暑中見舞い


作:10=8 01






 中天に達した陽光が傾いている。昼間とはもう呼べず、夕刻と呼ぶにもまだ早い、そんな時間帯。
 強い日差し、下がる気配を見せない気温、そして止むことを知らないかのようなけたたましい蝉の鳴き声。五感を夏という季節が容赦なく刺激していた。
 その暑さに耐えかねたのか、遠野志貴はカップに注がれたアイスティーを一気に飲み干す。冷えたそれは喉へ心地よい刺激を与えてくれた。味も申し分ない。
「兄さん。もう少し上品に飲んで下さい。市販の飲み物を飲んでいるわけではないのです。紅茶なのですから、もっと味を楽しんで……」
 志貴の向かいに座り、僅かに眉根を寄せるのは遠野秋葉。彼女の言葉には若干ながら溜息が混じっていた。仕方が無い、とでも言いたげな。
「しかしなぁ、秋葉。こう暑くっちゃあ仕方が無いだろ……喉が渇くというよりも体が水分を欲しちまう」
「……つまり、味を楽しむといったことはしない、と」
「いやいやいやっ。そりゃあ、一気飲みだったかもしれないけど。味を気にしないほど鈍感じゃない」
 さすがに紅茶の葉や淹れ方などの細かい部分では解らないが、味の良し悪し程度であったら判断できる。逆に言えば、そのくらいしか判断出来ないということだが。
 そんな志貴に対する秋葉の視線は冷ややかなものであった。
「そうですか。てっきり、美味いか不味いかの判断しか出来ないかと思いました」
「―――あう」
 完全にバレてた。
「……に、兄さん。まさか、図星ですか?」
「え、えーと……図星です」
 志貴の正直な返答に、秋葉は絶句する。
 彼女の視線の先にいる兄は、妹の反応に憮然とした様子で視線を逸らした。
 再び秋葉が溜息。今度のそれは、完全に呆れからのもの。
「しっかりしてください、兄さん。もっと遠野家の長男としての自覚をですね……」
「むう……暑いから仕方ないだろ」
「またそれですか―――確かに暑いです。ですが、空調が直るまでの辛抱でしょう」
 遠野邸の空調に異常が確認されたのは今朝のことであった。常に心地よい涼しさに満たされていた屋敷であったが、今では外の庭園で風を浴びていた方がまだマシだというくらい。
 とはいっても、外も暑いということには大差が無い。
 丁度、日陰の場所で紅茶を楽しんでいた志貴と秋葉であったが、噴出す汗ばかりはどうにもならない。肌をつたう雫を拭おうと、志貴が手の甲を額に当てると―――
「どうぞ、兄さん。私のハンカチでよろしければ」
「悪い、使わせてもらう」
 差し出された純白の布を受け取る。
 少し顔を拭いただけで、ハンカチには志貴の汗が染込んでしまった。
「うわ、すっげえ汗……秋葉、ありがとな。これ、洗って返すから」
「結構です。その程度は気にしませんので」
「いや、それはさすがに悪いって。俺が洗うから」
「兄さん。強情を張らなくても結構ですから―――それに、私が兄さんの匂いを嫌がるとでも?」
 そこまで言われては返すしかない。
 だが。
「俺の匂いって……なんか言い回しに含みがあるように思えるんだが」
「嫌ですわ兄さん。私がこのハンカチに染込んだ兄さんの汗の香りで何かするとでも思っているのですか? まったくもって心外です」
「それはそうだけど………」
 まあ、確かに他人の汗で何かしようものなら即特殊性癖の烙印を押されることだろう。
「ちょっと染込んだ兄さんの匂いを嗅ぐだけです」
「うおおおおいっ、思いっきりなんかしようとしてるし!!」
 全力で叫ぶ志貴だが、秋葉は落ち着き払って紅茶を一口。
 口元を押さえながら小さく笑みを刻むと、
「冗談に決まってます。兄さん、嘘を嘘と見抜けなくては生き抜けませんよ」
「今のは真実だ。絶対に真実だ」
 その証拠に返したハンカチが後生大事に握られているではないか。
 さらなる指摘をしようと口を開きかけた志貴が、ふと言葉を詰まらせる。つい先程までは笑みを見せていた表情が一転して不快を示している。
 しまった。
 そう思ったときはもう遅い。
「兄さんには、どうやら教育が必要のようですね……」
「い、いや、まあ待ちなさい秋葉。さっきの言葉は冗談なんだろ、こっちの言葉だって冗談に決まってるじゃないかー、あははははは………」
