き消えるようにその場から去って行った。



「――終った、のか?」

 しばらくの時間が経ち、ポツリ、と志貴が呟いた。

「……そのようです」

 シエルが去った後を怪訝な表情で見ながら、シオンがそれに同意した。

「え、えっと……何がどうなったの?」

 さつきが、事態が掴めていないという風に、おろおろとそんな事を訊く。
 そんなさつきを見て、シオンが柔らかく微笑んだ。

「……とりあえず、今日のところは生き延びた、ということです」

「あ――」

 シオンの言葉を聞いて、ぺたん、とさつきがへたり込む。

「そうなんだ……よかった――」

「さつき?」

「うん、大丈夫。ちょっと、力抜けちゃって」

 力なく微笑むさつき。
 無理もない。
 なにしろ、今夜だけで二度も殺されかけたのだ。
 精神的な疲労は計り知れないものだっただろう。

「あ、えっと――弓塚、さん……?」

 そんな彼女に、志貴が近づく。
 改めて名前を呼ばれて、びくり、とさつきが顔をあげた。

「と、遠野くん……」

 それで、改めて気付いた。
 そこに、彼がいることを。

 戦闘の中でうやむやになっていた再会。
 あんな別れ方をした二人は、今、この場で再び、顔を合わせていた。

「弓塚さん……」

 そっと、志貴がさつきの頬に手を伸ばす。
 その指先が、わずかに震えていたのは気のせいではないだろう。
 かつては、自分が手にかけた少女。
 それが、目の前に存在している。
 まるで、それが幻ではないかと疑うように。
 志貴は、おそるおそるさつきに触れた。

「あ、あぅ……」

 さつきは胸の前で手を合わせ、思わず身体を縮こまらせる。
 それは、恐怖ではない。
 いや、ある意味恐怖ではあったのだが。

 ……さつきにとって、志貴は恋焦がれた相手だった。
 そして、あんな別れをして、再びこの世に戻ってきても、もう会えないだろ
うと思っていた。
 あの時は、半ば彼を殺しかけたのだ。
 どうして、今更あわせる顔があるというのだろう。
 だから、再び生を得て今まで、シオンにも自分が生きていることを秘密にし
てもらっていた。
 ――しかし、会えないとなると想いは募るもの。
 多分に漏れず、さつきも志貴への想いを日々募らせていた。

 その相手が、今目の前にいる。
 殺し合いをした気まずさだとか、してしまった告白の恥ずかしさだとか。
 そんなものは、張り裂けてしまいそうな心臓の鼓動でかき消されてしまった。

 弓塚さつきは、だから、恐怖した。
 これで触れられてしまったのなら、自分はどうなってしまうのだろうか、と。

 そして、志貴の手がさつきの頬に触れる。

「――――」

 志貴の手のひらの感触に、さつきは自分の体温が上がっていくのを感じた。
 もはや、さつきは声もない。

「…………」

 その温もりを感じて。
 志貴は、さつきの存在をしっかりと確認する。
 そして、何故か。
 志貴は目頭が熱くなっていくのを感じた。

「っ!」

「え――と、遠野くん!?」

 志貴が、さつきを抱きしめる。
 顔を、その肩に押し付けるようにして。
 強く――強く。
 抱きしめられ、初めは慌てたさつき。
 だが、志貴の体が震えているのに気付くと、途端に気持ちは落ち着いていっ
た。

「遠野くん……」

 与えられる温もりに、さつきは緊張することも忘れている。
 熱くなっていく体に戸惑いながら、志貴の体を抱き返す。
 それは、まるで恋人同士のように。
 やがて志貴の体の震えが治まると、彼らは耳元で囁きあった。

「……おかえり、弓塚」

「……うん。ただいま、遠野くん――」

 二人はこうして、再会したのである……。









「……むー、な〜んか、納得いかないなぁ」

 喜び合う二人から少し離れて。
 アルクェイドは志貴達を見ながら、拗ねたように口を尖らせる。

「志貴にとっても、さつきにとっても、これはありえなかったはずの再会です。
 ……気持ちはわかりますが、今は邪魔しないでいて欲しい」

 シオンはそんなアルクェイドに釘をさした。
 彼女にとってはさつきも志貴も、大切な友人なのである。

「ん〜、それはわかってるんだけど」

「それより、少し気になることがあるのですが」

 放っておくと邪魔しにいきそうなアルクェイドに、シオンは全く別の話題を
持ちかける。
 アルクェイドも志貴のほうを気にしながら、シオンの言葉に耳を傾けた。

「なに?」

「代行者についてです」

「シエル? まだ何かありそうなの?」

「いえ、そうではありません。ただ、去り際の表情が気になったのです」

 シオンは、シエルのいた方をもう一度見ながら言った。

「わずかに見えた表情からですが――去る瞬間、彼女は安堵していました」 

「…………」

「その理由に、思い当たる事はありますか?」

 シオンは、半ば確証をもって訊いている。
 アルクェイドはつまらなそうな表情をすると、そっぽをむいてこう答えた。

「し〜らない。気のせいなんじゃない?」

「……そうですか」

「そうそう、融通のきかない頑固者だもの。
 きっと、自分を誤魔化すのに一生懸命になってただけよ」

 そ知らぬ顔で言うアルクェイドに、シオンは頷く。

「なるほど。不器用なのですね」

「ん? 誰が?」

「――それは、私の口からは言いかねます」

「ふ〜ん」

 アルクェイドはあまり興味がなさそうに返事をした。
 その表情が悪戯っぽく笑っていたのは、果たしてどうしてだったのか。

「……ね、もういいかな」

 いよいよ我慢が出来なくなったのか、アルクェイドはそう訊ねた。

「そうですね。私もそろそろ、限界です」

 それは、抱き合う二人を見るのが、という意味だろう。
 その言葉を聞くと、アルクェイドは嬉しそうに駆けていく。

「志〜貴! これから遊びにいこっ!」

「きゃあっ!!」

「だぁっ、ア、アルクェイド! お前な〜!!」

 アルクェイドを怖がるさつき、抱きついたアルクェイドに文句を言う志貴。
 起こる騒ぎを眺めながら、シオンは一人、目尻を緩めていた……。










 ――再会は成った。

 事件が起こるのは、これからまた、数日後。

 町には不眠症が広まり、人知れず、トランクを手にした魔法使いが訪れる。

 かくして夢は紡がれ、鏡の中へと彼らを誘う。

 果たして何処から何処までが夢なのか。

 あるいはこの再会も、数多の夢の一部であるのか。

 夏に浮かんだ蜃気楼。

 永遠の中の刹那の時間。

 夢の終わりはまだ、先の事――




-fin-


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