すれ違い

作:秋月 修二

 




『―――、――――?』
 逡巡。首肯。


 すっかり恒例となった検診を終えた帰り、玄関先で朱鷺恵さんと出逢った。
「あ、志貴くん。終わったところ?」
「ええ」
 彼女は目を細めて、朗らかに笑う。いつもならもう少し硬い雰囲気のこの場
所が、それだけで和らいだ。
「だったらお茶でも飲んでいかない? まだバスの発車まで余裕もあるし」
 正直、躊躇いが走った。しかし俺は結局首を縦に振る。
「なら……いただきます」
「誘ったのはこっちだし、気にしないの。ちょっと居間で待ってて」
「はい」
 そうして彼女は台所に、俺は居間に向かう。何だか急かしたみたいで、悪い
気もした。
 ドアを開け、長椅子に座る。
 肘掛の所が少し凹んでいる。床に長い傷が一本ある。どちらも、俺がやらか
したもの。
 ここに来るようになって随分経ったし、何度もここで歓談を楽しんだりもし
ている。だからこそ、長い時間を過ごしていれば、ミスをすることもある。
 そして、ミスが出来るくらいには、ここに馴染んでいる自分がいる。
 そんな場所で、俺は朱鷺恵さんを待つ。


 ……余所余所しさ。
 いや、意識しなければいい。


 手を開いたり閉じたりする。特に不都合は無い。元々不都合は無かったし、
病院に来て不都合になっても仕方が無いのだが……。
 ふとした拍子にダメになる可能性だって、やっぱりあるのだろう。
 今の俺の体は、一体どうなっているのか、疑問に思った。
 埒も無い。
「お待たせ」
 朱鷺恵さんが、緑茶と羊羹を持って現れた。
「ああ、ありがとうございます」
 向かい合う。
「今日はどうだった?」
「いやまあ……いつも通りでしたよ。手荒いのなんの」
「ふふっ、まあお父さんだしね」
 言いつつ、羊羹を嗜む。
 和食を好む俺には、洋菓子よりもやはり和菓子の方がしっくり来るのかもし
れない。緑茶と羊羹なんて組み合わせは、自然と手を進ませてくれる。
 俺の嗜好を弁えた上で、朱鷺恵さんはこういう選択をしたのだろう。


 白いシーツと白いカーテン。
 引き伸ばされた性の残滓。


「最近調子良いみたいだけど、あまり無理しちゃダメよ?」
「ええ、解ってますよ。俺も倒れたくはないですから」
 冗談めかした会話の中で、微かに苦笑を滲ませる。
 気付けばお茶が無くなっている。もう一杯お願いした。
「まあでも段々良くなってるみたいだし、そう心配しなくてもいいかもね。あ
まり気にすると、逆にこういうのってマイナスになっちゃうし」
「ええ。まあ普段は適当にダラダラしてるんで、そんな意識もしないですから」
 思えば、俺はいつでも誰かに心配されている。内心すまなさが募る一方、ど
うしようもないありがたさを覚えたりもする。
 我ながら難儀なものだ。
「そういえばこの羊羹、どこのです?」
「ん? 気に入った?」
「ええ。久しぶりに美味しいの食べた気がします」
 そう告げると、朱鷺恵さんは妙に嬉しそうな顔を見せた。
「じゃあ、お土産に上げる」
 ちょっと待っててね、と続けて朱鷺恵さんが席を立つ。ぺたぺたと足を鳴ら
して遠ざかるその背を見送る。


 熱。
 荒い呼吸。


「お待たせ」
 戻ってきた朱鷺恵さんの手には、一本そのままの羊羹がある。
「いいんですか?」
 何と言うか……正直予想外なくらいに大きい。もう少し小さいものを想像し
ていたのだが。
「どうせお父さんも食べないし、私だけじゃ余っちゃうから。有間の皆で食べ
て」
「ありがとうございます」
 成程、確かにこれは一人ではきつい。まあうちなら人数もいるし、都古ちゃ
んあたりが喜んでくれるだろう。
 頭を下げて、俺は羊羹を受け取る。バックからはみ出てしまうが……まあ、
気にすることでもないか。
 潰れないように羊羹を突っ込んで、取り敢えず仕舞い終える。
「と、そろそろ時間ですね」
「あら。じゃあ、玄関までだけど、見送るわね」
「すいません」
 朱鷺恵さんが先に立って進む。俺はその後ろをついて行く。
 やっぱり彼女は年上で、どうにも俺は年下で。
 普通にしているつもりだが、朱鷺恵さんはきっと気付いている。皮肉だが、
それを見逃す女性じゃないことくらい、俺はよく知っていた。


 痛みをまとった嬌声。
 緊張の強調。


 考え事をするのに、玄関まではあまりに短い。
 一分足らずで朱鷺恵さんの足は止まってしまう。
 俺は靴を履く。朱鷺恵さんはそれを見ている。
 玄関。内と外の境目。
 取り繕った外面と、胡乱に流れる内面と。
 俺は、自然に見えるように微笑む労力なんて、知らない。
 そして彼女は、こちらの内面をきっと解らずにいる。
 こんなに近いくても、人の中身なんて解らないんだ。
 ぼーん。ぼーん。
 掛け時計が鳴る。
 楽しい寂しい魔法が解ける。
「気にしなくて……いいからね?」
「朱鷺恵さんの、方こそ」
 らしくもない無理を、お互いし過ぎていた。
 あの時に正解だったものは、今はきっと間違いになっている。
 ミスを見せられる場所、相手。
 でもミスで人を傷つけることを、俺は失念していた。
 軽率だったのだろう。俺に周りが見えていれば、結果はもっとマシだったろ
うに。


『慰めて、くれない?』
 逡巡。首肯。


 どうして俺は頷いたのか。
 事後に想いに気付いたとしても、きっかけによって結果は色褪せてしまう。
 ただの潔癖症。好きなら手段など選ばなければ良かった。
 いや、それではどちらが正解なのか。
 解らない。
 正解?
 あるのか?
 唇を噛んだ。
「……そろそろ行きます。大丈夫ですよ、そんな、気に病むことじゃありませ
んから」
「うん、私も大丈夫だから。今度は、もっと落ち着いて、食事でもしよっか」
 そう言って彼女は眦を下げた。多分、今の表情が彼女の本音だろうから、俺
は素直に受け止めた。
 あの時誘いを蹴らなくて良かったと思う。少なくとも、これは二人にとって
は進歩だから。
「そうですね、美味しいものでも食べに行きましょう。ああでも、俺お金無い
ですよ」
「私が奢ってあげるわよ」
「でもなあ……」
 とびきりの苦笑を。
「ほら、もうバス来ちゃうよ」
「ああ、まずいなそりゃ。じゃあ帰ります。ありがとうございました」
「どういたしまして」
 後悔混じりの安穏を感じた。
 俺は背を向けて、一直線に駆け出す。耳元で風が鳴る。余分な音が消えて、
思考がクリアーになっていく。
 そして、最後の朱鷺恵さんの表情だけが頭の中に残る。
 チャラに出来る訳もない。だから当然まだ苦い。
 俺も朱鷺恵さんもまた、当たり障りの無い接触を繰り返すだろうか。
 それに何となく齟齬を感じつつ、それを選ぶのだろうか。
 そんなのは願い下げだ。けれど、俺に何が出来るのだろう。
 答え?
 あるのか?

 ―――少し、大人になりすぎたのかもしれなかった。

                               (了)


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