 乾ききった笑い。
 半ば引きつりかけた志貴の顔だが、秋葉は容赦なく、
「言っていい冗談と悪い冗談があります」
「差別だろそれっ! 横暴だ、横暴っ! 人類は皆平等のはずだーっ!」
 抗議デモを起こさんばかりの勢いで反論する志貴。
 だが、相変わらず秋葉は慣れた様子でそれを受け止める。こういった光景は、志貴が遠野家に戻ってから何度となく繰り返されたものだった。そして、その結果も何度となく変わることなく繰り返されていた。
「言ったでしょう。兄さんは私の所有物だと」
「いやいやいやいやっ、人権侵害ですかっ!?」
「安心してください。私の保護下にあれば、何者であれど兄さんに危害を加えさせませんから。人権を侵害される恐れもありません」
「危害を加える最有力候補が何やら身勝手極まりないことを言っているのですが」
 それが限界だったのか、秋葉は感情そのままにティーカップをテーブルに叩きつける。幸いにしてカップは割れることはなかった。
 身を強張らせ、次に来るであろう秋葉の怒声に身構える志貴。
「―――っ」
「…………」
 だが、訪れたのは沈黙であった。
 予想とは異なった秋葉の反応に訝しむように志貴は眉をひそめる。
 声をかけようとするが、彼女の吐息がそれに重なり次の言葉が紡げない。
「久しぶりに二人っきりになれたのに……なんで、こうなってしまうのでしょうかね、兄さん」
「………う、まあ、確かに」
「本当はですね。もっと兄さんと一緒にいたい―――ただそれだけのことなんです」
 眸を、顔を軽く伏せて吐息混じりに呟く。自分で言うと意識していなかった様々なことが自覚できた。志貴についついキツく当たってしまうのは照れ隠しのため。怒声を上げたりはしているが、本当はこうして志貴と一緒にいるだけで嬉しい。
 それが解ると、今度はまともに志貴の顔を直視出来なくなってしまう。
 つい勢いに任せて本心を吐露してしまったが、予想以上に恥ずかしい。早まる鼓動を落ち着かせるために、紅茶を一口飲もうとカップを探る。
「―――秋葉」
「なんですか、兄さ―――ひゃっ」
 カップへと伸びかけた指がピクリと震える。
 胸や背中など体中に伝わる感触でも解っていたが、伏せかけた眸を上げて改めて状況を確認する。
 いつの間にか席を立っていた志貴が秋葉を抱きとめていた。
「うん。俺も、秋葉と一緒にいたい……」
 優しく、包み込むような声音と力加減。
「に、兄さんっ、な、何を突然っ」
「言い出したのは秋葉だろ。突然でもなんでもないよ……」
 それも尤もだ、と思い、彼女は力を抜いてその身を委ねた。兄の背中に手をまわし、その身体を引き寄せる。
 心地よかった。
 風も無く、暑さが水中のように湛えられていたが、不思議と身体は暑苦しくない。火照りを感じてはいたが、そこからは不快ではなく快さを感じさせる。
 二人に交わされる言葉は無い、ただ互いの感触を確かめているだけ。
 耳元で、何度も何度も反響する蝉の鳴き声。
 ノイズのように、その声が思考を犯してゆく。思い出すのは八年前の光景。
 眸に焼きついた赤。それは秋葉が思い出す中でも、最も苦しく悲痛な過去であった。べったりと張り付くように滑る赤い液体は彼女の中の確かな感触。
「んっ、あ……はぁ、兄さん」
「秋葉? どうした……」
 荒々しい吐息が零れる。
 心配するような志貴の声が聞こえるが、茫洋とした思考には曖昧にしか捉えられない。
 吐き出した息はひどく熱かった。同時に喘ぐ様な、水分を求めるような声が喉元から零れ落ちてゆく。
「にい、さん……んっ」
 さらに深く兄を抱き寄せ、首筋へと顔を寄せる。
 鼻腔をくすぐるのは、どこか塩っ気を感じさせる汗の匂いだ。肌に染込むような特徴的なその香りに秋葉は誘われるように、さらに深く顔をうずめる。
「……あき、は……」
「………あ、んんっ、にいさん」
 志貴の首筋は白く、この時期でありながらもそれほど日焼けしている様子は無い。まるで女性のように美しくきめ細かい肌。そこに、顔をうずめた秋葉がゆっくりと妖艶に口を開く、唾液が零れるのも厭わない。
 ただただ、志貴の肌と、熱を伴った吐息と、秋葉の口腔を重ねるように、深く、深く深く顔を埋め―――




「―――はむ」




 秋葉は志貴の首筋を咥えこんだ。
 決して歯は立てず、上唇と下唇で挟み込むように兄の白い肌を捉える。口に含んだそれを秋葉はちゅうちゅうと吸い出すように味わう。
 灼けつくような暑さが首筋に走り、志貴が小さく声を上げて身悶える。
「んっ、くぅっ……秋葉っ、ちょっ、こそばゆいっ」
「――ぷは………ふふ、兄さんったら可愛い」
 蕩けるような視線を絡ませ、再び秋葉は首筋へと意識を戻した。先程の場所は小さな痕を残していた。そこを愛しむように真っ赤な舌を、つつ、と這わせてゆく。まるで蛇が鎌首をもたげるような動作。
「……何で、こんなっ……んっ」
「もしかして、私が兄さんの血を吸うとでも思いましたか?」
 悪戯をした子供のように無邪気な笑み。
 普段は見られぬそれに思わず志貴は面食らってしまう。
「ば、莫迦いうなっ。冗談でもそういうこと言うものじゃないぞ……」
「すいません……ですが、嬉しいのですから仕方が無いじゃないですか」
「……嬉しいって」
 問うような志貴の声に、秋葉は微笑だけで応える。
 けたたましい蝉の鳴き声は相変わらず。否応なしに八年前を、全てが始まった――あるいは全てが終わった、あの日を思い出させるこんな夏の日でも、こうして志貴と共にいられることが嬉しかった。
 彼とこうしているだけで満たされる。
 満たされて、感情が溢れ出てしまう。
「兄さん、好きです」
 小さく呟いて、秋葉は朱に染まる顔を見られるのを恥じるように、再び顔を埋めた。それがたまらなく可愛らしくなって、志貴は彼女をさらに深く抱き寄せる。
「随分と過激な愛情表現だな、秋葉」
「……普段、我慢しているのですからこの程度は許してください、兄さん」
「ん。解ってる」
 志貴の肌を秋葉の唇が再び包み込む。彼女の唾液と志貴の汗が混じり、肌の上をくすぐるように滑る。秋葉はそれごと志貴の首筋を口に含んだ。
 零れる吐息、湿った音。
 それに重なる

「あらあらあらあらっ、秋葉様。何をされているのですかー?」

 琥珀の声。
「って、ここここここはっこはっ、琥珀さんっ!?」
 脊髄反射の勢いで密着させた身体を離す兄妹。出来るだけ素早く身だしなみを整えるが、そんなもの今更にすぎない。突然、乱入してくる和服姿に秋葉は何か言いたげであったが、あまりに唐突すぎて声も出ないようであった。
 慌てすぎて椅子から転げ落ちそう。
「っとと、そんな動いたら危ないって秋葉っ」
「そうですよ、秋葉様。ほら、また動くから椅子が傾いています」
 二人がかりで椅子を支える。
 そうすることで何とか落ち着きを取り戻したのか、秋葉も息を整え、
「あ、ありがとう……兄さん、琥珀―――って、そうではなくてっ!!」 「そんなに暴れては秋葉様。テーブルが引っ繰り返ってしまいますよっ」
「何を落ち着き払っているのですかっ!」
 秋葉の怒声もどこ吹く風。
 ひらりひらりと回避するように琥珀は、秋葉の言葉を受け流してゆく。その表情は相変わらずの笑顔。だが、その相変わらずの笑顔故に不吉なものを二人に感じさせる。
「大体っ、何をしに来たのですか、琥珀!」
「その物言いは心外です、秋葉様。私はただ空調の修理にはもう少しお時間がかかる旨をお伝えしようと思っただけです……」
 む、と言葉を詰まらせる秋葉。
 確かに道理は通っている。
「そしたらなんと―――秋葉様が志貴さんの血を吸おうとしているではありませんかっ!!」
「待ちなさいっ! だ、誰が血を吸うなんて物騒なことを!」
 反論に琥珀が小首を傾げた。顎の辺りに手を当てながら、おかしいですねー、などと呟いている。
 秋葉は憮然とした表情で、
「おかしいのは琥珀、貴女の方です」
「そうですかー。では、秋葉様……志貴さんに何をなさっていたのですか?」
「――――っ!!」
 さすがは琥珀、といったところだろうか。
 的確に秋葉の答えにくいところを見切り、躊躇いなくそこを指摘してくる。清々しさまで感じさせるほどに容赦が無い。
 顔中を真っ赤にしながら秋葉が拳をわななかせる。顔だけでなく、髪まで朱に染めようかという勢いだ。しかし、そんな彼女の口からは反論の言葉は出てこなかった。
 秋葉と志貴が何をしていたのか。
 それを素直に答えるのは、秋葉のプライドが許さないのであろう。
「ほら、答えないってことは嘘をついていますね、秋葉様。やっぱり血を吸おうとしていたんじゃないですかー。秋葉様ったら……わたしというものがありながら、他の方の血を吸おうとなさるなんて……あれは遊びだったんですね」
 よよよ、と琥珀は白々しく態勢を崩す。
 琥珀は琥珀で、当然のように秋葉のプライドのことにも気づいているのだろう。今の彼女は、それを知っていながら楽しんでいる節がある。
「琥珀ぅっ、貴女……憶えてなさいよ……」
「秋葉様、怒ったらお美しい顔が台無しですよ。スマイル、スマイル」

 ぷちん。

「誰が怒らせていると思っているのですかあああっ!!」
「きゃあああっ、秋葉様落ち着いて落ち着いてーっ!!」

 逃げる琥珀。
 追いかける秋葉。

 そして、それを一人眺める志貴は、ふと思い出したように汗を拭う。この一連のドタバタの最中は不思議と暑さを忘れることが出来た。そのことに関しては琥珀に感謝すべきなのかもしれない。

 ただ―――

「………はぁー」

 ひどく疲れた。


    終



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